《18》
まずは身体を慣らすためランニンググマシンに乗る。
時間を20分にセットし、最初はゆっくりと歩き始めた。
「………ん? あの遠くに見えるヒョロヒョロの背中は、もしかしてモヤシ君かな?」
徐々にスピードを上げ早足になると、わずかに息も弾んできた。
「モヤシくーん、こんにちはー!…………あれ? 全然振り返ってくれない。やっぱり遠すぎるのかな……」
さらにスピードアップし軽いテンポで走りながら、同時に息も早める。
「……あ、もしかしてモヤシ君、見た目通りとっても照れ屋さん? ウフフ…………しょうがないなぁ、もう」
最後は最大限にマシンを加速させると、呼吸もどんどん荒くなる。
「お――――い! モ・ヤ・シ・く―――――――ん! 遠く背後で理沙さんが待ってるよ―――――――!」
突然ピタリとランニングマシンを止めた佑真は遠く背後めがけて一気にラストスパートをかけた。
「おい! ふざけんな! 俺は絶対モヤシじゃねえぞ!」
「キャハ! やっぱりモヤシ君だった――! ピッタリ1週間ぶりだね!」
インストラクターの女が勝手に約束した通り1週間ぶりにジムを訪れた佑真は大声でモヤシを連呼する女の前で立ち止まり激怒するも、逆にとても喜ばれる。
「最初に言っとくけど、俺は今日しょうがなく来てやったんだ。入会金がもったいねえからな。来月には辞める」
「……ん? うちは半年契約だから、途中解約は入会金2倍の罰金ものだよ?」
「半年……!? 2倍……!? く…………だったら仕方ねえ。その代り1人で勝手にやらせてもらう。あんたはまったく必要ねえから」
「……ん? モヤシ君、もしかしてまだ気付いてなかったの? 筋トレっていうのは元々1人でやるものだよ? 大丈夫、そんな不安にならないで。専属トレーナー理沙さんが必ず隣でしっかりサポートするからね?」
「だからあんたは要らないんだよ! あんたは!」
「すごいぞモヤシ君! 来て早々元気ハツラツだ! じゃあさっそくそのままレッツ筋トレ!」
自分の主張をすべて勘違いしまくる女に今日も最初からしっかり巻き込まれ、連れられるまま1週間ぶりの筋トレを始めた。
「モヤシ君は頭がいいんだね。まだ2回目なのにすっかりコツ掴んじゃった」
女の口車に乗せられるまま既にすべての筋トレマシンを使いこなしてしまった佑真は、今日も最後はぐったりとマットに寝そべった。
「はい、どうぞ」
「……どうも」
女から素直に水を受け取るとようやく座り直し、勢いよく飲み込む。
いつのまにか隣に女が座っていたことも気付かなかった佑真は、すぐに気付いた後も特に何も言わなかった。
「……ん? おかしいな…………今日はモヤシ君が嫌がらない」
「だったらあんたが離れればいいだろ」
自分で隣に座ったくせに訝しがる女に突っ込むと、突然ビクリと大きく驚かれた。
「今度は何だよ、いきなり……」
一体自分が何をしたと今度は佑真が訝しげに振り向くと、隣の女は驚愕の表情を浮かべている。
しまいには瞳まで震わせ始めた。
「……おい、一体どうしたんだよ。具合悪いのか?」
「私ってすごいかも…………今からでもお医者さんに転職しようかな」
「…………は?」
「モヤシ君のトラウマ治しちゃった」
「は…………おい、別に俺の女嫌いはトラウマなんかじゃねえぞ。それに俺は隣に女が座るくらい全然平気なんだ」
勝手に勘違いを続ける女が1人驚き自分を褒め始めたので、この際きっぱり否定する。
「モヤシ君…………まだ気付いてないんだね」
「は?」
「…………おめでとう。ほら、さっきから私達ずっと見つめ合ってる」
今度は勝手に瞳を潤ませしんみり祝福し始める迷惑な女から、慌てて目をそらした。
「……言っとくけど、俺にとってあんたは女じゃねえ。あんたはただの……」
「そっか…………モヤシ君にとって私はもう特別なパートナーなんだね。ありがとう、モヤシ君」
「おい! 人の話は最後までちゃんと聞けよ!」
「やったぁ! 今日はモヤシ君に2回も見つめられちゃった」
「…………はあ、もういい」
勘違い女にムキになるだけ無駄だとようやく気付き、余計に疲れた身体を再びマットに寝そべらせる。
佑真が横向きでそっぽを向いてしまうと、隣の女がさっそく立ち上がった。
「じゃあモヤシ君、1日休んで今度は明後日ね」
「無理だし。俺の筋肉痛は3日治んねえ」
「ふーん…………じゃあ3日後でいいや。今日もお疲れ様」
今日もあっさりと女がいなくなったのを背中で感じ取った佑真は、再び起き上がった。
「変な女……」
「最近はずいぶんまめだな…………お前も明るく素直な彼女にすっかり骨抜きじゃないか」
入会金を無駄にしないため真面目にジムに通い続けてすでに1カ月、今夜も勘違い女からようやく解放されたと思ったら、今夜も家で待ち構えていたのは勘違い父だった。
「勘弁してくれよ、俺は疲れてんだ……」
「照れ屋なお前が初めて否定しないところをみると、とうとう彼女も付き合ってくれるって?」
「…………親父こそ、一体ここで何やってたわけ? まさか本当に俺のことずっと待ち構えてたんじゃねえよな」
めずらしくエプロンなんて着けた父がすでに夜遅くにもかかわらず玄関前に佇んでいたので怪しむと、逆に呆れられてしまった。
「そんな暇あるか。2階の掃除だ」
「2階!? また勝手に俺の部屋入ったのかよ!?」
「漫画と雑誌だらけのお前の部屋はとっくに諦めた。遥希の部屋だ」
「…………ふーん」
「明日帰ってくるから」
娘が帰省することを息子にもしっかり伝えた父は、すでに掃除を済ませたのか茶の間に向かってしまう。
佑真はようやく靴を脱ぎ、そのまま2階に上がった。
鞄をベットに放り置き、ラフな格好に着替える。
すぐに鞄の中から洗濯するジャージを取り出すと、遅い夕食を摂るため再び1階へ向かう。
部屋を出る直前、一度振り向いた佑真は目の前にあった壁を見つめた。
もうずいぶん以前にできた壁は固く丈夫で、そして決して開くことはない。
この壁の向こう側に、明日あいつが半年ぶりに帰ってくる。
壁を見つめた佑真は手を伸ばし触れると、半年ぶりとなる安堵の息を吐いた。
もうずいぶん以前から、この厚い壁が自分とあいつをちゃんと隔ててくれる。
あいつの小さな足音さえ自分の耳には響かない。
もう薄い壁じゃないだけで、こんなにも自分を安心させてくれる。
おそらくあいつも一緒だ。
明日、壁の向こう側に入ったあいつも自分と同じだろう。
厚い壁を見つめ手で触れ、安堵の息を吐くだろう。
あいつの息が届かない厚い壁から手を離した佑真は、無意識にまた安堵の息を吐いた。