番外編・ギルバート
「吸血鬼って、首筋に牙を立てて血を吸うイメージなんだけど。ギルバートはどうしてそれをしないの?」
シェリアに問われ、どう答えるべきか迷った。
そういう欲がないわけではない。
むしろそうしたい。
だがそれをするのはいかにも吸血鬼という感じがして嫌だった。
別に吸血鬼である自身を憂えているわけではない。だがいずれ人に戻るつもりであるのに、それが癖になってしまっては嫌だという思いもある。
シェリアを抱きしめれば、手触りのいい長い髪から石鹸の香りが鼻をくすぐる。
だがその髪に覆われた首筋からは、それとは違う、甘くかぐわしい、得も言われぬ香りが漂ってきて、ギルバートはいつも己の欲を堪えるのに随分な精神力を要した。
結局ギルバートは、いくつもある答えのうちの一つを選んで答えた。
「おまえの白い首筋に傷跡を残すのは憚られるからな」
「そっか。まあ別に、髪で隠れるからいいけど」
そうして許してしまうからだ。
シェリアに許されれば、何もかもを強引に奪いたくなってしまう。
そんな自分に抗うのに力を要するからだ。
この城に移り住んで一か月。
昨日結婚式を終え、二人は人々の祝福を受けた。
吸血鬼が神に永遠を誓うなどおかしいものだと思ったが、シェリアの父が教会で結婚式をすることは譲らなかったためそうなった。
結婚式にはアルフリードやエレーナ、現国王も出席し、影の国の王と退魔師の末裔とが新しく結婚という盟約を結ぶのを見届けた。
人狼たち影に住む者たちも出席した。勿論人の姿で、だが。
「ギルバートの髪、濡れるとコウモリみたいだよね」
風呂から上がり、濡れた髪のまま寝室のベッドに腰かけていると、シェリアがその髪を拭こうとタオルを手に近づいてきた。
先に風呂を済ませたシェリアからは、同じ石鹸の匂いが香ってきた。
思わず手を掴み引き寄せれば、バランスを崩したシェリアは「わっ」と声を上げギルバートの膝にまたがるような恰好になった。
「ちょっと、急に引っ張らないでよね」
「お前の手足が細すぎるのだ」
結局シェリアは文句を言いながらも、そのままギルバートの頭にタオルをかぶせ、わしわしと拭いた。
この一か月でシェリアはギルバートに触れられてもそれほど赤面しなくなったし、こうして距離を詰めても逃げなくなった。
最初の頃を思えば、たいした進歩である。
結婚式を終えた昨日の夜からさりげなく元の口調に戻したのだが、それもシェリアは自然と受け入れた。
疲れ切っていたから気にする余裕などなかっただけかもしれないが。
今朝起きてからもギルバートはそのままで話しているが、シェリアが気にする素振りはない。
ベッドに膝立ちして髪を拭くシェリアの白い首筋が目の前にあり、ギルバートは吸い寄せられるように触れるだけのキスをした。
「ちょっと。今髪を拭いてるんだけど。このままにしてたら風邪ひくわよ。ギルバートって自分のことは案外雑よね。私のことはあれこれと細かく気を遣うのに」
逃げ出さないシェリアに調子にのって、今度は鎖骨に口づけた。
タオル越しに頭をぱかりと叩かれた。
しかしその顔を見上げれば、しっかりと赤らんでいた。
こんな何気ない日常がたまらなく愛おしかった。
人が永遠を願うのはこんなときなのだろうなとギルバートは思った。
しかしギルバートは永遠を知っている。
だから、こんなシェリアと日々を過ごし、年を重ね、いつか自然に還る日を夢に見た。
◇
この城にシェリアと移り住んで三回目の満月の日。
ギルバートは人間になった。
力の満ちる満月の夜にシェリアの血を初めて首筋から摂取したことで、吸血鬼の血は退魔の力によって失われたのだ。
そこに至るまでは様々なことを試した。
毎日シェリアを抱きしめて眠ったがギルバートの力が弱まる気配はなく、毎日少しずつ吸血の量を増やしたが途中でシェリアが貧血を起こすようになってしまった。
結婚式もあったからしばらく吸血は控え、他を試した。
それで効果がなく、吸血鬼としての力が最も高まるという満月の日にシェリアの体に支障が出ない範囲で吸血してみることになった。
試すならこの一回だ。シェリアの体も回復していたし、それなりの量の血を摂取してみなければならない。
そうとなれば、指先ではなく、首筋から直接もらうしかない。
シェリアの長い髪をよけ首筋に顔を近づければ、今や嗅ぎなれたシェリアの甘い匂いが頭にまで昇り、一瞬我を失いそうになった。
なんとか己を保ち、その白い肌に牙をつきたてると、得も言われぬ快感が襲った。
しかし呑まれてはならない。
このようなことを終わりにするための儀式だ。
己の内の欲と戦いながらシェリアの様子を窺い、限界を越えてしまわぬよう注意深くその甘い血を啜った。
シェリアがふらりとなりかけたところではっと気が付き、牙を離した。
シェリアの顔は微笑んでいた。
「私、ギルバートに血をあげるの嫌いじゃないわ。私の血が生かしてるんだって思うと嬉しかった。いつもしてもらうばかりで私が返せるものなんてなかったから」
「俺がここまで絶望せずに生きてこられたのはおまえがいたからだ。いつもおまえは俺を生かしていた。これからもそうだ。血などもらわなくともおまえは俺の生きる希望だ」
そう告げればシェリアは嬉しそうに笑みを深めるから、ギルバートは込み上げるものを抑え込みながら優しく抱擁した。
次の日の朝、目覚めてみると爪も牙も長く伸びることがなくなっていた。
分身を使うことも、コウモリの姿に変わることもできなくなっていた。
目を覚ましたシェリアにそれを告げると、我が事のように喜んでくれた。
ギルバートの念願がかなったことが嬉しい、と。
シェリア自身はその命が永遠であることを除けば、吸血鬼だろうが人間だろうが、どちらでもいいようだった。
ただそうして満面の笑みを浮かべてくれるシェリアに、ギルバートは力がなくとも一生守っていこうと改めて固く誓った。
「ねえ。本当は最初から見当がついてたんじゃないの?」
わざと先延ばししていたのではないか。
不意にそう聞かれて、ギルバートは三日月のような笑みを浮かべた。
「さあ? どうだかな」
ともあれ、この三か月が至福であったことは確かだ。
頬を染めたり、弱い力で抵抗しながらも懸命に共に尽くしてくれたシェリアを堪能し尽くしたのだから。
「本当ギルバートは秘密ばっかり」
シェリアはむくれたが、尖らせた口はキスをするのにちょうどよいということを知らない。
「もう何も隠していることなどない。もう何も憂えることもない。だからそろそろ本格的に次の夢をかなえるとするか」
「今度の夢はなに?」
シェリアの湖のような瞳がギルバートを見つめた。無垢な少女のように。
ギルバートの口元は自然と笑みを象った。
「性別はどちらでもいいが。二人は欲しいところだな」
意味するところがわかったのか、シェリアはぼっと顔を赤くした。
今はまだ太陽は目覚めたばかり。
今日一日は長い。
シェリアが覆ってしまった細い指の隙間から、くぐもった声が聞こえた。
「私はできれば男の子も女の子も生まれてきて欲しい」
「そうだな」
ギルバートは破顔して、指の間からシェリアの額にキスを落とした。
限りある人生を精一杯に生き、命を繋いでいく。
ギルバートの人としての人生が、今再び始まった。




