第一話 白い場所。アリアナと会い、目を閉じる
目が覚めると、俺は白い空間にいた。
見渡す限り、白の壁、床。そんなものしかない。
「あれ、何で俺はここにいるんだっけ」
何も思い出せない。と言うより何も覚えていない。自分のことも、何で今ここに自分がいるのかも。
ひとまず起き上がって、その空間を歩いてみる。あたり一面が白一色だから、壁と床との境目も分からないし、そもそもどこまでこの空間が広がっているかも分からない。
だから、不格好ではあるけれど、手を伸ばして進むことにした。そのほうが壁にぶつからなくて済むと思ったから。
それにしても、進むならどの方向に進もうか。
ふと思ってしまった。別にどの方向に進んでも良いのだろう。もし、この方向にしか進んではいけないと言われたら、少し他の方向にも進みたくなる。それと同じで、どの方向にも進んで良いと言われたら、どの方向に進むべきか悩んでしまう。人間の行動心理なんてそんなものだよな。
あれ?何で俺はこんな言葉を知っているんだ?
人間。行動心理。
こんな言葉を俺はどこで習ったのだろう。そもそも、俺はどうやってこの言葉達を操れているんだ?
「初めまして」
声のした方を振り返る。
思わず、腰を低くして身構える。
「ああ、そんなに身構えなくても良いですよ。私は怪しい者ではありません」
そう言った人物は、布一枚で作られたような作られたような簡単な衣服を着ていた。体の栓は細く、かと言って弱々しい訳でもたくましい訳でもない。健康そうな体躯だった。紙は金色で腰まで届くほどの長髪。出るところは出ていて締まっているとこは締まっている。それは正真正銘、女性の体だった。
「あら、そんなに見つめられても、私ができることは限られてるんですよ」
そう言って、目の前の人物は微笑んだ。
「あ、そうでした。私は天使アリアナです。以後お見知り置きを」
そう言って、目の前の人物、いや、天使はそう言って腰を折り、お辞儀した。
その立ち振る舞いが綺麗で、俺は思わず見惚れていた。
「さて、そこで立っていても何も始まらないわ」
その言葉で、俺は我に返った。
何か言わなきゃな。
「えっと、俺」
そうだ。俺、自分が誰なのかも覚えて無かったんだ。
アリアナの方に力強く踏み込んでいた足を元の場所に戻して、下を向く。
「……すみません。俺、自分のことが何も分からないんです。なんで、自分で名乗れないんです」
「まあ、そうよね」
「へ……?」
その言葉に思わずアリアナの方を見る。彼女は微笑んだ口元に指先を置いていた。
「大丈夫。ここにくる人たちは大体そうなるから。むしろ正常なくらいよ。それじゃあ、ついて来て」
背中を向けたアリアナは真っ直ぐ進んでいった。
「追いかけ、なきゃ……」
アリアナはいまの俺の状態が正常だと言っていたけれど、どう言うことなのか分からない。と言うよりも、今の自分が置かれている状況に理解が追いつかない。
それでも、何も分からないからこそ、今はついて行くしかない。
アリアナの進んだ方に自分も進む。リアナの進む速度が早いのか、少し走らないと追いつけない。それにだんだん霧が出てきた。だから、きちんと追わないとすぐに見失いそうになる。
どんどん濃くなる霧の中を進む。濃くなるにつれて、自分が進んでいる方向が分からなくなりそうになる。それでも、アリアナを目視できるから確信を持って進める。それだけが心の頼りだった。
俺が走っている間、アリアナが時より後ろを振り返っ微笑んで来た。まるで、俺がついて来るのを確かめるかのように。
その後も、何度か振り返って俺を見てはまた進みだすのを繰り返していた。そして、何度目かの微笑みを見せた後、霧が一層濃くなって、俺の視界には何も見えなくなった。この霧の中だと、もうアリアナは見えていなかった。
――どうしようかな。
そんなことを思っていると、だんだん良い匂いがして来た。香ばしくも甘い匂い。どこか懐かしさを含んでいそうな匂いだった。
「何だっけ。この匂い」
知っている。
知っているはずなのに、なぜか自分でもよく思い出せないでいた。
匂いのする方に歩みを進めると、霧のないところに出た。
そこはどこかの部屋の中らしく、窓からは朝日が指していた。床はタイル張りだが、色が黄土色や茶色だからか、不思議と柔らかい雰囲気を醸し出していた。
「やっときたわね」
後ろからアリアナの声がしたので振り返る。すると、そこには霧なんてなく、ただ壁があるだけだった。その壁の前にアリアナは立っていた。
「あまり驚いていないのね」
「いえ。さっきから何が何だかさっぱり分からないので、とりあえず今は何も考えないでおこうと思っているだけです」
「まあ、そうなのですね。それなら、私に聞きたいことはたくさんあると思います。それについて話すには少し長くかかってしまいそうです。なので、ひとまずあちらのテーブルで紅茶でも飲みながらお話ししましょ」
アリアナがそう言ったので、それに従った。
今のところ、俺がわかっていることは少ない。多分、全てを理解しようとしたら、それこそ一時間じゃ済まないぐらいに。だから、俺は今自分の身に起こっていることを事実として認めるしかない。
テーブルの上には紅茶の入ったガラス製のティーポッドと、クッキーがたくさん乗った皿が置かれていた。
「このクッキーは食べて良いから、とりあえず座ってね」
そう言われたので座る。それから、アリアナが「私もクッキー食べようかしら」と言ってクッキーに手を伸ばしたので、俺もクッキーを食べる。そういえば、さっきたどった匂いはクッキーだったんだな、と、いらないことを考えていた。予想以上にクッキーが美味しかったので、思わず二枚、三枚と手にとってしまう。
「それじゃあ早速だけど、あなたの記憶を戻します。なので、手に持っているクッキーを食べちゃってください」
そう言われたのは、全種類制覇しようと見繕っていたときだった。
慌ててクッキーを口に入れて紅茶で胃に流し込む。
その様子がおかしかったのか、アリアナはクスッと笑っていた。
「それでは、行きますよ。あ、そうでした。あなたは記憶の中で彷徨うかもしれませんが、それでも心の中では『生きたい』と願い続けてください」
「え?それってどう言う」
「それでは、また後で」
そう言ってアリアナが踊るように手を動かすと、青白い小鳥のような物が見えたような気がした。
すると、その小鳥が俺目掛けて勢いよく飛んできた。
今までのことは『そんなこともあるかな?』ぐらいに思っていたが、流石に鳥がぶつかってこようとしているのは怖いと思い、同時に目を閉じた。