《5》
茶の間のテーブルに置かれていた電車の定期券に気付く。
すぐに隣の台所に向かうと、鍋の前に佇む父に声を掛けた。
「あの定期、俺の?」
「……定期? ああ、あれは遥希のだ。帰りは友達と電車に乗るって言うから、新しく作ったんだ」
思い出した父から新しい定期券の持ち主を伝えられると、思わずその場で舌打ちした。
「佑真、何だその態度は」
すぐさま振り返った父にめずらしく咎められても、佑真は反省するふりもしない。
「遥希は部活に入ってないし、帰る時間が違うんだ。別に構わないだろ」
すぐに諦めた父がまた鍋に向かうと、佑真も仕方なく諦めた。
あいつの通う高校が近いせいで面倒事がまた増えた。
今までずっと自分を避けるためバスに乗っていたくせに、2年になって急に気分を変えやがった。
偶然電車でばったりなど絶対ごめんだ。これから帰りは慎重にならなければならない。
完全にあいつに振り回されている自分がたまらなく嫌で、台所から抜け出すと一気に2階へ駆け上がる。
自分の部屋に飛び込んだ佑真は傍にあったゴミ箱を衝動に任せ蹴り飛ばした。
アコーディオンカーテンにぶつかった直後、カタンと小さな音が響く。
今日も震えたあいつがすぐさま逃げ出したのがわかった。
「おい、玄」
授業終了後すぐに帰り支度を始めた彼に近寄ると、一瞬だけ視線を向けられた。
「お前、何慌ててんの? 用事か?」
「いや……何だ? 話か?」
否定しながらも明らかに急ぐ様子の彼は、さっさと佑真に続きを促した。
「そこの図書館寄ってくけど、お前も行かねえ? 今日からテスト休み入った」
明日からのテスト期間終了まで3日部活が停止になり、けれどこのまま早い電車に乗ることもできない佑真が学校近くにある図書館へ誘う。
彼は返答する前に自分のカバンを肩に掛けた。
「悪い、先帰るな」
「だから何で? お前最近いつもそうじゃん」
2年に進級して数か月、突然帰りは挨拶一言残し慌てて去ってしまう彼を、今日こそ本気で訝しがる。
「佑真、また明日な」
佑真の問いかけにさえまともに答える余裕がない彼は挨拶だけ残し、足早に教室のドアへ向かってしまった。
急ぐ彼の後ろ姿を目で追いかけた佑真は、不意にざわりと嫌な感覚を覚えた。
少し前まで嫌というほど味わった彼の後ろ姿を、再びまざまざと思い出す。
今度は佑真が彼の後ろ姿を急いで追いかけ始めた。
「玄」
再び彼の後ろ姿を見つけた。
佑真の呼び掛けに、彼はすぐ反応する。
ここにいるはずのない彼は、背後の佑真が呼ぶとちゃんと振り返った。
「佑真」
振り返った彼が背後の佑真を見つけた。
佑真を呼んだ彼がとても驚いた。
まだここにいるはずがない佑真に明らかに動揺した。
「知らなかった。お前、いつの間に変わったんだよ」
笑顔を浮かべた佑真が彼に理由を尋ねる。
確かに以前、彼は言っていたはずだ。
毎日電車は大袈裟だと。
中学から一度だって電車に乗ることをしなかった彼は、今まで毎日バスで通学していた。
「佑真」
彼は再び佑真を呼び、理由を答えなかった。
とっさに嘘を吐けないほど動揺する彼は、佑真を見つめる目にわずかな脅えを浮かべた。
「ちょうど良かった。だったら明後日まで一緒に帰れるよな」
再び明るく笑顔を浮かべる佑真が部活休みの間はめずらしく一緒に帰宅できると喜ぶと、今度はあからさまに脅えを浮かべた。
「佑真、悪い。俺は乗らない」
「何言ってんだよ、ホームに立ってるのはお前だぞ。ほら、もう電車が来ちまった。さっさと乗るぞ」
とうとう声まで震わせた彼が拒否すると、佑真はおかしそうに笑いながら彼の腕を掴んだ。
ちょうど今目の前で止まった電車のドアが開き、強引に彼と一緒に乗り込む。
どうせなら車両の真ん中まで移動しようとすると、掴んだ彼の腕がとっさに抵抗した。
「ここでいい」
ドア手前で一切動こうとしない彼はすでに大勢乗る高校生の姿に背を向け、じっと固まった。
掴まれた佑真の手を振り切ったこの瞬間、とうとう他人のフリが始まった。
彼はようやく気付いたのだ。
この電車に乗ったことが最悪の致命傷になることを。
目の前の欲だけに目が眩んだお蔭でバスから降り電車に乗ってしまったことを、たった今絶望的に後悔した。
「俺さ、今日図書館行くのやめたんだ」
ドアの窓だけを見つめる彼に、同じく隣に佇んだ佑真は笑って伝える。
毎日部活で帰宅は必ず遅く、今日も図書館に寄ると言っていた友人にすっかり油断していた彼は、隣の佑真に覗き込まれすぐさま横顔をそらした。
「なあ玄、せっかくだからこのまま俺の家に来いよ」
とっさに思いついた佑真が周囲の高校生に響くほどはっきりと彼を呼び、自分の家へ誘う。
よほど驚いたのだろう、隣の彼は一瞬身体を竦ませた。
「一緒に勉強してけばいいじゃん。お前中学の時、毎週必ず俺の部屋で勉強しただろ。懐かしくねえか? あのアコーディオンカーテン」
おかしそうに笑う佑真の口から飛び出したアコーディオンカーテンは、中学生だった彼が佑真の部屋に入るたび真っ先に気にしていたはずだ。
それなのに今の彼は目を瞑ってしまうほど嫌がっている。
あまりにも隣の彼が脅えるのでようやく可哀想になってしまった佑真は、そろそろ冗談をやめた。
「……なあ玄、本当のことを教えてやろうか」
声を潜めた佑真がようやく冗談をやめたというのに、彼はわずかに首を振った。
佑真の囁きを聞きたくないと首を振り、必死に抵抗した。
そんな事にまったく気付かない佑真は神妙な表情を浮かべると、大切な友人である彼にだけ特別教えることにした。
「お前だってずっと気にしてただろ? アコーディオンカーテンの向こう側、一体誰の足音だと思う?」
彼はアコーディオンカーテンを一番最初に見つけた時、すぐ隣から響いた足音を確かに気にしたはずだ。
それ以降、彼は足音を気にするあまり毎週必ず佑真の部屋に入り続けたのだ。
あんなにも気にしていた彼にようやく答えを教えてあげるというのに、ひどく脅える彼はとうとう耳を塞いでしまった。
「……玄、心配すんな。そんなに怖がんなよ。あれはな、俺の姉だ。双子の姉なんだよ。臆病な奴でさ、俺の部屋に知らない奴が入るとビビッて隣から逃げちまう。可哀想な奴なんだ…………親父と離婚したあいつの母親が勝手に死んじまったから、あいつは途中で独りぼっちになっちまった。親父がまた育て始めたんだ。俺もあいつには同情しちまう」
耳を塞いでしまった彼の手を安心させるようにゆっくり引き剥がすと、とうとう真実をすべて話した。
ようやく彼の耳が、わずかに悲しそうな佑真の声を受け付けた。
瞑ってしまった彼の目が再び開くと、隣の佑真を恐るおそる見つめ始める。
「……佑真、本当か?」
「お前に嘘ついてどうすんだよ。な? 別にホラーでも何でもないだろ?」
呆気にとられた彼を今度はおかしく笑うと、彼もようやく信じてくれたらしい。
「そうか…………なんだ」
何かを勘違いしていたらしい、極端に安堵した彼が深い息と共に呟く。
自分の姉を気遣う隣の佑真に、とうとう弱々しくも笑みさえ浮かべてくれた。
「……そういえばあいつ、もしかしたらこの電車に乗ってるかもな。部活もやってねえし、いつもこの時間に帰ってるみたいだ」
とっさに気付いた佑真が周りの高校生の姿からゆっくり姉を探し始める。
まだしばらく躊躇していた隣の彼が、それでもとうとう我慢できなくなったのか背後を気にし始めた。
彼が振り返ろうか迷い始めた瞬間、隣の佑真は大切なことを思い出した。
「失敗した…………思わずあいつを探しちまった」
突然元気を失くした佑真が、彼と同じく周りの高校生に背を向ける。
訝しげな表情を浮かべた隣の彼に視線を向けられ、思わずため息を吐いた。
「……俺、あいつに嫌われてたんだ。しばらく離れて暮らしてたからさ、なぜか俺が怖くて仕方ねえみたいなんだ。話したくても口も開いてくれねえし、目さえ合わせてもらえねえ。自分の姉に嫌われるなんて最悪だよな、俺なんか……」
悲しく呟いた佑真は、隣で話を聞いてくれた彼と再び目を合わせた。
「あいつは極端な奴だからさ…………俺だけ嫌えばいいのに、俺の周りもすべて嫌がる。絶対近づかねえんだ。なあ玄、思い出すだろ? 昔お前が俺の部屋に入る度、あいつはすぐさま隣から逃げ出した。どうしてもお前に会いたくなくて、必死に1階の縁側まで隠れるんだ。別に顔を合わせるわけでもないのに、お前の声だけであんなにも怖がる。俺のせいだよな…………ごめんな? もし万が一お前の顔見たら、お前も一生あいつに嫌われるんだろうな。俺みたいに」
幸い姉とはまだ一度も顔を合わせたことがない彼を、無意味に同情してしまう。
ちょうど途中の駅で電車が止まり目の前のドアが一度開くと、隣の彼が動き始めた。
「おい玄、ここじゃねえだろ」
降りる駅を間違えた彼に呆れながら、佑真もすぐ後に続く。
引き止めようとする手をとっさに振り払った彼は、他は誰も降りない無人駅の隅にしゃがみこんだ。
目の前の柵に掴まり、草むらの地面に嘔吐し始める。
「なんだお前、電車に酔ったのか?」
ひどく苦しむ彼を心配した佑真は急いで傍に近付き、背中を擦り始めた。
「触らないでくれ」
彼は息喘ぎながら一切近寄られたくないと、背後の佑真を突き飛ばした。
何とかようやく立ち上がり、その場に佑真を放って無人駅から逃げ去った。