第0話 闇は囁く
――何なんだ、あれは……
メリッサはその時、仕事の依頼者からあてがわれた掘建て小屋の中にいた。
彼女の仕事とは警備をすることである。その小屋で待機して巡回警備に行っている仲間との交代を待っていた。
そんな彼女の視界には先ほどから、妙なものが映っている。
黒い大きな染み……いや、穴と言った方がいいのか。
変色した壁紙、至る所が錆びついた椅子や机、天井から吊るされた古びた照明――待機するために設けられた掘建て小屋の中にいるメリッサの目には、古びた屋内の景色に、“それ”が見えていた。
(……穴……なのか?)
メリッサの凛とした大きな目が、パチパチと瞬きした。
いったい何なのか、はっきりしない。
“それ”は、小屋の壁に付着しているというものではなく、まるで小屋の中の景色という絵の上に、ぽたりと垂らした黒い絵の具のようで、“空中にある”という表現がしっくりくるのだ。
ただ、その空中の“染み”は奥行きがあるように見えて、メリッサには“それ”がなんとなく“穴”なのではと思えたのである。
触ってみようか、と思い、穴らしきものに手を伸ばそうとした時だった。突然、机に置いてあった無線機が鳴った。
すぐに注意がそちらに向き、無線機を手に取って回線を開く。
『こちらヘルマン、定時連絡。こっちは異常なしだ』
巡回に行っているヘルマンからだった。
「了解した。もう少しで交代だ」
『ああ、時間に合わせてそちらに戻る。以上だ』
簡素な会話だけで、無線は切れた。口数の少ないヘルマンらしい。
メリッサは今、自身が社長を務めるグレンザール警備会社の仕事で、鉱山の警備にあたっていた。
先ほどから彼女がいるのは、その鉱山の中にある大きく開けた空洞。そこに建てられた休憩所としての小屋である。
6人しかいない社員を2班に分けて、交代で巡回警備にあてている今、メリッサ以外の他2名の社員が、この休憩所で待機していた。
「まっずいなぁ、これ安物のお茶だね」
待機中の社員の1人が、休憩所に備え付けられた紅茶を飲んで、渋い顔で言った。
見た目が15歳ほどの少女であるその社員は、うえっと舌を出して見た目の年頃らしいコミカルな表情で、紅茶の味の不出来を訴えた。
「こら、ヴァル。休憩所を用意してもらってるんだ、贅沢言うもんじゃないぞ」
確かに紅茶は不味かった。いつ買ったお茶だ、と疑うほどだ。
ただ、内心そうは思いながらもメリッサは、不味いと言った少女――ヴァルを嗜めた。
すると、もう1人の社員が、カップに鼻を近づけて香りを楽しむように湯気を吸いこんで見せてから言った。
「そうだよ、ヴァルちゃん。我がままはいけないな。麗しいレディーとお茶が出来るんなら、俺にとっては安物のお茶でも王宮ご用達と同じ味だ」
そんな歯の浮くようなセリフを言った男は、アルレッキーノ。
長髪に、ピアス、無精髭といかにも柔軟な見かけの彼は、中身も同じで、美しい女性にはこういったセリフを吐かなければ気のすまない性分らしく、社長のメリッサ相手でもそれは変わらない。
とはいえ、彼の言うことはお世辞ではなく、実際、メリッサ器量は良かった。
18歳だというのに、「似合わないから」と同じ年頃の女性のように服で飾り立てたり、化粧をしたりもせず、髪も後ろに結っただけであるにもかかわらず、もともと持った整った顔立ちときりりとした佇まいが美しさとして表れていた。
しかし、この時、アルレッキーノの誉め言葉を受け取った相手は違った。
「え? ヴァルが麗しいって? ヴァルとお茶飲むとそんなに美味しくなっちゃうのか~」
ヴァルが自分を指して言った。
「そうなんだ~、もう、アルってば、褒め上手だねぇ、そんなに美味しくなるならどんどん飲んで」
頬を赤らめ、くねくねと身をよじりながら、ヴァルがポットからアルレッキーノのカップになみなみと紅茶のお代わりを注いでいく。
一方のアルレッキーノは「ははは……ありがとう……」と褒めた相手が違うことを訂正せず、不味いお茶が注がれていくのを引きつった笑顔で見ていた。
待機とはいえ、勤務中なのに緊張感がないな、とメリッサは2人を見て真面目に考える一方で、そのやり取りについつい笑ってしまう。
ふふっと笑いが漏れたところで、ふと先ほどの“穴らしきもの”のことを思い出し、それがあった方に顔を向ける。
「……ん?」
穴が消えてる。
おかしいな、見間違いだったのかと思って1点を見つめていると、アルレッキーノが声を掛けてきた。
「お嬢、どうしたんですかい?」
「あ、いや。さっき空中に妙な……穴? みたいなものが開いてて……でも今見たら消えていたんだ」
「え? 何言っているんです?」
アルレッキーノは怪訝な顔をしつつ、メリッサの視線の先に自分も目を向けた。
「何もないですけどねぇ……」
「お嬢様、大丈夫?」
「いや、もう消えてしまったんだ! ちゃんとさっきまではあったんだ!」
ヴァルにも心配されて、メリッサはややむきになって説明しようと声のボリュームを大きくしたところで、再び“穴らしきもの”が目に入った。
「あ……」
空中の一点を見つめてメリッサの動きが止まった。
それは、先ほどとは違う場所に出現していたのだ。相変わらず、空中に黒々と存在しているのだが、先ほどと比べると大きな変化が生じていた。
(いったい何なんだ、あれは!)
先ほどと同じような感想を抱いて、メリッサはぎょっとして固まった。
今度は、真っ黒な穴の奥に、青白く淡い光の塊が浮いているのである。
「あ、あれだ! あれ!」
慌てて指を指して声を上げる。
「えっ?」と言ってアルレッキーノとヴァルが、メリッサの指した方が向くが、かえってきた反応は彼女の期待していたものとは違った。
「何にもないですよ」
「うん、ヴァルにもなんも無いように見えるよ」
さらに怪訝かつ心配な表情をする2人。
正直、その視線がメリッサには痛い。
(そんな……2人にはあれが見えていないのか?)
自分がおかしいのだろうか、とメリッサの中に不安がよぎる。
あんなにはっきり景色の中にあるものが、自分以外に見えないとは、彼女は自分の正常さに自信が無くなってきた。
不安どころか、焦りすら感じ始めているメリッサに、さらなる追い打ちがかかる。
――キ………………ルカ…………
今度は妙な声が聞こえた。
途切れ途切れだが、重く、腹の底に響くような不気味な男の声だ。
ただ、その声に、びくりと反応したのはメリッサだけだった。
(おいおい、今度は声まできこえたぞ! 大丈夫か、私……)
妙な声に表情を強張らせる彼女を、アルレッキーノとヴァルは、ぽかんと口を開けて眺めている。この様子では聞こえたのは自分だけだろうと、メリッサは考えた。
(ここで、声が聞こえたなんて言ったら、余計に心配されるだろうなぁ……)
社長であり、現場の指揮官でもあるメリッサは、自分がしっかりしなくては社員に不安を与えてしまう。
自分の正常さうんぬんより、今は社員の士気の方が大事だ。
彼女の実直な性格の頭は、そう考えて次に取るべき言動をはじき出した。
「あ……いや、すまない。どうやら見間違いだったようだ。ははは」
メリッサが出した答えは、見間違いと認め、そして、笑ってごまかす、だった。
「あの、お嬢、本当に大丈夫ですかい?」
「大丈夫! 大丈夫だ。ちょっと影を見間違えただけだから」
アルレッキーノもヴァルも、首を傾げながらも何とか納得してくれた。が、今でも光の塊が浮かぶ穴も見えるし、妙な声も聞こえる。
メリッサは、さっさと消えてくれと願いつつ、穴からは視線を外し、声は無視をし続けた。
その場は収まったところで、再び不味い紅茶をすすりながら、アルレッキーノが別の話題を振った。
「しかし解せやせんね。MIといや、世界で1、2を争う大企業だってのに、俺たちみたいな中小警備会社を雇うなんて。鉱山の警備だって子飼いの私兵でも足りるでしょうに」
カップに注がれた紅茶に息を吹きかけながら、アルレッキーノがメリッサに疑問を投げかけた。
今、メリッサたちが警備にあたっているのは、マーリン・インダストリ社の所有する鉱山である。
マーリン・インダストリ社は複数の国を股にかけて活動する大企業であり、主に魔法の力を原動力とする製品の開発・製造を行っている。その製品の種類も多様で、家庭用の小型のものから兵器まで扱う多角経営企業である。
「確かにな。鉱山のレアメタルを狙って、テロリストが襲撃する事件は過去に何件もあった。MIが自前の戦力で備えていないのは不思議ではあるな。だが、最近は出回る兵器の性能が上がったのか、テロリストも凶悪になっているからな、自前の戦力だけで対応するのではコストがかかり過ぎるのだろう」
メリッサは片手に持ったカップをくるくると揺すりながら話を続けた。
「それに、この鉱山はあと数年で閉鎖するらしい。だから、少しはMIの兵士が配備されてはいても、補充は我々のような弱小の委託警備会社で十分というわけさ」
言葉の最後に、自嘲気味な微笑みを浮かべた。
「あっ、MIで思い出したぜ」
ふいにアルレッキーノが顔をしかめて、机に置いてあった新聞を指した。
「ここ最近、MIの魔導工学部門の責任者に、若造が就任したんですよ」
「へぇ、なかなかハンサムじゃん」
ヴァルが記事の写真をしげしげと眺める。
「けっ、何が『若き天才科学者、魔導工学の貴公子』だよ。俺の方が優れた科学者で、顔もいいっての!」
「あはは、アル、男の嫉妬は見苦しいよぉ」
「なんだって?」
ヴァルとアルレッキーノのやり取りに、メリッサはくすっと小さく笑い、ふと部屋の時計に目をやった。
「そろそろ交代の時間か……」
そう呟いて、巡回に行っている他のメンバーのことを考えたその時だった。
――突如としてそれは起きた。
耳をつんざくような爆発音。
同時にメリッサのいる小屋は、鉱洞ごとぐらりと揺れた。
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