天正九年の武田勝頼・後編
天正九年の武田勝頼・前編の後編です。
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から先にお読みください。
内応を約束していた木曽が病に倒れたと知った織田軍だが予定通り甲州征伐を行う事を決め、織田信忠を総大将とする討伐軍が織田軍先鋒隊を編成し、森長可隊一万が木曾口から、河尻秀隆隊一万が伊那口から、金森長近隊一万が飛騨口から侵入した。
【木曽口】
木曽口から侵入した森長可隊は正史なら先導を務める筈だった木曾の福島城で激しい抵抗に会っていた。降りしきる雪で鉄砲を使えない織田軍、対する武田軍は屋根に守られた城内から火を付けた炮烙玉を放った。山城である福島城から投げ降ろされた炮烙玉は坂の途中に留まったり、狭い窪地に陣を張った織田軍を大いに苦しめ多くの犠牲を出した。尤も炮烙玉の爆発で死亡した者は少なく、爆発に驚いて足を取られ木曽川に落ちた者、一部、爆発で雪崩が起きたのも被害を大きくした。
【伊那口】
伊那谷では滝沢城、松尾城が織田に恐れをなし寝返ったが、飯田城主保科正直は史実と違い粘りを見せた。正史では木曽方面から合流してくる筈の森長可軍が来ていないこともあり、河尻秀隆隊を城に引きつけ、鉄砲と炮烙玉で応戦した。やはり、雪で攻め手は鉄砲を使えないのも武田に味方した。
【飛騨口】
飛騨口から深志を目指した金森長近隊は雪で野麦峠を越えられず一度下山して木曽に向かった。
【木曽川の戦い】
福島城で大きな被害を出した森長可軍は止む無く一度撤退することにした。平坦な土地から来た織田軍にとって険しい木曽での山岳戦、しかも雪の中での布陣に兵の疲弊は激しかった。彼らは雪の木曽川沿いを落ち延びるように美濃へ進む。対して地の利がある木曽兵は渓谷の上から追走し、弓や炮烙玉を投げ落とした。鉄砲と違い導火線に火を付けるだけの炮烙玉は雪の中でもある程度は使用できた。木曽の兵達は病に倒れた主・義昌に代わって真理姫に鼓舞され勇敢に戦った。織田に内応していたのは当主・義昌であり末端の兵達はそんな事は知らなかった。勝戦となれば重税に悲鳴を上げていた兵もこのように化けるのだ。大いに森隊を追い込んだ彼らは荷駄や負傷兵の装備を接収し帰還した。荷駄には兵糧に加え未使用の鉄砲・弾薬が大量にあった。久しぶりの勝戦に福島城では勝鬨が上がり、手に入った荷駄に大喜びした。飛騨からの金森隊が福島城に到着したのはそんな時である。雪の中を長期行軍してきて明らかに疲労が見える彼らは勝利に沸く福島城内の兵達には獲物にしか見えなかった。
【伊那街道】
河尻秀隆率いる伊那先鋒隊は松川と野底川に囲われた飯田城からの激しい抵抗にあっていた。雪で鉄砲が使えず一方的に城から攻撃されるだけだった為、織田に寝返った松尾城に入った。また一万の大軍を生かし、別動隊を組織し松尾城主・小笠原信嶺に先導させ天竜川上流の大島城攻略に向かわせた。大島城主はさして武功のない武田信廉が守る城だったがここでも三方を暴れ天竜と言われる天竜川の急流に守られた城から鉄砲や炮烙玉で迎撃され膠着してしまった。長引く攻城戦を見越して河尻は陣城の建設を別動隊に命じた。
*如月十四日*
ついに織田信忠を大将とする二万の本隊が岐阜城から岩村城に入った。ここで、信忠は落ち延びて来た森長可から木曽口先鋒の森隊が大敗した事を知り、安土の信長に援軍を乞う使者を出し、自軍は予定通り飯田城に向け出陣した。
だが、この本隊には森隊の死兵から装備をはぎ取った武田の透波が二十人程紛れ込んでいたのだ。
彼らは雪に覆われた険しい峠超えの最中に周囲の山賊を嗾けかまり(峠封鎖)を仕掛けたり、行軍の妨害をしていく。峠道は大軍であればあるほど縦長の行軍とならざるを得ない。大将・信忠、重臣・滝川一益らは影武者を配置し警戒をしているが、荷駄隊は炊事に使用するので、偽隊を用意していても隊内では容易にバレてしまう。透波は本隊がかまりを突破し峠を越え平谷宿に陣を敷いた十七日夜、野盗を手引きし荷駄を奪わせた。美濃や尾張の平地から来た織田の兵はここでも信濃の険しい峠超えに疲弊し、雪と寒さも加わり警戒は緩かった。織田側にとってはこの戦の敵は凋落著しい武田家ではなく、信濃の厳しい自然だったのだ。
信忠本隊が伊那街道を北上し河尻秀隆が籠る松尾城に入った十八日には兵糧に不安を抱える状態だった。
待望の援軍到来に歓喜した河尻隊だが、信忠本隊の有様を見て呆然とした。
援軍による食料補給を当てにしていたのに、逆に兵糧不足の兵二万を抱える事になったからだ。
これだけの大兵を収容できるほど松尾城は大きくはなかった。しかも、貴重な倉の食料も織田の将兵にとっては、僅かな雑穀に、見慣れない根、木の皮、虫の塩付け等、食べるのが苦痛になるような品ばかりだった。松尾城主である小笠原に城下での乱取りを命じたが、得られる食料は倉にある品より更に酷い物だと言われ河尻は途方にくれ、ついに信忠に撤兵を進言した。だが、若く血気盛んな信忠は受け入れようとはしなかった。
実は信忠には勝頼への強いライバル意識があった。信長の養女を正室にしていた勝頼は信忠にとっては義理の兄弟だった。年齢も十歳程度しか違わないのに自分は未だ実質的には嫡男、大して勝頼は五か国の太守である。この事実を思い出す度に信忠は忸怩たる気分になっていたのだ。
『あ奴から、全てを奪ってやる』
それが、信忠の心の内だった。
信忠本隊二万に河尻先鋒隊一万を加え総勢三万の大軍となった織田軍は大将・信忠と軍監・河尻、滝川が協議し、抵抗激しい飯田城、大島城を無視し高遠城を目指すことにした。兵糧に不安を抱えている以上、小城相手に長期戦となる包囲戦は時間の無駄と判断したのだ。
『勝頼の義弟である勇将・仁科信盛が守る高遠城を力攻めで落とす』
これが叶えば信濃の諸将は織田に降ると思われた。
【徳川軍】
織田軍が高遠城攻略を決めた同日、徳川家康は浜松城から掛川城に入り、二十日には駿河に侵攻田中城を包囲した。田中城では城将・依田信蕃が頑強に抵抗したので、陣城を築き一部の兵で包囲を続ける事にし、翌二十一日には駿河館に迫った。しかし、武田家正統後継者の座を約束する事で内応していた穴山信君からは何の連絡もなかった。駿河館は堀二重の平城で力攻めすれば容易く落とせる城だったが、穴山との内応の約束があったので、中々寝返りの連絡が来ない事に家康は訝しく思いつつも包囲を続けた。
*弥生一日*
大将・信忠が率いる三万の大軍は天竜川添いの伊那街道を抜け僅か十日で高遠城に迫った。
伊那街道は武田信玄が三河攻略に向けて整備した街道だが、皮肉にも織田軍の役にたった形である。
既に陣城を整備し、大軍で包囲した高遠城に、まずは降伏勧告を行った。信忠自身は直ぐにでも力攻めをしたかったが、ここは軍監二人の進言に従った。
だが、城将・仁科信盛は勧告を拒否し使者は耳と鼻のない死体となって返ってきた。
この使者、織田の兵ではない。高遠城下の寺の僧だ。地元の人間でさえも手に掛ける武田の野蛮さに織田の将兵は改めて戦慄した。
『斯様に野蛮な武田の山猿共は、一刻も早く賊滅せねばならん』
信忠は武田への憎悪を一掃強くした。
【関東の情勢】
如月初旬、甲斐から小山田が、上野から真田が、小諸からは武田信豊も武蔵に出陣した。また、下野の宇都宮と常陸の佐竹が武蔵東部に、安房の里見も下総に侵攻した。
小田原の北条氏政は織田・徳川の武田出兵を知ると武田領の駿河東部に向けて出陣したが、武蔵、下総に侵攻を受けていると知ると小田原に帰還した。
真田が上野から侵攻してきた事を知った鉢形城主・北条氏邦は迎え撃つため出陣したが、やがて、下野から宇都宮が忍城に、小諸から信豊が秩父に迫っていると知ると三方からの包囲を警戒し鉢形城に引き返した。
八王子城主・北条氏照は甲斐から侵攻してくるのが小山田のみと知ると迎撃のため小仏峠に陣を張ったが、やはり、三方から武蔵に侵攻を受けていると知ると、川越城主・大道寺政繁に鉢形城の救援を命じ、自身も後詰の為、八王子城に帰還した。
宇都宮は下野国内の北条方の城を次々と落とし、下総・関宿城を包囲した。佐竹も縁戚の結城らと共に関宿城包囲に加わった。関宿城は江戸湾や香取海に繋がる水運の要地であり、北条氏照の城代が主を務めていたが、北条が武蔵各所に侵攻を受けており援軍は見込めないと分かると降伏開城した。
その後、宇都宮は忍城へ、佐竹は家臣である太田の旧居城・岩槻城奪還に向かった。
上総から下総に入った里見は北条側の迎撃がないので下総の諸城を落とし、武蔵・江戸城に向かった。下総は長年北条と里見の係争地になっており、援軍が来ないのに里見に対峙する程北条に義理立てする城主はいなかったのだ。里見はまた水軍を使って江戸湾の封鎖と三浦半島への侵攻も図った。小田原の北条氏政はこの状況に玉縄城主・北条氏勝と共に里見迎撃に三浦半島と江戸城に出陣した。江戸城は名目上は氏政の隠居城だったから実質城主不在の状況だった。氏政は最早、甲州征伐どころではなくなっていた。
一方武蔵南部は北条氏照の差配地域だったから、岩槻城への侵攻に対応する為、八王子城に小山田への備えとして半数の兵を残し出陣して行った。
領土拡大、旧領奪還を図る関東諸将、それに対峙する北条方。
このような状況下で武田から武蔵に侵攻した各将は大きな迎撃に合う事もなく武蔵の各城下、豪農の家を襲い、略奪の限りを繰り返した。真田は厩橋城主・北条高広と共に本庄城、深谷城、松山城の城下を、武田信豊は秩父に侵入、寺社が多いの秩父盆地周辺の門前町を舐めるように荒らしまわった。小山田は八王子城下から相模の津久井城下を荒らした。
こうして、少なくとも如月下旬には北条領からの略奪兵糧が武田領内に届くようになった。久しく行れていなかった武田家のお家芸ともいえる略奪戦に領内が俄かに活況を呈してきた。この月中旬、浅間山が噴火し一円に火山灰が降り注いだ。火山灰は交通の妨げになったが、盗賊同然の武田軍にとっては逆に都合が良かった。交通に支障をきたすという事は物流が滞るという事であり、略奪者にとっては獲物の移動が減るので奪いやすくなるのである。浅間山は関東で信仰の対象であるが、今回ばかりは武田盗賊団に味方した形になった。
武蔵北部の最高権者・北条氏邦の元には、領内各所の噴火と略奪の被害報告や忍城からの救援要請が届いていたが、自身が城を開けると鉢形城下も襲われるのが分かっているので動くに動けずにいた。猛将で知られる氏邦にとっては忸怩たる思いだった事だろう。氏照の命で鉢形城の援軍に入っていた大道寺政繁は、川越城下が真田に荒らしまわられたと聞き、兵を率いて大慌てで戻っていった。真田は自前で透波を運用しており、敵軍の動向を察知し合戦を避けて略奪を行う事に長けていた。
後年の軍記物では北条の忍者として風魔が有名だが、実際の彼らは乱波と呼ばれる町の放火や夜襲を行うゴロツキ共であり、索敵など隠密性の仕事には向いていなかった。
*高遠城の戦い*
弥生二日、ついに織田軍大将・信忠は高遠城への総攻撃を命じた。
この高遠城の戦いのここまでの推移は正史通りだ。そして、この日、織田側が力攻めを開始する事も正史と何ら変わらない。
違うのは、木曾福島城、飯田城、大島城が未だ織田に降っていない事、高遠城に大量の炮烙玉があることだ。
軍監・河尻は飯田城で接敵した際の教訓から炮烙玉の脅威を説いたが、本隊の大将・信忠、軍監・滝川は一笑に付した。滝川は木津川口の戦いで村上水軍が使用した炮烙玉を体験していたが、大勝した戦での経験であり、取るに足らない話と判断しており、河尻の憶病ぶりを嘲る有様だった。
一方、守勢の仁科信盛は大量の炮烙玉を城内に所持していたが、勝頼からの指示で敵が力攻めを始めるまで使用を控えて来た。城下を焼き払われても耐えた。使者の僧を殺めたのも城内の様子が敵に漏れるのを警戒した為だ。
既に雪は止み、浅間山の火山灰が付近を舞覆っている中、織田の攻撃が始まった。高遠城は周囲を藤沢川と三峰川に覆われた要害の地である。織田軍は城下に設けた陣城から鉄砲を撃ち掛けると共に、大軍を利して川を渡り崖を登ろうとする。この時代の鉄砲では城下から高台にある城まで弾は届かないことは城兵も知っていたので、威嚇発砲に怯むことなく崖上から弓、鉄砲で渡河中の敵兵を攻撃した。やがて攻撃をくぐり抜け川を越え崖を登り始める兵が出てくると、城内の甕から汚物が投下され崖中の兵を悩ませた。織田軍の装備は田舎者の武田軍のそれを大きく上回っていたが、流石に三万の大軍の雑兵にまで金属鎧を着せる程ではなかった。しかも、渡川の後に崖登りという難行が待っている。織田方の兵は軽装備にし数で押し切ろうとしたのだ。
大いに奮戦した城兵だが兵数の差は如何ともしがたくやがて織田兵が崖上に到達し始めた。守備側は止む無く塀内に撤収する。この時代の城は石垣も漆喰壁の天守もない、現代人からみれば木造の砦である。信玄が整備したと言われる要害・高遠城も例外ではない。崖上の台地は近代の城に例えれば三の丸といった所だが、そこに登り終えた織田兵が一万程を数えた時、塀内から、鉄砲の射撃と共に炮烙玉の投擲が開始された、川を越え崖を登って来た織田兵は鉄砲を持ってはいなかった。城門を突破する為の丸太の引き上げに従事していた織田兵は城に背を向けている者も多く驚いて崖下に転落する者もいた。
大軍で台地を踏み鳴らし逃げ惑った事で、積もった火山灰が舞い上がり、粉塵に覆われいよいよ視界が遮られた織田兵に向け、塀内の櫓から射撃と炮烙玉の投擲が勢いを増し繰り返し行われる。やがて粉塵まみれの台地が爆ぜた。この爆発にはカラクリがあった。高遠城を決戦の地と見据えた勝頼は、この城に大量の火薬を集めていたのだ。勝頼から離心していた各城将達だが、木曽で大勝した事、伊那地域で武田が予想外に健闘していた事、北条領からの略奪物資が届き始め当座の窮状を脱した事が後押しし、勝頼の火薬召し上げ令に従った。もしも武田が勝利した場合、命令に従わなかったとなれば誅されるのは間違いなかったからだ。勝頼から離心している将は多かったが、各将で連携が取れている訳ではなかったのだ。
高遠城主・仁科信盛は大量に集まった火薬を勝頼の命により崖上の台地に降り注いだ火山灰の上に大量に撒いた。それから数日、降り注ぐ火山灰は火薬層おも覆い尽くし見た目では分からなくなっていた。つまり、この爆発は炮烙玉の爆発が火山灰直下の火薬に誘爆して起きたものなのだ。敵兵を殺傷する程の威力ではないが無力化するには充分の爆発力があり現代風にいえば対人地雷のような小爆発がそこかしこで起きているのだ。
高台の高遠城で爆発が起きたのを確認した本陣の大将・信忠、軍監・滝川は味方がついに二の丸城門を破壊したと判断し、二陣一万に追撃命令を発した。
この頃、福島城にいた馬場昌房が三千の兵を率いて深志城を経て高遠城下に迫っていた。全軍騎兵である。また、飯田城の保科正直、大島城の武田信廉も手勢を率いて天竜川沿いを迫ってきていた。織田方にも透破はいたが、視界が効かない中では地の利がある武田勢の方が有利だった。保科隊、信廉隊は鉄砲、炮烙玉、弓、槍を装備した足軽が主体で城下南の山麓にある清福寺に入り、馬場隊の到着を待った。
勝頼率いる本隊一万は上原城に入っていた。勝頼は史実と違い穴山が裏切らないと確信していた。となれば、家康の甲斐侵攻は大いに遅れる筈と判断していたのだ。
そして、史実通りに織田信忠を大将とする大軍が高遠城を囲んだと知った勝頼は、騎馬兵六千を率い救援に向かった。途中で深志から来た馬場隊と合流、総勢九千の騎兵となった本隊は視界を遮る火山灰を利用し川中島の故事・鞭声粛粛に習い織田方に気取られないよう静かに敵本陣の背後に迫った。
やがて物見に出した兵から織田の本陣が近い事を知った勝頼は、清福寺に射撃を始めるよう使いを出した。
清福寺からの射撃が始まると高遠城を向いていた織田軍は南に向き直り応射を開始した。織田本陣は陣城といわれる柵と屋根に覆われていたが、如何せん急拵えであり柵も屋根も高遠城からの攻撃を想定した物で四方を覆うにはほど遠い状態だった。清福寺への応射の為、陣城外に多くの兵が出て来た。視界が効かない彼らは清福寺が射程外であり敵の威嚇発砲である事に気付けなかった。
こうして南を向いた織田本陣は北から来た武田騎馬軍に完全に後ろを見せた状態だった。
再び出した物見によって、織田本陣が無防備に後ろを見せている事を知ると勝頼は全軍前進を号令した。武田軍の将には忠臣もいれば二心ある者もいる。そんな、複雑な事情を抱えた軍勢だったが、目の前に無防備な獲物がいるとなれば話は別である。しかも、大将は信長の嫡男・織田信忠なのだ。功を急いで我先にと突進した。
前方の敵への射撃に注力していた織田本陣は、突然、騎馬隊に背後を襲われ大混乱になった。無論、大将・信忠、軍監・滝川とも飯田城、大島城を放置してきた事を忘れてはいなかった。ただ、両城とも所詮は小城であり大軍の背後を突ける程の兵力ではないと判断していたのである。そこへ南の清福寺方面からの発砲があったので、これこそが飯田城・大島城の残兵の追撃と考えたのだ。実際、その考えは正しかったのだが、更に後ろを襲われるとは思っていなかったのだ。
この急襲により、織田本陣は総崩れとなり水野忠重、遠山友忠といった信忠配下の重臣が討ち死にし、大将・信忠、軍監・滝川、織田長益(後の有楽斎)らが捕縛された。多くの雑兵は四方へ逃げて行ったが険しい山や急流の多い信濃から逃亡することは容易ではなく多くが落ち武者狩りにあった。
一方、二陣として高遠城に向かった一万の兵は、突如始まった本陣の混乱に気付いたが、やはり視界が効かないので状況を理解できず、川中や崖途中にいるところを清福寺から回送してきた鉄砲隊、弓隊による射撃の的になった。また、虎口から先触れに入った武田兵により、城内に武田軍の勝利が伝えられると、崖上に出て来た城兵が弓、鉄砲による攻撃を再開、撃たれ、射られ、死亡する者、混乱に至って川沿いに逃亡を図る者、諦めて投降する者とやはり総崩れになった。二陣を率いていた毛利長秀は投降した。
【岐阜城】
織田信忠が総大将として信濃を進軍している頃、主と主力兵を送り出した岐阜城は、最早周辺に敵もいないので、斎藤利治を留守居として寡兵が詰めるだけの平穏に包まれていた。
そんな岐阜城下に油売りの行商が来ていた。昨年末に駿河館に忍び込んだ見分、というより盗賊一味である。彼らは既に岐阜城に数回忍び込んでいる。それにより、大まかな城内の見取り図と見回り兵の配置、そして宝物倉の在りかを突き止めていた。流石に大大名の本拠の一つだけあって倉は全部で三つもあった。今夜忍び込むのは最後の倉である。
因みに倉の周りに見張りの兵はいない。守備兵にも倉の存在は知らされていないのかもしれない。錠前を苦も無く外し、覗いた最後の倉の中も他の倉の中身と代わり映えしない物ばかりだった。黄金、銀、翡翠といった財宝、永楽通宝の貫、書物、書状、豪華な鞘に入った刀等である。ただ、この倉には甲州金が多くあった。織田と武田が同盟を結んでいた時代に流れた物だろう。例によって根こそぎ奪う事はせず、倉の手前側に財宝を残し錠前もかけ直し撤収した。彼らは、この後、尾張・清州城に向かう。また、浜松城にも別動隊が既に向かっており仕事をしている筈だ。
この武田家公設盗賊団ともいうべき一団は勝頼が放った者達である。後世の軍記物では織田家は兵農分離が進んでいる事になっている。兵農分離と言えば聞こえが良いが、要するに銭で雇われた傭兵の割合が多いという事だ。ということは、織田家の倉から財を盗み扶持の支払いに影響を与えれば兵力を減らす効果があるかも知れないと踏んだのである。
*弥生六日*
前日に安土城を発った六万の信長本隊は美濃・岩村城に入った。そこに勝頼から和議申請の親書が届く。その内容に信長は驚愕した。木曽口で森長可隊が敗北したのは知っていたが、織田信忠率いる先発隊が全滅したというのである。しかも、信忠、滝川一益、河尻秀隆、弟の織田長益が捕虜になっているという。勝頼は和議の条件として
・嘗て婚約していた信忠と義妹・松姫の婚姻
・人質として信長の弟・織田長益を甲斐に留め置く
・遠江の徳川から武田への割譲
・織田軍の侵攻による被害の賠償として一万貫文相当の黄金
を要求していた。
信長は蒲生賦秀(後の氏郷)に命じて事実確認を行わせると共に評定を開き、対応を協議した。
評定出席者は、明智光秀、細川忠興、一色義定、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政らだ。
評定では、信長直々に率いた六万の兵をもってすれば、森長可が敗れた福島城は勿論、信濃や甲斐を蹂躙し勝頼を蹴散らす事など容易いという事で一致していた。
唯一の問題は人質になった信忠、滝川らの存在だ。これまでの様に和議申請を無視して武田領内に侵攻すれば信忠の命はない。自身の後継者として着実に成長してきた信忠を犠牲にしてまで武田家を賊滅する価値があるか否かである。
殆どの家臣は信忠の命には代えられない。勝頼など放っておいても自滅する。という考えだったし、信長自身も同様に考えていた。勝頼の首に信忠を見捨てる程の価値を感じていなかった。この場で唯一異を唱えたのは明智光秀である。
彼は公家を通じて朝廷に働きかけ正親町天皇から「東夷武田を討て」との勅命を拝領し、今回の甲州征伐の大義名分を得る事に腐心していたのである。ここで、武田と和睦してしまえば、朝廷からの勅命を無視することになり、明智の面目は失墜することになるのだ。
評定は翌日も開かれたが、更に翌八日、蒲生配下の者が高遠城の戦いから落ち延びて来た織田方の雑兵数名を保護し、話を聞いた所、信忠本陣が騎馬兵に蹂躙され壊滅したとの知らせが届いた。蒲生賦秀本人もその兵達と話をしており、落ち武者達は皆流暢な尾張弁を話しており偽者の可能性はないと断言した。
これを受け、信忠は既に死亡しているのに勝頼が生存を装って来たか、本当に生存して捕虜になっているか、のどちらかだと結論付けた。
そこで、堀秀政を使者にたて、信忠らの生存確認の為の面通しを要求することにした。
*弥生十六日*
使者の堀秀政が上原城にて信忠他四名の生存を確認して戻って来た。
明智は全軍で上原城に攻め込み四名を取り戻すよう主張したが、上原城は落とせても四名を生きたまま確保するのは無理と判断された。尚も強弁する明智に激怒した信長が
『信忠を殺す気か』
と明智の頭を欄干に打ち付け強引に従わせた。
これにより、勝頼の要求を受け入れる事にし、和議承諾の使者として筒井順慶と丹羽長秀が上原城に派遣された。駿河の徳川にも一色義定を派遣し、武田と和議がなった事が伝えられた。
*弥生末日 甲斐・躑躅が崎館・武田勝頼*
漸く終わった。織田・徳川との和議がなり、何とか滅亡ルートを回避できた俺の率直な感想だった。ここ躑躅が崎館は名前の通り、躑躅が開花し始めている。
隣では妻が、
『お疲れ様で御座いました』
と労ってくれている。妻は北条の出だが、武田と北条が手切れになって以後も武田に留まり俺に尽くしてくれている。良妻の鏡のような女だ。
しかし、ここに至るまで綱渡りの連続だった。
・北条が軍記物通り城に籠ってくれるのか。
・徳川家康は”鳴くまで待とう時鳥”と謳われる程我慢強い男なのか。
何の確証もなく打った一連の手が上手くはまってくれた結果である。
木曽の病は偶然ではなかった。正月前に褒美に送った漬物は砒素や(六価)クロムに漬けた品だったのだ。どちらも一度に大量に摂取しなければ即効性のない毒な上、上質な漬物は自身で食べ続けるだろうと踏んでの策略だった。予想どおり、木曽は漬物を食べ続け徐々に徐々に体を蝕んでいった事だろう。穴山に送った漬物も同様な品だった。徳川が駿府館を囲んだ時、穴山が内応を表明しなかったのは、既に意識が混濁して出来なかったからだ。館内は突然倒れた主に騒然となり徳川への対応どころではなくなっていた。一方で穴山家臣の中には内応を取り次いでいた者もおり、当主がこんな状態でも徳川は約束を守るだろうか疑心暗鬼になっていたのだ。その結果、包囲する徳川に対し時間稼ぎの曖昧な対応に終始したのだ。
徳川家康が辛抱強い性格でなければ、駿河館を落とし単独で駿河を平定し、その後、甲斐に侵攻していただろう。その意味では上原城から高遠城に駆け付け信忠の背後を襲うまでは徳川の動向を気にしながらの時間との戦いでもあった。
ともあれ、武田側の条件を全て飲んで織田は和議に応じてくれた。遠江の割譲も信長が強引に徳川に認めさせた。浜松城の接収に朝比奈信置・信良父子が向かっている。高天神城には前年・徳川に攻められ敗死した元城主・岡部元信の子・真堯が、掛川城には武田譜代臣の家系で前年・高天神城から帰還した横田尹松が向かった。織田信忠は未だ府中にいる、松姫との婚礼の儀を来月諏訪大社で挙げ神輿行列で岐阜に戻る予定だ。滝川一益と河尻秀隆は織田に返した。ただ、河尻は対人地雷攻撃を受け足を負傷しており戦への復帰は叶わないだろう。
俺というか勝頼の統治に不満を抱えていた家臣達には岐阜城、清州城、浜松城から拝借した金銀玉で慰撫したので、少しは勝頼への忠誠心を取り戻せただろう。それに織田家からの多額の賠償金も大きい。これだけの資金があれば山野の多い武田領だから、歴史転生物の定番椎茸栽培も成功する筈だ。澄酒に蒸留酒も作れれば新たな交易品になるだろう。
それにしても、改めてこの勝頼という男は銀行員時代にも散々見て来た、典型的な二代目ボンボン社長だ。当人の記憶が流れ込んで来たからわかるが、長篠で負け、高天神城も奪われたと言うのに、本当に和議交渉の余地があると思っていたのだから呆れる。
和睦するには相手にも利がある状況でなければ応じてくれるわけがない。ましてや、信長の周りにはもう浅井朝倉も足利将軍もいなくなっている。石山本願寺も開城している。こんな状況で対等な交渉など出来るわけがない。無視されて当然だ。
実際、今回の戦の最大の重要点は織田信忠を生きたまま確保できるか否かにあった。もし、功を焦った将が信忠を討ち取ってしまえば、捕虜・信忠という交渉カードは用意出来なくなり、怒り狂った信長によって武田は賊滅されただろう。既に、両家の国力にはそれくらいの差があったのだ。
さて、残る懸念は今年六月に史実通りに本能寺の変が起こるかどうかである。本能寺については光秀謀反の理由が分かっておらず、単独犯説、朝廷黒幕説、家康黒幕説など諸説ある。だが、俺は甲州征伐を凌ぎ織田を撃退し和を結んだが織田領は全く切り取っていない。その意味では、織田家の状況は正史と余り変わらないとも言える。違いと言えば関東にいた筈の滝川一益が畿内に戻っていることくらいか。
今年の関東は浅間山噴火の為凶作確定だ。つまり、北条領に略奪に行っても余り得る物はない筈なのだ。六月に本能寺の変が起きる事を当てにして、関東勢を嗾け北条領に再び侵攻させ、武田本隊は美濃・尾張まで進みたい所だ。本能寺の際は家康も畿内にいる筈だから、三河も取れるだろう。
『起きよ、起きろよ本能寺!』
俺は諏訪大明神に心の中でそう祈念しながら、過酷だった転生後の五か月を振り返り、眠りに付いた。
武田ファンの皆様には恐縮ですが、今回の勝頼は暗愚の将として描きました。
しかし、武田勝頼って創作意欲を掻き立てる人物ですね。転生者出さなくとも、ちょっとifを入れるだけで未来変わりそうな場面がいくつも出てきます。これほど弄りたくなる人生を送った人も珍しいのではないでしょうか?
面白かったと思っていただけた方、
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