《3》
「佑真、明日も家に行っていいか?」
帰りのホームルームが終了するや否や、友人はすぐ目の前に佇んだ。
机に入った荷物をゆっくりカバンに詰め込んだ佑真は、ようやく彼を見上げる。
「何で? テストはまだずっと先だろ」
「わからない文章問題がある。佑真は国語得意だろ」
国語は同じくらい成績の良い彼が佑真に教えてくれと頼んだ。
確か先週も同じことを言われ英語を教えたし、先々週は古文だった。
唯一数学が苦手な佑真とそれ以外の教科はほぼ同等な成績を誇る彼は、この1カ月プライドもなく佑真に教えを求めてくる。
「わざわざ俺の家まで来んの大変じゃん…………図書館とか」
「そんなに距離は変わらないよ」
「玄の家は?」
「うちは家族が多いし、いつも騒がしいから。佑真だめか?」
「…………別にいいけど」
結局断らず了承すると、彼はようやく安堵したように笑顔を浮かべた。
佑真の部屋をすっかり気に入ったらしい彼はこの1カ月、金曜日になると佑真に許可を求める。
そして彼はこの1カ月、土曜日になると電車に乗り佑真の家を訪れるようになった。
「明日も友達来るから」
「最近まめだな…………わざわざ電車で来るんだろ? 佑真、勉強教えてもらってるのか?」
「最近は俺が教えてるんだよ」
礼儀正しい友人の訪問に最初は喜んでいた父も、それが毎週続くと申し訳なさそうな表情を浮かべるようになった。
世話になっているのは自分だけじゃないと言い返すと、父の作ったカレーライスを食べ始める。
まだ祖母がいた一昨年頃まで、父が台所に立つことは一度もなかった。
完全な料理初心者であった父はその上とても不器用らしく、最初はしばらく悪戦苦闘の毎日だった。
少し前まで食べられたものじゃなかった父の大雑把な料理だが、ここ最近は気を遣い始めたのか格段にマシになった。
けれど佑真は父なりの気遣いを感じるカレーより、少し前の不味いカレーを無性に食べたくなる。
たとえ不味くても、父が佑真の為に努力して作ってくれたカレーだからだ。
父が気遣ったカレーなど本当は食べたくもないほど嫌いなくせに、父に知られたくなくて仕方なく今日も口に運ぶ。
「遥希、どうだ? カレー食べられるか?」
気遣わしげな父が優しい声で、隣に座るあいつに尋ねる。
「うん」
「明日は遥希の好きなもの作ろうな。何が食べたい?」
「………………」
「エビフライか? ハンバーグも好きだろ?」
「何でも好き」
あいつが小さく答えると、父は慌てて思い出したように目の前の佑真にも視線を向ける。
「佑真は? 何が食べたい」
「エビフライとハンバーグ以外」
あいつの好物など絶対に食べたくない佑真はそっけなく父に答える。
少し前までうんざりするほど食べた不味いカレーが好きだと正直に続ければ、父は本当に傷つくだろう。
ちゃんとわかっている佑真はそれ以上決して言わない。
「そういえば遥希、新しい学校はどうだ? もう慣れたか?」
すぐに話題をそらした父が再び隣のあいつを気にし始めた。
「うん、もう大丈夫」
「勉強は? ちゃんとついていけるか? 友達は?」
佑真と違い勉強も不出来、どんくさくて大人しいあいつに、昔から父は何かと心配が尽きない。
自分よりすべて劣るくせに親から愛されることだけは上手いあいつは、今健気に笑顔を浮かべ父に首を振っているのだろう。
絶対に視線を向けない佑真がカレーを食べるスプーンを皿に放り投げると、あいつの握るスプーンが小さく震えた。
「お父さん、ごちそうさま。美味しかった」
今日も逃げ出したあいつが茶の間からいなくなり清々すると、再び残りのカレーを食べ始めた。
「……佑真、おかわりするか?」
「いらねえ」
優しい父の声が最後に向けられると、いつものようにそっけなく拒否する。
あいつの為に頑張った父の不味くないカレーなど、これ以上食べたくもない。
「佑真、ここを教えてくれ」
今日も佑真の部屋に入った友人はテーブル前に座ると、さっそく国語の文章問題を広げた。
いつも穏やかな彼がいつもよりやや強い口調で、向かいの佑真にはっきり伝わるように尋ねる。
すぐにアコーディオンカーテンの向こう側から今日も小さな足音が響いた。
向かいの彼は目の前の文章問題を見つめ、じっと耳を研ぎ澄ませた。
「どうした? 佑真」
「何でもねえ…………やるか」
隣の足音がちゃんとなくなったことに明らかに安堵した彼は、再び佑真に教えを促す。
仕方なくやる気を出した佑真は文章問題に目を通すと、さっそく彼に教え始めた。
「わかった?」
「大丈夫だ。ありがとう」
彼にとっては大して難しくもない文章問題にようやく納得すると、佑真に礼を言う。
「玄、外行く?」
「まだわからない所がある。佑真、今度はこれを教えてくれ」
外へ遊びに行こうと誘うと、まだわからないフリを平気で続ける彼が急いで別の文章問題を適当に指差した。
佑真がわざとうんざりした表情を浮かべても、彼は一切気付こうとしない。
馬鹿馬鹿しい思いで仕方なくまた教えるフリを始めると、彼はもうわからないフリもやめてしまった。
目の前の文章問題だけをじっと見つめながら、佑真の問いかけにすでに相槌すら打てない。
「悪い、トイレ貸してくれ」
突然立ち上がった彼は佑真の返事も聞かず、勝手に部屋を出て行ってしまった。
音1つ響かせず階段を下りていく彼から無理やり意識をそらした佑真は、目の前の文章問題を再び読み返した。
もう3度同じ文章問題を繰り返し読んだというのに、いつもならようやく戻ってくる彼が今だ佑真の部屋に現れない。
とうとう今日こそ我慢ならなくなった佑真は腰を上げてしまった。
彼と同じように音なく階段を半分降りていくと、すぐに彼の後ろ姿を見つける。
階段で佇んだ背後の佑真に気付くこともない彼は、ただ廊下の端から遠くを見つめている。
彼の視線の先には確かに縁側があった。
廊下の端から遠くの縁側だけを見つめる彼の後ろ姿は、佑真が一度も見たことがない彼だった。