下
その日の夜、空にはどんよりとした雲が掛かりながらも珍しく雨は未だ降らないでいた。
「もうすぐ梅雨が終わるね」
その日マスターは店内に入るなり言ってきた。
「そうなの?」
いつもは口数の少ないアヤがその日は珍しくマスターに聞いた。
「店先の立葵を見たかい? あの花はね、梅雨入りを合図に下にある蕾から順番に咲いていってね、梅雨明けのタイミングでちょうど一番上の大きな花が咲くって言われてるんだよ。さっき見たら後はそのてっぺんの蕾を一つ残すのみだったから今年の梅雨もあと少しなんだろうね」
知らなかった。店先にそんな花あっただろうか?
アヤはというと「ふーん」とマスターの話を聞き流した後、席を立ち言った。
「それよりおじいちゃん、前言ってたやつ準備どう?」
「あの配信ってやつかい?」
「そう」
アヤはそう言うと三脚やらケーブルを店内のあちらこちらに設置し始めた。
「いやおじいちゃん、いんたーねっとのことはよく分からんよ」
「誰もそっちは期待してないから。誰か出てみたいって友達いた?」
「それならおったよ。今までの常連さん達が口々に出たいって言ってくれてな。人数制限の関係で泣く泣く断ったバンドも何組かおるのが残念なんじゃけどな」
「貸しスタジオとかからオンラインでも参加できるし、そのバンドの人の連絡先教えて。参加の設定とか私が教えるから」
そう言うとアヤはノートパソコンのキーボードを叩きながらあれやこれやと画面の向こうの相手に指示を出し始めた。
マスターはというとどこかに電話をかけては懐かしそうに話し込み始めた。
何が起きているのだろう? そんな疑問を持つのも束の間に店に誰かがやってきた。
「おーうマスター。久しぶり。急に店を閉めるなんてどうしたよ? 水臭いじゃねぇか。もっと早くから言ってくれてたら俺たちで何か力になれたかもしれないのに」
色黒で太い腕を半袖から覗かせる屈強そうな男がギターケースを背負いながら店内にやって来た。
この人はOWLの昔からの常連で千鳥足でステージに立っては長渕剛のメドレーをエンドレスで弾き続ける岩藤さんだ。
「いや、まぁ遅かれ早かれ閉めようとは思っていたし、この時世もちょうどいいきっかけかと思ってな」
「そうかい? もったいない気もするがなぁ……でもまぁオンラインでライブを開こうなんてマスターも随分と洒落たこと思いついたもんだね」
「いやいや、それは孫のアイデアだよ。OWLの最後くらい華々しく音楽で送り出してあげようよ、って言ってくれてね」
「あのアヤちゃんもいつの間にこんなに大きくなったんだねぇ。いやぁ時が経つのは怖いもんだよなぁ」
そう言って岩藤さんとマスターは笑い合っていた。
オンライン? ライブ?
ふとアヤの方を見ると僕と目が合った彼女は一瞬だけ悪戯っぽく笑って見せてまた何か忙しそうに作業に戻っていった。
店内は何ヶ月、いや下手したら1年振りに賑やかさを取り戻していた。
と言ってもマスターやアヤを含めて15人程度。それも皆散り散りに客席に座るものだから多少のスカスカ具合は拭えない。
飲食は禁止。仕事終わりに駆けつけて来ているのであろう人などは疲れたりもしているはずなのに、みんなみんな笑顔だった。
お客さんが誰もいないOWLを望んでいたはずなのに、気付けば僕も笑っていた。
だってそこには久しぶりの再会を祝いながら、最近流行りの曲についてあれこれ語ってみたり、舞台端でチューニングがてら軽くセッションをしてみたり、昔懐かしいOWLがあったからだ。
ステージに縛られていながらも僕は動ける範囲ギリギリでステージの端から端へ移動してかつてのOWLを存分に堪能していた。
その時カウンターの裏でマスターをアヤは最後の打ち合わせをしていた。
「Twitterとかインスタで告知しといたんだけど……あぁ来てる来てるネットの方は220人だって。まぁまぁだね」
「220!? そんなのおじいちゃん捌けんよ?」
「いや皆勝手にアクセスしてコメントしてるだけだから別に捌く必要無いんだって。後は私が何とかするからおじいちゃんはみんなと一緒にOWLとお別れしときなよ」
「すまんな。アヤありがとう。19時からじゃから後10分か。なんか緊張するなぁ」
腕時計を見た後マスターは所在なげに自慢のオールバックを何度も撫でつけた。
そんなマスターを見てアヤも「そうだね」と小首を傾げ笑った。
その後少し聞きにくそうにマスターにまた声を掛けた。
「……ねぇおじいちゃん、今までさ死んじゃった常連さんとかいなかった?」
「何じゃ急に?」
「20代前半くらいでさ、色白くて髪はボサボサでいつも大事そうにギブソンを提げてた男の常連さん」
「めちゃくちゃ具体的じゃな。若い人でそんな人……あぁいや、ひとりだけおったな」
「嘘っ!? ねぇ誰? どんな人だった?」
アヤは身を乗り出し聞いた。
「どんな人って……いや、何でアヤがそんな人を気にするんじゃ?」
「いいから教えて!」
「そんなこと言われても、その人がアヤが生まれるよりずっと前の話じゃぞ? それこそちょうど店先に立葵を植えた年だからね」
マスターは困惑した様子で応える。アヤは目を丸くしながら僕の方を振り向いた。
「店の前の交差点で交通事故があったんじゃよ。ほれ、ここって入り組んでて見通しが悪いじゃろ? トラックが突っ込んできてな、ひとりの大学生が轢かれて即死じゃった」
アヤは気まずそうに僕を見つめる。
あぁ、そうだ。そうだったかもしれない。確かトラックに轢かれる寸前に感じたのは怖さよりも眩しさだったのだことを今、生々しいほどに思い出せた。
「その子はよく店に来てくれてな。と言っても誰かと話すわけでもなく黙々と酒を飲みながら他の人の演奏を聴くだけだったんじゃ……わざわざギターケースを提げてきていたし何度かステージも勧めたんじゃけど頑なに拒んできてな。どうにも恥ずかしがり屋の子じゃった」
あぁ、そうだ。そうでしたね、マスター。あなたはいつも僕に歌うことを勧めてくれた。
「だからわしはその子にこっそり雨の日に来ることを勧めたんじゃよ。雨の日はほとんどお客さんがいないからって」
騒がしい店内の中でマスターの言葉は3人だけの間で不気味なほどによく通った。
「あの事故の日、あの日は雨でな、その子から電話があったんじゃ。今日って誰かいますか? って。だけどその日は雨の日にしては盛況でな、そうやって教えてあげたら電話口の向こうでその子は露骨にガッカリしてたんじゃけど、少し間が空いた後『歌いに行ってもいいですか?』ってその子が聞いてきたんじゃよ。勿論、いいよ、おいでってワシも答えてしまったんだけど……それがいかんかったんよなぁ……あの時もっと別のことを言っていたら、いやそもそも雨の日に来ることをわしが勧めなければ……今でもずっと後悔しとるよ」
マスターはそう言ってガックリと肩を落としてしまった。アヤはと言うと聞いてはいけないことを聞いてしまったかのように僕とマスターに何度も目をやる。
違う。マスター違うんです。あの日僕は店の前まで来てやっぱりちょっと怖くなって店に入るのを何度も躊躇ってしまった。帰ろうか入ろうかそんな風に悩んでいる内に僕はひとりで勝手に死んでしまったんです。
マスターは悪くない。悪いのは僕だ。あの時勇気が出せなかった、一歩を踏み出せなかった。
そんな後悔を抱えてしまったから僕は今ここにいるんだ。
その時また窓の外では雨が降り始めた。
少しの沈黙の後、アヤは時計を見て「さぁ、ライブの時間だよ」と席を立った。
マスターに言ったのか僕に言ったのかは分からなかった。
「さて今日は、OWL Last live 〜コロナにこれでもかと言うほどに負けた件について〜にご来場頂き誠にありがとうございます」
アヤはマイク片手にそう言うと、マスターが「いや副題もう少し何とかならんかったかのぉ」と嘆きそれを見て客席に小さな笑いが起きた。パソコンの画面には「草」や「www」はたまた「888888」と言うコメントが流れていく。
凄い。昔のネットなんてピーガラガラガラなんて音を流しながら必死で接続して画像一枚開くのに数十分かかるのが当たり前だったのに。
そんなことを考えている間にもライブは滞りなく進行していく。
OWLのステージからギターの弾き語りを披露する人がいる。
どこかの貸しスタジオから流行りの曲を演奏するバンドがいる。
マスターは何人かの仲間と一緒にジャズをキメた。
ステージに縛られている僕はそんな演奏の数々を直ぐ隣りというより、もはや少し重なる形で聴きながら思った。
音楽って良いなぁ。本当に、本当に。
僕はある意味自分に、そして音楽に殺されたようなものだった。
音楽を知らなければ、OWLの店先で轢かれることもなかったし、梅雨のたびに辛うじて現れるような陰気な霊になることもなかった。
だけど僕は自分を嫌いになることは何度だってあっても、音楽のことを嫌いになったことはない。一度だって。
幽霊の僕が言うのも変だが恐らく一生無いだろう。またまた僕が言うのも変だが死ぬまでだって音楽のことは好きだと思う。
好きだから歌いたかった。嫌いになれないから伝えたかった。僕は……ここで……。
「いよいよ次が最後です」
アヤの声にハッと気付く。
「おいーもうそんな時間かよ!」「からのー?w」そんな声やコメントが響いたり流れたりする。
終わりを惜しむような空気にアヤはふと笑い言った。
「私だって残念です。出来ることならこんな時間がずっと続けば良いなとか思っちゃいます」
マイクはアヤの小さな溜息も拾っていた。
「だけどきちんとお別れしたいから私は今日このライブを企画したんです」
店内はシンと静まり返る。
「だから次の人で終わりにしたいと思います。皆さん今日は本当にありがとうございました!」
そんなアヤの言葉に店内からは「こちらこそありがとー!」「皆また会おうなー!」といった声があがりPC上では「(T . T)」「アヤちゃんお疲れ!」「次歌う人のハードルブチ上がりで草」と言ったコメントが流れていた。
「コメントの383番さん偉い。ハードル確かに上がってますよね」
アヤは悪戯っぽく笑う。
「だから最後は責任取って私がトリを務めますね」
そんなアヤの言葉に会場は一斉に脱力したような笑いが起こった。
「良いぞ! アヤちゃん!」「MC特権だよなぁ!」
そんな笑い声を受けながら、アヤはギターを提げステージに上がって来た。
店内の照明がそっと落ち、ステージ上に一筋のスポットライトが差すのみとなった。
照明の影になり少し分かりにくいが、こちらに歩み寄ってくる彼女は少し緊張しているように見えた。
「頑張れ」
応援するつもりでそう声を掛けるとアヤは不思議そうに返してきた。
「歌うのアンタなんだけど?」
「は?」
「は? はこっちよ。言っとくけどアンタが歌わないとこの空気マジ洒落にならないからね」
ステージの中央に立った彼女はそう言うと、慣れた手つきでチューニングを済ませていく。
「いや、歌うってどうやって」
「それは後で分かるから。とにかくアンタは、ほら……もっとこっちきて」
彼女はそう言ってステージの中央に手をやる。
「いや……だから前も言ったけど……」
戸惑う僕を無視して、彼女はギターをかき鳴らし始めた。
聴き慣れたイントロ……僕の曲だった。
「私をアンプだと思ってさ、最後くらいちゃんと歌ってみなよ」
彼女のギターは挑発するように歌う。イントロが響く。僕の曲が僕自身を追い立てる。
ただ何かに導かれるように僕はスポットライトが差すステージの一番真ん中に立った。
幽霊の僕とアヤの体がそっと重なる。その瞬間、幽霊になって失っていたはずの感覚が稲妻のように全身を駆け巡る。
照明がジリジリと僕の身を焦がした。アヤに向けられているはずの人々の目は只真っ直ぐに僕を貫いた。肩から提げたギブソンは怯える僕をその場から動けなくするほどに重たくなっていった。
熱い、怖い、逃げたい……。
そんな感情に支配されながら、それでも気付けば僕もアヤと一緒にギターをかき鳴らしていく。
少し長めのストラップが好みの僕と、胸元で弾くアヤのギターはちょうど高さがぴったり同じで、最初は互いに軌跡をなぞるだけだった僕たちの指先はやがて一寸の隙間も無いほどに重なっていった。
音楽を通じて僕たちは一つに溶け合っていく。
彼女の考えていることは僕の考えたいことで、哀しみや苦しみはもう僕だけのものじゃなかった。
『聴いてください』
僕と彼女の声が重なる。
『梅雨のちに』
僕のそして彼女のいっとうお気に入りの曲だった。
ティアドロップピックを6弦から1弦に滴り零していく。泣き声みたいな歪な音が鳴る。
何滴も何滴も垂らしたら、泣き声はやがて僕らだけの音楽になった。
僕たちはただがむしゃらに、死ぬほど伝えたかった想いをただ叫んだ。
独りじゃないから。
僕はいつもそんな曲ばかり書いていた。
そしてそんな曲を作った後、大抵そのあまりの陳腐さにほとほと嫌気が差して布団にくるまりいつまでも不貞寝した。
だけど今確かに思う。
陳腐だろうが何だろうが、人は皆やっぱり独りじゃないのだ。
幽霊がそんな歌を歌っているんだから間違いない。
聴こえるかい?
四畳半のボロ部屋でひとり、誰にも聴かせる予定のない曲を書いている君に届けたくて僕たちは今ここから歌ってる。
本当はもっと、雨の日も晴れの日も、朝も夜も、春から冬も、いつもずっと歌っていたかったけど今夜がきっと最後になりそうだ。
ごめん。
ありがとう。
曲が終わった後、僕は体が軽くなるのを感じた。アヤの体がスーッと堕ちていく、いや僕がゆっくりと地面から離れているのだ。宙空でどんなに足掻いても、もうステージには戻れそうにない。少しずつ全身の感覚が空気中に混ざり合っていく。そこには痛みも苦しみもなくてただ緩やかな心地よさだけがあった。
アヤは一度もこちらを振り返らない。黙ってタバコに火を点ける。
会場の誰かが聞いたのだろう。アヤは少しはにかみながら「でしょ? 私もこの曲好きだったんだ」と答えていた。
僕はそっと目を閉じる。
遠くに響く雨音は拍手みたいだ、そんなことをふと思った。
雑学に因んだ物語を何編か書いています。
興味ある雑学あれば是非読んでみて下さい。