第4話 辺境の救世主と甘い生活
目を覚ました時、最初に感じたのは――たまらなく幸せな「匂い」だった。
かまどでこんがりと焼き上げられた、小麦とバターの香ばしい匂い。甘く濃厚な蜂蜜と、たっぷりと温められたミルクの湯気。さらに、心を落ち着かせるハーブを煮出した澄んだ香りがふわりと混じり合っている。
(……ここは、天国? それとも、夢?)
リゼットは、重い瞼をゆっくりと押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、最高級の絹で作られた天蓋と、雪のように真っ白で清潔なリネンの掛け布団だった。
石造りの壁は実家の屋敷よりも無骨だが、冷たさは全くない。部屋の隅にある大きな暖炉ではパチパチと心地よい音を立てて薪が燃えており、部屋全体が春の陽だまりのような優しい温度に保たれていた。
実家での彼女の部屋は、北向きの窓さえない、隙間風の吹き込む薄暗い物置部屋だった。ベッドは軋み、毛布はカビ臭く、冬は凍えるように寒かった。
それが、今はどうだろう。
身体を包み込むマットレスは雲のように柔らかく、シーツからはお日様の匂いがする。
信じられない思いで身体を動かそうとした時、視界の端に大きな黒い影があることに気づいた。
「……!」
ベッドのすぐ傍らに置かれた椅子に深く腰掛け、腕を組んだまま眠っている男がいた。
ヴォルフガングだ。
いつもの威圧的な黒い外套や無骨な剣は外されており、シンプルな白いシャツと黒のズボンという軽装だった。その分、彼の鍛え上げられた広い肩幅や厚い胸板がはっきりと分かる。
少し乱れた黒髪が額にかかり、昨日まで深く刻まれていた眉間の険しい皺は嘘のように消え去っていた。
戦場で血に塗れていた恐ろしい“狂王”ではなく、ただの年相応の、少し疲れた様子の美しい青年に見えた。
(ずっと、ここで看病してくださっていたの……?)
リゼットが布団の中で小さく身じろぎをした、そのわずかな衣擦れの音で。
「……っ」
ヴォルフガングが弾かれたように顔を上げた。
戦士の癖なのか、瞬き一つで眠気を完全に払い除け、周囲を警戒するような鋭い眼差しを見せたが――ベッドの上で目を覚ましているリゼットと視線が合った瞬間、その瞳は春の雪解けのように、途端に柔らかく、安堵の色に染まった。
「……起きたか」
地の底から響くような、けれどどこまでも優しく低い声が、静かな部屋に落ちた。
「……はい。あの、ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありま――」
言いかけて、リゼットは自分の声がカスカスに掠れていることに驚いた。喉がひどく乾いている。
ヴォルフガングは無言で立ち上がると、サイドテーブルに置かれた銀の水差しから、美しいガラスのコップへ静かに水を注いだ。
彼のような大貴族が自ら給仕をするなど、あり得ないことだ。大きな手には似合わない繊細なコップを壊さないように、ぎこちなく、けれどひどく丁寧に手渡してくれる。
「飲め。ゆっくりでいい」
「……ありがとうございます」
差し出されたコップを両手で受け取る。水は冷たすぎず、弱った胃腸に負担をかけないよう、ほんのりと温められた白湯だった。
(こんな、細やかな気遣いまで……)
リゼットがコップの水を飲み干すと、ヴォルフガングは少しだけ目を細め、彼女の顔色を真剣な目つきで探った。
「気分はどうだ。まだ痛むところはあるか? 息苦しさや、魔力枯渇による頭痛は?」
「……大丈夫です。少し、体が重くて疲れているだけで」
リゼットが微笑んで答えると、ヴォルフガングの綺麗な眉が、微かに、しかし険しく寄った。
「少しではない。……あれは、命を削るような無茶な使い方だ。私が抱えていた呪いごと、辺境中の瘴気を一気に浄化するなど、人間の器で耐えきれる魔力量ではない」
それは叱責ではなかった。
ただただ、彼女を失うかもしれなかったという底知れぬ恐怖と、心配が、そのまま不器用な言葉の形になって表れているだけだった。
リゼットは、申し訳なさに視線を落とした。
「……すみません。でも、どうしても止めたかったんです。あなたが一人で、あんなに苦しんでいるのを、見て見ぬふりなんてできなかったから」
ヴォルフガングは、しばらく黙っていた。
何かを言い返そうとして、言葉を探すように口を開きかけては、また閉じる。彼の中で、様々な感情が渦巻いているのが分かった。
やがて、彼は小さく、ひどく熱のこもったため息を吐いた。
「……ありがとう。君が、私を……この地を救ってくれた」
それだけ言うと、彼はサッと視線を逸らした。
耳の裏が、ほんのりと赤く染まっている。無敵の狂王と呼ばれる強い男が、女性からの純粋な優しさや、素直な感謝を言い慣れていない不器用な照れ隠しの仕草だった。
その時、重厚な扉が控えめに、しかしリズミカルにノックされた。
「失礼いたします、辺境伯様。……そして、奥様」
現れたのは、初老のスマートな侍従長だった。ピンと伸びた背筋と、穏やかだがどこか底知れない鋭さを持つ瞳。彼に続いて、数人のメイドたちが銀のワゴンを押して入ってきた。
「奥様が目を覚まされたと聞きまして、大至急、お食事の準備を整えさせていただきました」
――奥様。
そのごく自然な呼び方に、リゼットの胸が小さく、しかし激しく跳ねた。
名ばかりの生贄として送られてきたはずの自分が、この城の人間から、当たり前のように主人の妻として敬われている。
ヴォルフガングが鷹揚に頷く。
「入れ。リゼット、食事にしよう。三日も眠っていたのだから、腹も減っているだろう」
「み、三日も!?」
驚くリゼットをよそに、メイドたちが手際よくベッドの上に小さなテーブルをセットし、次々と料理を並べていく。
盆の上には、湯気を立てる琥珀色のコンソメスープ、ふんわりと焼き上がった白パン、とろけるほど柔らかく煮込まれた肉料理、そして艶やかな季節の果物。
さらに、美しい花の刺繍が施された小さな布袋――良い香りのするハーブが詰められた、安眠用のサシェまで添えられている。
「……こんなに、たくさん」
リゼットが目を丸くして呟くと、侍従長が深く頭を下げ、シワの刻まれた顔に満面の笑みを浮かべた。
「お恥ずかしい話ですが、昨日までこの城塞では、瘴気の影響で食材はすぐに腐り、『なんとか腹に入ればいい』という有様でした。ですが……奥様が奇跡を起こしてくださった今朝から、空気が全く違います」
メイドたちも、うんうんと涙ぐみながら頷いている。
「厨房の井戸水が、水晶のように澄み切ったのです! 外の空気も美味しくなり、お肉も野菜も、本来の素晴らしい味を取り戻しました。これもすべて、奥様のご尽力のおかげにございます!」
使用人たちの目が、キラキラと輝いている。
そこにあるのは、圧倒的な感謝と、救世主に対する畏敬の念、そして――新しい女主に対する、心からの親愛だった。
胸の奥が熱くなる。
自分のやったことが、こんなにも人々の生活を豊かにし、喜ばれているなんて。
「あ、ありがとうございます……」
感極まって俯くリゼットの枕元に、ヴォルフガングが無言で、大きな白い化粧箱をコトンと置いた。
「……それも、君のものだ」
リゼットが戸惑いながら蓋を開けると、中には、息を呑むほど美しい、淡い水色のドレスが丁寧に畳まれて入っていた。
まるで妖精の羽のように軽やかで柔らかい最高級の絹織物。光の加減で真珠のように艶やかに輝き、襟元や袖口には繊細な銀糸の刺繍が施されている。
伯爵家で与えられていた、継母のお下がりのカビ臭く色褪せた服とは、天と地ほども違う。
「……これを、私に?」
「私の妻が、いつまでもあのぼろ布のような服で過ごす城だと思われては困るからな」
ヴォルフガングは腕を組み、わざとぶっきらぼうに言い捨てた。
しかし、彼が視線を逸らしているせいで、赤くなった耳まで隠しきれていない。
侍従長が「わざとらしい」というように咳払いを一つし、主人の言葉を容赦なく補足し始めた。
「辺境伯様は、奥様が倒れられた直後から大変な取り乱しようでございまして。近隣の街から最高峰の医師を叩き起こして連行し、奥様の寝台をこの城で一番高価で柔らかいものに替えさせ、厨房には『今ある最高の食材をすべて奥様のために使え!』と怒鳴り込んでおられました。……我々も、あそこまで狼狽される旦那様を見たのは初めてでして、少々驚きましたな」
メイドたちが「ふふっ」と口元を押さえて笑い、一斉に生温かい視線をヴォルフガングへ向ける。
ヴォルフガングは気まずそうに咳払いをし、窓の外へ視線を完全に逃がした。
「……余計なことを言うな。私はただ、命の恩人に対する正当な礼を尽くしただけだ」
「左様でございますか。ご自身のマントで奥様をぐるぐる巻きにして抱きしめたまま、一歩もベッドから離れようとしなかったのも、『礼』の一環でございますね」
「貴様、後で覚えておけよ……」
主従の漫才のようなやり取りに、リゼットはポカンと口を開け、次いで――。
「ふふっ、あははっ!」
こらえきれず、鈴を転がすような声で笑い出してしまった。
実家では「下品に笑うな」と怒られていたから、こんなに声を上げて笑ったのは何年ぶりだろう。
リゼットの笑顔を見た瞬間、ヴォルフガングも、侍従長も、メイドたちも、全員がハッと息を呑んで動きを止めた。
部屋の空気が、さらに一段と明るく、華やいだように感じられた。
「……笑うと、安心する」
ヴォルフガングが、ぽつりと、心底安堵したような声で呟いた。
「えっ」
リゼットが顔を赤らめると、彼はハッとして再びそっぽを向いた。
「いや、なんでもない。……冷めないうちに食え」
促されるまま、リゼットは銀のスプーンを手にとり、スープを一口飲んだ。
「……!」
言葉が出なかった。
野菜の自然な甘みが優しく溶け出し、舌の上でとろける。肉の煮込みはナイフがいらないほど柔らかく、パンは外がサクッと香ばしく、中は信じられないほどふんわりとしている。
口に入れるたびに、栄養が体の隅々まで染み渡り、強張っていた心が温かくほどけていく。
(食べるって……こんなに、幸せで満たされることだったんだ)
実家での食事は、家族が食べ終わった後の、冷え切った硬い肉や、塩辛いだけのスープばかりだった。
誰かが自分のために、これほど温かく、美味しいものを用意してくれる。
その事実だけで、思わず大粒の涙がポロポロとスプーンを持つ手に落ちた。
「っ、おい! どうした、どこか痛むのか!?」
慌てて身を乗り出すヴォルフガングに、リゼットは泣き笑いの顔で首を振った。
「違います。……美味しすぎて、嬉しくて。こんなに温かいご飯を食べたのは、生まれて初めてだから……」
その言葉に含まれた、彼女の過去の壮絶な孤独と不遇を察し、ヴォルフガングの顔がサッと痛ましげに歪んだ。
彼は何かを堪えるように強く拳を握りしめ、次いで、不器用な手つきでリゼットの涙を指ですくった。
「……そうか。ならば、これからは毎日食え。君の胃袋が許す限り、この城の厨房は君のためだけに火を入れさせよう」
途方もない過保護な発言に、侍従長が満足そうに頷いた。
◇◇◇
食後。湯浴みを済ませ、贈られた美しい水色のドレスに着替えたリゼットは、見違えるように可憐な令嬢となっていた。
美しい銀糸の髪は艶を取り戻し、真っ白な肌は桜色に色づいている。
「……少し、外の空気を吸いたいか?」
扉の傍で待っていたヴォルフガングが、彼女の姿に一瞬見惚れたように言葉を失った後、優しく尋ねてきた。
「外……ですか?」
「ああ。君が浄化した後、この領地がどう変わったのか。……君自身の目で、確かめるべきだと思った」
リゼットは少し迷った。まだ足元は少しおぼつかない。
けれど、確かめたかった。自分のしたことが、本当にこの土地に変化をもたらしたのかを。
「……はい、行きたいです」
ヴォルフガングは頷き、リゼットが転ばないように、大きな手で彼女の小さな手をしっかりと握り、ゆっくりと歩幅を合わせて歩き出した。
城塞の廊下を抜け、中庭へ出た瞬間。
リゼットは、思わず息を大きく吸い込んだ。
空気が、昨日とは全くの別物だった。
胸の奥を押し潰すような重苦しさが一切ない。冷たい北風は清涼感を帯びて澄み渡り、見上げる空はどこまでも高く、薄い青色のグラデーションが美しく広がっている。雲の輪郭がくっきりと白く輝いていた。
中庭では、兵士たちが忙しそうに動き回っていた。
武器の手入れをし、壊れた柵を修理し、馬に水を飲ませている。けれど、彼らの顔には、昨日までの「いつ死ぬか分からない」という暗い諦めや絶望の色は微塵もない。
誰もが、未来への希望に満ちた、生き生きとした表情をしていた。
そして、ヴォルフガングに手を引かれて歩くリゼットに気づいた者たちが、次々と作業の手を止め、その場に深く頭を下げていく。
「奥様! お加減はよろしいのですか!」
「我らの救世主様……! よくぞ、よくぞご無事で!」
「奥様のおかげで、昨夜は数年ぶりに、魔物の怯えずに朝までぐっすり眠れました!」
驚いたのは、その声の多さと、向けられる感情の温かさだった。
実家でのような冷ややかな敵意でも、無関心でもない。
純粋な心配と、心からの喜び、そして崇拝にも似た敬意。
リゼットはどう返していいか分からず、真っ赤になってオロオロと頭を下げ返すことしかできなかった。
すると、建物の陰から小さな足音が聞こえた。
「ほんとに、あのお姉ちゃんが空を青くしてくれたの?」
振り向くと、痩せた小さな男の子が、母親らしき女性の後ろから顔を出して、キラキラと目を輝かせてこちらを見ていた。城で働く者の家族だろう。
母親が血相を変えて子どもを隠し、地面に平伏する。
「も、申し訳ありません、奥様! 子どもが無礼なことを……!」
「大丈夫です、頭を上げてください」
リゼットはヴォルフガングの手を離れ、少年の前でドレスの裾を気にすることなく膝をつき、目線を合わせた。
「空を青くしたのは、私じゃないのよ。……私はただ、お掃除をして、邪魔な黒いものをどけただけ」
「お掃除? じゃあ、奥様って……おとぎ話の聖女さまなの!?」
リゼットは喉が詰まった。
聖女。そんな大層な言葉、泥かぶり姫と呼ばれた自分に向けられるはずがない。
リゼットは少し困ったように微笑み、正直に言った。
「ううん。私はリゼット。……あなたと同じ、ただの普通の人間よ」
「人間なのに、こんなにすごい魔法が使えるの!? 奥様、すっごくかっこいい!!」
少年が満面の笑みでそう叫んだ瞬間。
リゼットの胸の奥で、カチリと、冷たく凍りついていた何かが音を立てて溶け落ちた。
(すごい……かっこいい……)
生まれて初めて、自分の存在そのものを肯定された言葉だった。
視界が急激にぼやけ、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
その様子を静かに見守っていたヴォルフガングが、ふっと表情を和らげ、リゼットの肩を抱き寄せて立たせた。
そして、彼は城壁の隙間から見える外の世界――昨日まで死の土地だった荒野の方を指差した。
「泣くのは早いぞ、リゼット。……あれを見ろ」
促されるまま視線を向けると、遠くの大地の光景に、リゼットは言葉を失った。
黒く煤け、ひび割れていた「死の大地」の表面が、見渡す限り柔らかな茶色へと変わり、ふかふかとした土の栄養を取り戻している。
そして、その土のあちこちから、生命力に溢れた淡い若草色の「芽」が、数え切れないほど顔を出して、風に揺れていたのだ。
「……土地が、生きてる」
「君の放った規格外の浄化が、瘴気そのものを消し去り、大地の生命力まで蘇らせたのだろう」
ヴォルフガングの声は静かだったが、そこには抑えきれない熱と、彼女に対する強烈な誇りが混じっていた。
「私は……長年、ただ瘴気を受け止め、一時的に薄めることしかできなかった。根源を断つことは不可能だった。だが君は――たった一日で、この辺境の歴史を変えたのだ」
辺境の歴史を変えた。
その事実の大きさに、リゼットはふと怖くなった。
自分の隠し持っていた力が、そんなにも強大なものだったなんて。もし暴走したら? もし使い方を間違えてしまったら?
不安が影を落としたのを見たのか、ヴォルフガングが彼女の背中に回した腕に、グッと力を込めた。
「自分の力が怖いか」
「……少し。私なんかに、扱いきれる力なのか……」
「ならば、私が一生かけて君を支える。君が倒れそうな時は私が抱き留め、君が迷う時は私が道を切り開こう」
短い言葉の中に、一片の嘘もない、強烈な誓いが込められていた。
リゼットはゆっくりと視線を上げ、ヴォルフガングの顔を見上げた。
彼の瞳にもう暗い絶望はない。狂王としての苦痛の影は完全に薄れ、代わりに、深く、ひたむきな一人の男としての「熱」が宿っていた。
「君に、これ以上無茶はさせない。だが――」
彼はリゼットの手をそっと持ち上げ、その手の甲に、羽のように軽く、けれど情熱的な口づけを落とした。
「君が望むなら。どうかこの地で、私の妻として……私の隣で、生きてはくれないだろうか」
“望むなら”。
実家では一度も与えられなかった「選択肢」。
追放され、生贄として捨てられたはずの自分が、今、この強くて気高い男から、全身全霊で「いてほしい」と請われている。
リゼットの胸が、歓喜と幸福で震えた。
「……私は」
言葉が詰まる。望む、ということ自体が怖かった過去の自分が、完全に消え去っていく。
「……本当に、私なんかが、ここにいてもいいんですか」
リゼットの問いに、ヴォルフガングは少しだけ困ったように眉を下げ、頬を朱に染めて言い直した。
「いい、ではない。……君がいなければ、私が生きていけない。絶対に、私のそばにいてほしい」
その不器用で真っ直ぐすぎる独占欲に、リゼットの目から再び温かい涙が溢れ出した。
彼女は慌てて両手で顔を覆った。泣いてばかりいたら、また「鬱陶しい」と言われるかもしれない。
だが、ヴォルフガングはそんな彼女を大きな腕で包み込み、優しく、本当に大切そうに抱きしめた。
「泣かせてばかりだな、私は。……すまない」
「ちがっ……これは、嬉し涙です……!」
ヴォルフガングの胸に顔を埋めながら、リゼットは確信した。
ここでなら。
この温かく不器用な旦那様と、優しい人々がいるこの辺境でなら。
私はもう、誰かの“役に立たない道具”ではなく、誰かの“一番必要な人”として生きていける。
「……部屋に戻ろう。風が冷たくなってきた」
ヴォルフガングが彼女をそっと離し、再び手を繋いで歩き出す。
「はい」
「それと……君のために、明日は王都から最高峰の裁縫師と、宝飾師のギルド長を呼んである。ドレスから宝石まで、君の好きなものを好きなだけ作らせよう」
「ええっ!? そんな、もったいないです! このドレスだけで十分――」
「だめだ。私が君を世界一美しく飾り立てたいのだから、諦めろ」
有無を言わせない溺愛の予感に、リゼットは呆れながらも、こらえきれずにクスクスと笑った。
(本当に、不器用で……最高に素敵な旦那様)
繋いだ手から伝わる確かな熱が、リゼットの心に、絶対の安心感を与えてくれていた。
追放された無能な泥かぶり姫は、こうして辺境の救世主となり、狂王と呼ばれる不器用な旦那様からの、果てしない溺愛と甘い生活をスタートさせたのだった。




