上 声無し皇帝と解呪の少女
二話完結です。
世界には魔王がいた。
無論「いた」というのは「今はいない」と同義である。
────魔王はひとりの人間によって討たれた。
あの日、深い深い絶望と永遠にも思える苦しみの時は終わり、瘴気の払われた地上はふたたび光と生気とに満ちた。世界中で上がった歓声は、いつまでも止むことを知らぬようだった。
救世の英雄は、大国エーレクルーアの第一皇子。
第一子とはいえ、生母の身分が低く、それまで辺境の地に追いやられていた皇子であった。忘れられた皇子。しかし、魔王の首をはねた者以上に次代の皇帝にふさわしい者がいようはずもない。
彼の帰還と同時に玉座の主は交代し、国は、世界は良い方向へと向かって行くと誰もが信じた。
人々の胸は歓喜と未来への希望に満ちていた。
…………英雄となった皇子が、魔王の首を跳ねる際に強力な呪いを受け、視力を無くし、聴力を無くし、立つことも話すこともできぬ身体になってしまったと聞くまでは。
***
空には優美な船影に似た、銀の月がかかっていた。
外では絶えず波音がしている。海の底から懸命に這い上がろうと無数の何かがもがき、その腕を伸ばしては、果たせず戻っていくかのような、永遠の反復。もう一度、もう一度……。決して叶いはしないのに。
あるいはその音は、誘い込むようにも響いた。
打ち寄せる波は手招きにも似て。
そしてそう考えるとき、海に棲む精霊であった少女の耳には、そのひとつひとつが「帰っておいで」「戻っておいで」という姉妹たちの声に聞こえてならないのだった。
────還っておいで、私たちの同胞。神々の楽園から追放された罪人の流刑地である地上に、幸福などないよ。永遠の幸せは天のほかには、ここにしか、海の中にしかないのだから。
今少女が立っているのは、宮殿中でいちばん海が美しく見えるという豪奢な部屋だった。皇帝の寝所。彼女の寝室でない。でもここが彼女が永遠の眠りにつくと決めた場所なのだ。
「私は、帰れない。……かえらない」
彼女は窓と窓の向こうにある故郷から目をそらし、部屋の中央に置かれた四柱の天蓋のついた大きな寝台へと向かった。上靴を履いたままま上り、少しためらったあと、眠る男の胴をまたいで膝立ちになる。
夜着の襟ぐりからのぞく喉元に白く冷たい指を這わせれば、皇帝である男はかすかな反応を示したが、目を覚ますことはなかった。
呪いを受けて不自由な体になってなお人々に崇められ、どうしてもと玉座につくことを望まれて、皇帝冠を与えられた英雄セオ=イライジャ。
喉にあるのは、濃く禍々しい魔力の気配。呪いの気配。
それは皇帝の体に残る最後の呪いだった。
────ある日、突然皇帝の宮殿に現れて治癒術師を名乗った少女は、どんな名医もにも魔術師にも匙を投げられた皇帝の体に触れ、あっという間に解呪し、治療した。
けれど彼女はその時、封じられた声だけは治さなかったのだ。
治せないのかと聞く大臣たちに「治せる」と返しながらも、もう数ヶ月もの間何をするでもなく、ただ与えられた宮殿の一室に滞在して日々を送っているだけだった少女。彼女に対し陰口をたたく者もいたが、べつに彼女は彼らの言うように贅沢がしたくて宮殿にいたわけではなかった。
彼女は悩んでいた。
呪いが解かれ、久々に開かれた見事な黄金の目に一番に映ったのは彼女だった。なのに、すぐに不愉快そうに眉を寄せて視線をそらした英雄皇帝。
それでも彼女は毎日毎日その瞳を、鈍銀の髪を、彼の姿を求めて宮殿の中をさまよった。決して彼女を見てくれない、視界に入るたびに明らかに不機嫌になる皇帝に肩を落とし、次の日になればまた彼を探して。そうしながら、彼女はずっと逡巡していたのだ。何度も──自分の死について。
解呪の魔術は少女の寿命を削った。
もともと解呪の魔術はそういう性質のものだったが、それにしても魔王の最期の呪詛は別格だった。目、耳、手足……魔王の呪いはあまりに強く、数百年ぶん残っていたずの彼女の寿命はもうほとんど残っていなかった。皇帝の声を取り戻したら、彼女は間違いなく死を迎えることになるだろう。彼女はまだ悩んでいた。
──けれど、悩みつつもここに来た。
寿命の残りがどの程度であろうと、命を捨ててここで彼の呪いを解こうと解くまいと、彼女の命は夜が明ければ尽きるさだめだっから。
それが、海の魔女の告げたことだった────…。
「いいよ、お代さえもらえるなら、お前の願いを叶えてあげよう」
魔女は大昔に別の人魚から手に入れたという綺麗な声でそう言った。魔女の手も鼻も顎も唇も、美しいところはみんな別のものたちからの薬の〈代金〉でできていた。
「人間の皇子に恋して地上に行きたいと言った人魚はお前が初めてじゃない。でも、お前にあたしの薬と引き換えられるような、とくべつ美しいところがあるかねえ」
おとがいに指がかけられ、仰向かされる。彼女の持つ長い青銀の髪も海色の瞳も白い肌も、もちろん声も、なにひとつ他の姉妹たちと比べて特別に美しいというところはなかった。標準的な人魚、なんて表現があるとすれば、それこそまさしく彼女だった。
平々凡々な、つまらない人魚。
十数年前に初めて出逢ったとき、彼もそう思ったらしかった。
『ふん……大したことはないな。人魚というのはどんな人間の心も捕らえ、とりこにするほど美しいモノなのだと聞いたが』
海のものが焦がれてやまない蒼天に輝く太陽にも似た金の瞳に、凍えた月の下で砕けるさざなみと同じ鈍銀の髪。まだ幼かったにも関わらず、ひと目で彼女の心を奪った彼こそが、人魚にふさわしい美しさを持っていた。
嵐の日でなくば水面近くにも出てこない姉妹たちと違い、毎日のように夜明けの波打ち際で髪をとかしていた彼女の前に、あるとき突然現れた少年。彼は驚いて水中に逃げ込もうとした彼女の腕を無遠慮にとらえ、曇りのないまっすぐな視線であるはずのない人魚の魂まで突き刺して、そのくせ鼻でせせら笑ったのだった。
『だが、まあいい。遊び相手にしてやる。光栄に思え』
傲慢で尊大で孤独な子供。それが彼だった。母の病気療養を理由に宮殿から追いやられて来た、夢と伝説のみがただようような僻地に建つ離宮。そこから続く長い長い薔薇色の海岸で、あけぼのに染められたままの岩々の間を、ひとりの護衛も世話係もつれることなく、いつだって自身の二本の足で歩いてきた少年皇子。
でも皇子だと知ったのは、彼がずいぶん大きくなってからのことだった。離宮の近くまで泳いでいったときに聞いたうわさ話。
『料理番たちが、かわいそうな皇子様のことを話していたの。誰より利発なのに、お母様が亡くなったあとも、みんなに忘れられたままの皇子様。それってあなた?』
『ふん、どうもそうらしいが、俺のどこがかわいそうだ。……おろかなやつらめ。憐れむなら、そんな穀潰し皇子を養うために税を払わされている自分自身にするべきだろう』
彼女に向けられた、つよい意志の燃える瞳。
水でできた人魚の心をも沸騰させるような視線。
『俺は飼い殺しの身では終わらん』
皇子という身分ゆえでも、外見の美しさゆえでもなく。彼は彼の持つ魂によって、地に落ちた太陽のひとかけらであるかのように、自らの存在そのもので輝いていた。
それは、数百年前に封じられたはずの魔王が復活し、世界が昏き魔の霧と永遠の絶望とに侵食されだしたときでも少しも変わらず。彼のみはどこまでも高潔で、高貴で。
──そしてある日、魔王討伐隊の長として離宮を出ていったのだった。
最後の日、いつものように夜明けに海岸に来た彼に、彼女は「本当に行くの」と聞いた。彼は当然だと返した。怖くないの、という問いにはかすかに笑って。
『…………この身のすべては民から搾り取った税でできている。俺の身体は民のものだ。ここまで無駄飯食らいのまま生かしてもらっていた恩は返さねばならん。こんなことでもないと、宮廷の者どもは俺の存在を思い出しもしなかったろうしな』
一緒に来い、とはついに言われなかった。彼女に魔術を教わった彼は、彼女が類まれなる治癒魔術の使い手であることを知っていたはずだったが、言わなかったのはたぶん、彼女に地上をゆくための足がないから。
もしくは、彼は彼女が迷っていたことを知っていたのかもしれなかった。
『セージャ……』
彼女のみが呼ぶことを許された彼の愛称を赤い唇に乗せれば、彼は続きを封じるように自らの唇を重ねてきたから。
ただ一度の口付け。
彼が吐息に混ぜて呼んだのは、名無しの彼女に彼がつけてくれたライムグリーンの海にも似た美しい名だった。
彼の黄金の視線に全身を刺し貫かれた彼女はもう、行かないでとは言えなかった。本当は言おうと思っていたのに。
セージャ……。
『帰ってきたら、また名前を呼んでくれる?』
『ああ。だから──』
引き寄せられ、背をおおう髪にしなやかな指が絡められる。
『──お前はここにいろ。ここにお前がいてくれるのなら、俺は何があっても自分の誓いを忘れずにすむ。……この国のため、世界のためと言って戦える』
耳もとで、最後にそう、ささやいて。
まだ二十歳にすらなっていなかった皇子は、彼女から自分の指を引き剥がし、ひとふりの剣を手に去って行き。
…………そして、何年経っても帰ってこなかった。
しびれを切らした彼女がとうとう迷いを断ち切り、海の魔女のもとへと向かったのは、彼が旅路についてから七年後のことだった。