第2話 恐ろしい狂王の正体
王都を出発し、馬車が北の森を抜ける頃には、空の色が全く違うものに変わっていた。
晴天であるはずなのに、差し込む光がひどく薄い。分厚い雨雲が覆っているわけでもないのに、世界全体が薄汚れた煤を被ったようにくすんで見える。
街道沿いの木々は病に侵されたように灰色がかり、葉は縮れて落ちていた。足元の土は湿気を帯びているはずなのに、なぜかひび割れ、鼻をつく乾いた嫌な匂いが立ち込めている。
――瘴気。
その単語を頭の中で形にした途端、リゼットの喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛んだ。
(ここが……死の土地と呼ばれる、北の辺境)
護衛として馬車に付き従っているのは、道中の街で金で雇われた素性の知れない傭兵がたった二人だけだった。
名門アルジェント伯爵家が、長女の“嫁入り”に対して払った誠意がどれほど薄っぺらなものか、この扱いを見れば一目でわかる。彼らにとってリゼットの命など、道端の石ころ以下の価値しかないのだ。
傭兵の一人が、馬車の小窓を乱暴に叩き、外から声をかけてきた。
「おい、奥様。もうすぐ辺境伯の城塞が見えてくる。これから先は絶対に窓を開けないほうがいい。この空気を直接吸い込むと……『戻れなくなる』からな」
からかうような、それでいて本気で怯えているような声。
言葉の最後が曖昧に濁ったのが、余計にリゼットの恐怖を煽った。
戻れなくなる――それは、死ぬということか。それとも、正気を失って狂うということか。
リゼットは無言で頷き、擦り切れたドレスの膝の上で、両手をきつく組んだ。
指先が氷のように冷たい。浅く息をするだけでも、肺の奥に鉛を流し込まれたように重苦しい。頭の芯にズキズキとした鈍い痛みが生まれ、時折、目の焦点が合いづらくなる。
(……こんなに、濃いんだわ)
実家の屋敷の片隅や、あの古い石標の周りで消していた小さな靄など、児戯に等しい。
ここでは、空間そのものが黒く汚れ、生者を拒絶しているようだった。
やがて、荒涼とした大地にそびえ立つ、黒い岩を無骨に積み上げた巨大な城塞が見えてきた。
貴族が住まう優美な「城」ではなく、魔物の襲撃を前提とした実戦用の「砦」だ。
装飾の一切ない高い石壁が外敵を威圧し、正面の巨大な門は分厚い鉄板と無数の鋲で補強されている。周囲の土地は荒れ果て、かつては畑だったと思われる区画もあるが、作物は一本も育っていない。
冷たい北風が吹きすさぶたび、黒い土埃と、目に見えるほど濃い瘴気の靄が渦を巻いて舞い上がっていた。
門の前に直立不動で立つ兵士たちの顔色は、一様に土気色だった。
誰もが頬がこけ、目の下には濃い隈を落としている。十分な休息も栄養も足りていないのは明白だ。
けれど、彼らの瞳だけは、飢えた狼のようにギラギラとした強い光を放っていた。過酷な環境で生き延びるための、そして何かを必死に守り抜こうとする者の、鋭く気高い目だ。
馬車が到着すると、兵士たちは誰一人言葉を発することなく、重々しい音を立てて巨大な鉄の門を開いた。
ギギギギギ……と、錆びた蝶番が悲鳴を上げる。
門をくぐり、城塞の内側へ入った瞬間。リゼットは足元の地面がぐらりと揺らぐような強烈な悪寒に襲われた。
(息が……っ)
外よりもさらに濃密な瘴気が、容赦なくリゼットの細い体を打ち据える。胃の腑から込み上げる吐き気を、ぐっと歯を食いしばって飲み込んだ。
ここで倒れるわけにはいかない。
もしここで気を失えば、「やはり使えない無能だ」「ただの生贄だ」と全てが証明されてしまう。家族に植え付けられた呪いのような言葉が、今は逆にリゼットの背筋を支えていた。
馬車は、殺風景な中庭の中央でゆっくりと停止した。
傭兵が外から乱暴に扉を開ける。
淀んだ空気が馬車の中に流れ込んでくるが、リゼットは不思議と冷静だった。恐怖と絶望が極限に達し、逆に感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
震える足に鞭打って、石畳の上に降り立った瞬間。
四方八方から、突き刺さるような視線がいっせいに集まった。
周囲を取り囲む兵士たち。建物の陰から様子を窺う使用人らしき者たち。
そして――中庭の正面、一段高い石段の上に立つ、一人の男。
漆黒の外套を身にまとい、無造作に伸びた黒髪が冷たい風に揺れている。
豪華な装飾品も、身分を示す勲章も身につけていない。腰に実戦用の無骨な長剣を帯びているだけなのに、そこにただ立っているだけで、圧倒的な“武”の気配と威圧感が周囲を制圧していた。
顔立ちは、想像していたよりもずっと若い。まだ二十代の前半だろう。
彫りの深い整った顔立ちをしているが、その両の瞳だけが、光を吸い込むように不自然なほど暗く、深い絶望を湛えているように見えた。
そして何より異様なのは――その男の周囲だけ、瘴気がまるで生き物のように渦を巻いていることだった。
空気が蜃気楼のように歪むほど濃密な漆黒の靄が、彼の足元から這い上がり、太い鎖のように全身に何重にも絡みついている。
――これが、“狂王”。
近づく者全てを呪い殺すという、辺境の化け物。
リゼットは、恐怖で悲鳴を上げそうになる喉を必死に押さえ込み、ドレスの裾をつまんで深く、完璧なカーテシー(淑女の礼)をとった。
「お初にお目にかかります。アルジェント伯爵家長女、リゼット・ヴァルモンと申します。本日は、ヴォルフガング辺境伯様との婚姻の儀のため、まかり越しました」
震えを隠した声で挨拶を終える前に。
石段の上にいた男が、一切の足音を立てずに、ふわりと一歩近づいてきた。
その瞬間、リゼットの胸を鋭い痛みが貫いた。
男から発せられる尋常ではない濃度の瘴気が、刃物のように肌を刺す。視界が真っ白に明滅し、立っていることすら困難になり、膝がカクンと折れそうになる。
(殺される――!)
思わず目をぎゅっと瞑った。
しかし、男は腰の剣を抜かなかった。振り上げられるはずの腕も、暴力を振るう気配もない。
恐る恐る目を開けると、男――ヴォルフガングは、リゼットの顔を覗き込むようにして、少しだけ綺麗な眉を寄せていた。
「……顔色がひどく悪い。無理に立つな、倒れるぞ」
降ってきたのは、地の底から響くような低い声。
しかし、噂に聞くような狂気に満ちた獣の咆哮とは全く違った。ぶっきらぼうで、感情の起伏が薄く、そして……どこか、ひどく疲労しきった人間の声だった。
ヴォルフガングは、リゼットの背後に停まったままの粗末な馬車と、小さなトランクが一つだけ置かれた地面へと視線を移し、さらに深く眉間に皺を刻んだ。
「……荷物は、これだけか? 供の者もいないのか」
咎めるような響きに、リゼットはビクッと肩を跳ねさせ、小さく頷いた。
「ええ。父からは、身一つで行けと……命じられましたので」
「そうか」
短く言って、彼はふいっと視線を逸らした。
そこにあるのは怒りではない。伯爵家にコケにされたことへの苛立ちでもない。
むしろ――『やはりそうか』という、他人に期待することを完全に諦めきったような、深い諦念と疲労だった。
その時だった。
ヴォルフガングの喉の奥から、ゴボッ、と奇妙な音が鳴った。
咳ではない。無理矢理に何かを呑み込もうとして、あるいは内臓が悲鳴を上げているような、極めて苦しげな呼吸音。
「……ッ」
彼が咄嗟に片手で胸元を強く押さえた。分厚い外套越しにも、彼の手がガタガタと痙攣するように震えているのがわかる。
同時に、彼に絡みついていた黒い靄が一気に膨張し、凶悪な濃度に変わった。
周囲の空気がピリッと張り詰める。
兵士たちが一斉に武器に手をかけ、身構えた。
だが、それは彼を『敵』として警戒しているのではない。何が起きてもすぐに対処できるよう、“主の不測の事態に備えている”動きだった。
(今も、あの瘴気の中で……苦しんでいるの?)
リゼットが思わず心配になり、一歩踏み出そうとした瞬間。背後にいた傭兵が、怯えきった小声で鋭く制止した。
「おい奥様、近づくな! 狂王の発作だ! あんな瘴気の塊に触れたら――」
言葉の先は聞かなくても分かった。
ただでさえ息苦しいこの空間で、彼に触れれば、確実におぞましい呪いに取り込まれ、命を落とすだろう。
だが、リゼットの目に映る男は、今にも崩れ落ちそうに身を屈めている。
冷酷な狂王などではない。ただ一人で、想像を絶する痛みに耐え忍んでいる、傷ついた一人の青年にしか見えなかった。
数秒の沈黙の後、ヴォルフガングは大きく深く息を吐き出し、強靭な精神力でなんとか姿勢を元に戻した。
「……すまない、見苦しいところを見せた」
そして、彼はゆっくりと、ぎこちない動作でリゼットに向かって頭を下げた。
「遠いところを、よく来てくれた。……ありがとう」
その言葉に、リゼットだけでなく、遠巻きに見ていた兵士たちでさえもわずかにざわめいた。
感謝――?
家族に捨てられ、厄介払いとして押し付けられた生贄の娘に対して、この強大な辺境伯が頭を下げて感謝している?
リゼットは予想外の言葉に脳の処理が追いつかず、立ち尽くした。
けれど、ふと周囲を見渡して気づく。
兵士や使用人たちの視線は、決して彼を“恐ろしい化け物”として恐れてはいなかった。
皆、主君の痛みを我がことのように悲しみ、心配し、自分たちの無力さを歯痒く思っている。そんな痛切な忠誠心で満ちていた。
この城塞の人間は、狂王を心から慕っているのだ。
ヴォルフガングが背を向ける。
「案内する。……歩けるか」
「……はい」
リゼットはこくりと頷き、彼の大きな背中を追って歩き出した。
城塞の内部は窓が少なく、昼間だというのに松明の光が必要なほど暗い。無骨な石壁は冷たく、あちこちに深く刻まれた爪痕や、黒く変色した血の染みが、この土地が長年にわたって魔物との死闘を繰り広げてきた歴史を物語っていた。
歩みを進めるほどに、瘴気がさらに濃くなっていく。
しかし、奇妙なことに気づいた。瘴気は城塞全体に均等に漂っているのではなく、明確に“ヴォルフガング自身の体”を中心にして集まっているのだ。
外の荒野よりも、城内の奥深くよりも、彼の周囲が最も黒い。
まるで――彼自身が強力な磁石となって、領地中の瘴気を己の身に引き寄せているかのように。
(……まさか)
胸の奥が、ざわざわと波打つ。
やがて、城の中央部にある広い部屋に通された。
大きな暖炉には赤々と薪が燃え、上質な長椅子とテーブルが置かれている。装飾こそ華美ではないが、隅々まで磨き上げられ、客人を迎え入れるための清潔で温かな空間だった。
年配のメイドが、慣れた手つきで温かいハーブティーと、湯気を立てるスープをテーブルに並べる。
「しばらくの間、ここをお前の自室とする」
ヴォルフガングは部屋の中へは入らず、開いた扉の敷居に立ったままそう告げた。
「あの、旦那様は……」
「私は、瘴気が濃すぎる。お前のそばに長くいると、お前の寿命を縮めることになる」
リゼットは戸惑いながらも、改めて深くお辞儀をした。
「……素敵なお部屋を、ありがとうございます」
「……私に礼など言うな。お前は、なにも悪くないのだから」
――なにも悪くない。
その不器用で、ひどく優しい言葉が、リゼットの胸の奥の最も柔らかい部分に深く突き刺さった。
生れてから十七年。伯爵家で生きてきた中で、誰一人として彼女にそんな言葉をかけてはくれなかった。
魔法が使えないのはお前が悪い。家の恥晒しだ。生きているだけで迷惑だ。
そう言われ続け、自分でも「存在していることが罪なのだ」と思い込んでいたのに。
リゼットは、自然と溢れそうになる涙を必死に堪え、顔を上げた。
そして、ずっと恐ろしくて聞けなかった問いを、無意識のうちに口にしていた。
「辺境伯様は……なぜ、世間から“狂王”と恐れられているのですか」
ヴォルフガングの大きな肩が、ピクリと僅かに揺れた。
部屋に重い沈黙が落ちる。暖炉の薪が、パチリと爆ぜる音だけが響いた。
「……定期的に、我を忘れて暴れるからだ」
彼は、まるで他人のことのように淡々と答えた。
「この地に満ちる瘴気は、放っておけば魔物を生み出し、領民を狂わせる。だから私が己の体に瘴気を吸い上げ、限界が来ると城の外へ出て、瘴気から生まれた魔物をひたすら狩り尽くす。……その時の血に塗れた姿が、見る者には狂った化け物に映ったのだろう」
リゼットは、ハッと息を呑んだ。
瘴気を抑える。吸い上げる。
では、この土地を覆う絶望的な瘴気は――最初から“ここにある”のではなく、彼が一手に引き受け、自分の中に封じ込めているというのか。
「ご自分の命を削って、領民を守るために……ですか?」
信じられない思いで問いかけると、ヴォルフガングはほんの一瞬だけ、悲しげに目を細めた。
それは笑みではない。耐え難い痛みを、ひとりで飲み込むための仕草だった。
「私が引き受けなければ、民は皆死ぬ。領主として、当然の義務だ」
自分がどれほど苦しもうと、それが当たり前だと彼は言った。
呪われてなどいない。狂ってなどいない。
リゼットの中で、世間の悪意が作り上げた“狂王”の虚像が、音を立てて完全に崩れ去った。
(この人は……恐ろしい化け物なんかじゃない)
不器用で、自己犠牲の塊で。
誰よりも、優しく気高い人だ。
その瞬間。
「……ッ、ガァッ……!」
ヴォルフガングが突如として膝から崩れ落ちた。
彼の体から、先ほどとは比べ物にならないほどドス黒い靄が一気に天井へ向かって噴き上がる。
部屋の空気が一瞬にして絶対零度のように凍りつき、燃え盛っていた暖炉の火が、恐怖に怯えるように小さく揺らいで消えかかった。
「旦那様!」
メイドが悲鳴を上げ、廊下にいた兵士たちが駆けつけてくる。
「近づくな! 瘴気の逆流だ! 巻き込まれるぞ!」
ヴォルフガングは石の床に這いつくばり、己の胸を掻きむしるように強く掴んでいる。額には大量の脂汗が浮き、血管が青黒く浮き出ていた。
常人ならば、見ているだけで発狂しそうなほどの苦悶の姿。
リゼットの足が、床に縫い付けられたように動かなくなる。
恐怖ではない。どうすれば彼を助けられるのか、判断が追いつかなかったのだ。
彼は、こんな地獄の苦しみを、毎日、ひとりで耐えてきたというのか?
「……見、るな。……お前まで、怖がる……必要は……ない……」
血を吐くような苦しみの中でさえ、ヴォルフガングはリゼットを気遣おうとしていた。
そのどうしようもない優しさが、リゼットの心にかけられていた最後のストッパーを完全に破壊した。
(助けたい。この人を、絶対に助けたい!)
理屈ではない。伯爵家の教えも、自身の無力さも関係ない。
気づけば、リゼットはドレスの裾を翻し、猛然と走り出していた。
「奥様! やめてください!」
「死にますよ! 触れるな!」
兵士やメイドの制止の叫び声が飛ぶ。
だが、リゼットの耳には届かない。
ヴォルフガングの前に勢いよく両膝をつき、彼の胸元に渦巻く極濃の瘴気に向かって、震える両手を真っ直ぐに伸ばした。
触れた瞬間。
バチッ!と火花が散ったような鋭い痛みが指先を走り、おぞましい冷気が皮膚を突き刺してくる。目の前が一瞬真っ暗になり、意識が遠のきそうになる。
それでも、リゼットは逃げなかった。
目をカッと見開き、深く、深く息を吸い込む。
――『浄化』。
実家では「泥汚れを落とすだけのゴミ」と嘲笑われ、誰の役にも立たないと蔑まれた、彼女だけの力。
でも、今なら。
この命を賭ければ、この人を救えるかもしれない。
「……大丈夫です。私が、います」
震える声だったが、そこには決して退かないという強い意志があった。
リゼットは、彼の分厚い胸板に両手をピタリと重ね合わせ、祈るように瞼を伏せた。全身の血を沸騰させるように、ありったけの魔力を両手に集中させる。
次の瞬間。
黒い靄が、彼女の手元でざわり、と大きく波打った。
(……反応してる!)
それは、実家の石標を掃除していた時と同じ感覚だった。
ただ規模が違う。果てしなく広大で、深く、恐ろしいほどの闇。けれど、リゼットの力がそれに飲み込まれることはなかった。
むしろ、長年押し殺されていた彼女の力が、堰を切ったように歓喜の声を上げて目を覚ましていく気配があった。
「……や、めろ。お前が……死ぬ……」
ヴォルフガングがかすれた声で彼女を突き飛ばそうとする。
しかし、彼の言葉の途中で、その暗い瞳が信じられないものを見るように見開かれた。
リゼットの手のひらから、淡く、しかし絶対的な純度を持った「白」が滲み出したのだ。
それは眩しい光ではない。
ただ、淀みきった空気が極限まで澄み渡っていく“概念”そのものが、視覚化されたような神聖な白だった。
黒い瘴気が、その純白に触れた途端。
ジュゥゥゥゥッ……!という音とともに、雪が太陽に溶けるように、嘘のようにあっさりとほどけ、消滅し始めた。
部屋を圧迫していた重圧が嘘のように軽くなる。
凍りついていた空気が温かさを取り戻し、消えかかっていた暖炉の火が、再びパチパチと元気な音を立てて燃え上がり始めた。
「……嘘だろ」
「瘴気が……消えていく……?」
廊下から見ていた兵士たちが、武器を取り落とし、呆然と立ち尽くす。メイドは信じられない奇跡を前に、その場にへたり込んで祈るように両手を組んでいた。
ヴォルフガングは、痛みが急速に引いていく自身の体と、目の前の華奢な少女を交互に見つめ、茫然自失となっていた。
「……なにを、した」
リゼット自身にも、気の利いた答えなど分からない。
ただ分かるのは、彼女が力を込めるたびに、彼の顔に赤みが戻り、苦痛の歪みが消え去っていくということだけだ。
黒い靄は、彼の体内に深く根を張っているのか、まだ完全には消え去っていない。
だが、確実に減っている。
やめたくない。このまま全部、綺麗にしてしまいたい。
リゼットは額に汗をにじませながら、さらに強く祈った。
「……お願い。どうか、この方を……楽にして!」
淡い白が、爆発的に広がった。
リゼットを中心に、清らかな風が部屋の中を駆け抜ける。
ヴォルフガングの肩から完全に力が抜け、張り詰めていた筋肉が柔らかく弛緩した。
彼は、信じられないというように、大きく息を吸い込んだ。
深く、静かに。
まるで、今まで泥水の中で溺れていた者が、初めて水面から顔を出し、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだかのように。
「あ……」
力が抜け、リゼットの体がグラリと前に傾く。限界を超えて力を使った反動だった。
冷たい床に倒れ込む直前、力強い腕が彼女の体をしっかりと受け止めた。
見上げると、すっかり顔色の良くなったヴォルフガングが、リゼットの小さな手を、大きな両手でそっと、壊れ物を扱うように包み込んでいた。
「……君は」
その声は、先ほどの恐ろしげな響きを完全に失い。
深い驚きと、戸惑いと、そして……ほんの僅かな、すがりつくような希望で震えていた。
「……君は、いったい……何者なんだ」
問いへの答えは、まだ出ない。リゼット自身も知らないのだから。
けれど確かなのは、最悪だと思っていた出会いが、今、奇跡へと変わったということ。
ここから――本当の物語が動き始める。
余韻に浸る間もなく。
次の瞬間、城塞の外から、大地を揺るがすような恐ろしい咆哮が響き渡った。
「敵襲! 魔物の大群です! 瘴気の流れが変わったことで、奴らが一斉に活性化しました!」
見張り台からの悲痛な叫び声が城内に響く。
ヴォルフガングの顔つきが、再び険しい戦士のものへと変わった。彼が立ち上がろうとする。しかし、その足取りは以前のような重苦しさがなく、羽が生えたように軽やかだった。
リゼットは、咄嗟に彼を呼び止めた。
「私も、行きます」
自分でも驚くほど、凛とした、迷いのない声だった。
もう、屋敷の隅で怯えていた無能な令嬢ではない。彼女は今、初めて自分の存在意義を見つけたのだから。
ヴォルフガングは一瞬だけ驚いたように目を見張った。
そして、フッと、微かに――本当に微かにだが、口角を上げて笑った。
「……許可する。だが、私のそばから絶対に離れるな」
彼は腰の剣の柄に手をかけ、リゼットを庇うように一歩前に出た。
「君は、私が必ず守り抜く」
その低く力強い言葉は、神への誓いよりも重く、温かかった。
リゼットの心臓が、恐怖とは違う理由で、トクンと大きく跳ねた。
“恐ろしい狂王”の正体は――
己の命を削って領民を守り抜く、誰よりも不器用で、誠実で、そして恐ろしいほどに強い男だった。
そして、無能と蔑まれたリゼットの“規格外の浄化”の力は――
まだ、その片鱗を見せたに過ぎないのだ。




