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下 人魚姫の選択

 人間の魔術師たちより、よほど魔力の扱いに長けた人魚より、さらに強い力を持つ海の魔女。

 いちばん年長の人魚ですら、人魚を人間に変えられるほどの力を持ったこの魔女が、どこから来た何者であるか知らなかった。

 …………海のものたちにわかるのは、魔女が地上で一番長生きの木よりも歳上で、気味の悪い魚たちと海底洞窟に住んでおり、大きな代償と引き換えに、気まぐれに人魚の願いを叶えてくれるということだけ。

 気に入られなければ、がぶりと食べられて全部おしまい。


 恐ろしい──恐ろしい魔女。


 でも、彼女が無理にでも皇子を追うことができず、また何年もの間決断できずぐずぐずしていたのは、魔女が怖かったからでも、彼との約束があったからでもなく……ただ自分が薬の代金として支払うべきものが何か、わかりすぎるほどよくわかっていたからだ。

 そんなものは考えるまでもなかった。

 彼女の持ち物のうち最上のもので、ほかの誰も持たないほど綺麗な、価値あるもの。ひとつしかないもの。……確かに、大きすぎる代償だ。


 けれど、彼女はもう彼のいない日々には耐えられなかった。人魚の命の長さからすればまばたき程度の時間であっても、じわじわと闇に蝕まれてゆくようなこの世界で、ただ待つだけの日々は辛すぎる。

 だから──

 

「私の名前を」


 静かに、彼女は魔女の紅い瞳を見て言った。

 いちばん美しいときの海より、薔薇色に染まる夜明けの海岸より、さらに綺麗なただひとつのもの。

 あごを掴まれてあおむかされたまま、彼女はいかにも海の人魚らしい蠱惑的な微笑さえ浮かべて、人間の足を得るための代償を差し出した。


「名前を、あげる。姉妹の誰も持たないもの。風のささやきより、鳥の声より、永遠の波の音よりすばらしい響きのもの──あなたに、あげる。私の持ち物で美しいものはそれしかないし、無くして苦しむほどのものもそれしかないから」


「いいだろう」と魔女は承諾した。ぴんっと、彼女の額を指先で弾いて。それだけで〈代金〉は支払われ、彼女は自分が名を永遠に失ったとことを知った。おそらく同時に彼も彼女の名を忘却しただろう。

 魔女は手に入れたばかりの名前を自分の体に浸透させるように大きく息を吸い、機嫌良さげにうなずいた。


「ああ、あたしにふさわしい、良い音だ。気に入った。待ってな、すぐに薬を作ってやるよ。だが、いいかい? 一度人間の姿になれば、二度と人魚に戻ることはできない。……それに、猶予は百日だけだ。今は魔王のせいで薬の材料が変質していて、毒性が強くなってる。人間のカタチのみしか手にしていない人魚の小娘では、百日が限度だろうよ。覚えておおき──百と一日目を告げる朝日が顔を出すのと同時に、お前の命は尽きる」

「それは、予言?」


 眉を寄せた人魚を魔女はせせら笑った。


運命(さだめ)さ。残り数百年ぶんの寿命も、お前の体が死を迎えるときに、一緒に泡と消える。そう……………人間の皇子が、その唇で愛を誓い、お前の魂をも人間にしてくれないかぎりはねえ」




 しばらくして、彼女をつまみ出すついでのように投げ渡された薬の小瓶を抱き、人魚の娘は海上に頭を出した。もう陽は登っている時刻なのにも関わらず、海岸は暗く、そこかしこに絶望の気配があった。


 ────禍々しい空の色。


 風の音も、鳥の気配すらない、すでに死に絶えたかのような世界。

 ただ波のみが、虚ろに寄せては返し……。


 彼女の心もがらんどうになってしまったかのようだった。もうあの名前は思い出せない。名を呼ぶときの彼のあの声の記憶も。なにもかも全部失われてしまった。帰ってきたら名を呼んで、という約束すら、もう叶えられることはない。

 独りよがり馬鹿馬鹿しい感傷だった。

 彼女は真珠にも似た歯で唇を噛んだ。後悔なんてしていないくせに。人魚の甘い血が、涙の代わりのようにぽたりと落ちて行く。海へ。それでも、まだ彼が生きているのならば──たとえそうでなくとも──彼女は彼に会いたかった。


 あなたを助ける力があるのに、どうして何もせず、ただ待っていることなどできるだろう。ああ──あなたを探す足を手に入れることができるのに、どうしてここにいることなどできるだろう。


 ここにいろ、と彼は言ったけれど……。


 岩に座って小瓶の蓋を開ければ、魔女が作ったとは思えないほど清らかに澄んだ薬から、人間の血に似た臭気がした。鉄の臭い、剣の臭い……彼が今、その身にまとっているであろうもの。

 目をつぶり、覚悟を決めてあおろうとした彼女を止めたのは、一筋の光だった。


 分厚い雲を突き破り、天から唐突に差した矢のような光。


 それは膨れ上がり、世界を満たした。空を覆い尽くしていた暗雲が一瞬にして払われ、溶け去り、あまりにもまばゆい太陽にその座を譲る。


「まさか」


 小瓶をかすかに傾けたまま息を呑んだ。聖なる光。

 これが示すものは。


 ────魔王の死と、英雄の誕生。人間の勝利。


 水も、風も、岩も……砂の一粒すらも、世界のすべては歓喜に輝いた。

 尾の先で砕ける波を見下ろして、人魚は苦笑した。波は突然水ではなく、話に聞いたダイアモンドや、純然たる光の塊になったように見えた。

 いったい……なんという皮肉なタイミングだろう。

 でも、成し遂げたのは果たして「彼」なのだろうか? わからない。でも、すべてが終わったことだけは間違いなかった。彼は戻ってくるだろう。

 生きて? それも、わからないことだけれど。


 小瓶の蓋をしめ直し、名無しの人魚は皇子の帰還を待つことに決め────待った。薔薇色の海岸で、歓喜の渦に包まれる世界をながめながら。……離宮の召使いたちのうわさ話によって、英雄となった彼の身体が呪いに蝕まれていると知るまでは。






「……セージャ」


 彼の寝台で、起こさないように、小さく名を呼ぶ。口にいれたら幻のように消えてしまう砂糖菓子であるかのように、大切に大切に。


 外では変わらず海が彼女を手招いているだろう。


 闇に包まれた寝室。夜はまだ明けない。しかし、どんなときでも朝は来るものだ。彼女が人間の姿になってから、百と一日目の朝が。彼女の生命の終わりを告げる朝が来る。……私は、どちらの終わりを望んでいるのだろう。


 暗闇の中、彼の最後の呪いを解いて?

 朝日の中、タイムリミットを迎えて?


 どちらにしろ最後は同じ。人間のカタチを手に入れ死を迎えた人魚はみな、泡になって、全部おしまい。

 両手は皇帝の喉に触れたまま、彼女は視線だけを口元へとすべらせた。厚すぎも薄すぎもしない素晴らしい形の唇は、再会してからずっとそうであるように、寝ている今でさえも、笑いかたを忘れてしまったとばかりに引き結ばれている。

 魔女はこの唇が愛を誓ってくれれば、彼女は死なずにすむと言った。そうすれば本当の人間になれると。でも、きっとそんなことにはならない。声を取り戻してあげたら……このひとは、自分の代わりにいったい誰に愛を誓うのだろう。

 両手が震えた。

 もう何度も思ったことを、また思った。


 ────いらない。私の名を呼んでくれない声なら、唇なら、そんなものはいらない。この世に必要だとは到底思えない。


 ああ、だけど。……………だけれども。

 目を閉じた。震えが止まる。


「どうせ泡になって消える運命(さだめ)でしかないのなら、あなたにひとつでも多くのものがのこる道を。────さようなら、セージャ」


 ささやいて、彼女は解呪の魔術を発動させた。


 あっけないほどの一瞬。


 明るいが不思議と瞳を射るものではない解呪の光が収まったとき、彼女の視界に真っ先に飛び込んできたのは、怒りを湛えた黄金の双眸だった。闇の中でも変わらぬ金の色。


「よくも」


 苛ついているを通り越し、すでに怒り狂っている低声。彼女は死んではいなかった。大きな手によって枷のように掴まれた手首が、喉から外される。続いて何か言おうとした彼の口が、はくり、と空気だけを吐き出した。無くした名を探そうとしているようにも思えたが、単にまだしゃべるのは億劫なのかもしれない。

 少女は困惑していた。


「セージャ……どうして」

「どこにいくつもりだ。余計なことをして」

「余計なこと?」


 顔に戸惑いを浮かべた彼女は、彼の瞳と、唇と喉と、掴まれている自分の手との間でうろうろと視線をさまよわせ、はっと息を呑んだ。

 余計なこと。

 生きている自分。ほかの部位のときとは違い寿命をごっそりと削られる感覚もなく、あっけないほど簡単に解けた最後の呪い。まさか──そんな。でも。


「声の呪いは、自演だったの?」


 彼は返事をしない。疑惑は確信に変わった。自分自身で、封じたのだ。魔王の呪いに紛れさせるようにして。


「……どうして、そんなこと」

「……………」


 彼女を見ていた皇帝の不機嫌な顔がふいと逸らされた。黄金の瞳が闇に暗く深く沈む。声は変わらず怒っていた。


「俺は約束を守れない」

「約束?」

「帰ってきたら名前を呼ぶと言った。なのに……俺は、覚えていない」


 覚えていない。その、苦痛の合間にやっと絞り出したような、しわがれた声音。亡者の声だ。

 彼女は理解した。だが──何ということだろう。


 彼は自分自身に怒っているのだった。


 どうしようもなく、彼女の名を忘れた自分に激怒している。目もくらむような怒りと憎しみ。


「俺がつけた名だ。何があっても忘れるはずはなかった。なのに、思い出せなくなった。いつの間にか……魔王城に入ったあたりでだ。────だが、これが魔王の仕業であろうと、別の原因であろうと、そんなことは重要じゃない」


 憎悪。魔王の投げつけた呪いで腕や足や目や耳を失おうとも、そんなことは、彼にとってはどうでもいいことだった。彼が許せないのは、たったひとつ。たったひとりだけだった。


「俺はお前の名を忘れた。それが事実だ。なのに……どんな顔でお前に合えばいい。何を言って、どうわびればいい。俺はお前に誓ったのに」


 彼の惨苦の声は、彼女にとって千のナイフのようだった。もうずっと、彼は彼女以上に長く深く苦悩していたのだ。彼の姿を毎日探す彼女を見て、ずっと。

 ────そして、あまりにも静かに、彼は彼女の心にとどめの言葉を突き刺した。


「俺はお前を呼ぶことのできない声などいらない」


 なんというひとだろう。罪のナイフに傷つけられた心が血を流さない代わりに、涙がこぼれた。海色の瞳が溶けたような涙。彼はあまりに清廉で、誠実で、強情すぎるほどだった。子供のころから、何も変わっていなかった。

 彼女は懺悔した。それが彼にとってなんの意味もないことは無論理解していたが、打ち明けずにはおれなかった。自分で魔女に名を差し出したことと、引き換えに人間の姿になる薬を手に入れたということ……もう二度と彼女は「名前」を持つことができないということを。


 聞き終えた皇帝は苦しげに眉を寄せた。


「馬鹿なことを」

「私のこと、怒る?」

「俺を想ってしたことだろう。俺があの野郎を追い詰めるのが遅かったせいだ。べつに、いい。それに、どんな理由だろうと、俺がお前の名を忘れたことには変わりない────すまない」

「…………ごめんなさい」

「泣くな」


 気付けば彼女は身を起こした彼の腕の中にいた。

 すまない、と世界を救った英雄はもう一度言った。


「呪いを解いてくれたこと、感謝する」

「うん。戻ってきてくれて、ありがと」


 彼の鼓動で波音はもう聞こえなかったが、涙の止まった目には、海の果てがだんだんと薔薇色に染まりつつあるのが見えた。


「ねえセージャ──夜明けが来る……」

「そうだな」


 うなずいた彼はしかし窓を見てはいなかった。

 海の色の彼女を見下ろす、昔と同じ、強い瞳。


「ねえセージャ、あのね……」

「黙れ」


 まるであの出立の日のようだった。互いに、どこか必死。でも重なった唇は、あの日と違ってどこまでも自然だった。

 まるで、それこそが正しい形であるかのような。


 あたたかい幸福感。


 彼女は危うく、自分が夜明けに生命の終わりを迎えることを忘れかけた。たったひとつの言葉をねだることも。どうにか思い出したのは、唇を離した彼が、甘くその言葉をささやいたから。

 思わず「もういちど」と願えば、驚きに体をこわばらせている少女に笑って、彼は柔らかな耳朶に唇を寄せた。


 そして彼女は──人魚の娘は──愛しいひとの声で、人魚を人間にする唯一の呪文を聞いたのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] うるっときました。 大切なことを忘れてしまうのは辛い。忘れた事実を理解しているならなおさら。 ハッピーエンドだけれど、二度と名前を持てないという切なさが残る終わりが好きです。 そして彼女…
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