表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能と蔑まれた身代わり花嫁は、辺境の【狂王】に嫁ぐ  作者: 綾瀬蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/9

第1話 無能な姉と、愛される妹

「見ていなさい、皆さま――これが、我がアルジェント伯爵家の誇る血の力ですわ!」


よく通る、自信に満ちたソプラノの声が練兵場に響き渡った。

最高級の絹で仕立てられたドレスを翻し、白い手袋を外した義妹のエミリアが、練兵場の中央でゆっくりと指を鳴らす。


次の瞬間、空気がビリッと裂けるような破裂音とともに、エミリアの頭上に紅蓮の槍が幾本も顕現した。

ごうごうと燃え盛る炎は、まるで意志を持った大蛇のようにうねり、数十メートル先の分厚い鋼の的をめがけて一気に飛翔する。


轟音。そして、熱波。

分厚い鋼は飴細工のように容易く融解し、中心を完全に穿たれていた。焼け焦げたむせ返るような匂いと熱風が押し寄せ、少し離れた場所で見物していた家臣や騎士たちから、どよめきと感嘆の声が一斉に上がる。


「すばらしい! これほどの威力を、無詠唱で放たれるとは!」

「さすがはエミリア様だ! 我が伯爵家の誇る、攻撃魔法の正統後継者であらせられる!」

「あのような恐ろしい魔法、王宮魔術師殿でもそうそう扱えまい!」


称賛の嵐の中、エミリアは得意げに豊かな金糸の髪を揺らし、優雅にカーテシーをして見せた。


「よくやった、エミリア! お前は私の誇りだ!」

「ええ、本当に素晴らしいわ。誰に似たのかしらね、こんなに優秀で可愛らしいなんて」


当主である父も、その後妻である継母も、まるで太陽を見るかのように目を細め、眩しそうに笑って義妹を讃えている。それはまるで、劇場の特等席で花形役者を褒めそやす観客のようだった。完璧な家族の肖像。そこには一点の曇りもない。


その歓喜の輪のずっと外側、練兵場の隅の冷たい日陰で、リゼットは小さく、ひっそりと息を吐いた。


拍手の輪に入る資格など、彼女には最初から与えられていない。

アルジェント伯爵家は、建国の昔から『強力な攻撃魔法』を代々受け継いできた名門中の名門である。一族の者は皆、炎や雷、氷といった派手で破壊力のある魔法を操り、魔物討伐において多大な功績を上げてきた。


しかし、長女であるリゼットには、その才能が欠片もなかった。


五歳の時に行われた魔力鑑定の儀式。水晶玉に手を触れたリゼットに下されたのは、『攻撃魔法の適性・皆無』という絶望的な結果だった。

代わりに彼女が神から授かったスキルは『浄化』。


泥を払うような、布の汚れを落とすような、そんな地味で生活魔法に毛が生えた程度の力。炎で魔物を焼き尽くすこともできず、氷で敵の足を止めることもできない。誰かを守るための強固な結界すら張れないと、鑑定士から鼻で笑われたことを、今でも鮮明に覚えている。


「……リゼット。お前はぼんやり突っ立っているだけか」


不意に、底冷えのするような父の声が落ちてきた。

いつの間にか、歓声は止んでいる。父の冷ややかな視線が、日陰に立つリゼットを射抜いていた。


「いえ、次の的の準備をと思いまして――」

「要らん。お前のような無能がちょろちょろと動けば、せっかくの素晴らしい空気が白ける。そこから一歩も動かず、黙って下がっていなさい」


ぞんざいな物言いに、リゼットは小さく肩を震わせた。

背中に突き刺さる、家臣や騎士たちの視線。可哀想にと同情する者は一人もいない。皆一様に「なぜこんな無能が伯爵家の長女なのか」という蔑みを含んだ目を向けている。

継母は豪華な扇の陰で口元を隠してクスクスと笑い、エミリアだけが勝ち誇ったように、そして汚いものを見るように目を細めていた。


“無能”

“家の恥”

“泥かぶり姫”

“なぜエミリア様のような方が長女として生まれなかったのか”


耳にタコができるほど聞いてきた言葉たちが、今日も心臓の柔らかい部分をヤスリのように削っていく。


リゼットは血が滲むほど唇を噛み、ただ静かに頭を下げた。

言い返したところで、状況が良くなることなど一度もなかった。「無能が嫉妬で吠えた」と嘲笑の的になるだけだ。今の彼女に許されているのは、嵐が過ぎ去るのを息を潜めて待つことだけだった。


俯いたまま視線を落とすと、足元の石畳の隙間から、黒いもやのようなものが立ち上っているのが見えた。


(……瘴気。また、こんなところに)


古い魔術書に記されていた、負の感情や魔力から生まれる毒。普通は目に見えないが、ここまで濃くなると実体を持って現れる。吸い込めば病になり、土地に蓄積すれば強力な魔物を呼び寄せる原因となる危険なものだ。

最近、領地内でこの黒い靄を見かけることが多くなっていた。


リゼットは、誰にも気づかれないようにそっと手を伸ばし、指先をその黒い靄にかざした。


すう、と小さく深呼吸をする。

『浄化』のスキルを、意識して何か大きなことに使えたことはない。しかし、こうしてほんの少し触れるだけで――不思議と黒い靄は霧散していくのだ。


熱も光も、音もない。エミリアの魔法のような派手な演出は一切ない。

ただ、淀んでいた空気が澄み渡り、何かが静かに“正しく”あるべき状態に戻っていくような、心地よい感覚だけが指先に残る。


靄が完全に消え去ったのを確認し、ほっと息をついた直後。

背後から、耳障りな声が飛んできた。


「リゼット様! 何をしていらっしゃるのです、そんなど薄汚れた隅っこで! まったく、伯爵家の令嬢としての自覚が足りませんよ。旦那様がお呼びです!」


意地悪な顔つきをした年配の侍女長だった。彼女もまた、リゼットを軽んじている人間の一人だ。


「……すぐに行くわ」


呼ばれたのは、本邸の奥にある当主専用の豪奢な応接室だった。


重厚なマホガニーの扉の前に立ち、リゼットは一度だけ深く息を吸い込んだ。

嫌な予感が、胸の奥で警鐘を鳴らしていた。最近、屋敷の空気が妙に慌ただしいのだ。見慣れない王宮の使者が頻繁に出入りし、深夜まで父が書斎で誰かを怒鳴りつける声が響く日が増えていた。


ノックをして扉を開けると、そこには父と継母、そしてドレスを着替えたエミリアが揃って革張りのソファに座っていた。

豪奢なテーブルの中央には、禍々しいほどに赤い蝋で封印が施された一通の書状が置かれている。


「来たか。遅い」

父はリゼットに座るよう促すこともなく、顎でその書状を示した。


「単刀直入に言う。辺境を治める、ヴォルフガング辺境伯殿からの正式な婚姻要請だ」


――辺境伯。


その単語を聞いた瞬間、リゼットの背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。


北の果て、瘴気に満ちた死の土地。

凶悪な魔物が絶えず跋扈し、草木も育たないと言われる呪われた辺境。

そこを強権で支配し、刃向かう者は容赦なく首を刎ねると噂される冷酷無比な男。人々は彼を恐怖を込めて“狂王”と呼んでいる。


「……エミリアが、その狂王の元へ嫁ぐのですか」

震える声で尋ねると、エミリアが「信じられない」というように露骨に顔をしかめた。


「はあ? 何を馬鹿なことを言っているの? わたくしが、あんな泥と血の臭いがする辺境へ行くわけないでしょう? わたくしは第一王子の婚約者候補なのよ?」


横から、継母が猫のようになで声を出して口を挟む。


「そういうことよ、リゼット。……あなたに決まったの。名誉なことでしょう?」


理解が追いつかず、リゼットは何度か瞬きをした。

呼吸がうまくできない。


「わ、私に……? ですが、辺境伯のような大貴族からの婚姻要請なら、当然、力のあるエミリアを……」

「向こうの書状には『アルジェント伯爵家の娘なら誰でもよい』と書いてある」

父は冷酷なまでに淡々と言い放った。

「先方は奇跡を起こす“聖女”を所望しているわけでも、我が家のような“英雄の血”を求めているわけでもない。ただ、適当な貴族の血を引く、形だけの妻で十分だそうだ」


形だけ。

誰でもいい。


それは、つまり。


「……生贄、ということですか」


乾いた声でそう呟いた途端、応接室の空気がわずかに凍りついた。

図星を突かれた父は不快そうに顔をしかめ、継母は開いた扇で口元を隠して「くすくす」と下品に笑い始めた。


「嫌だわ、縁起でもない言い方はやめなさいな。……けれど、まあ、辺境伯がこれまで何人の妻を迎え、そのうち何人が実家に戻らなかったか。それぐらいの噂は、あなたも知っているでしょう?」


狂王の元に嫁いだ女は、彼の狂気に当てられて精神を壊すか、辺境の瘴気に当てられて数ヶ月で命を落とす。

街の誰もが知る恐ろしい噂だ。


エミリアが椅子の背に深くもたれかかり、心底つまらなそうに爪を見つめながら言った。


「ねえ、お姉さま。どうせこの伯爵家に居ても、お姉さまは無能で邪魔なだけじゃない? 誰もあなたのことなんて必要としていないのよ。だったら、おとなしく辺境へ行ってくれたら、我が家も王家の覚えがめでたくなるし、皆が助かるの」


助かる。


その無慈悲な一言が、リゼットの中で張り詰めていた何かを、ぽきりと折った。


(ああ……そういうことか)


ここにいても必要とされない。

役に立たないと笑われ、家の恥と蔑まれ、存在そのものを疎まれてきた。

だから、彼らは好都合だったのだ。厄介払いと引き換えに、辺境伯との縁を繋ぎ、自分たちの保身を図るための「口実」が欲しかっただけなのだ。


「準備は三日で済ませろ」

父は、娘に対する言葉ではなく、物に対する命令として告げた。

「嫁入り道具も最低限の服だけでいい。無駄に金を使わせるな。どうせ長くは――」


言いかけて、父はわざとらしく口を閉じた。

だが、続きは言わなくても分かる。


“どうせ長くは生きられないのだから”。


リゼットは、自分の胸の奥が真っ白に冷え切っていくのを感じながら、静かに、深く頭を下げた。


「……承知いたしました。お父様」


泣き叫んで反対したところで、誰も助けてはくれない。許しを請えば、彼らの歪んだ優越感を満たすだけだ。

ならばせめて、最後くらいは――自分の足で立ち、惨めな涙だけは見せまい。


「話は終わりだ。とっとと自室へ戻りなさい」


父の冷たい声を背に受けながら、リゼットは応接室を出た。

閉まる扉の隙間から、エミリアの弾んだ声が追いかけてくる。


「よかったわね、お姉さま! これでやっと、少しはアルジェント家のお役に立つことができるのよ!」


廊下の大きな窓から見える庭は、冬の冷たい陽光を浴びて白く輝いていた。

リゼットはその凍てつくような景色に目を向けながら、心の奥底で小さく呟く。


(……私の居場所は、最初から、ここじゃなかったんだ)


◇◇◇


その日の深夜。

屋敷の皆が寝静まり、月が雲に隠れた時間を選んで、リゼットは古びた外套を羽織り、屋敷の外れへと向かった。


領地の境を示す、身の丈ほどの古い石標。

苔むし、風化しひび割れたその表面には、かつてこの領地を魔物から守るために刻まれた強力な結界の術式の痕跡がある。しかし、数百年という時を経て術式はすっかり魔力を失い、今では誰も気にも留めないただの石の塊になっていた。


リゼットは、冷たい夜気に震えながら、その石標にそっと両手を当てた。


静かに目を閉じる。

彼女の指先から、ほんのりと温かく、ぬるい風のような感覚が波紋のように広がっていく。石標にまとわりついていたどす黒い靄がジュッと音を立てて消滅し、周囲の空気が清涼なものへと変わる。


彼女自身は、特別なことをしているつもりはなかった。

幼い頃から、屋敷の隅やこの石標の周りに漂う「黒い嫌なもの」を見るのが不快で、ただ日課としてお掃除のように『浄化』を流し続けてきただけだ。

彼女は知らない。この地味な行為が、完全に壊れかけていた領地の防衛結界を擬似的に修復し、長年アルジェント領を魔物の大群から守り続けていたという事実を。


(……私がここからいなくなったら、この石標の汚れは、誰が綺麗にするのだろう)


ふと浮かんだ問いを、リゼットは自嘲気味に笑って打ち消した。


(お父様も、エミリアも、強力な魔力を持っているわ。私なんかが心配しなくても、どうにでもなるはずよ)


どうせ私など、いなくても――。

そう自分に言い聞かせなければ、恐怖と悲しみで足から崩れ落ちてしまいそうだった。


◇◇◇


三日後。

どんよりと重く垂れ込めた灰色の空の下、荷馬車よりも粗末で小さな荷を積んだだけの馬車が、アルジェント伯爵家の正門を出た。


御者を除けば、見送りに出たのは、幼い頃からリゼットを密かに慕ってくれていた下働きの少女ただひとりだけ。

父も、継母も、エミリアも、誰一人として姿を見せなかった。「呪われた地へ行く者に顔を見せれば穢れる」という理由らしい。


車輪が硬い石畳を離れ、ぬかるんだ森へ続く未舗装の道へと入っていく。


目指すは、北の果て。瘴気の地。

死の匂いが立ち込める、“狂王”のもとへ。


リゼットは揺れる馬車の中で、擦り切れた窓辺のカーテンを強く握りしめ、遠ざかっていく豪奢な屋敷の尖塔をじっと見つめた。


これが、自分が家族から完全に“追放”された証。

これから先、どんな残酷な運命が待っているのか分からない。恐ろしくて、手の震えが止まらない。


しかし同時に――胸のずっと奥底で、重い鎖から解き放たれたような、ほんの僅かな安堵と期待が芽生えているのを、彼女はまだ自覚していなかった。


(これで終わりじゃない。これは……もしかしたら、私の新しい始まりかもしれない)


冷たい北風が吹きすさぶ中、名ばかりの花嫁を乗せた馬車は、霧の濃い辺境へ向けて孤独に走り出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ