表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

『手記』

作者: まぶた
掲載日:2025/12/27

 私の数少ない友人の、或る男について、此処(ここ)に記そう。


 其の男は、只管(ひたすら)に空虚で在った。抑えようの無い破壊衝動(タナトス)に襲われ、其れに従うばかりで在った。幾夜も外に出、犯罪行為を繰り返して居た。其の姿は最早、人間とは形容し難いもので在った。其れでも男は気に留めなかった。男は、人間と云う穢れた器を、今直ぐにでも投げ出したい、と迄思っていた。実際、其の行為を繰り返す程、男の気配は人間から遠ざかって居る様で在った。


 或る晩の事だ、男は何時(いつ)にも増して苛立って居た。そして其れは頂点に達して仕舞(しま)った。あゝ、()(まま)、穢れた器から、解放されて仕舞おうか!男は、外套(コート)を投げ捨て、道端の瓶を拾い、叩き割った。そして其の先端を、腹に刺そうとした。然し、叶わなかった。寸での所で、男の手は震え、とうとう瓶を離して仕舞った。男が、人間の躰を極端に嫌って居たのは、確かな事実である。然し、其れ以上に、男の本能は死を恐れていた。其の事が、男は気に食わなかった。屈辱さえも感じた。如何することも出来なくなった男は、怒りの儘に、瓶を前方へと投げつけた。がちゃんと、気味の悪い音がした。男ははッとして、顔を上げた。

 視線の先には、見知らぬ青年が(たお)れて居た。突然の事に、理解が及ばなかった。唯一理解(わか)るのは、男が、(ようや)く初めて、人を殺したという事だけで有った。

 男は青年に近づき、どくどくと血の流れる頭蓋に触れた。感触も、匂いも、気味の悪いものだった。


 男は、自殺せんとした自分が、他人の命を奪ったことに怯えて居るのが、何故なのか理解らなかった。確かなのは、生臭い血の匂いと、手に伝わってくる、器から解放された青年の未だ残る温い体温だけなので有った。度を過ぎた快楽は、苦痛へと姿を変える。男にとって破壊は、最早快楽ではない。男は、感じたことの無い恐怖に襲われた。其れは、男が失っていた理性を取り戻させるのに十分な刺激で有った。


 此処(ここ)で、男の中に、理性を持った第二の人格が生れた。否、理性を持った方が主人格とした方が正確で有ろう。(しか)して、先刻(さっき)まで死のうとして居た男は、或る意味で、死んだ。破壊衝動(タナトス)に取り憑かれた男の人格は、此処で、跡形も無く消えたのだ。



 其れから数年。皆寝静まる夜に、現在私は(これ)を書いて居る。天に細長い月が横たわり、其の姿は、私の事をにやりと嘲笑(わら)って居るかの様だ。先刻(さっき)記した様に、此の男は、私の知る男である。其の実、出来れば、私は此の男の事を考えたくは無い。其れでも、私は記録する。



 私の身の上について、少し(ばか)りは書いて於こう。私は、数年前までの記憶が忽然と抜け落ちて仕舞って居る。或る日、自宅の寝床(ベッド)で目覚めたときから、私は、(すで)に私であった。

 幸い、金の貯えが有るのを見つけたので、(ゆっ)くりと求職する事が出来た。

 然し、此時(このとき)私は、何処か、言いようの無い焦燥感に苛まれて居た。

 私には、気が付いた刻から、私という存在が用意されていた。今生きている私は、私が生きた私ではない。そんな、出処不明の自己同一性(アイデンティティ)が、私を蝕んでいた。

 私に詰まっているのは、雲の様な、実体の無い物で、其れがすっかり抜けてしまった刻には、私は只の空虚(がらんどう)な人間に変って仕舞う。其れを恐れて、私は必死で取り繕った。私という存在の意味を、自分の意思で創ろうとした。

 結局、私は新聞記者の仕事に就く事が出来た。


 或る日、仕事を終わらせ、帰路に就いて居る刻の事だ。唐突、悪寒がし、咳が止まらなくなった。体調を崩すのは初めての事で在った。

 (はな)を啜りながら、自宅へと重い足で向った。頭の中が、へどろで満たされる感覚さえした。どろッとした臭いは、吐き気を催すのに十分なもので在った。初めはぐッと堪えて居たが、終に(みち)の端に(しゃが)み込んで仕舞った。月明りで、足元が褪赭(セピア)色に照らされた。

 私の穢れた鼻汁の臭いが、鼻腔に纏わりついた。此の臭いで、くらッと来てしまった。何より、此の不快な臭いが、私から発生した物質から生れ、体内に巣食って居るという事実が、赦せなかった。一刻も早く、この気味の悪いへどろを吐き出して仕舞いたかった。


 そう(うずくま)って居ると、目の前に小奇麗で、赤白い手巾が差し出された。顔を上げると、雪の様に白い肌を持った女性が、不安そうな表情(かお)此方(こちら)を見ていた。実際は、月光のせいで、色は褪せて仕舞って居た筈だが、私には其の色が明瞭(はっきり)と感じられた。臆病そうな容貌(すがた)であった。

 それが、彼女との馴初めで在った。何とも、平凡で詰らない物だが、此様(このよう)な物が私には丁度良いとも、何と無くだが思って居る。


 彼女は、内気(シャイ)な性格で有りながら、私の事を慕い、好いてくれて居た。私も又、そんな彼女の事を好いていた。


 或る夜、私は初めて彼女を招いた。彼女たっての希望だった。屹度(きっと)、最初から、一夜を共にする意思が有ったのだろう。私に其れを願い出た刻も、恐怖を隠せない様子で在った。

 最初(はじめ)は、只の談笑を続けていたが、或る刻を境に、部屋の空気が一変して仕舞った。(はずか)しいので、此処では詳細は省く。真実(ほんとう)は、此様(このよう)な事は一切合切知られたくないのだが、()の男に深く関係しているので、仕方なく書いているのだ。


 兎も角、私は、彼女と行為をするに至った。寝床(ベッド)の上で、彼女の着物を脱がし、その裸体を露わにした。

 彼女は全身で流線形を描き、其の身を持って美を成していた。彼女は嬉し涙を流していて、雪の様な肌に触れると、心地よい熱を感じた。

 私の肉体は、出処不明の(リビドー)に動かされて居た。其れは、性的衝動(エロス)と呼ぶのに相応しい、穢れた人間の自我(エゴ)だろうか。此時(このとき)、私は確かに、自己嫌悪、いや、人間嫌悪とすべきものに陥っていた。

 其の儘、私の躰へと視線を動かした。私の裸体は、彼女のものとは似ても似つかぬ、汚らしいもので在った。何万回も見た其れは、今日に限り、異様に情けなく見えた。


 愚かに膨らんだ私の欲棒を、彼女の躰の内側に沈めた。私の中で、欲や、満足感や、情けなさや、その他言い表せない感情が、同時に発生した。私が私で無い様で在った。


 不図(ふと)、私と彼女との繋ぎ目に目を遣った。彼女の股からは、赤黒い血が流れていた。莫迦な事に、私は其れから目が離せなかった。廻々(ぐるぐる)と、私の中で、何かが渦巻いて居る感覚を覚えた。決して開けては為らない禁后(パンドラ)(はこ)が、開いて仕舞ったのだろうか。湧出た衝動には、覚えがあった。畢竟(ひっきょう)、私は、面と向かって罪を認めたく無かっただけだ。血は、私の内部に襲い掛かり、(たちま)ち彼の匂いを呼び起こした。

 ――壊せ、殺せ。()の男の声が聞えた気がした。消え去った筈の人格は、私の中に今一度姿を現した。男は、彼と繋がっている女の首に手を伸ばし、力を()めた。然して、女の首は、気味の悪い音を立てて(こわ)れた。唇が一寸(ちょっと)動いたが、何も言葉を発さずに、女は其の儘意識を失った。


 男が(ふたた)び殺人を犯した後、意識は私に戻った。だが、直感で、私が此の肉体を操れるのは、現在(いま)が最後の機会(チャンス)であると悟った。

 私は軽く着物を羽織ってから自室へ向かい、机の抽斗(ひきだし)を開け、手記と(ペン)を取り出した。そして、私と()の男に関する物語(はなし)を書き初めた。或る種の遺書の様な物と呼べるやも知れぬ。


 机の上に、水の入った湯呑が置き放しになって居た。先刻(さっき)からずっと喉が渇いて居たので、其れを手に取り、口に運んだ。然し、私の躰は、何故か水を受け付けなかった。水が咽喉(のど)に入った途端、異物感をも覚え、ぺッと吐き出して仕舞った。水は、(つば)に成っていた。咽喉(のど)は、乾いた(まま)だった。



 窓から滑り込んで来た月の光が、私の手元に重なった。細長い月で在る為、其の光は薄暗い物だ。其れでも確実に、健気に、月光の使命を全うして居る様で在る。

 私は今(まさ)に、此の肉体を男に明け渡さんとして居る。私に残された時間は、持って後一時間といった所だ。

 思えば、()の男だけで無く、私さえも、人間で在ることに(いささ)か疲れて仕舞って居たのだろうか。()の男に主人格を明け渡し、最早人間で無い化物に成らんとして居る現在でさえ、何か冷静な気持が強まって居るのだ。


 最期に、願わくは、之を読んでいる名も知らぬ方よ、宜しければ、此の手記を、散々(ちりぢり)に破いて頂きたい。折角記録したのだが、是等(これら)の記憶は、私の汚点であり、歴史から消える可惨事である。何故敢えて記録したのかは、私にも理解らない。恐らくは、此の意味の無い感情を、私の罪と罰を、一度でも、其の存在を誰かに包み込んで欲しかったのだ。此の我儘を押し付けて仕舞った貴方に、最大限の謝罪と、感謝を。


 (これ)にて、物語(はなし)は幕引きである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ