中
「吸っていい?」
タバコを取り出しながらアヤは聞いてきた。
「あまり目の前で吸われるのは好きじゃない」
「死んでるからいいじゃん」
悪戯っぽく笑いながら、それでも彼女はタバコには火をつけずそっとしまってくれた。
派手な見た目とは裏腹に案外優しい子なのかもしれない。そんなことをふと思った。
霊感がある彼女曰く僕はぴえん系の幽霊らしい。
「死にたくなかったのに死んじゃってぴえんみたいな。まだ死んでることを受け入れられてないから自覚ないんだよ」
「ぴえんって何?」僕はそう聞くも「ぴえんはそのままぴえんじゃん。分かるでしょ?」と呆れたように返された。いや分からん。
「おまけに生きてる内にどうしてもこの場所でやりたいことがあったんだよ。だからこうやってここに縛られてる」
「その言い方なら少し分かるかな。要するに僕は地縛霊ってこと?」
「そうそう。どうせ生前はOWLしか勝たんとか思ってたんでしょ」そう言って彼女は笑った。うーん、やっぱり分からん。
頭を抱える僕を見て彼女は少し意外そうに言ってきた。
「結構聞き分けいいんだね」
「いや、ぴえんとか勝たんとか全然分からないけど」
「そうじゃなくて。自分が既に死んでるって言われてさ、その割にけっこー冷静じゃない? もっとパニックになったりする人……というか霊もいたりするのに」
冷静……確かにそうかもしれない。少なくとも泣いたり喚いたりと言った気持ちはちっとも湧いてこなかった。
「……なんとなく違和感はあったんだ。誰にも話しかけられたことないし、マスターはどんどん老けていくし」
「そんな状態を逆によく違和感程度で済ませられてたね」
半ば呆れたように言われた。
「どうでも良かったんだよ。自分が生きていようが、死んでいようが。とにかく僕は梅雨の間に一曲でも多くの曲を歌いたかったから」
僕の言葉に彼女は不思議そうに「梅雨?」と首を傾げた。カラフルな髪が揺れる。
「どうして梅雨なの?」
まぁ確かに引っかかるだろう。
「いやぁ、それは……」
彼女は何も言わずじっとこちらを見てくる。
少し悩んだ。だけど何だろう。アヤの瞳には不思議な魅力があった。まるでもう既に見透かされているかのような……まぁ実際幽霊の僕は透けて見えているのかもしれないけど。
僕は全てを話した。
人前で歌うのが恥ずかしくて堪らないこと。下手だと思われるのが嫌で嫌で仕方ないこと。だから誰もいないこの梅雨時期にだけ歌うようにしていること。
今まで誰にも話したことなんてなかったのに、話してみると案外スラスラと言葉は出てきた。幽霊になってからというもの実は妙な人恋しさのようなものが溜まっていたのかもしれない。
バカにされることは覚悟の上だった。だが意外にも彼女は笑ったり蔑んだりもせずただ黙って僕の話を聞いてくれた。
「梅雨の時期以外はどうしてるの?」
「あんまり意識がないんだ。幽霊に意識も何もないかもしれないけど、眠ってるみたいな感覚が近いかも。梅雨が明けた後お客さんたちが戻ってきたら自然と消えちゃうというか、店の賑やかさを遠くに感じながら僕はまた次の梅雨を待ってるというか」
「場所だけじゃなくて時間にも縛られてるタイプの霊なんだ」
アヤは一人納得したように呟いた。
「なんか皮肉だね。今の幽霊さんってもう人目を気にしなくていいから、一年中だって歌っててもいいのに」
確かにそうなのかもしれない。だけど僕は……
「いやそれでも僕は人前じゃ無理だよ。やっぱり歌えない」
「どうして?」
「恥ずかしいからだよ」
「私みたいに霊感ある人以外にはあなたは存在すら気付かれないのに?」
「誰かの視線が僕の方を向いてるだけで喉がギューっと縮こまるというか……」
「……幽霊さんって時間とか場所だけじゃなくて自分にも縛られてない?」
呆れたように言われた。
返す言葉がない。自縛霊とでも言おうか。情けない限りだとは思う。
そんなことを考えていると突然彼女は一歩こちらに歩み寄り聞いて来た。
「ねぇ、いつまで幽霊してるつもりなの?」
「え?」
たじろぐ僕を尻目に彼女は続ける。
「あなたはこれからの梅雨ずっとそうしてるつもり? 」
「何? どうしたの急に」
「きっとあなたって人前で歌えなかったことが後悔になってずっとここに縛られてるんだよ。ねぇ、何とかしたいとか思わない?」
彼女は咎めるように言ってきた。
「何とかしたいって……僕はただここで歌っていられたらそれで充分だよ」
僕の言葉に彼女はちっとも腑に落ちない表情でまた何か言いかけたので
「死んだこともないくせに分かったようなことを言うなよ」と思わず怒鳴ってしまった。
「人前に立つのが死ぬほど苦手な人だっているんだよ。馬鹿みたいに派手な君には分からないかもしれないけど」
僕は赤や黄色に染められた彼女の髪を見ながら吐き捨てるように言った。
「僕はずっとここでひとりで歌っていられればそれでいいんだ」
そんな僕の言葉に呆れるわけでもなく、腹を立てるわけでもなく彼女は黙って僕を見つめる。
髪色に負けないほどに目を赤く充血させたと思ったら彼女はそのままそっぽを向いて店の奥に帰っていった。
今思えばあの時の僕はどうして気が付かなかったのだろう。
彼女は最初に予感した通り、派手な見た目とは裏腹にやっぱり優しい子だったのだ。
あの後、店に帰ってきたマスターは
「急だけどこの店、来月で買い手が見つかったんだ。こんなご時世にも関わらずありがたい。だからアヤ、もう無理して手伝いに来なくていいからな」と言った。
アヤは何も答えない。店の奥の席にふてくされたように座りながら黙ってタバコに火をつけた。
ゆらゆらと白い煙が立ち昇っていく。その煙は右に左に天使の羽衣のように舞い上がった後、白熱灯の灯りを儚げに映しながら昇って消えた。
明くる日も明くる日も雨だった。
だけどもう、どうしても歌うような気分にはなれなかった。
『この店、来月で買い手が見つかったよ』
頭の中でマスターの言葉が繰り返し響く。
ここがもし失くなったら僕はどうすればいいのだろう。
OWLの後もここはミュージックバーになるのだろうか。誰かお客さんが来るようなお店になるのだろうか。それともまさか貸し倉庫みたいにはならないのだろうか。ネズミ達を相手に僕はいつまでも歌い続けるのだろうか。僕は歌い続けられるのだろうか。歌うのを辞めた僕には何が残るのだろう。僕にはもう何も何もないのに……。
僕がどんなに底知れぬ絶望に苛まれていようと、OWLではまるでいつも通りに日々が過ぎていく。
マスターはあくびを噛み殺しながらグラスを拭いている。アヤはというとスマホを弄っては何やら難しい顔をして考え込んでいた。
OWLはまるで変わらない。待ってくれたりしない。
季節だけが移ろい変わっていく。
窓の外を見ると雨は降ったりやんだりを繰り返すようになった。
そう言えば近頃妙に眠たくなることが増えた。梅雨明けが近づいているのだろう。
そうすれば最後、僕はまた次の梅雨を待つことになってしまう。
今、僕には何かしなければならないことはないのだろうか?
その答えは案外、梅雨前線を押し上げていく季節風の中にあるのかもしれない。