一話 欠けた月の夜に 1-3 ~綾瀬~
逃げていた。
何かが怖かった訳じゃない。でも、道で蛇を見かけたら逃げるように、蜂を見たら怖がるように、つい反射的なものだった。
正直な感想としてはもう少し彼を見ていたかった気もする。
テレビでもあそこまでの美形は見たことがなかったし、私の知り合いにもかっこいいと思える人は僅かだが存在する。でも、全員を足して彼に勝負しても勝敗は目に見えているだろう。本当にその程度のもの。
だからこそ勇気をだして声をかけてみてもよかったし、ただ眺めているだけでも良かった。
でも――彼が纏う雰囲気はどこか近寄りづらい、別次元に生きる人。そんな感じがした。
呼吸が荒く、心臓の鼓動がうるさいほど耳に入ってくる。さっきまでは感じなかったのに、心の整理が出来たからかもしれない。
ゆっくりと、徐々にスピードを落していき駆けていた足を止めた。
逃げる事はない、逃げなきゃいけないという意思もない。
落ち着いた、心が整理できて、ようやく本来の自分を取り戻す事ができた気がする。
「胸を貫く、鋭い痛み~♪」
――そんな不幸極まりない歌が聞こえたのは本当に一瞬前の事だった。
反応できず、かといって気付いたかと言うとそうでもなく。
その声の意味を認識したのは胸に焼ける痛みを感じた後、傷口から染み渡るように言葉の意味が入り込んできた。
痛みに顔をしかめ、胸元に手を置く。
――鉄だ。
固く、冷たい。黒い金属。
それが容赦なく私の胸元を貫いていた。
その金属の先は私の進行方向にあって、痛みを最初に感じたのは背中からだったと思う。つまり、後ろから突き刺されたということ。
瞼が私の意志とは無関係に落ちていき、完全に閉まりきって思考が停止するコンマ一秒前、激しく重苦しい、銃声が響いたような気がした。
連続投稿二日目です。今回は綾瀬編ということです。
……編、というのには少し短すぎるかもしれませんが、