番外編・ミシェル
「ギルバート。お茶を淹れなさい」
「かしこまりました」
執事のギルバートは何を命令しても文句を言わない。
何でもやってくれる。
お茶だって淹れてくれる。
けれど無難にこなすだけ。
まるであらかじめ決められた動きをなぞっているだけのように。
仕方なくやってるだけで、そこに心などないのだということをミシェルは知っていた。
けれどギルバートは異母姉のシェリアが帰宅すると、誰よりも先に出迎える。
そして何も言われなくともお茶を淹れる。シェリアのお気に入りのお茶を。
さらにはノックもせずにシェリアの部屋に入っていき、いつも無愛想で仏頂面のシェリアに大きな声で文句を言われながらも、ギルバートは満足げな顔で部屋を出てくる。
持って出てくるカップは二つ。
きれいに飲み干されている。
使用人たちの前でも、ミシェルの前でも、ギルバートは慇懃で正確に素早く仕事をこなす有能な執事だった。
家族のうち誰にも肩入れして見せはしない。
けれどミシェルにはわかっているのだ。
ギルバートがこの家に来たその時から、シェリアのことしか見ていないということを。
◇
生まれた時から父のいなかったミシェルは、自分を悲劇のヒロインだと思っていた。
貴族ではありながらも、母と祖父母と慎ましやかに暮らす中に父がいないことは、ミシェルの心にぽっかりと穴を空けていた。
それがある日突然、父が現れ迎えに来た。
悲劇のヒロインは幸せな結末を迎えるのだ。
そう思ったのに、連れて行かれた先にはミシェルよりも少しだけ大きな女の子がいて、突然現れたミシェルとその母を、不安そうに、そしてどこか恨めしそうに見た。
その時悟った。
悲劇のヒロインはこの異母姉なのだと。
自分はヒロインになりそこねた。
◇
突然辞めてしまった執事の代わりにギルバートが現れると、シェリアの様子がおかしくなった。
いつもミシェルや母に反抗的だったり鬱々とした目を向けたりしていたのに、明らかに「それどころではない」というように関心が薄れた。
シェリアの目はいつもギルバートに向けられていて、それなのにどこか逃げ腰で、何かを恐れるように距離をとったり、あからさまに逃げ出したりしていた。
それでもギルバートはにこにことした笑みを浮かべたまま、つかず離れずの距離を保ち、泰然と仕事をまっとうしていた。
そしていつしかシェリアは、ミシェルに何を言われても、どうでもいいというように流すようになった。
まるで大事なことはそんなところにはないとでもいうように。
ミシェルにはシェリアの大事なところに届く言葉など持ちえないのだとでもいうように。
ミシェルは躍起になった。
自分でも何故なのかわからない。
けれどこのままではミシェルがここにいてはいけないものだと、不要なものなのだと認めるような気がして、何かに追われるようにシェリアを責め立て続けた。
そして、誰にも公平に接しているかのようなギルバートの目が自然とシェリアを追っていることに気付き、幼馴染だというアルフリード王子がシェリアだけを特別な目で見ていることに気付き、年の近い男の子たちも、大人も、みんながシェリアに一目置いているのがわかってしまった。
シェリアは別に何もしていないのに。
自分から積極的に声をかけに行くわけでもない。
ただ声をかけられれば貴族の娘として失礼のない範囲で、無難に対応する。
それだけなのに。
何故、ギルバートもアルフリードも、シェリアと話すのをあんなに楽しそうにするのだろう。
ミシェルと話すときは表情を変えもしないシェリアは、何故むっとしたり、呆れた顔を見せたり、時には薄く笑ったりまでするのだろう。
自分とは離れたところで展開される物事に、ミシェルの中に何かが育っていった。
ずるい。
ずるい、ずるい、ズルイ。
いつもお姉さまばかり。
その言葉ばかりがミシェルの中で駆け巡った。
◇
ミシェルが十六歳になったときには、シェリアがこの家を出て行くまで残すところあと一年を切っていた。
シェリアが鬱陶しそうにギルバートに向けていた目は、追いかけるようなものに変わっていた。
ギルバートが執事として公平に見せていた目は、誰の目にも隠せないほどに、シェリアを愛しむように見守っていた。
このままでは永遠にシェリアは、ミシェルの何の影響も受けないまま、何もなかったようにどこかへと行ってしまう。
それが許せなかった。
悲劇のヒロインではなかったミシェル。
それどころか悲劇のヒロインの大事な母を奪い、突然転がり込んできたミシェル。
どんなにこの家にいるべきは自分なのだと、次期当主はミシェルなのだと示しても、そんなことは重要ではないというように意にも介さないシェリアに、認めさせたかった。
ミシェルの存在を。
この家にいるべき人間なのだと。
気づけばミシェルの行為は自分でも止められないほどになっていた。
何をしても気にされない。
意に介されない。
だからこっちを見て、認めてほしくて、行動も言葉も激しさを増し、憎しみまでもが抑えきれなくなっていた。
だから衝動的に、階段から突き落としてしまった。
ごろごろと転がり落ちていくシェリアの姿を眺めながら、やってしまったという気持ちの中に、どこかで安堵する自分がいた。
翌朝、包帯を巻きながらも何ともないように立っているシェリアを見て、しかもギルバートと抱き合うように戯れている姿を見て、何かのたがが外れた気がした。
許せない。
次期当主はミシェルなのに、愛されるつもりなんてないという顔で執事も王子も独り占めにするシェリアが。
けれど。
閉じ込めたはずがどうやってか追いかけてきたシェリアに、ミシェルの想いが初めて零れた。
ずっと振り回されてきた理不尽をその目に明らかにすれば、シェリアは呆然としていた。
シェリアは苦しそうに、だけど帰れと、拒絶の言葉を言い渡した。
馬車に揺られながら、ミシェルはもっと早くに言葉にしていたらよかったと思った。
だけど、今初めて言葉になったのだとも思った。
自分でも何に急き立てられているのかよくわかっていなかった。
ただ止まってしまったら潰れてしまうような気がした。
自分で自分の価値がわからなくなってしまう気がした。
あの家に居場所を失ってしまう気がした。
その見えない何かとずっと、戦っていたのだ。
◇
その後、シェリアはギルバートと共に姿を消した。
シェリアの部屋に飛び込めば、窓が開け放たれたままになっている。
飲みかけの紅茶も置かれたまま。
ギルバートに無理矢理連れて行かれたのだと悟った。
慌てて父に詰め寄った。
そこで様々な話を聞いた。
湧いてきたのは、ギルバートへの怒り。
ずっとシェリアを手に入れるために画策していたのだと知り、シェリアからミシェルへの関心すら奪ってしまったギルバートに一言いわねば気が済まなかった。
ミシェルはまだシェリアに言いたいことの半分も言えていない。
まだ言葉になっていない思いがある。
まだこのままにしてはおけない。
だから。
今シェリアを連れて行かれては困るのだ。
それから。
シェリアはミシェルを憎んでいないと言った。嫌いではないと言った。
そしてミシェルはミシェルだと、よくわからないことを言った。
シェリアと比較されることでしかミシェルなど存在しなかったのに。
人の口に上るとき、必ずシェリアとセットで語られるのに。
シェリアはシェリア自身で生きているから、そんなことには気づきもしないのだ。
そんな風になりたかった。
ミシェルはミシェルだと、他人がどうであろうと関係ないと言えるほどの人間になりたかった。
言えなかったのは、自分にそれだけの価値を見出せなかったからだ。
けれどシェリアは憎んでいないと言った。
それならば。
この家に居てもいいのだろうか。
ミシェルが次期当主で、本当にいいのだろうか。
シェリアから奪ったのではなくて?
ミシェルが手にしていいものだった?
◇
時間が経って、シェリアが卒業式を迎える日。
この家を去る前にシェリアは、また同じことを言った。
大事なことだからもう一度言う、と言って。
そのときにはもう、そんな簡単なことはわかっていた。
シェリアがもう出会った頃の子供ではなくて、理不尽をミシェルにぶつけてくるような存在でもないことは。
そして家を顧みない父が、ミシェルへの償いの気持ちとして当主の座といくつもの我が儘を与えたのだということも。
それから、シェリアがただ自分自身を見てくれる人を愛し、自分自身を生きているのだということもなんとなくわかり始めた。
ミシェルも誰かを好きになったら、自分を愛せるのだろうか。
まだ今はよくわからないけれど、ミシェルが好きになれる自分というものを、探せるだろうか。そこに向かっていけるだろうか。
それがわかるのは、またさらに少しあとのことになった。
「君は面白い顔をしているね。悪評は嫌というほど聞いている。けれど君はもう、愛も憎しみも様々な感情を知っている。だから君の顔は、いろんな想いに溢れている。見ているのがとても楽しいよ」
伯爵家の次男だという彼は、そんなことを言った。
「はああぁ?」
気づけば思い切り顔を歪めていた。
シェリアがいつもギルバートにしていたみたいに。




