第二話 ストーカー
ストーカー野郎にお灸をすえてやるため、私は意気揚々と張り込みをしていたのだけれど……どうやらそれは、少々迂闊な行動だったらしい。あぁ、浅はかな過去の自分を呪いたい。
私は今、覆面男に追いかけられている。
そりゃもう猛ダッシュである。
覆面と言っても、銀行強盗が被っている目出し帽のような犯罪臭いものではない。奴は黒いサングラスと大きなマスクで顔を隠すことにより、顔を分からなくしているのだ。男らしさはあまり感じないヒョロ長いシルエットだけれど……背格好に心当たりはないな。斎藤氏はもう少しガッシリしているし。
知らない男に追いかけられる。というだけで、背筋がぞわぞわして肌が粟立つ。
「待てコラ!」
「ヒィッ」
声を聞いても思い当たる人物はいない。
もちろん私は桜子の交友関係のすべてを知ってるわけではない。しかし、桜子は気に入った友人同士を引き合わせるのがわりと好きな子だから、少なくともこの男がその輪に入っている者でないというのは分かる。
とにかく人通りの多いところへ。
呼吸が苦しくなった私は、自分の覆面を剥ぐ。
あ、そういや私も覆面だった。もちろん覆面と言っても、悪役レスラーのような派手なものではない。マスクで口元を隠し、パーカーのフードを被って顔の輪郭を分からなくしているだけだ。
女だと分かるとナメられると思い、男装コスプレ用のインナーまで着込んで体型を隠したのだけれど、全力で走らなければならない今となっては邪魔でしかない。いっそ裸になってしまいたい。
クリスマス直前の凍えるような空気を裂いて、人通りの少ない路地を駆け抜ける。
一進一退の追いかけっこは意外といい勝負である。これでも一応、金曜日の揚げ物でブクブクと太らないために日々のジョギングは欠かしておらず、足腰にはわりと自信があるのだ。はっはっは、韋駄天の千恵子と呼べ。あ、嘘です。そろそろしんどいっす。
勢いよく角を曲がったところで、風圧でパーカーのフードが脱げて、仕舞っていた髪の毛がファサッと広がってしまった。
「女っ!?」
何やら驚くような声が後ろから聞こえてくるが、絶対止まってやるもんか。
そう思って前だけ見て走っていた私は、足下の段差に気付かずに蹴っ躓いて思いっきり転んだ。腹部を強かに打ち、呼吸ができなくなる。マズいマズいマズい。このままだとストーカー男に追いつかれる。
追い詰められた私の脳はここに来て覚醒した。
やってやる。そんな風に開き直った私は、ポケットからお手製の催涙スプレーを取り出した。いや、唐辛子と水を混ぜて霧吹きに入れただけのやつなんだけど。念のため護身用に持っていたのを、今の今まですっかり忘れていたのだ。
駆け寄ってきた男に向け、スプレーを構える。
「や、やっと追いついた」
「黙れストーカー! 動くな!」
「は? いやちょっと」
「桜子に近づいて何をする気だった! 事と次第によってはただじゃおかないからな! 手足をふん縛って、体に蜂蜜を塗りたくった上で冬の野山に放置してやる!」
そう言って私が、スプレーを吹きかけようとした瞬間。
盛大な溜息を吐いた男が、覆面を剥ぎ取る。
「確か、チエちゃんだっけ……姉ちゃんの友達の」
「ん? んんん? 姉ちゃん? え?」
私はぽかーんと口を開け、無様に間抜けヅラを晒してしまう。
「桜子の弟の伊吹だよ。前に会ったことあるんだけど」
「へ? 伊吹って……あの小ぢんまりとした?」
「中学時代の話でしょ。今はもう大学生なんだけど」
いや……まぁ確かにこの小顔からは桜子の血筋しか感じないけど。
たしか伊吹は桜子とは七つ違いだったから……あ、もう成人くらいにはなってんのか。え、時間感覚がバグってるんだけど。小柄な中学生が、五年でこんなにニョキニョキ成長するものだろうか。いやまあ、目の前に実物がいるから信じざるをえないが。え。これは現実なのか?
んんん? まぁ、それより気になるのは。
「え、なんで伊吹が桜子のストーカーしてんの?」
「誤解だよ! 僕は姉ちゃんのストーカーを捕まえるために張り込みしてたの! そしたら見るからに怪しい奴が姉ちゃんの後をつけてたから、声をかけたら……逃げるし」
「そら逃げるよ! 超怖かったもん」
へなへなと力が抜けた私はその場に座り込む。そして、擦りむいた腕や足を見て呆然としてしまう。あー、私は一体何をやっているんだろう。
――正直、自分が空回っている自覚はあるのだ。
親友の桜子が心置きなく幸せになれるよう、陰ながら全力を尽くす。そんな建前で、あれこれと奔走することによって、私は胸の中で渦を巻いていた醜い感情にどうにか折り合いをつけようとしていただけなのである。自分自身の感情だ、分からないはずがないよ。ただ……今はとても、惨めで情けない。
「はぁ。なんか全部嫌になってきた」
「……とりあえず、治療するから僕の部屋に来なよ」
「あぁ、うん。なんかごめんね?」
きっと、ここで涙の一つでも流して男に縋るのがカワイイ女って奴なんだろうな、たぶん。頭の中ではそんなことを考えるのに、行動には全く反映されないのが、私という女の残念さなのだとつくづく思う。
◆ ◆ ◆
男子大学生の一人暮らしの部屋にやってくるというのは、本来はもっと警戒心を抱くべきなんだろう。
しかし伊吹については全く心配いらない。背が低かった時ですら周囲に女どもがわんさか寄ってきてうんざりするほどモテていた彼は、ニョキニョキと成長した今ではさらに鬱々とした毎日を送っているらしい。道中でもそんな話をいろいろ聞いた。
男としては女が寄ってくるのはウハウハだろうって? さてはお前、モテたことないな。私もないが。
伊吹や斎藤氏のような顔のいい男が、下手な女に手を出す危険性を少しは考えてみるといい。既成事実を武器に、妊娠を主張して、責任を迫られる……ちょっとした火遊びだなんて軽い気持ちでいたら、辺り一面を火の海にされるんだぞ。
これが、そこそこレベルの顔のクズ男であれば、上手な遊び方を覚えてあちこちで小火騒ぎを起こすんだろうけどな。女の怖さを幼少期からひしひしと感じてきた真のイケメンは、先々のことを考えて軽率なことはしないものである。
桜子も伊吹も斎藤氏も、モテる者はみんな口を揃えて「興味のない相手から執着されんのマジきつい」という内容の発言をしている。私はモテざる者だから知らんけど、モテるからっていいことばかりではないのである。
そもそも美女と野獣が成り立つのは野獣が心優しいからであって、自分の心の醜さに気付かないまま「僕は優しい野獣なのにどうして振り向いてくれないんだ」と文句を垂れる奴はマジで反省したほうがいい。これは男女が逆でも同じである。
そんなことを色々と考えながら、私は完全に気を抜いた状態で伊吹に治療してもらっている。ひゃー、消毒液が染みるぜ。
「盛大に擦りむいたね……うわぁ、痛そう」
「なんか大人になってこの怪我の仕方は凹むわ……」
「ごめん。僕が追いかけたばかりに」
気にするな。お互いに怪しい格好でうろちょろしていたのだから、責任はイーブンである。なんだかんだ、心の底から危機感マシマシで駆けっこしたのなんて小学生ぶりだから、今にして思えばちょっと楽しかった気もするし。
そんな感じで部屋で治療を受けながら、なんとなく周囲に目を向けていると……あぁ、大学生の部屋だなぁという散らかり具合であった。
全員に当てはまるものではないけれど、大学生よりも時間のない社会人の方が家事に割ける時間が少ない分、効率化を重視して自分なりのやり方を構築した結果、部屋がきれいな人が多いように感じる。私も大学生時代より社会人になってからの方がまともに家事をやってるしなぁ。
「チエちゃん、なんか失礼なこと考えてない?」
「考えるだけなら無罪でしょ」
話をしながら伊吹の顔を見る。
その顔の良さは桜子によく似ていた。
絵本に出てくるお姫様が桜子、王子様が斎藤氏だとするなら……伊吹は高貴な貴族令息ってところだろうか。えー、私は何かって? うーん、揚げ物屋の店主かな。明らかに私だけ世界観を間違ってしまっているけれど。
そんな変なことを考えていると、伊吹がジト目で見てくる。
「女の身でストーカーを追いかけ回すのはやめたほうがいいよ。マジで。今回で痛い目見たでしょ。本当に危ないから」
「でも……桜子を放っておけない。危機感に乏しいし」
「知ってるよ。だから僕がこうして出てきたんじゃないか」
伊吹に「飲み物は何にする?」と問われたのでブラックコーヒーを所望する。部屋全体を見ればどこか雑多な様子が否めないのだが、どうやらコーヒー関連の機器だけは拘って揃えているらしい。
彼は手際よくお湯を沸かし、コーヒー豆を砕き、フィルターをセットする。ふむふむ、美味しいコーヒーを淹れる男は素晴らしいぞ。私も一時期はいろいろ試したが、インスタントコーヒーの手軽さを前に敗北した女なので素直に尊敬する。
「女の人でブラックって珍しいね」
「それは偏見。たぶん伊吹の前に現れる女は、みんな自分を少しでも可愛く見せるために甘い物を飲み食いしてるんだよ。甘いという味が好きなのではなく、甘い物を好んで摂取している自分の姿を伊吹にアピールしたいだけだ」
「それも偏見だと思うけどなぁ」
そうだろうか。私が所属している総務部は女の多い部署だけれど、多忙な時期になるとかなりの女がブラックコーヒーや栄養ドリンクを決めて目ん玉をギンギラギンにさせている。彼女らだって合コンに行けばキャピっとしてクルンといるだろう? 別にそれ自体が悪いことだとは思わないが、理想と現実はしっかり区別して認識しておかないとね。
そんなくだらない話をしながら、伊吹の淹れたコーヒーを飲んだ。なるほど、拘っているだけのことはあるな。めちゃくちゃ美味しい。
「そういえばチエちゃんは、まだアレやってんの?」
「アレ? 何のこと?」
「金曜日は揚げ物の日ってやつ」
あぁ、そういや昔、話したことあるんだったな。
伊吹も桜子と同様に目を輝かせていろいろと掘り下げてきたクチなので、こいつは可愛いなぁと子犬と戯れるような気持ちで揚げ物トークを繰り広げてやった記憶がある。具体的に何を話したのかはすっかり忘れたけど。
金曜の揚げ物デーはずっと続けてるよ。
そう言うと、伊吹は何やらキラキラした目を向けてくる。
「一人暮らしを始めてから、僕も試したんだけど」
「揚げ物を?」
「揚げ物を。でも難しいね。思ってたよりベチャッとした出来栄えになるし、準備も片付けも大変で……これを毎週やってるチエちゃんはすごいよ。僕は諦めてスーパーのお惣菜を食べてる」
なるほど。私のコーヒーと同じかな。
そうやって雑談をしている時のホワホワした雰囲気は、なるほど、これは間違いなく桜子の弟だろう。ついつい「次の金曜日はうちに集合な」「うん」という会話をしてしまったが、客観的にはどう見てもイケメンを騙して部屋に連れ込む悪女の図になってしまっている。もちろん、そういうつもりは欠片もないけれど。
◆ ◆ ◆
桜子のストーカーを捕縛したのは、それから数日後のクリスマス当日であった。
「メリークリスマス! 貴方はたしか、斎藤氏の友人だったよね。どうして桜子のアパートにいるのかな?」
サンタクロースにしては服も地味だし白ひげもない。そもそも桜子はプレゼントをもらう年齢でもないのだから、彼女の部屋のドアを工具でガチャガチャやって侵入を試みている男は、どう考えても不審者で間違いないだろう。
伊吹に取り押さえられた男は顔面蒼白。
私はさっさと警察に連絡をした後、こいつの企みをボイスレコーダーに記録してやろうと会話を試みているわけだ。この男はたしか、斎藤氏の地元時代の友人で……。
「梶原だっけ?」
「梶木だ」
「あぁ、そうか。そんな名前だった」
ちなみに、名前を呼び間違えたのはワザとだ。
これは、自分から名前を白状させた方が面白いからという、ちょっとした悪戯心の産物なのである。私のそういう意図に気づいている伊吹はジト目を向けてくるが、知らないもんね。ここは自由にやらせてもらおう。
「事情は聞かなくてもだいたい想像できるけど、あれだよね。斎藤氏が昔からモテモテで、ずっと嫉妬していた貴方はいつかひと泡吹かせてやるつもりだった。それで友人の仮面を被っていたわけだけど、結婚相手の桜子が想像以上の美人だったからガチで惚れてしまった。桜子を斎藤氏から奪えば復讐もできて一石二鳥。そんなところでしょ?」
「俺は! あいつは昔から!」
「いいよ、細かい事情は警察署で語りな」
梶木の話をさっと打ち切る。
どうせ今のコイツの口からは、ドロドロと嫉妬に塗れた主観的なエピソードしか出てこないだろう。桜子の周辺には男女問わずこの類の人間が定期的に現れるので、そういうのを裏で処理してきた私としては今さら欠片ほどの興味も湧かない。
「梶山だっけ」
「梶木だ!」
「それで、今日はどうするつもりだったんだい。桜子の下着でも盗むつもりだった? それとも部屋に潜んで桜子を襲おうとした? 盗聴や盗撮の道具を設置しようとした?」
私の言葉に、梶木は黙り込む。まぁ、ちゃんとした捜査は警察にお願いするとしてだ。
「桜子は可愛いよねぇ」
私は私のやり方で、親友を守ろうか。
「あれ? 梶木は桜子を不細工だと思ってる?」
「そんなわけ! あんな完璧な子は他にいない!」
「そうかな? 確かに顔は小さいけど」
「何もかも素晴らしいじゃないか。人形のような可愛らしい顔も、女らしい柔らかそうな体も、守ってあげたくなるような純粋さも、ふにゃりと笑う笑顔も。彼女を構成する全てが完璧で――」
少し煽れば、梶木はペラペラと喋り始める。
ちょろい奴め。
ちょいちょい合いの手を挟むだけで、ストーカー男の恋心暴露大会は大盛りあがりを見せる。そうやってずっと語りたいだけ語らせるのも、それはそれで楽しい催しではあるんだが。
「分かったよ。とにかく梶木は桜子が好きなんだね」
「そ……そうだよ。悪いか」
「別に。人を好きになるのは理屈じゃないし」
私がそう言うと、梶木はきょとんした顔をする。
ははは、恋心そのものを否定なんかできるわけがないだろう。なにせ私自身が救いようのない横恋慕女なんだから。その感情にメスを入れてしまったら、私も一緒になって爆死するだけである。そして私は自分に激甘な女なので、自己否定なんてしてやらないのだ。
「私も桜子のことが好きだよ。あの子はいい笑顔をする」
「……あぁ」
「あのホワホワ娘とは長い付き合いだからねぇ。泣いたり笑ったり喧嘩したり、いろいろあったけどさぁ……ねぇ、知ってる? 桜子が究極の笑顔を見せてくれるのは、どんな時か」
私がそう問いかけると、梶木は静かになる。
「桜子の顔が一番輝くのはね……斎藤氏の隣にいる時さ」
「……それは」
「私は斎藤氏のことも好きだよ。そして彼が一番良い顔をするも同じく、桜子の隣にいる時だと知っている。そんな二人だからこそ、磁石のように惹かれ合ってピッタリと寄り添う姿をさ……本当に、心の底から祝福したいと思えるんだよ」
梶木に向かって話すことで、初めて自覚したが。
その言葉は、私の本心だった。
一皮剥けば、私もこの男のような醜い嫉妬を持っている。その自覚はある。だけれど私が抱えているのは、胸を締め付けるような横恋慕だけではないのだ。奴に語りかけた言葉だって……揃ってほのぼの空間を作り出す二人の姿を見て、胸の奥に温かい感情が湧き起こることも、紛れもない事実なのだから。
「――お姫様は、絵本の最後で報われるべきだ」
私はそう言って、梶木の顔を覗き込む。
「やっぱりお姫様の横には、彼女に相応しい王子様が立ってなきゃね。めでたしめでたし……そうやって一点の曇りもなく物語を締めるのに、貴方のようなストーカー男も、私のような揚げ物女も、残念ながらお呼びじゃあないんだよ」
揚げ物女? と問われたので「金曜日はフライデーだから、毎週金曜日に揚げ物を作ってるんだ」と私が答えると、ダジャレじゃないかと鼻で笑われた。ふん、こいつとは仲良くなれなさそうだな。
それでも警察に引き渡す時の梶木はずいぶん大人しくなっていたので、私が会話をしたのもそう無駄じゃなかったと自画自賛しておこう。私は自分に激甘なので、基本的に褒めて伸ばしてあげる方針を取っているのである。
街は綺羅びやかなクリスマスムード。
吹き抜ける風は肌が引き裂かれそうなほど冷たいけれど、それでも、私の胸の奥にはロウソクのような小さな火が確かに灯っていた。