小話:それはまだ先の話
駄目にしてしまった魔力測定の魔石が完成した後も、リクスはアライシュの家に通っている。それは魔石の魔術師として教えを受けたり、共に研究したり、恋人として過ごすためだ。
一度、アライシュから一緒に暮らさないかと誘われた。
「リズ、わざわざ通うくらいなら、一緒に暮らさないか」
「え?」
突然の提案に、リクスはきょとんとしてしまう。アライシュの顔を見れば、なんの気負いもなさそうだった。
アライシュは、どうもリクスのことをうっかりし過ぎだと思っている気配がある。それで心配して、こんなことを言い出したのだろうか。リクスはこれでも、ひとりで立派に呪いの魔術師として仕事をしていたのだが。
「うーん、まだ魔石づくりを始めたばかりだから、家で集中する時間があった方がいいと思うの。アルだって、ひとりで打ち込みたいときがあるでしょう?」
「まあ、それもそうだな」
アライシュは深い意図なく提案したらしく、あっさりと納得した。
「だが、リクスはうっかりしているから少し心配だ」
「…………そうかしら? むしろ、身の回りのことを疎かにするアルの方が心配だと思うけど」
先日も、乱雑に積み上がったものたちをリクスが片付けていたら、棚から封筒がはみ出ているのを見つけた。なんだろうかと開けてみれば、大きな音がして視界が黄色く染まった。
慌てて駆けつけてくれたアライシュいわく、それは不審者用の魔石の試作品だった。不審者に投げつけて、目立つ色に染めてしまうというものだったのだ。
「あの黄色、なかなか落ちなかったわ」
「不審者用だからな。染めたものを簡単に落とされては困るだろう」
それを開けてしまったリクスがうっかりなのではない。そういったものを、適当にぽいっと置いてしまうアライシュが問題なのだ。たぶん。
きっとアライシュ自身、どこに何を置いたか分からなくなって被害を被ったこともあるに違いない。
「でも、面白い魔石よね。他にもああいったものを作っているの?」
「試作品ならいろいろあるぞ。そうだな……」
言いながら、アライシュは棚をごそごそと探る。
またそんなところに試作品を置いているのかと、リクスが呆れたようにそれを見ていると、リクスを黄色に染めた魔石が入っていたのと同じような封筒が出てきた。あの封筒は、魔術を通さない特殊なものだったらしいので、アライシュが持っているのもそうなのだろう。
「これも不審者用だな。投げつけると、粘着性の強い樹液が付着して対象者の動きを鈍らせる。使用者はその間に逃げるなり、攻撃するなりできる」
「…………それは絶対に開けないでね」
先日開けたのがその封筒でなくて良かったと、リクスは心の底から思った。
そうして楽しく過ごしていたある日。
夕食を終えたリクスとアライシュは、ソファでお酒を楽しみながらくつろいでいた。アライシュは隣に座ったリクスを引き寄せて、その長い髪を指に巻いたり撫でたりして遊んでいる。
「……アルは、髪で遊ぶのが好きよね」
「ん?」
「よく、私の髪を触っているわ」
リクスが寄りかかっていたアライシュの胸から体を起こせば、指に巻かれていた灰紫の髪がするりと解ける。
「そうだな。リズの髪は、好きだな」
「ふふ。ありがとう。でも、たまには私もアルの髪をいじりたいわ」
リクスが薄緑の髪へ手を伸ばそうとすると、その手をアライシュに取られた。
もしや触られたくないのだろうかと首を傾げれば、微笑んだアライシュがその手に口づけ、ゆっくりと体を倒してリクスの膝の上に頭を乗せた。それからリクスの手を自分の髪へ導く。
「ほら、好きなだけ触ればいい」
下から見上げられて、リクスはくすくすと笑った。
「ええ、ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えて」
リクスと違って短くそろえられた髪に、そうっと指を通せば、さらさらとした感触が心地いい。アライシュの髪の色は本当に薄い緑なので、光の加減では白にも見える。生え際から髪を持ち上げて、そういった色の変化を観察するのも楽しかった。
「……たまには下から見上げるのも、悪くないな」
膝の上からリクスを見上げてくるアライシュが、なんだか嬉しそうに笑う。
「そうね。たまにはアルを見下ろすのも、悪くないわ」
少し体を傾けてアライシュを覗き込むようにすれば、リクスの長い髪がカーテンのようにアライシュを囲む。
すると、アライシュの右手がリクスの頭の後ろに伸び、髪の中に手を差し込まれた。それから、ぐっと引き寄せられるまま、アライシュへ顔を寄せる。
「…………今は、私がアルの髪を触っていたのに」
「好きにして構わない。俺も好きにするから」
「ふふっ」
それからしばらく、ゆったりとした夜の時間を過ごした。
「送ってくれてありがとう、アル」
「ああ」
明るいうちに帰るときは街まで歩いていたリクスだが、今はアライシュと夕食まで過ごすことがほとんどなので、いつも魔術で送ってもらっている。
転移の魔術は相当に魔力を使うのでどうだろうかとも思っていたが、アライシュのでたらめな魔力量を見て遠慮するのはやめた。アライシュも、絶対に送ると主張していたことであるし。
「うちに寄ってお茶でも飲んでいく?」
「……いや、今日はやめておこう」
それから、家の前まで直接送ってもらうようにもなった。以前は街の大通りで別れていたのだが、それは仕事仲間とはいえ異性に家まで知られるのは抵抗があったからだ。
でも今は、アライシュは恋人だから。こうして家の中へ誘ったりもする。
「じゃあ、おやすみなさい。アル」
「ああ、おやすみ。……リズ」
アライシュが目を細めて、リクスの頬に手を当てる。リクスが逆らわずに顎を上げて目を閉じれば、期待通りに口づけが降ってきた。
夜の静かな空気の中、唇を触れ合わせるだけの優しい口づけは、だが少しばかり長い。アライシュが別れがたく思っている気持ちが伝わってくるようだった。
ぬくもりが離れるのを感じてリクスがゆっくりと目を開けると、頬をするりと撫でられる。
「また明日」
小さな微笑みを浮かべて、アライシュは姿を消した。
一緒に暮らそうと言われたとき、リクスは頷きたい気持ちもあった。だが、魔石の魔術師として、リクスは歩き始めたばかりだ。ひとりでじっくりと考える時間が必要なのは確かだった。せっかく好きなだけ魔力を使えるようになったのだから、魔術師としての技術を高めていきたい。
だがそれとは別の理由として、リクスはこのおやすみの挨拶が気に入っている。一緒に住んでしまえば、こういう風にしばしの別れを惜しむ情緒はなくなってしまうだろう。
「それはちょっと、惜しいわ」
だから、アライシュと一緒に暮らすのはまだ先の話なのだ。