プロローグ
私が彼に出会ったのは、八歳の頃だった。
着ている仕立ての良い服は薄汚れていて。
真っ白な肌は艶もいいのにやはり薄汚れていて。
成人したばかりのような若さで、病気なようにも怪我をしているようにも見えないのに、彼は何もかもを失くしたような顔で路地に座り込んでいた。
多くの人はその姿を横目に見るばかりで、素通りだ。
だから声をかけずにはいられなかった。
「疲れちゃったの?」
壁にもたれていた頭が重たげにこちらを向いて、長い黒髪の合間に灰色の目が覗いた。
その目には生きる意志が見えなかった。
ただぼんやりと、そこにある景色を目に映しているだけ。
「そうだな」
無視されるかなと思ったのに、彼は薄い唇を小さく開いた。
でもその声はぼそぼそとひび割れていて、よく聞こえなかった。
だからくるりと男に背を向けて、近くの民家に水をもらいにいった。
あまり関わり合いになられては、とおろおろする侍女に馬車で待つよう告げて、零れないように慎重にコップを運んだ。
「水だよ。空腹にいきなり食べ物を入れるとよくないって聞いたから。まずこれを飲んで」
「そんなものには意味がない」
「疲れたなら休んで、水飲んでご飯食べて、また立ち上がればいいでしょ? そこで座り込んでたって何にもならないじゃない」
「いつまでそんなことを繰り返せばいいというのだ。終わりなどないのに」
差し出した手は男に鬱陶しそうに払われ、手にしていたコップの水がぱしゃりと白いブラウスにかかった。
「あー……。冷たいじゃない」
でもこんなことには慣れていた。
家には意地悪の限りを尽くさんとする異母妹がいたから。
優しさなんて無意味だ。差し出してもこうして冷たくあしらわれるだけ。そんなことは知っていたのに、どうしても彼のことは放っておけなかった。
他人事には思えなかったから。
濡れたブラウスを乾かすように袖をパタパタさせていると、男の目が一点で縫い留められていることに気が付いた。
彼の目に初めて力が宿り、その顔には驚きが浮かんでいる。
視線の先は私の二の腕。ブラウスが張り付いて、幼い頃からある薔薇の形のアザが透けていた。
「まさか、その紋様をこんなところで見るとは……」
ぽつりと呟いて、男の驚きは自嘲の笑みにとってかわった。
「探しものは諦めると見つかるというのは本当だったな」
「このアザのこと? これ、何なの? 何か知ってるなら教えて」
私もこのアザが何なのか、ずっと気になっていた。
年々大きくなるのに形は崩れるどころかよりはっきりとしてくるし。いやに意味ありげで、はっきり言って不気味だった。
「知らずに育ったのか」
男は訝しげに眉を顰めた。
「母は亡くなったし、父は知らないって。祖父母とはどっちも疎遠だし」
話すほどに一人であると露呈して嫌になる。
けれど男はそんなことには構わず、なるほどな、と呟いた。
「まさか末裔が貴族になっているとはな。見つからないわけだ」
母は養女だと言っていたから、そちらの遺伝ということか。
誰にも求められていない私。
だけど彼は私を探していたという。
それなら。
「私がその末裔なら、あなたの助けになれるの?」
「俺にとっても、多くの人間にとっても救いとなる。だが、それが何なのかを知れば、おまえは力を失うことになる」
なんだそりゃ。と思った。
自分の力のことを自分で知らずに行使するなんて。そんな無責任なことはできない。
そう思ったけれど、男のじっと見る目はあまりに真っ直ぐで。
彼にとって私は希望なのだと感じられた。
だから、気づけば「いいよ」と答えていた。
「私の力、使っていいよ。ずっと私を探して疲れ果てちゃうくらい不器用な人が大悪党だとは思えないし」
私にも、誰かの役に立てることがあるのなら嬉しかったから。
実の母を失ってから家の中に居場所はなかったし、義母と異母妹に疎んじられるうち、気にしていないつもりでもどんどん自分が無価値のように思えてきて、拠り所をなくしかけていた。
だから彼に必要なのだと言われれば、生きていていいのだと思えた。
そう。彼に同情したわけではない。
自分に価値を見出したかっただけ。自分のためだ。
「それなら、契約しよう」
男からいきなりそんな言葉が出て、私は面食らった。
「契約? 八歳の、まだ子供の私と?」
「おまえがまだ子供でまったく力が足りていないからだ。完全に目覚めるのは成人する頃――あと十年ほどはかかるだろう。だから、それまで俺はおまえを守ろう」
「私だけのナイトね。なんか主人公になったみたいでかっこいい。でも、義母と異母妹が何て言うか」
「それならば、他人にはそうと知られぬよう、おまえの傍にあろう」
そんなことができるのだろうか。
スパイとか、そんな感じを想像するとますますカッコイイ。
だからというわけではないけれど、少し悩んだ末に頷いた。
別に守ってほしいわけじゃない。それほど命に危険があるような身分でもないから。
ただずっと傍にいてくれるというのなら、話し相手ができる。そう思っただけだった。
八歳の頭なんて、単純だったから。
異母妹や義母に疎まれてもどうってことない。あんなクソな父親など家にいなくても関係ない、そう思っていても、やっぱり一人は寂しかったのだと思う。
「わかった」
答えれば、男は一つ頷いて私に掌を差し伸べた。
「それでは右手の人差し指を出せ。心臓に最も近い、指を」
「人差し指?」
どこかの国では左手の薬指を最も心臓に近い指として誓いの指輪を嵌めるのだと聞いたことがある。
しかし男は躊躇いもなく、「そうだ」と頷いた。
黙って男の掌に白くまだ小さな手をのせれば、男の鋭利な爪が私の人差し指の先に小さな傷を作った。
ぷくりと血が盛り上がると、男は魅入られたようにその顔を近づけぺろりと舐めとった。
「ちょ、何……?!」
血判ではなかったのか。
手を引っ込めようと力を込めれば、その倍の力がそれを押し留めた。
その目はまた溢れてきた血に釘付けになっているが、まるで本能に抗うかのように男は固まって動かない。
「いたい……、痛いって!」
私の声にはっとしたように男が動きを取り戻し、再び盛り上がっていた血をハンカチで抑えると、ふうと腹の底から息を吐き切る。
「すまない。とても長いこと渇いていたものだからな」
そう言いながら、ハンカチで抑えた指をじっと見る。まるでその下にある赤に恋い焦がれるように。
灰色の瞳がゆらゆらと揺れているのをぼんやりと眺めていたら、それに気が付いた男がふと顔を上げた。
目が合うと、ふっと口元を吊り上げて笑う。
その笑みに、私はなんだか踏み出してはいけないところに足を踏み入れてしまったような、そんな遅すぎる危機感のようなものを覚えた。
「これで契約は完了した。俺を飼うのに必要な決まり事についてはおいおい話そう」
男の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
望んでもいない不穏な言葉に、思わず眉を顰める。
「いや、飼うって何それ」
私にそんな趣味はない。飼うなら白くてもふもふな兎とかがいい。
「俺はおまえから与えられなければ生きてはいけぬ。それでは契約は果たせないだろう?」
「ご飯くらい自分でなんとかしなさいよ。大人なんだから」
戸惑いながらもむっとしてそう返せば、男はその瞳を面白そうに細めた。
「ほう? 勝手にもらっていいのか? 今は体も小さく、怯えさせてはならないと思えばこそ、たったの一滴で遠慮したのだがな」
その言葉に、思わず顔を顰めた。
「何言ってるの? 一滴? あなたのご飯が――?」
それは、さっきの血のことを言っている?
ふと、改めて男を見る。
美しい顔立ちに、冷たい瞳――。
不老不死の代わりに人の血を啜り生きる、そんな生き物の名前を聞いたことがあった。
「あなた、まさか……」
男が口元を拭う仕草は、いやに妖艶だった。
私を見つめる瞳は、先程までとは打って変わって生気に満ちている。
獲物を見つけた、獣のように。
「ちょ……! ちょっと待って、さっきのやっぱりなし!」
本能が告げていた。
これは関わってはいけない生き物だ。
遅すぎる逃走本能が、私の足をじり、と後退させた。
けれど彼はそれを留めようともせず、ゆったりと笑みを浮かべた。
「それはできない。ただの紙にサインをするだけの人間とは違って、吸血鬼の血の契約は絶対だ。契約を違えることはない代わり、契約がある限り相手を害することもない。安心、安全、平等な契約だろう?」
つまり。
この場を後にしても、私は逃げられないということだ。
そして差し挟まれた単語に、ひくりと頬を引きつらせる。
「やっぱり今、吸血鬼って言った……? ものの例え、よね?」
にやりと彼は笑った。
口の端には薄暗い光に濡れた鋭い犬歯が見えた。
「嘘でしょ……。本当に吸血鬼なの?! 私が子供だからって、騙したわね……!」
やられた、と思った。
彼が吸血鬼だと知れば私が気を変えると思ったから、性急に契約を結んだのだろう。
だが男は、くくっ、と楽しげに笑うばかりだった。
「騙してなどいない。おまえは人よりも優れた護衛を手に入れたのだ。俺は役に立つぞ」
「役に立つとか、そういうことじゃない!」
「今更何を言っても遅い。契約は成されたのだから。おまえの力が目覚めるその時まで、俺はおまえを手放すつもりはない。決して、な」
――何そのプロポーズみたいな言葉。
全然きゅんとなんてしない。ただただ食糧として狙われる草食動物にシンパシーを感じるばかりだ。
それでも。
彼が晴れ晴れとした顔で笑ったから。
私を求める彼は、生きる価値がわからなくなっていた私に、生きていていいのだと言ってくれている気がしたから。
私は結局、その現実を受け入れて生きることにした。
十八歳のその時まで。
◇
数日後、家に新しい執事がやってきた。
執事にしてはまだ年若い、二十歳をこえたばかりに見える。
手触りのよさそうな黒髪は肩よりも長く、後ろできっちりと一つに結わえていた。
「本日より執事としてお世話させていただきます。ギルバート、と申します」
――ずっと傍にいるって、執事?!
まさか吸血鬼が、地味に執事として家に乗り込んでくるとは思ってもいなかった。
腰を直角に折るようにおじぎをし、初めて会った時とは別人のような慇懃な振る舞いの彼に、私は面食らった。
「私はシェリア。アンレーン家の長女よ」
それでも身に付いた習性でしっかりと名乗りながら、そう言えば名乗ってもいなかったのに、どうしてこの家の者だとわかったのかと疑問に思った。
「シェリア様。誠心誠意務めさせていただきますので、末永くよろしくお願いいたします」
怜悧な笑みに、あの時馬車の家紋を見ていたのだ、と気が付いた。
あんなにぼんやりとしていたのに、抜け目がない。
これはとんでもない男を拾ってしまったと今更ながらに気が付いた。
銀縁眼鏡をかちゃりと押し上げた奥で、灰色の瞳が妖しく笑った。