2. 解呪
翌日、主従関係という最大の問題をなんとかのみ込んだリクスは、アライシュの家へ向かっていた。
魔術契約によって結ばれた主従とは、世間一般での主従関係とは違い、従が主に仕えるようなものではない。あくまで魔術的な主従であり、主の魔力を従と共有するというものだ。ただ、従が主を魔術で傷つけたりはできない。
つまり今回の場合は、アライシュの魔力をリクスが使えるようになり、その代わりにアライシュを魔術で害することはできないということだ。
(私がアライシュ……アルを傷つける機会はないのだから、単に私の魔力枯渇を補ってくれただけだと思えばいいのだわ。むしろ、魔力を貸してくれているのだから、お礼を言うべきなのかも)
そう、主従という響きについ心配してしまったが難しく考える必要はないのだと、リクスは自分を納得させた。
森に入り、昨日と同じようにアライシュ宅の前に立てば、扉は自然と開いた。
どうやら今日は勝手に入っても良いらしい。
昨日と変わらず物が積み上がっている家の中を奥へ進むと、椅子に座って机に突っ伏しているアライシュを発見する。
(…………寝てるの?)
そうっと近づいてみれば、やはりアライシュは穏やかな寝息をたてている。枕にしている腕の下には広げたままの本があるので、読みながらそのまま寝てしまったのだろう。
昨日も目の下に隈を作っていたのに、これでは疲れもとれないだろうにと、リクスはため息を吐く。起こすのはかわいそうにも思えるが、何をすればいいのか分からないのでそうも言っていられない。
「アル、起きて。朝だよ」
やさしく肩を揺すれば、小さく呻いてアライシュが目を開いた。薄っすらと琥珀色の瞳がのぞく。
「……誰だ? …………ああ、リズか」
アライシュはしばらくリクスを見つめ、誰であったか思い出したらしい呟きを発した。まだ寝ぼけていそうだ。
「おはよう、アル。こんなところで寝ると風邪ひくわ。何をすればいいのか教えてくれれば私は勝手にするから、少し寝てきたら?」
「いや、…………起きよう」
起き上がったアライシュは、ぐぐっと伸びをして立ち上がった。
大丈夫なのだろうかと、リクスはその様子を見ていた。
「そうだ、アル。あなたのおかげで私はまた魔術が使えるようになったわ。ありがとう」
「……ああ、まあ魔石を染めるためにな」
「ふふ。だとしても、私はとても助かっているわ」
素直にお礼を言って微笑めば、アライシュはふいっと顔を逸らして作業机へ向かおうとする。
「……もしかして、今から作業を始めるの?」
「ああ。昨日は途中だったからな」
寝不足でふらついているのにこの男はなにを言っているのかと、リクスは呆れた。
規則正しい生活を好むリクスは、アライシュのような生活では、いずれ体調を崩してしまいはしないかと心配になるのだ。
「いいえ、だめよ。あなた、昨日も寝不足だったでしょう? ちゃんと寝ないと体によくないし、頭も働かないわ」
「は?」
アライシュの袖を掴んで、リクスは強い調子で言った。
突然のその勢いに、アライシュは驚いたようだった。まだ完全に目覚めてはいない頭ですぐには反論も思い浮かばないだろうから、リクスはこれ幸いと押していく。
「少しでもいいから、寝てきなさい。その間、私はひとりで仕事をしているから」
「いや、俺は」
「いいから」
「……じゃあ、少しだけ寝てこようか」
気圧されたように頷いたアライシュに、リクスは笑顔で、その間は何をすればいいのと聞いた。
「あー、リズの仕事か……。まあ、適当に家の片付けでもしてくれればいい。ただし、俺の研究には触らないでくれ」
解呪の対価と言うわりには、それほど仕事はないらしい。
仕事をしてほしいというよりは、魔石の染まる過程をじっくり観察したいという気持ちから、リクスを家に通わせるようだ。
「研究……」
触ってはいけないアライシュの研究とは、奥の作業机に並んでいるあれやこれのことだろうか。まさか、その辺りに転がっている資料などもそうだとは言わないだろうなと、リクスは部屋を見回した。
昨日も思ったことだが、この家はとにかく雑然としている。ごみが散らかっているようなことはないが、物が適当にあちこちに置かれているのだ。
「こんなに物が散らばっていたら、必要な物を探すのも大変じゃないの?」
「どこに何があるか、俺は分かっているからいいんだ」
その理屈でいくと、散らばっている物も動かしてはいけないということになる。だがそれでは片付けなどできはしない。
問題のなさそうなものから整理して、文句を言われたらそこでやめればいいかと、リクスは心内で決めた。
適当に片付けをと言われたが、これはなかなか骨の折れる仕事かもしれない。
リクスは、よしと気合いを入れて臨むことにした。
アライシュが仮眠をとりに寝室へ入ってひとりになったリクスは、触らなければ大丈夫だろうと、机の上に並んだものをこっそりのぞいてみた。
そこにあるのは、厚い魔術書に、削り出したばかりのいびつな形の魔石、何かの測定器具、それに大量の走り書き、などなど。
(たしかにこれは、触ったらいけない感じがするわ……)
解呪の協力者であるアライシュの機嫌を損ねないように、リクスは机の上は決して触らないようにしようと、ぐっと拳を握った。
だがその動作に力が入りすぎてしまったのか、うっかり、背後の棚に肩が当たってしまう。その衝撃で、棚に置かれていた魔石がぐらぐらと揺れた。
「あっ!」
咄嗟に手で押さえ、なんとか魔石が落下するのを防ぐ。
(…………びっくりした)
動いてしまった魔石を元の位置に戻し、他に落ちたものはないかも確認し、危ういところだったとリクスは安堵の息を吐いた。
それからは、もう机には近寄らず、周囲に散らばった資料の片付けをした。
そのうちにアライシュが起きてきたが、リクスのすることに興味がないのか、特に何も言われない。ならばと、リクスはどんどん片付けを進めていった。
そうして初日は問題なく終了した。
翌日、アライシュの家へ向かいながら、リクスは透明の魔石を手に取って見ていた。アライシュに渡された魔石は、金具を付けて鎖を通し、首から下げて持ち歩いている。
きれいな魔石だからいつも見ていたいと言ったところ、アライシュがいそいそと加工してくれたのだ。魔石の魔術師は、やはり自分の魔石を褒められることにたいそう弱い。
ころんとした透明の魔石に華奢な鎖が合っていて、可愛らしい装飾品のようでリクスは気に入っていた。
(少しだけ、紫になってきたかな?)
まだまだ色は薄いが、いくらか染まってきたように見える。これなら、アライシュが言ったように数日ほどで染まるだろう。
リクスは足取り軽く、森を進んで行った。
今日も自然に開いた扉をくぐると、アライシュは昨日と同じ姿勢で机に突っ伏していた。昨日の帰り際、夜はきちんと寝室で寝るようにと何度も言っておいたはずであるのに。
むうっと唸ったリクスは、昨日と同じようにアライシュの肩を揺さぶる。ただし、少しばかり乱暴に。
「アル、起きて。こんなところで寝ちゃ駄目だって」
「…………んん、」
目を覚ましたアライシュは、また目の下に隈が出来ている。昨夜もほとんど寝ていないのはすぐに分かった。
「アル。ちゃんと寝てねって、言ったじゃない」
「…………放っておけ」
わずらわしそうにリクスに手を振ると、アライシュは背を向けて作業机へ向かおうとする。
その背中はやはりふらついていて、何をするにも健康第一だと考えるリクスは我慢できなくなった。
「放っておけるわけないでしょうが!」
風の魔術を編み上げると、アライシュの体を浮かせて、そのまま寝室に放り込んだ。アライシュのおかげでいくらでも魔術は使えるのだ。
リクスは寝室の扉の前で仁王立ちして、ふんと息を吐く。
「仮眠をとるまで出てきたら駄目だからね!」
寝台の上で呆然とこちらを見ているアライシュを置いて、リクスは寝室の扉を閉めた。
それからリクスが家の片付けをしていると、しばらくしてアライシュが寝室から出て来た。先ほどよりは体調も良さそうだ。
「調子はどう?」
「ああ、やはり寝ると、頭がすっきりするな」
「夜はちゃんと寝てね? じゃないと、何度でも寝台に放り込むわ」
「…………善処する」
諦めたように、アライシュが苦笑した。
初日の強引さに押されっぱなしだったリクスは、アライシュから譲歩を引き出せたことでなんだかひとつ勝ったようでいい気分になった。
それから数日して、リクスの首にある魔石はきれいな薄紫に染まっていた。リクスの髪はもう少し灰色が強いが、石の色としてはこちらの方がきれいだろう。
「十分に染まったようだな。そろそろ、呪いを移せるだろう」
「ほんとう? ……あ、でも呪いを移したら、この魔石は消失するのよね。それだけはちょっと残念だわ」
アライシュの言葉に、ぱっと笑顔を浮かべたリクスだが、呪いを移してしまえばこのきれいな魔石がなくなってしまうことに気づき、少しだけ残念な気持ちになって眉を下げる。
アライシュはそんなリクスの表情の変化に笑いながら、薄紫の魔石を手に取った。細い鎖が、しゃらりと音を立てる。
「そんなにこの魔石が気に入ったのか?」
「ええ。とてもきれいだもの」
「そうだな。リズの色は、きれいだな……」
首に下げている魔石に顔を近づけたアライシュは、吐息が感じるほどの距離にいる。そんな距離で囁かれて、思わずリクスの頬に朱が上る。
そんなリクスの様子に、アライシュはくすっと笑って魔石から手を離した。
今のはわざとなのかなんなのか、余裕たっぷりのアライシュをリクスは小さく睨むと、ますます笑みを深めて返された。
呪いを魔石に移すのは、明日ということになった。
明けて翌日。
今朝はきちんと起きていたアライシュと、リクスは机に座って向かい合っている。
「じゃあ、呪いを魔石に移そうか」
「ええ、お願い」
魔石を置いたリクスの右手を、アライシュが両手で包み込む。
その感触にどきりとする間もなく、目を閉じたアライシュが小さく何か呟き、体を覆っていたどろりとした膜のようなものが魔石に吸い込まれていく感覚があった。膜がどんどん吸い込まれるにつれて体が軽くなるような気がする。
やがてその感覚もなくなったところで、アライシュが目を開いた。
「…………これで終わったはずだが、どうだ?」
アライシュがリクスの手を解放すれば、そこにはもう薄紫の魔石はなかった。
体に意識を向けると、アライシュから流れてくる魔力の他に、少ないながら奥から湧き出てくるような懐かしい感覚がある。
「……あるわ、私の魔力が!」
喜びに立ち上がったリクスに、そうかと、アライシュも微笑んでくれた。
「ありがとうアル! なんてお礼を言えばいいのかしら」
リクスに合わせるようにアライシュも立ち上がる。
「構わない。俺もいい実験結果がとれた。まあ、これでお前の呪いは解けたから、俺との魔術契約も終了だな」
そうだ。アライシュがリクスと魔術契約を結んでいたのは、魔術枯渇の応急処置のためだ。無事に呪いが解けたなら、もう必要のないもの。それに、ここへ通う理由もなくなる。
アライシュの睡眠指導は大変だったが、数日とはいえ楽しく過ごせていたのでなんだか少しだけ名残惜しくもあった。
そうしてリクスが内心で寂しいなあと思っていると、がしりと手を掴まれた。
「……というつもりだったが。事情が変わった」
「え?」
「リズ。お前、これに触ったな?」
アライシュが差し出したのは、初日にうっかり転がしてしまったあの魔石だった。
「ええっと、ちょっとだけ転がしちゃったけど。……ちょっとだけよ?」
「やっぱりな。俺は、研究には触れるなと初日に言ったはずだが」
「え、」
たしかに研究には触れないように言われたが、あの魔石は机の上ではなく、棚に適当に置かれていたように見えた。危うく落としそうになったところを防ぎ、安堵していたのに。
「この魔石は、素手で触れれば駄目になる。……それなりに手間暇かけて作ったものだったんだ。もう一度作るのは、かなり骨が折れる」
「は、…………」
「だが幸い、お前は魔術師だな」
「…………」
なんとなく、リクスにもこの先の展開が読めてきた。
にやりと笑うアライシュの手に力が込められて、まるで逃がさないぞと言われているようだ。
「リズ、お前がこれを作り直せ。作り方は教えてやる」
「どうして私が!」
「お前が台無しにしたからだが?」
「…………」
そう言われてしまうと、リクスは言い返せない。
「魔石を仕上げるまでは、魔術契約も継続して俺の魔力が使えるようにしてやる。せいぜい励めよ」
すでにアライシュの中では決定事項のようで、初日のように次々と決められてしまう。
こうと決めたときのアライシュはかなり強引だ。その強引さに反発しようとも、今回はリクスにも落ち度があるので黙るしかない。
こうして、リクスはもうしばらくの間はアライシュのもとに通うことになり、自分のうかつさを呪ったのだった。