『手記』
私の数少ない友人の、或る男について、此処に記そう。
其の男は、只管に空虚で在った。抑えようの無い破壊衝動に襲われ、其れに従うばかりで在った。幾夜も外に出、犯罪行為を繰り返して居た。其の姿は最早、人間とは形容し難いもので在った。其れでも男は気に留めなかった。男は、人間と云う穢れた器を、今直ぐにでも投げ出したい、と迄思っていた。実際、其の行為を繰り返す程、男の気配は人間から遠ざかって居る様で在った。
或る晩の事だ、男は何時にも増して苛立って居た。そして其れは頂点に達して仕舞った。あゝ、此の儘、穢れた器から、解放されて仕舞おうか!男は、外套を投げ捨て、道端の瓶を拾い、叩き割った。そして其の先端を、腹に刺そうとした。然し、叶わなかった。寸での所で、男の手は震え、とうとう瓶を離して仕舞った。男が、人間の躰を極端に嫌って居たのは、確かな事実である。然し、其れ以上に、男の本能は死を恐れていた。其の事が、男は気に食わなかった。屈辱さえも感じた。如何することも出来なくなった男は、怒りの儘に、瓶を前方へと投げつけた。がちゃんと、気味の悪い音がした。男ははッとして、顔を上げた。
視線の先には、見知らぬ青年が斃れて居た。突然の事に、理解が及ばなかった。唯一理解るのは、男が、漸く初めて、人を殺したという事だけで有った。
男は青年に近づき、どくどくと血の流れる頭蓋に触れた。感触も、匂いも、気味の悪いものだった。
男は、自殺せんとした自分が、他人の命を奪ったことに怯えて居るのが、何故なのか理解らなかった。確かなのは、生臭い血の匂いと、手に伝わってくる、器から解放された青年の未だ残る温い体温だけなので有った。度を過ぎた快楽は、苦痛へと姿を変える。男にとって破壊は、最早快楽ではない。男は、感じたことの無い恐怖に襲われた。其れは、男が失っていた理性を取り戻させるのに十分な刺激で有った。
此処で、男の中に、理性を持った第二の人格が生れた。否、理性を持った方が主人格とした方が正確で有ろう。然して、先刻まで死のうとして居た男は、或る意味で、死んだ。破壊衝動に取り憑かれた男の人格は、此処で、跡形も無く消えたのだ。
其れから数年。皆寝静まる夜に、現在私は之を書いて居る。天に細長い月が横たわり、其の姿は、私の事をにやりと嘲笑って居るかの様だ。先刻記した様に、此の男は、私の知る男である。其の実、出来れば、私は此の男の事を考えたくは無い。其れでも、私は記録する。
私の身の上について、少し許りは書いて於こう。私は、数年前までの記憶が忽然と抜け落ちて仕舞って居る。或る日、自宅の寝床で目覚めたときから、私は、已に私であった。
幸い、金の貯えが有るのを見つけたので、悠くりと求職する事が出来た。
然し、此時私は、何処か、言いようの無い焦燥感に苛まれて居た。
私には、気が付いた刻から、私という存在が用意されていた。今生きている私は、私が生きた私ではない。そんな、出処不明の自己同一性が、私を蝕んでいた。
私に詰まっているのは、雲の様な、実体の無い物で、其れがすっかり抜けてしまった刻には、私は只の空虚な人間に変って仕舞う。其れを恐れて、私は必死で取り繕った。私という存在の意味を、自分の意思で創ろうとした。
結局、私は新聞記者の仕事に就く事が出来た。
或る日、仕事を終わらせ、帰路に就いて居る刻の事だ。唐突、悪寒がし、咳が止まらなくなった。体調を崩すのは初めての事で在った。
洟を啜りながら、自宅へと重い足で向った。頭の中が、へどろで満たされる感覚さえした。どろッとした臭いは、吐き気を催すのに十分なもので在った。初めはぐッと堪えて居たが、終に路の端に蹲み込んで仕舞った。月明りで、足元が褪赭色に照らされた。
私の穢れた鼻汁の臭いが、鼻腔に纏わりついた。此の臭いで、くらッと来てしまった。何より、此の不快な臭いが、私から発生した物質から生れ、体内に巣食って居るという事実が、赦せなかった。一刻も早く、この気味の悪いへどろを吐き出して仕舞いたかった。
そう蹲って居ると、目の前に小奇麗で、赤白い手巾が差し出された。顔を上げると、雪の様に白い肌を持った女性が、不安そうな表情で此方を見ていた。実際は、月光のせいで、色は褪せて仕舞って居た筈だが、私には其の色が明瞭と感じられた。臆病そうな容貌であった。
それが、彼女との馴初めで在った。何とも、平凡で詰らない物だが、此様な物が私には丁度良いとも、何と無くだが思って居る。
彼女は、内気な性格で有りながら、私の事を慕い、好いてくれて居た。私も又、そんな彼女の事を好いていた。
或る夜、私は初めて彼女を招いた。彼女たっての希望だった。屹度、最初から、一夜を共にする意思が有ったのだろう。私に其れを願い出た刻も、恐怖を隠せない様子で在った。
最初は、只の談笑を続けていたが、或る刻を境に、部屋の空気が一変して仕舞った。羞しいので、此処では詳細は省く。真実は、此様な事は一切合切知られたくないのだが、彼の男に深く関係しているので、仕方なく書いているのだ。
兎も角、私は、彼女と行為をするに至った。寝床の上で、彼女の着物を脱がし、その裸体を露わにした。
彼女は全身で流線形を描き、其の身を持って美を成していた。彼女は嬉し涙を流していて、雪の様な肌に触れると、心地よい熱を感じた。
私の肉体は、出処不明の欲に動かされて居た。其れは、性的衝動と呼ぶのに相応しい、穢れた人間の自我だろうか。此時、私は確かに、自己嫌悪、いや、人間嫌悪とすべきものに陥っていた。
其の儘、私の躰へと視線を動かした。私の裸体は、彼女のものとは似ても似つかぬ、汚らしいもので在った。何万回も見た其れは、今日に限り、異様に情けなく見えた。
愚かに膨らんだ私の欲棒を、彼女の躰の内側に沈めた。私の中で、欲や、満足感や、情けなさや、その他言い表せない感情が、同時に発生した。私が私で無い様で在った。
不図、私と彼女との繋ぎ目に目を遣った。彼女の股からは、赤黒い血が流れていた。莫迦な事に、私は其れから目が離せなかった。廻々と、私の中で、何かが渦巻いて居る感覚を覚えた。決して開けては為らない禁后の匣が、開いて仕舞ったのだろうか。湧出た衝動には、覚えがあった。畢竟、私は、面と向かって罪を認めたく無かっただけだ。血は、私の内部に襲い掛かり、忽ち彼の匂いを呼び起こした。
――壊せ、殺せ。彼の男の声が聞えた気がした。消え去った筈の人格は、私の中に今一度姿を現した。男は、彼と繋がっている女の首に手を伸ばし、力を篭めた。然して、女の首は、気味の悪い音を立てて毀れた。唇が一寸動いたが、何も言葉を発さずに、女は其の儘意識を失った。
男が復び殺人を犯した後、意識は私に戻った。だが、直感で、私が此の肉体を操れるのは、現在が最後の機会であると悟った。
私は軽く着物を羽織ってから自室へ向かい、机の抽斗を開け、手記と筆を取り出した。そして、私と彼の男に関する物語を書き初めた。或る種の遺書の様な物と呼べるやも知れぬ。
机の上に、水の入った湯呑が置き放しになって居た。先刻からずっと喉が渇いて居たので、其れを手に取り、口に運んだ。然し、私の躰は、何故か水を受け付けなかった。水が咽喉に入った途端、異物感をも覚え、ぺッと吐き出して仕舞った。水は、唾に成っていた。咽喉は、乾いた儘だった。
窓から滑り込んで来た月の光が、私の手元に重なった。細長い月で在る為、其の光は薄暗い物だ。其れでも確実に、健気に、月光の使命を全うして居る様で在る。
私は今将に、此の肉体を男に明け渡さんとして居る。私に残された時間は、持って後一時間といった所だ。
思えば、彼の男だけで無く、私さえも、人間で在ることに些か疲れて仕舞って居たのだろうか。彼の男に主人格を明け渡し、最早人間で無い化物に成らんとして居る現在でさえ、何か冷静な気持が強まって居るのだ。
最期に、願わくは、之を読んでいる名も知らぬ方よ、宜しければ、此の手記を、散々に破いて頂きたい。折角記録したのだが、是等の記憶は、私の汚点であり、歴史から消える可惨事である。何故敢えて記録したのかは、私にも理解らない。恐らくは、此の意味の無い感情を、私の罪と罰を、一度でも、其の存在を誰かに包み込んで欲しかったのだ。此の我儘を押し付けて仕舞った貴方に、最大限の謝罪と、感謝を。
是にて、物語は幕引きである。




