上
立葵という花は別名『梅雨葵』とも呼ばれ、梅雨入りの時期に根元に近い方の蕾から花を咲かせ、梅雨明けと同時に茎の一番てっぺんの蕾が花開くと言われている。
いつまでも降り続く雨は、僕にとっては都合が良かった。
どんよりとした外の雨空と対照的に僕の胸の内側はどんどん澄み渡っていく。
窓を叩く雨音は「出て行け、出て行け」と煽ってきているようにも聞こえたが、もうそんなのはどうでもよかった。
ここに立つために、僕は1年も待ったのだ。
ひとつ息を整えた後、真っ暗なステージの上から、僕はこの梅雨最初の一曲を響かせた。
町外れにある、ここ『ミュージックバー OWL』は見通しの悪い立地のせいもあるのだろうか雨の日は露骨に客足が遠のく。まして最近は何やら悪い病気が流行っているみたいでお客さんが0人ということも珍しくない。
オールバックの白髪がトレードマークだったマスターも最近は髪を下ろしいつも退屈そうに店内の掃除ばかりしている。
もう、ゆうに還暦を超えているであろうマスターの溜息をつく姿は見ているだけで気の毒だったが、反面そんな状況は僕にとってありがたくもあった。
僕は人前で歌えない。
恥ずかしがり屋でもあり、自意識過剰でもあり、様々な要因が複雑に絡まってそうに見せておきながら実は単純に下手と思われるのが嫌なだけだったり……とにかくそんなこんなで僕は生まれてこの方一度も人前で歌ったことがない。
勿論こんなに執着していることから分かる通り歌うこと自体は好きだ。人生の好きなものランキング2位の母親手作りの餃子に大差をつけて「歌う」ってことは堂々の1位にランクインしている。
好き過ぎて作曲の真似事なんかもした。10歳の頃から22歳の今日まで暇さえあればギターを片手にあれやこれやと曲を書いてきた。その結果、細かいものを含めればオリジナル曲数はザッと100は超えてくる。我ながらよくもまぁ暇だねぇと半分呆れる。
だけどその曲を聴いたことある人を数えるなら片手も要らない。人差し指1本で良い。親にすら聴かせたことがない。僕は作曲者でありそれらの曲の唯一の聴き手でもあった。
歌いたくないのか? 聴かせたくないのか? そう聞かれると困る。
怖いのか? そんな風に聞いてもらった方が素直に頷ける。
うん。とても怖い。
繊細なんだと言い聞かせていた自分の声も人にはしゃがれた蛙みたいな声に聴こえるかもしれない。
自分の琴線に触れる詞が書けたと思っても、人にはまるで陳腐な駄曲に聴こえるかもしれない。
才能の種すらも無い、そう言われるくらいなら僕は人前では歌わないようにしたい。
ずっとそんな風に考えてきていた僕にとって、梅雨時期のOWLはまさに天国だった。
ステージの上から客席を眺める。少し広めの店内では二階席まで用意されているが、カウンターで退屈そうにグラスを拭くマスター以外には誰もいなかった。
誰もいない。僕にはもうここしかない。
梅雨限定のワンマンライブ。チケットは1枚も捌けなかったんだ。
そんな風に嘯きながら、自嘲気味に笑いギターを弄る。
次はどれを歌おう。悩む、悩む。梅雨が終わるまでに歌い切らなくちゃいけない。
後悔がないように。
どんな激しい雨音にも負けない声量で僕はまた歌った。
※
あくる日も雨だった。
今年の梅雨はずいぶん僕に優しいらしい。
いい子だね。好きだよ。
梅雨前線に愛を囁く奴なんて僕か農家くらいだろうな。
連日の雨に僕は少し浮かれていた。
はやる気持ちを抑えながらチューニングをしていると「チリンチリン」と店の来客ベルが鳴った。
入り口に目をやると赤や青、黄色がグラデーション調に入り混じる派手で丸いボブヘアーが見えた。暗い店内でもその髪色ですぐ分かる。
今日もあの子、来ちゃったんだな。僕は小さく溜息をついた。
彼女はこの雨続きの日々の中で唯一やって来るお客さんだ。派手な見た目と相まって、すっかり覚えてしまった。お客さんは居なければ居ないほど歌いやすい僕にとっては一人増えるだけでも結構大事件なのだ。
と言っても本当にお客さんなのかどうかは分からない。
ちなみに僕はあの子のことを幽霊なんじゃないかって思っている。
だってあの子がやって来てもマスターは特に何も言わないし、あの子もまた誰に話しかける訳でもなく店の隅の席で気だるげにタバコを吸いながら手元の箱なのか名刺入れなのかメモ帳なのかよく分からないものをなぞるだけ。当然僕の演奏も聴こえてはいるはずだが特に反応はない。
紫煙の奥で揺らめく彼女のつまらなそうな顔はお面を被っているみたいにいつも変わらなくて、だからまぁ幽霊なんだって思えば何となく辻褄も合うように思えてきて……って、あんな派手なボブヘアーの幽霊なんかいないか。
自分のツッコミに思わず吹き出してしまった。慌てて口を抑える。
聞こえちゃったかな、と辺りを見回すとマスターは相変わらずグラスを拭いているだけだったが、彼女はというとやはり気だるげにだけど真っ直ぐにこちらを見返してきていた。
※
梅雨も半ばに入ったのだろう。雨脚が少し強くなった。
空は今、帰らなければならない日を想い涙を流すかぐや姫のように一晩中雨が降る日々が続いていた。
ただ過ぎてゆく日々の中で、僕の胸の内には焦りだけが募っていった。
梅雨が終わる。終わってしまう。
それは僕がこんな風に歌える日々が終わろうとしていることを意味していた。
無論、こんなのは毎年のことな訳で梅雨が終わればまた次の梅雨を待つだけだった。
まったくいいかげん慣れてもいいのに。僕は毎年毎年御多分に洩れずこんな風に不安になってしまう。今年もこれでいいのかなって。来年もまた同じことを繰り返しているのかなって。
そんな不安を僕は曲に乗せて歌う。何小節も何小節も繰り返し歌う。
自分で言うのも何だがそんな不安が僕の曲にはちょうど程良いスパイスになっている気がしないでもない。
そんなことを想いながら僕は今夜もOWLで祈る、歌う、叫ぶ……。
「ちょっと出かけてくるよ」
不意にマスターはそう言うとカウンターを離れた。前掛けのエプロンを外しながら「アヤ。誰か来たら適当によろしく頼む。まぁどうせ誰も来ないだろうけど」と店の奥に声を掛ける。
アヤと呼ばれた例の派手髪のあの子は隅の席から片手を上げてぶっきらぼうに応えた。
幽霊じゃなかったんだな。
知らなかった。あの子ってマスターの知り合いだったんだ。それも話し方から察するにかなり親しい。バイト? いやそれなら流石にあの態度は咎めるだろう。親子? そういえば何となく面影を感じないこともないが歳の差的にはお爺ちゃんと孫って関係性の方がしっくりくる。
そんなことを考えているうちにバタンと扉の閉まる音が響いた。どうやらマスターは本当にどこかに出かけてしまったらしい。
店内には僕と派手髪のアヤ、二人きりになってしまった。
ほんの少し……いやだいぶ気まずい。
幾ら常連だからといってこの扱いはあんまりじゃないか? 客として数えられていないみたいで普段はあまり怒らない僕でも流石に多少の腹立たしさは感じる。
まぁもういいやと気を取り直し、いつもみたいに歌おうとしたその時、ふと視線をやるとあの派手髪のアヤが隅の席から立ちまっすぐこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
なんだろう。何か気に障るようなことしてしまったかな。
瞬時にそんな発想しか浮かばない自分に幾許かの情けなさを感じているうちにアヤはあっという間に目の前までやってきてしまった。
「なっ、何ですか?」
僕の声は情けなくも裏返る。
アヤはそんな僕の様子に少し呆れた様子で溜息を吐く。
「ねぇ、いつまでそこにいるつもりなの? 幽霊さん」
幽霊。アヤは僕を見ながら確かにそう言った。
上中下と三部構成で終わらせるつもりです。
梅雨明けには間に合いそうにないので未完ではありますが見切り発車で投稿します。
もし良かったら最後までお付き合い頂けると幸いです。
また、他にも雑学に因んだ物語を何編か書いています。
興味ある雑学があれば是非読んでみて下さい。