《10》
「遥希、最近誰もいないか?」
しばらく経ってまた不意に思い出した父がわざわざ夕食の箸を止め、隣のあいつに確認した。
相変わらずあいつの心配ばかりする父にはいつもうんざりな佑真も、今日ばかりはそんな父に心の中で感謝する。
「別にいないよ」
学校の帰り道でナンパ目的の高校生など遭遇したことがないと、あいつは父に笑って否定した。
あいつの笑顔などまったく信用していない佑真はすぐ父に視線を向ける。
「ねえ、最近あいつ見た?」
「……あいつ?」
「こないだ駅の近くで、あいつに似た奴見かけたって言ってたじゃん」
「ああ、あの子か……。いや、また違うと思うけど」
友人らしき人物を最近また仕事帰りに見かけたかと尋ねると、父は曖昧に否定した。
「また会ったの? 別人? やっぱあいつじゃなかった? 」
「一昨日また駅の近くで見かけたけど……やっぱり違う子じゃないか? お父さんも一応車から声掛けたけど、振り向かなかったし」
「何だよ、またはっきりしねえよなぁ……」
以前と同様、父の曖昧な目撃情報じゃ彼本人だったのか判断できない。
父が声を掛けても反応がなかったという事は、やはり別人だったのか。
それとも彼は今でも父の声が届かない状態なのか。
「何でそんなに気にするんだ? 学校で話せばいいじゃないか」
「……無理だよ、最近あいつ来ねえし」
彼は佑真に激しい怒りを向けたあの日以降、すでに3週間も学校を休んでいる。
いまだ長引く彼の精神状態に佑真も嫌な予感を覚え、最近家でもまったく落ち着かない。
現在の彼の状況をようやく息子から知らされた父も、とても驚いてしまった。
「どうして? あの子、何かあったのか?」
「急に体調崩したんだよ」
とりあえず驚く父を安心させる為、すぐさま急病と偽る。
「心配だな……重い病気なのか?」
「そんなんじゃないって。ただ風邪こじらせたんだよ」
「風邪? 夏に? 佑真、明日は部活休みなんだろ? 夏休み入る前にちゃんと様子を確認してこい」
「うん」
息子の友人をとても気に入っている父は、とにかく彼が心配らしい。
まさかそんな心配する彼が自分の娘に失恋し立ち直れず学校に行けなくなったなんて、この父は思いもしないだろう。
そして彼の失恋の元凶が自分の息子だと知れば、父はおそらくショックを受けるに違いない。
この前父をひどく傷つけたばかりの佑真は、絶対最後まで誤魔化さなければならない。
再び夕食を食べ始めながら、一度父の隣にいるあいつの気配を窺う。
最近特に変わった感じはしないが、あいつのことだ。父に心配かけまいと健気に偽っているだけかもしれない。
人知れず悩んでいるなら、今夜くらいは部屋のアコーディオンカーテンに向かってぶちまければいい。
自分も今夜くらいは耳だけで拾ってやる。
結局想像するのも身震いな佑真は、あいつの情報はあっさり諦めた。
とりあえず、明日とうとう初めて自分の目で確認するしかない。
※ ※
やっぱりだ。あいつに関わる嫌な予感はいつだって的中する。
夏休み前の終業日久しぶりに部活休みの佑真は、学校帰りにそのまま友人の家を訪れた。
大学生で4歳上と聞いていた彼の2番目の兄が玄関先で佑真に対応してくれたが、すぐに彼を呼んでくれる気配はない。
彼の兄も相当心配しているのか、困ったように弟の友人を見つめてばかりだ。
とりあえず学校を休む彼の様子を尋ねると、案の定毎日自分の部屋に籠りきりらしい。
突然目も当てられない彼の状態に家族は皆不安らしく、彼の兄は逆に佑真に理由を問い詰めてくるほどだ。
とりあえず兄を宥めると、今すぐ彼に会えないかをお願いしてみる。
なぜか兄は再び困ってしまった。
どうしたのかと尋ねると、彼は今留守にしているという。
自分の部屋に塞ぎ込んでいる彼が、佑真が訪れたこの時間だけは毎日必ず外へ出掛けていくらしい。
すぐさま兄に礼を言った佑真は彼の家を飛び出すと、駅に向かって元来た道を走り出す。
電車に乗り直し時間との勝負に1人車内で焦りながら、2本先の駅までようやく到着した。
再び今度は自分の家に向かって帰り道を急ぎ始める。
息切らしながらしばらく走り続けると、今度は急いで立ち止まる。
彼の後ろ姿ばかりを求め先を急いだ佑真は、いまだ彼に辿り着かないまま途中で急ぐことをやめてしまった。
何も彼の後ろ姿を追い掛ける必要などなかったのだ。
切羽詰まるあまり自分の馬鹿さ加減に、思わず失笑を漏らす。
遠く目の前でちょうど学校から帰るあいつの後ろ姿を、今度はゆっくり追いかけ始める。
当然、鈍感なあいつは背後から自分に付けられているなどこれっぽっちも気付かず、やや俯き加減で先の道を歩き続ける。
今日ばかりはあいつの後ろ姿から絶対目を離さない。
佑真はそれでもある程度の距離を保ち、偶然家の近くで姉と重なってしまった帰宅をさり気なく装った。
あいつの後ろ姿をしっかり視界に入れていると、途中家の方角へ左折する手前の電信柱も見え始める。
もうすぐあいつが辿り着く電信柱の前に、やはり彼は佇んでいた。
当然今日いるという事は、彼はこの3週間毎日そこであいつの帰りを待っていたのだ。
ずっと嫌な予感はしていたが、今日初めて遠くから目の当たりにした佑真は思わず立ち止まってしまった。
あれほどあいつへの一途な片思いを傍で見せつけられてきた佑真でさえ、彼の底深い執念に呆然と驚かされた。
佑真が思わず立ち止まってしまったというのに、彼の恋情を一心に向けられたあいつは特に変わった様子もなく帰り続ける。
一度も歩を止めることなく、一切脅える気配もなく、電信柱の前で待つ彼にどんどん近づいていく。
彼はとっくにあいつだけをひたすら見つめているというのに、あいつは彼の視線すらまったく気にしない。
遠くで立ち止まる佑真も思わず固唾をのみ、あとわずかで辿り着くあいつと彼の出会いを見守った。
佑真は遠くから気が付いた。
彼はまだ片思いなのだ。
てっきりすでに行動を起こし臆病なあいつに怖がられ、完全に失恋したかと勘違いしていたが、彼はまだ今も遠くから見つめるままなのだ。
2人の出会いは一瞬のすれ違いで終わった。
声1つ掛けずただあいつを最後まで見つめ続ける彼と、そんな彼をまったく意識せずただ目の前を最後に通り過ぎたあいつ。
まるで縁側の続きではないか。
あの2人は結局まだ一度も出会っていなかったのだ。
すでにあいつが遠くに去ってしまっても、彼はあいつの後ろ姿を見つめ続ける。
あいつを見つめる彼の後ろ姿をやはり佑真も遠くから見つめ、そして考えた。
失恋と片思い、どちらが悲しいだろう。
恋を失うことは一瞬で過ぎ去るが、片思いはどうだろう。
恋を失くせないのだ。
どちらも恋は叶わないが、叶わない恋を失えない悲しさは失恋よりはるかに深いのではないか。
恋をしない佑真はわからない。
けれど恋を失えない彼の悲しみだけが佑真にはわかった。
今まで自分はどれだけ彼を苦しめた。
片思いだけでもこんなに悲しいのに、片思いすらも彼から取り上げたのだ。
彼があいつに恋をすることはやめられない。
そしてあいつに嫌われることが一番怖ろしい彼は、失恋も望めない。
決して失恋を望まない彼には片思いしかないのに、自分はあいつを奪ってしまった。
彼から遠くに見えるあいつの姿を失くしてしまった。
あいつに自分を怖がらせ、電車に乗れなくさせ、ケーキ屋まで辞めさせた。
片思いしかできない彼から遠くのあいつを奪ったら、一体彼はどうなる。
学校にも行けず、家でもじっとしてられず、こうしてあいつとすれ違う一瞬を毎日ひたすら待つしかないじゃないか。
それすらも自分は彼から取り上げようとしたのだ。
あまりに貪欲な自分の罪深さにもう遠くにいる彼の後ろ姿を見つめることができず、その場から逃げ出した。
佑真は今日初めて彼の悲しい後ろ姿に後悔した。




