《12》
「佑真は遊んでかねえの?」
「俺はいいや」
「もう部活ないじゃん」
「図書館寄るから」
「うわ、抜け駆け? お前どんだけ難関狙ってんの?」
ようやくテストから解放された自由な放課後、どこかで遊んで帰ろうと仲間達に誘われる。
勉強してから帰ると断り、仲間のからかいに難関大学など目指してないと笑って否定する。
軽く挨拶を残した佑真は1人先に教室を後にした。
とうとう先週部活を引退し、放課後は突然暇な身となった。
佑真はそれ以降、毎日学校の近くにある図書館に通っている。
受験に向けて本腰を入れると仲間には言い訳し、結局勉強はせず本棚をさっそく眺め始める。
ぎっしり詰まる本の中から適当な一冊を抜き取ると、そのまま近くのテーブルに座り込む。
佑真は最初のページを捲り、1人静かに読み始めた。
一冊にかかる所要時間は2時間。
分厚ければ途中で閉じ、逆に薄ければ再び最初を開く。
必ず2時間をかけ、一冊を真剣に読み耽る。
途中、時間など一切気にしてはいけない。
佑真の制服ブレザーが今日もようやく震えた。
ポケットから携帯を取り出すと、タイマー代わりのアラームをすぐに止める。
本当に2時間経過したことを画面で確認してから、今日初めて安堵の息を吐く。
席から立ち上がり再び本を棚に戻すと、今日もいつもと同じ時間に図書館を後にした。
クラスの仲間達と一緒に帰らない佑真は、彼らより2時間遅い電車に今日も乗り込む。
車両の真ん中に進まずドア手前をすぐに確保し、目の前の窓に向かいじっと固まる。
決して背後は振り返らない。振り返れない。
窓だけを見つめた佑真はまるで気配を隠すように、今日も身を竦ませる。
家の最寄駅まで約30分、最初のアナウンスが耳に響くと頭の中でカウントダウンが始まる。
電車が他の駅に止まる度、数を1つ減らしていく。
カウントダウンが終わるのは、家の最寄から3つ手前の無人駅。
しばし電車が止まる間、佑真は目を瞑る。
決して窓から無人駅を視界に入れることはない。
佑真は確かにちょうど1年前、この無人駅で降りた。
用事のない無人駅にたった1度だけ、友人の後を追って降りた。
再び電車が動き出すとようやく目を開いた佑真は、今日2つ目となる安堵の息を吐いた。
電車を降り、駅からの帰り道を何も考えず歩き始める。
大きな道をしばらく歩いていくと、途中分岐点にたどり着く。
家までの帰り道はここから2つ、佑真は分かれ目で佇み今日も初めて考えた。
迷い、そしてすぐに諦め、遠い帰り道を選ぶ。
必ず一度迷っても、決して近い帰り道は選ばない。
仕方なく今日も遠い帰り道を再び何も考えず歩き始める。
何も考えず歩き続けると、すでに賑わいが過ぎた商店街に辿り着く。
入り口の真ん中で再び立ち止まった佑真は、右側に並ぶ店をすぐに眺めた。
何も考えず右側の店を眺めながら商店街を歩き始める。
右側だけを眺める佑真の目に古ぼけたケーキ屋が仕方なく入り込んだ。
目をそらさず我慢すると歩調だけを早め、右側のケーキ屋を通り過ぎる。
この瞬間、決して左側を振り向いてはいけない。
1年前まで自分の友人はおそらく左側に佇み、遠くからケーキ屋を見つめていた。
佑真は仕方なく右側のケーキ屋を眺めることしかできない。
ようやく商店街を抜け出すと、今日最後となる安堵の息を吐いた。
これほど後で安堵するくらいなら、商店街など最初から通らなければよい。
けれど佑真には選択肢など最初からない。
遠い帰り道を選ばなければ、佑真は安堵の息すら吐けない。
近い帰り道には必ずあの電信柱がある。
必ずあの電信柱を曲がらなければ、家には帰れない。
あの電信柱の前には彼がいた。
1年前、確かに彼はあそこに佇んでいた。
佑真はもう1年、近い帰り道を通ることができない。
「ただいま」
「おかえり、遅かったな」
「図書館寄ってたから」
台所にいる父に挨拶すると、今日も寄り道したことを報告する。
「毎日図書館で勉強か? 家でやればいいじゃないか。茶の間でも」
「いいんだよ、静かだし集中できるから」
部活も引退したのに変わらず帰宅時間が遅い息子に対し、父は少し不満そうだ。
勉強などしてもいないのにそれらしく言い訳すると、すぐに諦めた父がそのまま佑真に近寄った。
「大学、決めたのか?」
「……まあ、何となく」
「離れるか?」
父に遠くの大学へ行くのかと尋ねられた佑真は、とっさに訝しげな表情を浮かべる。
「なんで?」
「この近くにお前の行く大学はないだろ」
「あるじゃん、ここでいい」
地元の数少ない大学の中から決めると勝手に宣言すると、父は渋い顔を見せた。
「家のことは気にしなくていいから、ちゃんと勉強してこい」
自分のレベルにあった進学先を選べという父の言い分に、再び訝しがる。
「……だから何で? そんなに俺を追い出したいの?」
息子が地元に残るというのに、父はまるで遠くに行けとばかりに反対する。
どうしても納得がいかない佑真は父の答えを待たずとも、しっかり勘付いた。
「親父、俺はここに残るから」
今度こそはっきり宣言すると、父の前からすぐいなくなる。
特に息子を引き止めなかった父もすぐに諦めたようだ。
むしゃくしゃした感情を抱え自分の部屋に入ると、すぐ傍のゴミ箱を見下ろす。
アコーディオンカーテンに向かって蹴り上げたい衝動を、今日ばかりはぐっと抑え込んだ。
今日は向こう側のあいつを怖がらせるわけにはいかない。
臆病なあいつはすぐ逃げ出し、父のいる1階へこっそり降りていくだろう。
憤りを無理やり押し込むためベットにうつ伏せになり、必死で枕に顔を埋め込ませた。
今日ばかりは、いやこれからは絶対に父の思い通りにはさせない。
父が進学を機に自分を家から離す理由など、見え透いている。
自分とあいつをしばらく離すためだ。
自分がこの家から一度離れれば、あいつには天国が待っている。
怖がる自分がなかなか帰ってこれない現実に、さっそく羽を伸ばすだろう。
いつも弟に脅えている娘を不憫に思う父の考えそうなことだ。
しばらくして息子が地元に帰ったとしても、その頃には今より落ち着きを見せるだろうと甘く考えている。
冗談じゃない。
この家であいつを自由になどさせない。
あいつを家に置いて行くくらいなら、自分がこの家であいつを監視していた方がよっぽどましだ。
あいつの空気に触れることは無理やり我慢できるが、父の傍にあいつ1人残すなど絶対に耐えられない。
自分の父だけは死んでもあいつの好きにはさせない。
だったら自分はどうする。
どうせならこの際、あいつを家から追い出してやろうか。
元からあいつはこの家に存在しなかったのだ。
ある日突然紛れ込み自分の部屋を半分占領したくせに、アコーディオンカーテンの向こう側でいつもビクビク脅えている。
父にはいつも健気を装い関心を引きたがる。
父はまんまとあいつに騙されて、今度は息子の自分を追い出したがる。
だったらあいつをこの家から離してやればいい。
遠く離れた場所にそそのかし、2度と帰ってこれないよう捨ててきてやる。
あいつが自分の母親に置いていかれたように、今度は自分が屑のあいつを置き去りにしてやる。
突然いなくなった娘を心配する父は自分が慰めるから安心しろ。
諦めた父も屑のあいつなどすぐに忘れる。
必要とされないあいつなど、自分が遠くに捨て去ればよいのだ。
少しばかり気が晴れた佑真はうつ伏せの顔をようやく解放させ、天井を見上げた。
ようやくあいつを心で捨て去った代りに、今度は友人の彼を心の中で思い出す。
彼は何をしている。
彼は何を考えている。
学校での彼がそうであるように、今も黙々と机に向かって勉強しているだろうか。
佑真が今日の帰り3度脅えたあと3度安堵の息を吐いた時、彼は勉強しながらそんな佑真を想像しほくそ笑んだだろうか。
佑真が今ベットの上で不意に彼を思い出したように、彼は今勉強しながら不意に佑真を思い出し、握るシャープペンを止めただろうか。
再び強く握りしめたシャープペンを震わせただろうか。
佑真がさっき心であいつを遠くに捨て去った瞬間、彼は震わせたシャープペンを放り投げ外へ飛び出しただろうか。
そんなことは有り得ない。
すべて馬鹿げている。
あまりにもくだらない想像だ。
それなのに天井を見上げる佑真の顔は一切笑わない。
あいつをどこまでも遠くまで探し求める彼の姿をまざまざと想像し続ける。
もう1年前の話だ。
すでにとっくに変わってしまった彼は、あいつのことをすでに忘れてしまった。
あの何も失い彼の目にあいつの姿はない。
あいつを遠くから見つめられなくなった彼は、もう片思いすらやめてしまった。
安心しろ、もう彼を怖れることなどない。
自分が何をした。
最初から彼の恋は叶わなかったのだ。
自分が友人である限り、彼はいつか片思いだって失ったはずだ。
自分はただ後押ししただけだ。
最初から叶わない彼の恋を早く失うために。
片思いの苦しみを彼から早く取り上げるために。
そのおかげで彼はこんなにも早く立ち直れたではないか。
「俺は悪くない」
悪いのはあいつだ。すべてあいつのせいだ。
あいつが縁側に逃げるから、彼に見つかってしまったのだ。
あいつが縁側に逃げたせいで、彼が見つけてしまったのだ。
だったら逃がさなければいい。
あいつをずっと閉じ込めておけばいい。
そうしたら、彼はもうあいつなど探さない。
今の彼がそうであるように、あいつを探すことなどしない。
これからも彼が探さないために、自分がアコーディオンカーテンの向こう側にずっとあいつを閉じ込めておけばよいのだ。