《9》
「そういえば、あの子は部活に入ってないのか?」
「あいつ? 今はやってないけど」
夕食時、向かいの父に不意に尋ねられすぐに答える。
父が久しぶりに気にする息子の唯一の友人は、もうとっくの昔にバレーは飽きてしまった。
「なんであいつ?」
「いや、さっき帰りに見かけたから」
「どこで? この辺?」
今日仕事帰りに偶然彼を見たらしい父にすぐさま食いつくと、向かいの父も驚いた。
「……なんだ? 遊びに来たんじゃないのか?」
「いいから、どこであいつを見かけたの? もしかして家の近く?」
「いや、駅の近くだけど」
「駅…………なんだよ。どうせならもっと早く帰ってくれよ」
彼はすでに電車で帰宅する直前だったらしい。結局父の目撃情報は家から遠く、がっかりと八つ当たりする。
「親父、本当にあいつだった?」
「…………そういえば、お父さんも最近会ってないしな。あの子、もっと大きくなったのか?」
「何だよ、結局人違いかよ」
友人の今の姿に今さら自信を失くした父の目撃情報は結局当てにならず、佑真も父に呆れて終わった。
「背が高いからてっきりあの子かと思ったんだけどな…………お前と同じ制服を着てる子はめずらしいから」
確かにこの近辺で中高一貫の進学校に電車で通っている学生は佑真の他に少なく、滅多に見かけることがない。
最後に付け足した父の呟きに、なぜか父の隣にいるあいつが小さく震えた。
視線さえ向けない佑真はどんなにわずかでもあいつの反応だけは決して見逃さなかった。
「そういえば、最近この辺りに出るらしいよ」
「……何が?」
「わざわざうちの制服に着替えたナンパ目的の高校生」
1年程前クラスの女子生徒がうるさく騒いでいた噂の情報を今頃になって思い出した佑真は、今日目撃した高校生がそうかもしれないと父に教えてあげた。
「ナンパ……? そんなのが流行ってるのか?」
「みたい」
「遥希、帰り道は気を付けなさい」
すぐに険しい表情を滲ませた父が、さっそく隣のあいつを心配し始める。
あいつがちゃんと頷くと、父と一緒に佑真も安心してあげた。
昨夜、可愛い娘を心配する父が注意する前に、娘もちゃんと注意はしていたらしい。
姉に会いたいなら学校帰りに待ち伏せすればいいと佑真にアドバイスを受けさっそく昨日実行した彼は、見るも無残な結果に終わってしまったようだ。
今日はとうとう授業中さえ机に伏せてしまった彼は先生にまで心配され、ようやく顔を上げる。
生気すら感じない彼にすぐ早退を促しても頑なに席から動こうとしないので、先生も気懸りそうに傍を離れた。
精神的にあれだけ不健康な状態で授業の内容など身に付くはずもないのに、それでも彼は今日も学校を休まなかった。
ただじっと席に居座り続け、ひたすらあいつのことだけを休みなく考えている。
彼は昨日一睡もできなかったのだろうか。すでに目は赤く、はっきり隈が浮かんでいる。
ここ最近おかしい彼がとうとう明らかに異様な状態に、クラスメイトの心配と噂は休み時間ごとに尽きない。
恋とはここまで人を地に落としてしまうものか。
さすがにここまで成り果てるとは思いもよらず1日近づけなかった佑真も、授業が終了するとようやく恐るおそる彼の様子を窺った。
「……玄、あのさ、もしかして駄目だった?」
昨日の自分のアドバイスなどまったく役に立たなかったどころか、もしかしたら逆効果だったのかとおずおず結果を尋ねる。
彼は目の前に佇んだ佑真の問いかけに答えることなく、視線も向けてくれない。
「てっきり上手くいくと思ったんだよ…………でもごめん。俺も軽はずみだった」
反省する佑真が申し訳なく思いちゃんと謝ったのに、彼は謝罪も受け取ってくれない。
それどころか彼は目の前にいる佑真の存在にさえ、今だ気付いていないらしい。
「……玄、無視すんなって。俺も辛いんだよ。お前だったらうちの姉ともうまくやれるんじゃないかって、ちょっと期待してたし」
嫌われている自分の代りに姉と仲良くなってほしかったと無念を伝える。
目の前にいる佑真を忘れていた彼が、ようやく耳だけで佑真を思い出した。
「……佑真、今何時だ」
「もう授業終わったけど」
すっかり時間も忘れていた彼に下校時間であることを教えると、彼が突然席から立ち上がった。
「なに急に慌ててんだよ…………お前、今日もあいつを待つつもりじゃねえよな」
昨日の待ち伏せで完全に懲りたかと思えば、彼はまだ諦めていなかったらしい。
彼のしぶとさに佑真も驚き、急いで教室から立ち去ろうとする彼の腕をとっさに掴んだ。
「離れろ!」
彼が佑真に初めて大きな怒鳴り声を上げた。
学校ではいつも穏やかだった彼が突然爆発させた怒りに、教室中が一気に冷え込んだ。
唖然と驚くクラスメイト大勢の視線など一切気に止めない彼は、掴まれた佑真の手をこっぴどく振り払う。
あいつ以外何も大切じゃない彼は、あいつと自分を隔てようとする邪魔な佑真に激しく牙を剥いた。
すでにあいつに向かって去ってしまった彼に残された佑真は呆然とその場に佇み、初めて身体を震わせた。
いつも自分を怖がるあいつのように、彼が怖くて小さく震えた。