《20》
「やったぁ! 今日で3日連続だぁ! いらっしゃ――――いモヤシ君!」
今日もジムを訪れた佑真をさっそく見つけた彼女が、遠くからブンブン手を振っている。
すでに遠くにいる彼女を見つけていた佑真は、再びぼんやりと歩き始めた。
「……ん? なぜだろう…………私は全然近づいてないのに、モヤシ君がいつの間にか目の前に佇んでいる…………おかしい…………不思議だ………………あ! そっか! めずらしくモヤシ君から私に近付いたんだ!」
目の前まで近づいた佑真にようやく納得した彼女は嬉しそうに笑った。
佑真はまだぼんやりと笑顔の彼女を見つめた。
「どうしたの? モヤシ君、そんなに私の笑顔ばかり寂しそうに見つめちゃって………………あ、もしかして理沙さんが突然恋しくなっちゃったかな?」
「うん」
「あ、モヤシ君が素直に肯定しちゃった…………さすがに理沙さんもドキドキ。ごめんねモヤシ君、今日は何も思いつかないや」
初めて素直な佑真にうっかり動揺してしまった彼女が、今日ばかりは佑真の気持ちがわからないと謝る。
今日だけ彼女が気付いてくれなかったので、仕方なくこれ以上待つのを諦めることにした。
「お願いがある…………傍にいてくれねえか」
「モヤシ君」
「親父が帰ってくるまででいいんだ。お願いだよ、今日だけあんたに傍にいてほしい」
今日だけ彼女の手からもらい続けた勇気だけでは足りなくなってしまった佑真は、今日だけ彼女そのままを望む。
佑真に望まれた彼女が、すぐに佑真の傍へ来てくれた。
勇気を注いでくれた彼女の手が、佑真の頬をすぐに包んでくれた。
「私は全然まだまだだ…………ようやくモヤシ君の心がわかった」
佑真は確かにさっき伝えたはずなのに、佑真に触れて初めて気付いたと言う彼女は嬉しそうに頷いた。
「これからもずっと傍にいるよ」
彼女の傍にいたいと望んだ佑真は、いつも彼女に会いに行った。
佑真の傍にいることを望んでくれた彼女は、佑真が会いに行くといつも喜んだ。
彼女といる時間は楽しくて、嬉しくて、佑真をとても安心させてくれた。
気が付けば秋が過ぎ、そして冬の寒い年末を迎えると、半年に一度必ず帰ってくるあいつがまた笑顔で佑真の帰りを待っていた。
父を通してあいつと会話をし、壁の向こう側にあいつがいる眠れない一夜を彼女と共に過ごした。
2日経ちあいつが帰った夜もやはり彼女に会いに行き、彼女と共に笑った。
彼女と共に過ごす中、しばらく鳴りを潜めていた月に一度訪れる発作のような症状が、佑真の心に再び襲い掛かった。
遠くの友人に会いに行かなければならない衝動に、佑真の良心など抗うことすらできない。
仕事から帰ると無我夢中でバックに荷物を詰め込み、父にはいつものように突然出張が入ったと偽る。
平静を装い父に見送られ玄関引戸を閉め切った瞬間、脇目も振らず駅に向かって走り出す。
何も知らない、何も聞こえない。
交通手段の新幹線に今すぐ駆け込まなければ、佑真はもう間に合わない。
周りの通行人が徐々に溢れ異様な目を向けられながら、佑真だけ何も見えずがむしゃらに走り続ける。
何も聞こえない佑真の耳に、初めて微かなメロディが響いた。
何も知らない佑真の頭に、初めてメロディの曲名が浮かんだ。
何も見えない佑真の目に、初めて手に握るスマホが飛び込んだ。
何も気付かなかった佑真の心は、初めて彼女を思い出した。
佑真は突然躊躇した。
躊躇いを見せた佑真の足が、突然鈍り始めた。
とうとう立ち止まってしまった佑真の心が、突然彼女を求め始めた。
彼女を探し始めた佑真の足が、突然背後に向かって再び走り始めた。
彼女がベットの前で立ち止まった。
佑真は彼女の前で立ち止まった。
佑真と彼女が初めて向かい合った。
「泊めてほしい」
佑真が一言頼むと、彼女は首を傾げた。
「何を止めてほしい?」
彼女に問われた佑真は、彼女に止めてもらう事をすでに望んでいた。
「あいつを止めてくれ」
「佑真のお姉さんはどこにいる?」
「遠くだ。あいつはまた遠くに行った。あいつを止めてくれ」
「どうしてお姉さんを止めるの?」
「あいつが見つけてしまう。あいつが見つける前に止めてくれ」
「お姉さんを見つけるのは誰?」
「あいつだ、俺の友人だ。あいつはいつも見つけてしまう」
「佑真の友人はどうしてお姉さんを見つけるの?」
「あいつが好きなんだ。あいつが好きだから、いつも勝手に探し始める。いつも俺に内緒であいつを探し出す」
「どうして彼はお姉さんを探してはいけないの?」
「あいつは駄目なんだ。あいつだけは駄目だ。あいつが傍に行ったら駄目なんだ」
「どうして彼はお姉さんの傍に行ったらいけないの?」
「あいつが離れないからだ。あいつは絶対離さないからだ」
「どうして彼はお姉さんを離してはいけないの?」
「帰ってこれなくなる。あいつがとうとう帰れなくなる」
「お姉さんが帰れないと、佑真はどうして困るの?」
「俺のものなんだ。あいつは俺だけのものなんだ。あいつだけは俺のものなんだ」
「お姉さんが佑真のものなのは、なぜ?」
「あいつが望んだからだ。あいつの一番は俺だからだ。いつだってあいつは俺のことばかり考えてる」
「お姉さんはどうして佑真を望むの?」
「俺が可哀想だからだ。俺がとても可哀想で、あいつだけはいつも俺のものになろうとする。あいつだけは離れちゃ駄目なんだ」
「お姉さんが離れると、佑真はどうして駄目なの?」
「あいつは屑の片割れだ。母親に置き去りで捨てられた屑の片割れだ。そして俺は母親に嫌われた片割れだ。嫌われ者な俺は、屑のあいつにだけは捨てられちゃいけねえんだ。嫌われ者な俺は、屑のあいつにだけは嫌われちゃいけねえんだ」
「お姉さんが離れるのが怖いんだね。お姉さんに離されるのが怖いんだね」
「違う。怖いのはあいつだ。あいつはいつも俺を怖がる」
「そうだね、お姉さんは佑真が怖い。佑真がお姉さんを怖がらせたから。佑真はお姉さんが離れるのがとても怖くて、必死で怖がらせた。佑真が怖がらせると、お姉さんはそんな佑真を可哀想になるから。佑真がとても可哀想になったお姉さんは、佑真から離れないから」
「それでもあいつは離れた。いつもなかなか帰ってこない。俺はまた怖がらせなきゃならねえんだ。あいつをまだ怖がらなきゃいけねえんだ」
「そうだね、佑真はもうお姉さんを怖がらせることができなくなった。とうとうお姉さんを怖がることも嫌になってしまった」
「俺を止めてくれ。俺はもうあいつに会いに行ったらいけねえんだ」
佑真はとうとう彼女の足に縋り付き、彼女に止められたいと懇願した。
彼女だけは止められると、彼女に自分のすべてを無理矢理なすり付けた。
「佑真、私は何もできないんだよ。佑真の気持ちをわかることはできても、無視はできない」
「それでもいいんだ。それでもいい。最後まで俺を離さなければいい」
「最後まで決められるのは佑真だけ。私は離れなきゃいけない」
彼女が離さないことをこんなにも切望しているのに、彼女は佑真を離した。
自分に縋りつく惨めな佑真に同情すら声に滲ませず、あっさりと離れてしまった。
佑真はベットの上に座ってしまった彼女を床から見上げた。
初めて彼女に突き離された佑真の心に、再び迷いが生まれた。
友人の彼に会いに行かなければならない衝動が、彼女を見上げる佑真に再び襲い掛かった。
佑真が最後に望んだのは、ベットの上の彼女ではなかった。
衝動が静かに過ぎ去った友人の彼でもなかった。
屑のあいつを最後に望まなかった佑真は、片割れのあいつを望んだ。
嫌われ者な自分を最後に望まなかった佑真は、あいつの片割れを望んだ。
自分とあいつがただの双子であることを初めて望んだ佑真は、ベットの上の彼女を見上げる。
彼女にそれだけを伝えるため、床から手を伸ばした。