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純文学と大衆文学

作者: 秋暁秋季

注意事項1

起承転結はありません。

短編詐欺に思われたら申し訳御座いません。


注意事項2

明確な事は分かりません。

でも私はこうだと思ってます。

「純文学と大衆文学の違いって何だと思う?」

芥川龍之介作、羅生門を読んでいる時に彼からそう質問が飛んできた。

この議題、かない曖昧な分、物凄く定義付けが難しい。ぶっちゃけ、区別する事が出来ないと言っても過言ではない。

けれども強いて言うならば。

「人間の生々しさと毒を浮き彫りしたのが純文学。あんまりそれに拘らず、読者が楽しめれば万事大解決。というのが大衆文学。でも定義付けは曖昧だよね」

「あぁ……成程な……」

賢い彼はそう言って、江戸川乱歩作、人間椅子に目を向けた。


基本的に私は純文学が好きでは無い。どちからと言えば大衆文学を好む。それはきっと、純文学の生々しさが受け入れられないからだと思う。

蜘蛛の糸、羅生門、人間失格、その辺りを読んだけれども、生身の人間の、目を背けたくなる様な描写が延々と続く。自分でもそんな嫌な面は必ずある。絶対に無いとは言いきれない。そんな鏡を置かれた心境になるのだ。

その点、大衆文学というのはそう言った側面よりも、平常時では見られない様な人の奇怪な行動が多分に含まれている。一種の幻想小節として括れるから、現実に目を向けなくて済むのだ。

「何時も思うのだけど、純文学を書ける人は皆、良心と戦ってる気がするんだよね。だって人の嫌なところを割と直接的に描くから、その内、鬱になるんじゃないかと心配になる」

以前道徳の教科書で蜘蛛の糸を題材に議論が行われた事がある。『カンダタの様な行いを肯定するか?』という議題だった。その結果、半数の生徒が同意した。

それだけ、生身の人間に沿って描かれたということ。酷な程に、人の利己を見て書かれた小説ということ。

「文豪は割と、精神疾患抱えている先生が多いぞ。言い方は悪いけれど、ろくでなしもそれなりに多い」

そりゃそうだ。あんな人間の闇ばかりの小説を書き続けて、真っ当でいられるかと聞かれれば、難しいだろう。

「純文学って、他人の評価は二の次。自分の事さえどうでも良い。ただ最大限の美しさを示す為に作られたものだから、そうなのかもね」

何か最上級の物を作るには、何かしらを犠牲にしないとならない。でもそうまでして作られた血の結晶は、とても美しい事も知っている。

そう考えると逆なのかも知れない。純文学というのは、他の何もかもを犠牲にして作り上げたものだから、あんなに芸術性に富んでいるのかも知れない。

「まぁ大衆文学の方が好きなんだけど」

なろう様のジャンル付で、純文学って文字が出てくるんですよ。

執筆なさった方はお分かり戴けるのではないかと。

私も結構悩んで付けてます。特に純文学は。


一応言える事は、人間の生々しさを描いた物は、純文学小説なのではないかと。


蜘蛛の糸、羅生門、人間失格などをお読みの方は分かると思うんですけど、人間の善性があんまり存在しない。

結構利己的な部分が描かれている。

それって見ていて気持ち良いものじゃないんですよ。


読者向けというよりは、作者の意思に重きが置かれている様に感じます。

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