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Memento/Mori~キミと死と哀しみを~

作者: 櫻木 いづる

魂の価値を測るとしたら其れはどんなモノ?

人生に絶望した人間の前に、提示される選択肢。それはーー


 最初の印象は、痩せこけた野良猫のようだと思った。

 愛嬌を振りまき、餌を貰おうとすり寄ってくる意地もプライドもない生き方。

「くだ、さい……」

 色のない現実味の欠けた世界。

 感情の起伏の少ない真っ平らで地平線のような心が、僅かに反応を示したのがその言葉だった。

 人との関わりを拒絶し、馴れ合いを嫌い。

 上辺だけの笑顔など不要だと、虚ろな身体をただたた機械的に動かし生活をしていた。

 そんなある日――いつものように、公園で独りベンチに座り空を仰いでいたその時、


「ごはんを、ください……」


 弱々しく、今にも消え入りそうなほどか細い。

 庇護を受けなければ生きられないのだと訴えかける声だった。

「…………」

 目にかかる長めの髪のせいか視界は不良だ。

 それでも、今この目の前に佇む少女よりかは幾分かマシだろう。

 一目で判る。

 栄養が欠落し、痩せこけ骨が浮いた身体。

 もとは白かったであろうワンピースは汚れに汚れ、茶色なのか灰色なのか判別が難しいくらいの微妙な色合いだ。そして初春の季節の中でも、身に纏うにしては薄っぺらい衣服。

 それに、なんと言っても……。

「……。おまえ……」

 衣服の隙間からは、痣が見え隠れしていた。

(虐待、か……)

 問いかけずとも、容易に想像できる。

 こんな寒空の中、ろくに着る物も食べる物も与えて貰えていない。

 そんな姿を見れば、誰だって虐待を疑うだろう。

「ごはん、ありません、か……」

 拙い問いかけ。言葉を交わすことなく、ジッと少女の瞳を見据える。

 長く伸びた髪の隙間から覗く濁った瞳。希望もなく絶望すらも地の底に落ち、何も残っていないただの残り滓。そんな空虚な瞳の筈なのに、その時、確かに目が合った。

 そんな彼女を見た瞬間、立場は違えど『同じ』だと直感した。

「……。いるか?」

 食指が動かないながらも、買っておいたコンビニのおにぎり。

 ガサガサとビニール袋の中に手を突っ込み、いくつかのおにぎりの中から鮭おにぎりを掴むと、少女の小さな掌に置いた。

「おにぎりなら、食えるだろ」

「……。おにぎり?」

 まるで初めておにぎりを見たかのような反応を示した。

「まさか、食べたことないのか」

「……」

 少女は、コクンと首を縦に振る。

 そして頷いたかと思えば、おにぎりの包装を破ることなくそのまま口へと運ぶ。

「ハァ……、待て」

 疑うことも、躊躇うこともなく。

 口に入れようとするその手を思わず掴んで止めると、おにぎりの包装を外し、海苔を巻いてからおにぎりを少女に渡した。

「……!」

 包装を外した途端、香ばしい海苔の匂いを鼻腔が感じ取ったのだろう。

 おにぎりを口に運ぶと、強張っていた表情が破顔した。

「美味いか……?」

「……っ」

 一言、二言。

 千切れた落ち葉のように、淡泊な言葉を紡ぐ。

 それに対して少女は、おにぎりを頬張りながらもしっかりと頷く。

 余計なことは言わず。

 疎むような視線も向けられることもない。

 ただの犬猫に向ける情と似た感情だと言ってしまえば、それまでだ。

 そしてヒトに対して抱くべき感情でないことも理解している。

 だが、それでも――目の前の少女に対し、それと似たような印象を抱いていた。

 野良猫……或いは、捨て猫と言い換えても良いかもしれない。

 どちらにしても酷い感想だと自分でも思う。

 だが、面倒くさい奴らとの付き合いを思うと何百倍もマシに思えた。

「……落ち着けよ。まだある」

 一心不乱に頬張る姿を見ていると、何故だろう。

 口端が吊り上がる感覚を覚える。

 それは、自分と似た境遇を感じたからだろうか。

 それとも、自分より『弱い対象』を見つけた優越感からだろうか。

 どちらが本心なのかは判らない。けれど――、

「あり、がと」

 千切れた言葉。拙い言葉。

 簡素で淡泊な言葉の筈なのに……それが、他のどんな言葉よりも嬉しいと思ってしまった。

「どう、いたしまして……」

 薄汚れた野良猫のような少女に、心を奪われたのだ。

『朝の、ニュースを……伝え、……す……』

 ザリザリと砂を削るようなノイズ音。

 ブツブツと途切れた音の海の中から、耳は一つずつ音を拾い上げる。

 古ぼけたラジオが奏でるのは、不協和音。

 穏やかな陽気とは裏腹の、不穏なニュースが流れ出す。

『未明、……女性の――遺体、……キリ、さき……』

 今にも回線が千切れてお釈迦になっても可笑しくないラジオ。

 以前なら、この不協和音に耐えきなかった同居人が『早く直したら』と責っ付いてきたものだが、その人物も今はいない。

 飴色に変色したラジオの表面を指先でなぞりながら、俺は淹れたての珈琲を口へと運んだ。

「流石にもう、イカれたか」

 別に情報収集目的として買ったワケではない。

 ただBGMをたれ流す為だけの、コンポーネント代わりに使えれば儲けもの程度。

 機能性は重視しておらず、あくまでも惹かれたのはその外観だった。

 もともとはヴィンテージ物として出ていた品に一目惚れし、購入を決めたこともあり、その稼働総年数に至っては俺の歳など軽く超えている。

「壊れたのなら、それまでだ」

 あとは本来の目的の通り、ただの置物としてそこに在るだけでいい。

 価値は示せたのだから――充分に満足している。

「まだ、あと少し……」

 カチリカチリと一定のテンポを刻む時計に視線を滑らせる。

 早朝に目を覚ましたせいもあり、よりいっそう時間がゆっくりと過ぎていくように感じてしまう。

「……はぁ」

 再び、一口二口と珈琲を飲み込んでは、小さく息を吐き出した。

 背中を預けていた壁から離れると、そのままの足で別の壁に貼り付けてあるコルクボードの前に行く。そこには大小さまざまな紙切れが所狭しと飾られていた。

 写真、メモ、手紙とその種類は様々だ。だが、共通点はある。

「まだ……読める、な」

 それをしたためたのは同一人物だ。

 癖のある、やや丸みを帯びた字。非力のせいか薄い筆圧。

 そして、紙と文字のバランスを意識して書いたであろう内容の数々。

 なのに、紙の折り方は壊滅的に下手くそで、端と端がきちんと重ならなかったりしていた。

(几帳面なのか、大雑把なんだか……)

 ふとその人物の口癖を思い出し、思わず苦笑してしまう。

 一枚の写真をコルクボードから外し、見つめる。

 そこには天真爛漫の笑顔を向ける一人の女性がいる。

 愛おしくて、狂おしい。

「もう少しだ」

 写真を前に、静かに目を伏せた。


 ◆ ◆ ◆


 雲一つない空。

 それは広く高く、澄んだ空に世界を投影している。

 まるで穢れたモノなどこの世に存在していないかのように――。

「嫌な、天気だ」

 世の中全ての憂い事など、洗い流したかのような快晴に悪態をつく。

 そんなマヤカシなどいらない。

〝彼女〟がいない世界など全てが偽りなのだ。

「…………」

 一定の早さを保ちつつ流れる人の波。

 通勤、通学といった決まった時間に追われるヒトが大移動を始める中、その流れとは逆に動く人間が一人、いた。

 目に掛かるほどの、長めの黒髪に黒縁の眼鏡。

 中肉中背の容姿を、全て黒一色に纏めあげている――それは、まるでこれから葬儀でもあるかのように、どこか喪服を連想させた。

「ねえ、今朝のニュース見た? 男の子が行方不明なんだって」

 求めていなくとも情報それは耳に流れ込んでくる。

「可哀想……。誘拐かな」

「早く見つかるといいよねー」

「それにほら、殺人事件もあったじゃん。最近物騒すぎて出歩くこともできないよ」

 口々に飛び交う会話。それは男も女も関係ない。

 今、世間の注目を集めている事件。

 それは大きく分けて二種類存在している。

 一つは、青少年を中心に狙う誘拐犯罪。

 そしてもう一つは、無差別な連続切り裂き魔。

 そのどちらも共通点はなく、被害者の接点も見当たらない。

 いや、共通点と挙げられるものは無くはない。

 それは、この今の街中の状況が如実に物語っている。

 通り過ぎる学童の列。

 数人で固まって登校する学生。

 足早に道を行く女性。

 平時な世の中であれば、何気なく変哲のない光景に見えるだろう。

 だがそんなものをかなぐり捨てる必要があるほど、現状は逼迫していた。

 俗に、社会的弱者であるとカテゴライズされやすい対象――庇護しなければならないと認識されやすい子どもや女性。

 そんな社会的弱者を中心に行われている犯行ということが、唯一挙げられるような共通点だった。

「暗くなる前に早く帰りなさい。もし〝キリサキ〟に遭ったら……」

「〝キリサキ〟が捕まるまでは――」

「〝キリサキ〟に出遭ったら……」

「団体での集団下校をするように――」

 街行く人が口々に語り継ぐ〝キリサキ〟という単語。

 それは最近多発している事件が由来となっている。

 物騒だという言葉で一括りにできない程、今この街は侵されている。

 恐怖と不安と、疑心暗鬼。

 死と血の臭いに塗れていることに、気づかない者はいないだろう。


『速報です!』


 ちょうど、大型の交差点に差し掛かったその時だ。

 焦りを帯びたニュースキャスターの声が頭上から降り注いだ。

 そんな言葉に、各々携帯電話に目を向けていた人々の視線が一斉に同じ方向を仰ぎ見る。

 交差点の正面に据え置かれた巨大なデジタルサイネージ。

 その画面に映し出されているのは、最新のニュース番組。

 巨大なディスプレイ一面に映し出されているのは、飛び込んで来た情報を報道するニュースキャスターとどうやら現場らしき廃工場。

「またなの……?」

「もしかして……」

「今度はどこで……?」

 ニュースキャスターからの報道が進む度、周囲がざわついていくのを感じる。

 口々に湧き出た不安を口にし、まるで()()()のように棒立ちになりニュースキャスターの言葉に耳を傾けていた。

 その様は、端から見ると酷く滑稽だ。

 何か行動を起こすつもりもない。

 何か行動を起こせる筈もない。

 大切なヒトを失ってから識る絶望。それを識らない人間に、いったい何ができると言うのか。

 そうこうしているうちに、信号が赤から青に変わる。同時に人の波が一斉に動き出した。

「よい、しょっと。仕入れたばかりの新しい物はこちらに移して、残りは……どうしようかしらねぇ」

 薄暗い室内に響く一つの声。

 ズルリズルリと重たそうな袋を、青白さが目立つ痩身の男が、たった一人で運んでいる。

 その様は一見、裏の仕事を担う運び屋か〝何か〟を連想させることだろう。

「要望を言いつけてくるのはいつものことだけど。こっちの都合も考えて欲しいものだわ。カウンター料、多めに貰っちゃおうかしら」

 縁の薄い銀色の眼鏡をかけたその顔立ちは、中性的で眉目秀麗。

 色素の薄い長い髪を無造作に背中に流し、白いワイシャツとネイビーのベストという制服姿に身を包んでいる。

 その薄い唇から零れ落ちるのは、本音と建て前が複雑に絡み合った言葉。

 低いながらもよく通るその声で、先刻、一方的に連絡を寄越してきた無地の心友に対する愚痴が溢れ出す。

「――ああ、あったわ。『アンバーレイン』。これを注文してくるなんて、面倒な男。いったい何処で聞きつけたのかしら、まったく」

 琥珀の雨、という名を冠せられたその珈琲豆は特別だ。

 珈琲豆自体の大きさは通常の物より小振り。生産数も少なく市場に出回ったとしても買い付けられるかなど、最早運に任せるしかないほどだ。

 勿論、そんな珈琲を店先にひょっこりと出せるわけもない。

 これを出すのは、これからやって来る友人を想ってのことだった。

「ホント、憎たらしい。新鮮な(もの)しか口にしようとしないんだから」

 友人の顔を脳裏に思い浮かべながら、他の麻袋を一つ一つ所定の位置にしまっていく。

「まあ、顔は……悪くないけど。アタシのタイプじゃないけど?」

 外面は良いのかも知れないが、性根は最悪だ。根本からまるっきり、残念なくらいに腐敗しきっている。――いや。もしくは頭のネジがトんでいるのだろう。

(アタシとは違う方面で……)

 思わず、クスリッと妖しい笑い声が漏れる。


 カラン、カラカラン……!


 その時だ。店の上階から小気味よいベルの音が鳴った。

 こうして地下室に潜る前、店先には『CLOSE』看板プレートを下げている。

 だが、それを気にすることなく入店してくる客には限りがある。

「やれやれ、もう来たのね。空気の読めない男なんだから」

 両手に抱えられるほどの小さめの麻袋を一つ持ち上げると薄暗い地下室の階段を昇った。


「やっぱり貴方だったわね」

 予想通りの人物がいたことに、溜め息を吐き出す。

 いつも通りの時間。

 いつも通りの決まった場所。

 特等席、なんて言葉は不適切。

 その男は、まるでそこが自分の家であるような態度で其処にいた。

「いらっしゃい。〝名無(アノニム)〟」

「……。珈琲は?」

「地下から持ってきたわよ。……全く、いったい何処で聞きつけたのよ。アタシ一人で楽しもうと思ってたのに」

「そんなことはどうでもいいだろう。淹れてくれ」

「はいはい。贅沢者だこと」

 愚痴まじりのそんな口上はいつものこと。

 持ってきたばかりの珈琲豆を、鋳物で出来た珈琲ミルの中に人数分を注ぎ入れる。

 そして脇にあるハンドルを縦にグルグル回すと、中から粉砕された珈琲豆のパキパキと弾ける音が静かに響いた。

「いつもながら、面倒なことをしてるな」

「あら? 貴方も他の客みたいに電動ミルにしろっていうの」

「効率を考えるなら、な」

「でも、非電動の珈琲ミルも悪くないわよ」

「それは知ってる。ただ聞いただけだ」

「フフッ、そう」

 珈琲ミルから挽いたばかりの豆の香りが漂う中、ゆっくりと紙フィルターに粉砕された珈琲を入れてゆく。ふと珈琲豆の分量を思い出し、口を開く。

「……あのね、二杯分の珈琲に必要な豆の量って大体二十一グラムなのよ」

「……?」

 沸騰直前で止めたお湯をゆっくりと珈琲に注ぎ入れ、蒸らす。

 注いだお湯によって眼鏡がわずかに曇ると、それを外してテーブルの傍に置く。

「『お前』がやっていることについて、進捗はどうなのかと思ってな」

「…………」

 カフェの店長としてではなく『オーナー』の顔つきでチラリと〝名無し〟を一瞥する。

「別に隠す必要もないだろう。俺とお前の仲だ」

「……まだ、足りない」

「どこあたりの(パー)()だ」

 金さえ払えば不足しているのを補ってやる、と暗に告げながら珈琲の上にゆっくりとお湯を円を描くようにして回し入れる。

「まぁ、もっとも……すべてを手に入れ組み合わせてみた時――それで本当に足りる〝重さ〟になるのだろうか」

「……。なにが言いたい」

「聞いたことはないか? ヒトの魂の重さについて」

「……ああ」

 こちらが何を示唆しているのか、ようやく検討がついたようだ。

 その昔、〝魂の重さ〟を計ろうとした一人の男がいた。

 その男の名は、ダンカン・マクドゥーガル博士。

 科学、物理学、脳科学、果てはアニミズムと広域的な各分野で物議を醸した議題の一つだ。

 血液の冷却、発刊、皮膚の乾燥といった死ぬ瞬間から死後に至るまでに起こり得る様々な可能性を考慮した上でマクドゥーガル博士は、精密な秤を用いて計量しヒトが死ぬ瞬間に立ち会った際に変化した〝重さ〟を――肉体から離れた〝魂の重さ〟であると定義づけたという。

 それが、二十一グラム。

 ちょうど今淹れている珈琲豆と同じ分量だ。

「すべての材料を集めきったとしても、〝中身〟がなければ意味がないって?」

「そこまで言い切るつもりはない。だが、屍体(ネクロ)愛好家(フィリア)や屍体蒐集を生き甲斐にする好事家なんてのは裏の世界にはごまんといる。お前が作っているアレはもはや〝芸術〟の域だ。その手の奴らに売り払えば一生遊んで暮らせるぞ」

「……金に興味はない」

「だろうな。だが興味はなくとも、生者にも死者にも平等に、必要不可欠なものだ。世界のすべては金さ。その価値をお前がどう評価しどう扱おうが付きまとってくるぞ」

「…………」

 珈琲を淹れ終え道具類を脇に移動させると、名無(アノニム)の前に一杯の珈琲を置く。

 そして置いていた眼鏡をかけ直すと、自分用のカップに淹れた珈琲を手元に引き寄せる。

「今の貴方に何を告げたところで納得はしないでしょう。だから、今は話半分で聞いておきなさいな」

「……。……珈琲、冷めるぞ」

「そうね。……いただきます」

 そのまま二人で、一杯の珈琲をゆっくりと味わった。

 馥郁たる珈琲の香り。

 そしてまろやかな甘みと苦味がゆっくりと舌の上で溶けていく。

 言葉も感情もなにもかも、すべてを珈琲とともに飲み下した。

「それじゃあね、〝名無(アノニム)〟。もし売買に興味がわいたのなら売りにいらっしゃいな。良い値で買ってあげるわよ」

 去り際に、そんな言葉を投げられながらアンバーレインの残りの豆すべてを買い付けて、カフェから出た。

 そのままの足で、他に不足していた必需品などを買い足していく。

 財布から紙幣――硬貨を手にしては精算していく。

(金の価値、か……)

 内心、『オーナー』から言われた言葉を思い返す。


『興味はなくとも、生者にも死者にも平等に、必要不可欠なものだ。世界のすべては金さ。その価値をお前がどう評価しどう扱おうが付きまとってくるぞ』


 そうだろう。興味はなくとも理解はしている。

 金が世界のすべてを操っている。

 生きている以上……こうして物を食べ、寝て、欲を発散している以上、嫌でも最低限必要な額面というのは決まってくる。

 金の価値を蔑ろにするつもりはない。

 ただ、必要数以上に欲しいと思わないだけだ。

 今こうして生きていること自体、自分にとっては猶予期間に等しいのだ。

(金の力とやらで……アイツの(なかみ)の価値を買いたいくらいだ)

 だが残念ながら、そう上手くはいかない。

〝彼女〟はもう、金の価値とは無関係な場所にいる。

 買いたくても、この手が届かない場所にいる。

 だから……余計に悔しくて、歯痒くて、そんな自分が疎ましく思えるのだ。



 ピピッ、ピピッ、ピピッ……!

 必要なことをし終えて、住処に戻ってからどれくらい経っただろう。

 ソファに両足を投げ出し寝ていた俺の耳に、機械的なアラーム音が届いた。

「もう、こんな時間か……」

 いつも通りの時間。

 毎日、決まった時刻に俺は〝彼女〟に会いに行く。

 それは〝彼女〟の様子を確かめる行為(しゆうかん)であると同時に、〝彼女〟が目を覚ましてくれないだろうかと一縷の望みを抱いての『儀式』だ。

「…………」

 ソファから身を起こすと、厚手のジャケットを羽織る。

 何故ならこれから行く場所は、今の季節には不釣り合いなほど極寒を維持されている場所だからだ。

 外観は古ぼけた廃ビルで決して人は寄りつかない。仮に迷い込んだとしても、特定の道を辿らない限り決して奥には進むことはできない。有象無象のコンクリートの集まりが、人を阻み続ける。

 そんな複雑な構造をした建物の中を、俺は独り慣れた足取りで進む。

 誰からも忘れ去られたビル群の一角に、それは在る。

 わずかに開かれたビルの入口。そのすぐ脇に地下室へと続く階段がある。

 薄暗い闇の中――躊躇うことなく進むことができるのは〝彼女〟がこの先で待っているから。そして、〝彼女〟に逢うために幾度となく通い続けているからだ。

 地下室からさらに下層の最奥。

 真夏でも氷点近くを維持できるほど地下深くに作り上げた空間に、俺は足を踏み入れた。

 骨の髄まで凍らされるかのようなその空間は異質で、生命活動の危機すら感じる。

 だが〝彼女〟を維持するために必要なのだと思うと――そんな空気すら拒絶するどころか愛おしい。

 死へと誘う空気を胎内へと取り込む。

 勿論、生存を訴える本能は毎度警鐘を鳴らすが、そんなモノは無視する。

「……今日も、綺麗だ」

 部屋は、全てが氷の装飾品で出来ていた。

 燭台も家具も寝台も――その場所に在る全ては、刻を止めた彼女の為だけに作りあげた。

 美しい〝彼女〟が、かつて過ごしていたその瞬間を再現し、安らかに眠れるように。

 氷の棺に閉じ込めた、愛しい愛しい俺だけの(そん)(ざい)

 誰に見られることもなく。

 誰に傷つけられることもなく。

 俺の中の記憶と共に永遠を生きている。〝彼女〟がそう望んだように。

「……。今日も、変わらないな」

 氷棺の傍に腰をかけると、その中で眠る彼女に囁きかける。

「あの日からずっと、俺とお前の時間は止まったままだ……」

 数年前の冬の日を思い出す。

 あの日、俺は初めて人を殺した。

 愛しい人のために人を殺し――そして、そのままの手で〝彼女〟を連れ去った。

 もう他の誰からも傷つけさせたくなかったから。

「…………」

 雨が、降っていた。

 まるで彼女の死を悼むかのように、曇りだった筈の空からは止めどなく雨が零れ落ちていた。

「……(とう)()……」

 今でも鮮明に思い出せる。

 しとどに濡れた髪。

 青白い肌。

 一目で分かる、生きていないという証拠の数々。だが、そんなものは粗末事。

 薄暗い荒れ地に棄てられていた彼女は、それは酷い状態だった。

 最低限の衣服は着せられていたものの、その隙間から覗く四肢の損傷は激しかった。

 ある箇所の骨は折れ、歪み、皮膚を突き破っている、

 そして内出血のような死斑が、ところどころ目立っていた。

「酷すぎる……」

 何故、こんな凄惨な姿になっているのか。

 何故、こんな目に遭わなければいけないのか。

 ただ優しいだけの炵火が何をしたというのか。

 ただ生きていただけの炵火が何をしたというのか。

「――炵火、炵火炵火炵火炵火炵火炵火炵火炵火炵火炵火」

 まだ腐敗が進みきっていない、死後硬直化にある身体を優しく抱きしめる。

 今から炵火の後を追うなど遅すぎる。

 この心の中に宿った黒い炎を消す術などありはしない。

 その元凶をこの世から葬り去ったとしても――たとえ、彼女がそれを望んでいなかったとしても。だから、決めたのだ。

「いつまでも、一緒にいよう」

 かつて彼女が願った言葉を――遺言となってしまったそれを叶えよう。

 そう〝生きる〟ことを――それだけを糧に〝生き続ける〟ことを選択した俺の姿を彼女はどう思うだろうか。

 嗤うだろうか。哀しむだろうか。それとも……褒めてくれるだろうか。

「は……っ」

 そんなことを考えるだけで無駄で、そして、きっとどれも不正解。

 彼女……炵火はそんな人物でないことは、俺が一番良く識っている。

(だから、かつて炵火が望んだように……)

 ヒトとして、生きたいと。

 綺麗なままで、一緒にいたいと。

 涙を流しながら微笑んでいたその想いを、体現する。

 その手段が歪んでいようとも。

 その過程が間違っていようとも。

 もとの彼女となるように、治しきるその時まで――。


「使い物になればいいが……」


 つい先日手に入れた、新しい部位を箱から取りだすと丁寧に台へと置いた。

 それにあわせて一つ一つ〝処置〟にあった道具を見繕っていく。

 血管、神経、筋肉、骨がむき出しになったままのソレを、丁寧に修繕を施していくその様はまるで生き人形を造る職人のようだ。

 濃く血生臭さの残る部位も、今では随分と見慣れ目利きもできるようになった。

 どのくらいの物が炵火に相応しいのか。

 どんな処置を施せば、傷を目立たせなくできるのか。

 一目見ただけで、大方検討がつくほどになった。

「…………」

 一人きりの空間で、屍体を弄る音だけが響く。

 先日も『オーナー』にどんな作業か見せて欲しいと言われ、渋々見せたまでは良い。

 だが炵火の状態を見て以来、別の案件をやらないかと積極的になってしまった。

(炵火のこと以外はどうでもいい)

「炵火さえ、もとに戻せれば……」

 そう『オーナー』には言っているものの、あまり効果はなさそうだ。

屍体(エン)防腐(ヴァー)処理(ミング)ができれば、もっと綺麗にできるんだろうが……。いや、それはまた別物になるか……」

 ついぼやきながらも、修繕した部位を戻そうとしたところで、ふと思い出す。

『お前が彼女を治す理由はなんだ?』

 それは『オーナー』が此処に来た時に問うた言葉だった。

『まさか元通りにしたら生き返る、なんて思っていないだろうな』

『それこそまさか、だ。――そんなの、アイツが喜ぶわけがない。こんなまがい物の身体も、俺が炵火に対してしていることも全て――アイツが喜ぶはずがない』

 至極当たり前のことだ。

 どれだけ屍体を金で買っても。

 どれだけ似た人間を殺して屍体を繕ったとしても。

 それが〝炵火〟になることなどあり得ないのだから。


 ◆ ◆ ◆


 やるべきことをすべてやり、自分の住処へと戻ってきた。

 つい先ほどまで屍体に触れていたとは思えないような、細く綺麗な手指で肉と野菜類を切り刻み、コンソメで味付けをしトマトで煮込んでいく。所謂ミネストローネと呼ばれる簡素なスープを適当な皿に盛り付けると、買い置きしておいたバゲットを浸して口へと運ぶ。

 味はする……けれど、正直美味しいとは思えない。

 どんな味付けをしても、どんな料理を作っても、それが出来たてだろうが作り置きだろうが関係ない。

 炵火がいない世界で口にする物のほとんどは味気なく感じ、食指が進まない。

(食べないとアイツが怒るからな……)

 もとより食も細かった。

 けれど炵火と共に住み、一緒に料理をするようになってからは以前よりも随分と食べるようにはなった。だが炵火を失ってからというものの料理方面だけは逆戻りしつつあった。

『このスープ、粉チーズでも入れたらコクが出そうね』

 もし、この場に炵火がいたらきっとそんなことを口にするだろう。

 思わずそんなことを思い、フッと口許が緩んだ。その時、


『続報がはいってきました』


 テレビから聞き覚えのある情報か流れてきた。

 キリサキ。誘拐。新たな犠牲者。

 朝に報道していた内容の続きだろう。警察も躍起になって追っていることから、当然何かしら進展はあるだろうと踏んでいた。だが、それが『キリサキ』の尻尾を掴むような情報ではないことは、内心確信していた。

「……。痕なんて、残すわけがないだろう」

 誰に言うでもなく呟く。

 それこそまるで〝神が人を隠す〟ように――。

 影も形も、血も肉も、髪一本ですら残しはしない。〝ソレ〟が炵火となり得るものであるなら、尚更だ。

「中でも『キリサキ』と覚しき人物の特定に至ったと、一部の警察関係者から情報が入ってきており……」

 進展があったと語気を強めに、ニュースキャスターは口にする。

 チラリとテレビを一瞥すると、ちょうど画面がニュースキャスターの男から、番組のコメンテーターらの映像に切り替わった。

 老若男女。各方面から集められた専門家とやらが、口々に『キリサキ』という存在について憶測を口にする。まるで自分が正義の代弁者だと言わんばかりに、言葉という名の剣を振り翳す。

「…………」

 だが結局、耳を傾けてみれば誰一人として『キリサキ』の本質どころか〝目的〟すら理解できてなどいない。各々が勝手にヒートアップしては、同時期に発生している児童失踪事件についても言及してゆく。

 その様子を見つめながら、わずかに身の内に灯った黒い感情を理性で塗り潰す。

(特定? そんなことできるわけがない)

 それは決して、慢心からくるものではない。

 何故なら、警察の動きを此方は把握できている。

 世の中すべてが正義で成り立っているわけではない。

 光の中に影が生まれるように――正義を振り翳す中にも、闇はある。

 そう……汚職という名の『金』を積めばいくらでも情報を横流しする存在が――。

 用心しすぎるに越したことはない。冷静さを欠いていては目的の達成などほど遠い。

「邪魔はさせない」

 ポツリと、誰に言うでもなく呟く。

 けれど、ふと違和感を覚える。

 同時期に発生している誘拐事件。それは、自分が起こしたモノとは別件だ。

 だがまるで自分の行動と重ねるように、まるで隠れ蓑とするかのようだ。

「どこの誰だか知らないが、メッセージとして受け取ろう」

 素材(パーツ)の奪い合い。

 罪科の押しつけ合い。

 どちらにしても、早めにケリをつけるべきだろう。

 大切な存在を守り抜く為にも……。

「……調べて欲しいことがある」

 携帯を開くや否や、とある人物に電話をかけた。

 街が夜の闇の中に沈み、カラフルな電飾広告が街を彩り始める。

 より〝大人の色〟が濃く滲み出ている歓楽街。

 その区画は、休日前の夜ということもありいっそう人がごった返していた。

 昼間の繁華街とは別種の喧騒――所謂、売り子や呼び込みが横行する大通りをゆっくりとした足取りで進む。その目的は、居酒屋でもキャバクラなどでもない。

 大通りの脇に枝のように伸びる細い路地の一つに入ると、決められた順序どおりに店を回り、そして路地の最奥にある一軒のバーに辿り着いた。

 薄暗い路地の片隅に、ぽつんとオレンジ色をしたランプが妖しげに灯っている。

 滅多にないことだが、ただの一般人が迷い込んでくることもある。

 だが、その数はたかが知れている。

 そしてこの路地に辿り着いたとしても、その店に足を踏み入ることなくもと来た道を彷徨い戻るのが大半だ。

 それだけ、その店構えは異質で、不気味で、常人であれば絶対に足を踏み入るべきではないと警告を発する様相なのだ。だから、

「…………」

 そんな店構えに臆することなく足を踏み入れるのは、その店のルールに通じている人間たちだけ。――そう、〝名無(アノニム)〟とその名で呼ばれる自分でさえ、この店に入れるようになってまだ三ヶ月と経たない新参者だ。

 相応の場所には相応のルールを。

相応の人物には相応の場所を提供しているのが、この異質なバーだった。

「……っ」

 金属製の重い扉に手を掛けると一声。グッと力を込めてその押し扉を開けると、一気に噎せ返るような紫煙とアルコールの臭いが鼻腔をついた。

 思わず咳き込みそうになるのを堪えながら、入口から死角にあたる席へと真っ先に進む。

「ご注文は?」

「〝ニコラシカ〟」

 歩きながら注文を一つ。

「かしこまりました。……もう、おいでになっておりますよ」

「ありがとう」

(相変わらず……早いな。約束の時間より三十分も前に着いているんだがな)

 バーテンダーは会釈するとすぐに注文した品を作り始める。

〝ニコラシカ〟と呼ばれるその酒は特徴的で、正直、度数はなかなか〝可愛くない〟代物だ。

 だが〝ニコラシカ〟と呼ばれるその人物は、そんな物を諸共せずその酒を煽るのだからとんでもない。

 店の奥に行くと、そこには一際目立つ容姿をした一人の女。

 まるでワインで染めたかのような赤い髪。そして髪と同色のワインレッドのカクテルドレスに身を包み、切れ長の瞳を棚に並べられた酒瓶へと向けていた。

 だが、こちらに気づくや否や、すぐに薄い微笑みを浮かべ隣りの席に座るよう促す。

「はぁい。いい夜ね〝名無(アノニム)〟」

「相変わらず、予定時間よりも早いな。〝ニコラシカ〟」

「人を待たせるのは主義じゃないのよ。……いいじゃない。時間に無頓着な輩より」

「こっちも待たせるのは主義じゃない。これでも早く来たつもりだったんだが……いつもアンタより先に来られた試しがない」

 一体いつ、どのタイミングで来ているのだろうか。

 勿論、必要以上の詮索をするつもりはない。

 それは暗黙のルールであり、それを害する〝対象〟には相応の〝罰〟が下される。

 そんなことを承知の上で、藪を突くほど自分は愚かではない。

「……でも、貴方から連絡を貰えるなんて思わなかったわ」

「する予定はなかった。……けど、事情が変わった」

「フフッ、例の件でしょう? すぐに教えてあげてもいいけど、まずは一杯楽しみましょう」

 そういうと、〝ニコラシカ〟の視線がツイと正面に向けられる。音もなくそこに立っていたバーテンダーは注文をしていた〝ニコラシカ〟と称される酒を一杯ずつ彼女と自分の前へと置く。

「相変わらず、コレが好きなんだな」

「あら、素敵じゃない」

 クスクスと〝ニコラシカ〟は提供された酒を愛おしそうに見つめる。

〝ニコラシカ〟――それは不完全な酒と称されるような特徴的なカクテルだ。

 度数は高く、琥珀色のブランデーを主体に注がれ、グラスの上に輪切りのレモンと砂糖が載せられた、まるで帽子を連想させる姿をしている。

「不完全な物ってね――崩す瞬間が面白いのよ」

 今まで浮かべていた微笑とは別種の、蠱惑的な笑みが強くなる。

「〝情報〟を売り買いする奴が言うと……重みが違うな」

「フフッ、そうかしら。でも、貴方の〝覚悟〟が見合うのなら、何も問題なんてないでしょう」

 細い指がグラスの表面を撫で、そのまま持ち上げる。

 促されるように、俺もグラスを手にした。

(そんなもの、とっくの昔にできている)

 今更問われるまでもない。

「さあ。貴方の〝覚悟〟を見せて頂戴?」

「勿論。……〝ニコラシカ〟に乾杯」

「それで〝名無(アノニム)〟。この資料を見て得た貴方の印象はどうかしら……?」

 何杯目かのグラスをあっさりと空にしてから、徐に〝ニコラシカ〟は口を開く。

「いくつかは貴方が起こしたモノでしょうけれど……。ソレにわざとなのか、偶々なのか――事件が重なって起きているモノがあるわ」

「当然、わざとだろうな」

「あら、どうしてそう言い切れるの?」

「コイツの手際が……手順が、かつての〝俺〟を模倣しているからだ」

「対象はまったく別物なのに?」

「ああ」

 資料に添えられた事件の被害者。

 それらは幼い子ども達が中心となっている。

 そしてその〝処理〟の仕方も、事件の回数を重ねるごとに手際が良くなっていっているのにも腹立たしかった。

「貴方はこの資料を得てどうするの? まさか今更正義感に目覚めた、なんて世迷い言をいわないでしょうね」

「それこそまさか、だ。正義なんていうものは、この世にはない。あるのは金だけだ。……例え、望んでいなくてもな」

 そう。表裏問わず、世界の全ては金で出来ている。

 それが真理だ。

 資料の諸々を茶封筒の中にしまいながら、改めて〝ニコラシカ〟に礼を言った。

「――助かった。これだけあれば、充分だ」

「あら、もう良いの? 色々と貴方の意見を訊きたかったのに」

「そうやって引き出した俺からの情報を、また別の奴に売るんだろう? それにアンタには、もう答えが解っているんじゃないか」

「……さぁて、どうかしら」

 クスクスと妖しげにニコラシカは笑う。やはり、この女は抜け目がない。

「それじゃあ、俺はそろそろ帰るよ」

「あら……まだ呑んでいかないの? 美味しいのに、勿体ないわ」

「あとはアンタの好きなように呑んでくれ」

「フフッ、良いの? そんなこと言って……破産させてもいいのよ」

「……どんだけ丈夫な肝臓なんだよ。さすがに破産は勘弁してくれ。ほどほどに呑んでくれよ。せっかくの美人が二日酔いで苦しむなんで勿体ないだろ」

「あら、私二日酔いになったことなんてないわ。言わなかったかしら」

「……。どちらにせよ、ほどほどにな」

「はぁい」

 さすがに破産するほどまで呑んだりしないだろう、と苦笑ぎみに手を振りつつ、俺は店を後にした。


 ◆ ◆ ◆


 月も星も、闇の帳の中に閉ざされた、暗い昏い世界。

 それは、人知れず闇の中を闊歩していた。

 さながら、闇の住人だと云わんばかりに。

 さながら、獲物を探す肉食獣のように。

 ヒタリヒタリと音を殺し、人気のない雑木林の中を進んでいた。

「……っ、……ぅ」

 時折、闇の中に聞こえるのは、それとは別の、微かな息遣いのみ。

 けれどか細く短い間隔で吐き出される息は、すぐに闇の中に滲んで溶けていく。

 ザァアアア――――!

 その時、空をかき混ぜるかのような強風が巻き起こった。

 そのせいで光源となりうる月星が、ゆっくりと姿を現してゆく。

「……嗚呼。綺麗」

 普段なら、きっと舌打ちの一つでもしただろう。

 けれど、今この瞬間だけは、丁度良いタイミングだと思った。

 恍惚とした表情が、月明かりに晒されていく。

 憂いを帯びた眼差しが細められ、熱のこもった吐息と同時に言葉が零れ落ちた。

 その人物の手元には、目立つモノが二つあった。

 一つは、無骨で金属の板そのもののような姿をした、牛刀。

 本来であれば鈍色を宿しているであろうソレには、べったりと赤い液体がこびり付いている。

 そしてもう一つは、ヒト。

 まるで人形のように端正な顔立ちをしながらもどこか幼さの残る少年が、瞼を重く閉じたまま地面に横たわっていた。

「貴方は、ドコが良いかしら……?」

 言葉が次々と唇の隙間から紡ぎ出される。

「顔、腕、脚、耳、爪……ドコが良いかしら。ドコも綺麗、ドコも素敵」

 囁くように、笑う。

 歌うように、嗤う。

 それは既に〝壊れている〟のだろう。何度も同じ言葉をブツブツと呟く。

 

――パシュ……!


 それは、乾いた音を響かせて、突如空間を切り裂いた。

 あまりにも静かで、あまりにも唐突に発せられた異音。

 そしてその〝存在〟を視認すると同時に焼くような重い痛みが身体を犯す。

「ぎ、ぃ……」

「聲を出すな」

 不愉快だ、と言い切るより早く、再び乾いた音が数発鳴り響く。

 身体の底から命が流れ始めと同時に体勢を保てなくなると、どしゃりと地面に倒れ伏した。

 聲を出そうにも出せない――いや、出すことを赦さないと目の前に佇むそれは言葉なく見下ろしてくる。

(なんで……)

 誰もいなかった。

 誰も、誰一人いない。

 見つけた人間はすべて始末してきた。

 自分の欲しいモノを手にするために、尽力してきた。

 目的のためなら躊躇なく人間を殺した。

 欲しいモノを得るためなら隙ができるまで執着し、奪い、命のすべてを喰らい尽くしてきた。

 人間からヒトならざるモノになるために。

 なのに――――どうして。

「……っ」

 狩る側の人間である筈の自分が、どうして狩られる側にいる?

 どうしてこうも惨めに崩れ落ちている?

(そんなこと、あってはならない筈なのに……!)

 引き攣った呼吸を繰り返しながら、得物の柄に指を滑らせる。だが――、

 シュ……!

 殺人鬼(どうぞく)であるそれは目敏くわずかな隙すら与えてくれない。

「貴様のような奴が、存在していることが不愉快だ」

 殺人鬼(キリサキ)は、言葉を紡ぐ。

 口のきけない私の代わりに、苛立ちをそのまま言葉にした。

 他者を殺す。

 その過程は同じでも、結果は――目的は大きく異なっている、と。

「この世界から、消え失せろ」

 それが、末期に聴く言葉になった。

 薄暗い地下室。

 ひんやりと湿った空気に混じるのは、およそ嗅ぎ慣れた匂い。

 だがそれは、普段カフェで淹れている珈琲などとは雲泥の差。

 血と臓物、髄液と骨の混じった匂いは独特で、蠱惑的だ。

 そんな異質な匂いが充満する部屋の一角に無造作に置かれた革張りのソファに横になりながら、『オーナー』の貌をした男は、〝名無(アノニム)〟の口から語られた結末に低く嗤っていた。

「警察も哀れだなぁ。躍起になって捕まえようとしている存在が、もうこの世にいないんじゃあ……徒労にも程がある」

 縫う、解く。

 切る、刻む。

 結び、開く。

 そんな単調な作業を何度も繰り返す。

 人気の無い薄暗い部屋の中、チャキチャキと刃物が擦れる音だけが寂しげに響く。

 慣れた手つきで単調な作業を繰り返しながら、それでも〝名無(アノニム)〟にとってはよほど業腹だったのだろう。自らの手で始末した人物について愚痴を零した。

「なら、あのまま放置しておけとでも? ……冗談じゃない」

「随分と気に食わなかったようだな。かつての自分の手口を模倣されていたからか?」

「……それも、ある。だがそんなことよりも、これ以上邪魔をされたら正気が保たなくなる」

「ククッ、正気か」

 どの口がソレを言う、と『オーナー』は言葉を紡ぐ。

「愛した女の屍体を戻そうと、部品を集め続けているお前を、世間一般の人間が見たらどう思う? 正気だと思うか? ――いいや、真っ先に異常だと糾弾するだろうさ」

「なら逆に訊いてやる。正常なんていうのは、どんな基準で決めるんだ。精神の清廉さか? 嘘偽りなく告白する誠実性か? それとも、生まれてから一度も他人に対して害意を抱かないことか?」

 所詮、異常も正常も――他人の勝手な物差しで決めているだけのこと。

 そんな奴等に、糾弾される謂われなどない。

 そう言い切る〝名無(アノニム)〟の言葉に喉の奥から、更に笑いが零れ落ちた。

「ククッ、充分過ぎる答えだな」

「……。俺をからかうだけのつもりなら、出て行ってくれないか。店をほったらかしていいのか、一応〝マスター〟だろ」

「そんなつもりは毛頭ない。お前の〝技術〟を間近で見られる日に、店なんてやっていられるか。早々に切りあげるさ」

〝技術〟と評し――褒めたつもりが、あまり好ましくないようだ。

 どこか不機嫌そうな空気を醸し出したまま、作業に戻る〝名無(アノニム)〟を見つめる。

 愛した女を元に戻す。

 その一心で手を動かす様を神とやらが見たらどう評するのだろうか。

 魂のない空の肉体(うつわ)

 それを元に戻したところで、生き返る筈がないのは判っているだろうに……。

 それとも、そんなことすら判らなくなってしまうほどもう壊れているのだろうか。

「…………」

 革張りのソファから背を離すと、作業台へと近づき綺麗に解体されていくモノを見下ろした。

「〝眠り姫様〟のパーツとしては足りそうか?」

「数としては問題ない。質は、微妙なところだ」

「なら、また用があるなら声をかけてくれ」

 ポンと〝名無(アノニム)〟の肩に手を軽く置いてから、己はお役御免のようだと一人出口へと歩いて行く。表の依頼であれ裏の依頼であれ、〝名無(アノニム)〟とはそこそこ長い付き合いになってきた。

 満足のいく〝眠り姫様〟が完成するその時まで――付き合うのもまた一興だろう。

「それじゃあね、〝名無(アノニム)〟」

 懐から取り出した眼鏡をかけ笑みを浮かべると、そのまま音もなく地価を後にした。

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