CHAPTER 8
四谷にある須藤邸を出て、乃木坂の自分のマンションへと歩いて帰る途中、廣一朗は舗道を歩く長内未紅を偶然見かけた。
七月上旬の蒸し暑い晩、午前零時を少し過ぎた頃だ。
未紅は数人の連れと一緒だった。声を掛けるかどうか迷っているうちに、彼女の方が廣一朗を見つけた。
「あれ。須藤さんじゃない? こんなとこで、奇遇ね。こんばんはぁ!」
かなり酔っているようだ。あっという間に腕を掴まれて、劇団の仲間だという彼女の連れに紹介されていた。
「ほら。この人が里桜の遠い親戚の須藤廣一朗さん。いい男でしょ?」
「こんばんは。須藤です。」
とりあえず挨拶を交わした。
この近くのレンタルスタジオで練習の後、みんなで飲んだ帰りだという。リーダーらしい男が里桜は元気かと訊ねてきた。
実は葵を連れ帰ったあの日以来、里桜には会っていない。曖昧な返答を返していると、代わりに未紅が答えた。
「時々メールが来るけど、元気そうだよ。そうだ、こないだの写真。」
未紅はスマホを取り出して、先日上京した時の里桜の写真をみんなに見せた。嘘ぉ、なんて声が飛び交う。聞こえる声は、棒きれだの男子中学生だのと結構遠慮ない言葉だ。
「どうしてこんな美人に‥。うーん。コナつけとくんだった、損したなぁ。」
「里桜は磨けば綺麗になるってあたしがいつも言ってたでしょうが。」
胸を張る未紅に、四十代と思われるリーダーが同意した。
「確かに。僕は吉野さんの名前が好きだったけど、その通りに開花したね。まさしく、満開の吉野山の桜だよ。」
「吉野山の桜? 奈良のですか。」
リーダーの男は廣一朗を振り返った。
「そうですよ。『さと』の『さくら』と書くでしょ? 名字の吉野にちなんだそうで。何でも国語の教師だった人がつけてくれたって聞きましたよ。」
「そうそう。里桜のママ、名前つけるの面倒だからって、勤めてるお店の常連さんに頼んだんだって。生まれた時から他人任せで育ったんだって、里桜、笑ってたっけ。」
「ああ‥。なるほど。」
苦笑した廣一朗をじっと見ていた未紅は、いきなり彼の腕を取った。
「ちょうどよかった。あたしね、須藤さんに用があったの。」
そう言うと未紅は渋谷まで歩くという仲間たちと別れて、廣一朗についてきた。
「用って何? 歩きながらでいいの。」
「ん。里桜のことでちょっと訊きたいことがあったんだ。」
「じゃ、どこかに寄ろうか。立ち話もなんだしね。」
「ううん。静かな方がいいから、歩きながらでいいよ。帰るとこだったんでしょ? 引き留めちゃってごめんね。」
未紅はにこっと笑った。最初の印象ほど酔ってるわけではなさそうだ。
そしておもむろに立ち止まり、廣一朗を正面から見据えてくる。
「あのさぁ。単刀直入に訊くね。里桜はいったい、お屋敷とやらで何させられてんの?」
「何って‥。里桜ちゃんから聞いてない?」
「メイドには見えなかった。用をしているって、何の用? もしかしてヤバイことじゃないの?」
「‥‥そうじゃないよ。」
「だっておかしいでしょ。いくら金持ちだってね、ぽんぽん百万単位でお金が動くなんてさ。親戚ってほんとなの? 困ってるから引き取るってだけなら、何も大金かけてお嬢様に仕立てることないじゃん。変だよ、絶対。」
「‥‥。」
「あたし、この間里桜が来るまでは、よほど警察に行こうかと思ってた。あの娘、身寄りが全くないからね。誘拐されても探してあげるのは、あたししかいないから。」
廣一朗は未紅の真剣なまなざしから目をそらし、ふふっと笑った。
「里桜ちゃんがほんとうに好きなんだね、君は。」
「ちょっと、ごまかさないでよ。」
「ごまかしてなんかない。少しこみ入った話なんだ。でも里桜ちゃんは納得してるし、別に危なくはないよ。‥‥やっぱり寄って行こう。すぐそこに行きつけのショットバーがあるんだ。」
疑い深そうに見ている未紅に前方の光る看板を示して、先に立って歩く。未紅はちょっと迷ったようだったが、結局後についてきた。
小さな店の隅のボックス席に場所を取り、未紅に何を飲むか訊ねた。
未紅は信用しかねる目つきで、オレンジジュース、と言った。廣一朗は苦笑する。
「警戒してるの? 困ったな。」
カウンターへ向かってスコッチとオレンジジュースを頼み、未紅の方へ向き直った。
「えっと。さっきの質問だけど。里桜ちゃんはね、いずれ鷹森家を嗣ぐために引き取られたんだ。だからお嬢様に仕立てる必要があったのさ。」
「はあ? 馬鹿にしてんの? 鷹森の当主は若い人じゃん。なんで里桜が嗣ぐのよ。」
「顕彦は病気なんだよ。生まれた時からそう長くは生きられないだろうと言われてる。だから親戚じゅうがみんな財産を狙って、死ぬ時を今日か明日かと待ってるんだ。僕の両親がまあ、その筆頭だね。」
飲み物が運ばれてきたところで、いったん言葉を切った。
スコッチを少し口に含むとほろ苦い味が広がる。そして話を続けた。
「そんな中で育って、いよいよ死が近づいていると感じたら‥。君ならどうする?」
未紅は唖然としていたが、いきなり質問されて我に返った顔をした。
「そうね‥。自分の死ぬのを待ってる人たちになんか、絶対に財産を渡したくないって思うだろうな。そういうこと?」
「そう。だから顕彦は結婚するって言い出した。だけど、鷹森家の当主は親戚か縁戚の中からしか嫁を迎えることができないという家訓があるんだよ。で、逆に売り込み合戦になっちゃった。しばらくは面白がっていたけどね。同時に、埋もれている血縁の女の子を捜させたわけだ。それで運良く里桜ちゃんが見つかった。」
「じゃあ、里桜は鷹森家の奥様になったわけ? ほんとう、それ?」
「この期に及んで嘘なんか言わないさ。まあ、お芝居みたいなもんだけどね。彼女には悪い話じゃない。しばらくの間病人のご機嫌取ってあの屋敷で我慢すれば、莫大な財産が全部彼女のものになるんだ。」
「‥‥なんか、納得できない。あの里桜が財産目当てで乗りこんだっていうの? そんなのありえないよ。病人の介護ならともかく。」
未紅は廣一朗を上目遣いでじろりと見た。
「確かにね。里桜ちゃんは顕彦がもうじき死ぬなんて知らされていなかった。借金が消えて、形式上でも家ができるのが嬉しいって言ってたっけ。」
「そうか‥。三度のご飯がちゃんと食べられる家が欲しいっていつも言ってたからなぁ。きっとそれだけで引き受けちゃったんだ。」
未紅はしんみりと呟いた。
そしておもむろにオレンジジュースを飲み干し、ソルティドッグね、とバーテンダーに大きな声で注文した。
すらりと伸びた美しい脚を組み直して、いいでしょ、と廣一朗に笑いかけてくる。
肯いて笑い返した。警戒はどうやら解けたらしい。
「長内さん。この話は他の人にはしないでほしい。君が里桜ちゃんの親友だから、特別に話したんだよ。心配するのは当然だしね。」
OK、とうなずいて未紅はにこにこっと笑った。
「里桜の言う通りだね。里桜があなたはいい人だって言ってた。」
「そりゃ、どうも。」
いい人か。よく言われるけれども褒め言葉に聞こえたためしがない。言い換えれば都合のいい人間。それだけだ。
つい、今晩呼ばれて行った生家を思い浮かべた。あそこでは特にそうだ。須藤家における彼の位置は何と言えばいいだろう――始末屋?
ダブルのスコッチをくいっと飲み干した。
「きついのに、そんな飲み方したらまわるよ。いつもそうなの?」
「たまにはね、酔ってみたい時もあるだろ? いつもはしないよ。僕は羽目を外した事ってないんだ。つまらないやつなんだよ。」
「ああ‥。もしかしてあたしの態度が気に障った? だったらごめん。謝るから。」
気がつくと、未紅のグラスはもう空だ。そしてなぜか彼女は目尻の涙を拭っている。泣き上戸なのか?
未紅は廣一朗の懸念を察したように、違う違う、と手を振った。
「ちょっと今ね、里桜の気持考えてたら涙が出ちゃって‥。酔ってるせいじゃないから。里桜ってば可哀想に、その顕彦さんとかいう人に惚れてるんだよね。知ってた?」
「顕彦に? ほんと、それ。」
廣一朗は意外に思った。里桜が顕彦を―――それは考えた事がなかった。
「うん。でも彼は死んじゃうんでしょ? 里桜はまた大好きな人を亡くすんだ‥。どうして里桜ばかり、そんな運命なんだろう。」
「またって、前にも誰か死んじゃったの?」
「里桜のママのこと。聞く限り、典型的なネグレストなんだけど。里桜はママが生き甲斐だったみたい。あたしが面倒見てあげなきゃって頑張ってたわけよ。でもママは里桜を選ばなかったんだね。知り合って一週間の男と心中しちゃったんだって。死ぬ時も里桜のことは忘れてたらしくて、遺書もなかったらしいよ。彼氏の顔ばっかり見て、死ぬとも解ってなかったんじゃないのって笑ってたよ。」
廣一朗は渥美邑子の調査報告書にあった、里桜の母親に関する記述を思い出した。
実は里桜を調査して探し出したのは渥美邑子で、山辺は単に交渉をしただけだ。山辺の手に預ける前に、廣一朗は自分でひと通り調査内容を確認していた。確かに典型的なというより病的なネグレストだと思った記憶がある。
一般的に、愛情を注がれなかった子供が親に執着ではなく愛情を持つという事はあり得るのだろうか。満たされていない子供が欲求ではなく、付与する事に喜びを見いだすなんて。廣一朗には理解できなかった。
「‥‥それでも里桜ちゃんはママが好きだったって?」
「うーん‥。里桜は、好きって言ってたよ。」
未紅は首をかしげた。
「未紅さんはそうは思わない?」
「ふふ。さんは要らない。未紅でいいから。‥そうなんだよね。里桜には言わないけど、ちょっと変だなって、逆だと思うの。里桜がママに持ってる愛情ってさ、普通親が子供に注ぐようなものなんだ。だから‥‥穿った見方だけど、里桜がママに持ってる気持ってほんとうは‥‥。」
「自分が欲しかったものなんだ?」
「そう、そう。里桜は鏡を見てたんだよ、きっと。解るかな、言いたいこと?」
「うん‥。何となくね。」
満足げな顔で未紅はお代わりをした。
「廣ちゃんは解ってくれると思ってた。何て言うかなぁ‥‥人に向ける視線が優しいもん。それだけ美形なのに珍しい人だ。」
いつのまにか『廣ちゃん』になっている。十も年下の女の子にちゃん付けされるとは思わなかったけれど、やけににこにこしている未紅の顔につい微笑んでしまった。
しかし里桜が顕彦を好きになるとは予想外だった。
複雑な気分だ。里桜の無邪気な顔が浮かんで、罪悪感が胸をちくりと刺す。顕彦はどうなのだろう。相変わらずすべてが芝居だと自分の殻に閉じこもっているのだろうか。
ふと横を見ると、いつのまにか未紅はすやすやと寝入っていた。
やれやれ。結局今夜も廣一朗は羽目を外す事はできないようだ。いつもこうして誰かの面倒を見る役が回ってくる。
「未紅ちゃん。未紅。帰るよ。送っていくから、ほら、起きて。」
「ううん‥‥。」
「困ったな。」
カウンターの中から馴染みのバーテンダーが顔を覗かせて、にやにやした。
「結構いけてる彼女じゃない。どこでナンパしたの。酔わせて、予定通りってとこ? 須藤さんちは歩いて五分もかからないんだから、背負ってきなよ。」
「彼女はそんなんじゃないよ。妹の大切な友人だからね。」
「いやいやいや。そんな言い訳は無理でしょ。葵さんの友人て感じじゃないもんね。」
「もう一人いるんだ。義理の妹がね。」
廣一朗はそう答えると、諦めて未紅を背中に背負い、店を出た。
時計を見ると二時半だ。蒸し暑い空気がふわっと躰を包んだ。明日はまた雨だろうか。梅雨はいったいいつ明けるのだろう。廣一朗は自分の部屋へと急いだ。
翌日、恐縮する未紅を見送って午後から出社すると、所長室で渥美邑子が待っていた。
「おはようございます。昼は過ぎましたけどね。」
彼女は手に山のような書類を持っている。あれを全部読めと言うのだろうな、と思うとうんざりした。
「昨日メールで連絡した件。調べてくれた?」
「あれは大丈夫ですよ。今朝、話つけときました。飴と鞭ですんなり。」
「やってくれたの? 悪いね。君にさせるつもりじゃなかった。次からはしなくていいよ、僕の役目だから。」
邑子はふん、と鼻を鳴らした。
「素性を調べとけって話でしたね。幸い、それほどあばずれじゃありませんでしたよ。手切れ金とTVプロデューサーへの紹介状で引っこみました。こんなの、鷺坂さんの仕事じゃないですか。なんで所長がやるんです?」
「今回は鷺坂の女だよ。感情的にもつれさせちゃって、手がつけられなくなったんだってさ。君、脅しも入れてくれたんだろ? 嫌な役やらせちゃったね、ごめん。」
「呆れた。ちょっと廣くん、お人好しもいい加減にしなさいよ。議員もどうかしてるわ、息子に秘書の後始末させるなんて聞いた事ない!」
確かにね、と廣一朗は自嘲気味に思った。
「要さんは次の衆院選出ないそうだ。鷺坂が後を引き継ぐ事になっている。そういうわけで身辺整理の真っ最中。大丈夫、彼は要さんほど女好きじゃないし。ギャンブルはむしろ嫌いだしね。」
渥美邑子は口元をぐっとひきしめて彼を見ていたが、不意に話を変えた。
「ま。ところで話は変わりますが。鷹森顕彦氏から招待状が来てます。急ですが今月十四日の誕生日パーティのお誘い。所長とわたし宛に。今朝、メールも来てましたよ。」
「誕生日? 顕彦の誕生日は十二月だけど。」
「里桜ちゃんのですよ。ちょうど土曜日なんです。」
招待状には里桜が二十才になるので成人の祝いも兼ねて、と書いてある。
「誰の発案かしら。里桜ちゃんがねだったとは思えないし。唐沢さんあたりかな。」
廣一朗は昨夜未紅から聞いた話を思い出した。
「案外、顕彦かもね。それならいいけど‥。少しは前向きになってくれれば。」
邑子は俯いて書類に目を通す廣一朗を横目で窺いながら、何か言おうとして逡巡した。いったんは背を向けかけて立ち止まり、もう一度彼の近くに戻ってきた。
「廣くん。ちょっと‥。気になったんだけど。これ以上調べていいか判断がつかないものだから。聞いておこうと思って。」
「何? 君にしてはまわりくどいね。」
「ん‥。山辺のこと。偶然見つけちゃったんだけどね。鷹森の資産から結構な額が、ここ二年の間に動いてるみたいなんだけど。廣くんは承知の上なの?」
「は? 結構ってどれくらい?」
「その前に。わたしの質問に答えて。廣くんは知ってるのかって事よ。」
廣一朗が顔を上げると、邑子は目を合わせないように横を向いていた。
「顕彦が動かしているんじゃないんだね? 」
「多分ね。流しているのは山辺。流れこんでいる先は二カ所。この先は推察して。」
「‥‥寧子さんか。いいや、僕は承知していない。黙認するつもりもないよ。まったく、勝手な事を‥! 顕彦はまだ死んだわけじゃないのに。」
無性に腹が立って、廣一朗は目の前のファイルを床に投げつけた。
「調べていいのね? ほんとうに?」
「すまない。ファイルそっくり譲ってくれないか。僕が後は調べる。きっちり始末をつけるよ。顕彦に万一のことがあったとしても、鷹森の資産は一円だって須藤のものにはならないんだ。里桜ちゃんがいるんだからね。山辺は何を考えているんだ?」
「以前から恒常的にあったと考えるべきね。おそらく先代の死の直後からずっと。顕彦さんはもっと早く亡くなるとみんな思っていたし。」
邑子は肩を竦めた。
「わたしが確認したのはね、あなたが承知してるのかと思ったからよ。顕彦さんが亡くなった後は、里桜ちゃんごとあなたが鷹森を引き受ける。顕彦さんとはそういう話になってるんでしょ? だったら前払いみたいなものですからね。」
「山辺に、寧子さんがそう説明してる可能性はあるね。でも僕は知らない。百歩譲ってそうだとしても、顕彦に無断で鷹森の資産を動かすなんてありえない。信じて欲しい。」
「‥‥信じたいわ。これ以上友人として失望したくないから。わたしの持っている情報はすべて渡すけど、わたしはわたしで調べさせてもらうわ。」
「信じてくれないのか。」
「信じたいと言ったでしょう。」
では、と言い残して邑子は部屋を出た。
残されて、廣一朗は自分が投げつけたファイルを見た。そろそろと拾い上げる。そして深い溜息をついた。
―――なぜ、僕なんだ? なぜ僕はこんな瞳で生まれてきたんだろう。
中学生の顕彦が喋っている。夏休み、鷹森邸の二階図書室だ。
廣一朗は隣で無力感でいっぱいになっている。ごめん。代わってやれればいいのに。
―――ねえ、廣従兄さん。何か意味があるはずだと思うんだよ。僕は何とかして突きとめたいんだ。この『呪い』の意味を。それが解らなければ、僕が生まれてきた事そのものが無意味じゃないか‥‥。
生まれてこなければよかった、とは顕彦は決して言わない。
言葉にしたら真実になってしまうからだ。望まれて生まれたはずの跡取り息子なのに、瞳の色一つで疎まれ、不要とされ、厄介事の種となった。
だから顕彦は決して自分を見捨てない。
自分で自分を見捨てたら、ほんとうにこの世に不要な存在になってしまう事を知っているから。自分以外、誰ひとり認める人間がいない事を知っているから。
胸が痛い。廣一朗は思う。僕はなぜ生きているのだろう―――何のために?
目が覚めて、廣一朗は枕元の携帯を見た。着メールのランプが点いている。真夜中の三時だ。
嫌な夢を見た。顕彦があの言葉を言ったのはもう十年以上前のことだ。しかし夢の中で彼の叫びを聞き、無力感に苛まれていたのは現在の廣一朗だ。
抜け出ることができてよかった、そう感謝しつつメールを確認した。
夕方送ったメールに対する未紅からの返信だ。里桜の誕生パーティに誘ったのだが、自分が出席しても構わない場なら行きたい、と未紅は遠慮がちな返事を寄こしていた。
もちろん、と返事を送信してまたベッドに入る。
だが眠れそうもなかった。眼を閉じると、顕彦のあの不思議な色の瞳が自分を見ているような気がする。
起き上がってリビングへ行き、鞄の中から持ち帰ったフォルダを取り出す。邑子がくれた鷹森家資産流用の書類だった。これも頭が痛い。
『須藤トラスト』の経営を寧子に任せているのが問題なのだと思う。ずさんな経営で穴を開けるたびに実家に頼る癖が抜けないのだ。
顕彦の父直彦は妹の寧子にとても甘かった。生前の直彦は寧子の言いなりに融通してやるよう、山辺に言いつけたと考えられる。その習慣が続いているのだ。しかも山辺も寧子もいまだに心のどこかで、顕彦を鷹森家当主と認めていない部分があるのだろう。直彦が『呪い』の子供など、後嗣とは認めないと常々広言していたせいだ。
顕彦の母親は遠い縁戚の女性で、跡取りとなる男の子を産めば三十億相当の資産を慰謝料として譲り受け離婚するという約束で嫁いできた。彼女は結婚一年目で無事に男の子を出産した。ほんとうならすぐに約束の資産をもらって離婚するはずだったが、生まれた赤子の瞳の色を見て、果てしない諍いが始まった。
直彦は結婚前から外に何人かの愛人がいた。長男には生まれないはずの『呪い』の子供が生まれたのは、実質の長男が外にいるせいであって、自分の責任ではないと顕彦の母は主張した。だから役目は果たした、約束の資産をもらって鷹森家を出たい。それが彼女の言い分だ。
一方、直彦は『呪い』の子供など後嗣にはならないのだから、出ていくのは勝手だが慰謝料は出さないと答えた。認知している庶子が存在していないのも理由だった。
どちらも意地になって一歩も引かず、何年も争った末に、顕彦が言い伝えの十七才になっても『呪い』が発動しなかったら、約束の資産を渡すということで合意ができた。幼い頃の顕彦はふた親に顧みられることなく育ったにも拘わらず、まったくの健康児で、明るく利発な子供だったからだ。
顕彦は今も知らないが、十才の時に須藤家に引き取られたのは学校に通うためだけではなく、彼を監視するためだ。母親が保護者を申し出たが認められなかったという事実も、恐らく知らないままだろう。
そして十七才の誕生日を過ぎてすぐに、顕彦は幻覚症状を発症した。
顕彦の母親は逆上した。鷹森直彦をナイフで刺し殺し、遺体ともども車で炎上自殺した。それを事故として始末したのは山辺だ。須藤要の後だてを使って。
廣一朗はスコッチを棚から出して、少しだけ飲んだ。
やりきれなかった。『呪い』なんてものが真実あるのだとしたら、それは顕彦にだけ降りかかっているのではなく鷹森家全体にだ。
さっき見た夢の続きが迫ってくる。そうだ。僕はなぜ――生きているのだろう?
生まれてから一度も、誕生日を祝ってもらった経験がない。
顕彦に誕生パーティを開くと聞かされて、まず最初に里桜はそう答えた。だからどうすればいいのか解らない、と。
「どうもしないよ。綺麗に着飾ってお雛様になってればいいのさ。」
顕彦はなぜか楽しそうだった。夜に眠れるせいか、顔色もだいぶ良くなった。それだけで里桜は嬉しい。
野依の話を顕彦にしてみた。
「薔薇園に幽霊‥? この屋敷が建つ前からいるの?」
「そうみたい。いつか一回だけ感じた記憶みたいなのは、まるで大河ドラマの一場面て感じだったし。」
里桜はその時の事を詳しく話した。そして野依の『お館さま』というのが小四郎景信なのではないかと思うと付け加えた。
「ふうん。その人は僕と同じ色の瞳をしていたんだね?」
しかし顕彦には野依は視えなかった。
「ここにいるの?」
「そう。やっぱり視えない? 今日は割にくっきりしてるんだけど。」
梅雨が明けた七月の空は明るくて、綿飴みたいな雲がやけにのんびりと浮かんでいる。木立の合間をさやさやと涼しい風が抜けてきて、少し汗ばんだ頸筋に心地よかった。
野依は顕彦がいると心持ち嬉しげな様子だった。彼女の『お館さま』と同じ瞳を持っているからだろうか?
しかし話しかけても、微笑んでいるだけで答えてはくれない。
「この前は何となく不安げだったのに、今日はすごく嬉しそう‥。あ‥。こんな事言っても信じられないでしょうね。」
悄気た里桜を振り返って、顕彦はいつもの曖昧な微笑を浮かべた。
「信じてないわけじゃないよ。ただ、これまでと逆だから不思議な気がするだけ。それにしても君にはどうして視えるのかな? 霊感強いの?」
「はあ‥。あたしにもさっぱり。このお屋敷に来るまでは何も視たことないんだけど。そう、それで思い出した。着いた晩に怖い夢を見たの。そのせいじゃないかな? だって夢見て朝早く目が覚めちゃって、散歩に出たらここで野依さんを見つけたんだもの。」
「怖い夢‥? どんなの?」
里桜は顔を顰めた。
「とにかく気持ち悪い夢。躰がぼろぼろに崩れていって形もないのに、涙が溢れて止まらないの‥。あの感じ‥‥あれが絶望っていうのかも。」
思わず身震いが出る。顕彦はじっと里桜を見た。
「それは君の‥経験した想い?」
迷わず首を振った。
「あたしはだいたいが暢気にできてるから。何て言うか、ええと。執着? そういうものには縁がなくって‥。穴蔵を這い回りながら何かに酷く執着してる感覚が、気味悪かったの。」
「そうか‥。穴蔵ね。『呪い』の本体がどこかの穴蔵にあるのかもしれないな。」
「え? じゃ、あの夢が『呪い』に関係してると思うの?」
顕彦は冷笑を浮かべて、里桜を見る。
「君はまるで霊専用の受信アンテナみたいだよね。董子さまが憑いてるのかも。」
「‥‥話すんじゃなかった。意地悪な人だってつい忘れてた。」
里桜は顕彦に背を向けた。四阿へ向かい、ベンチに腰を下ろす。
しばらくの間、顕彦は野依のたたずむ辺りに醒めた瞳を向けて立っていた。そして振り向きもせずに、里桜、と呼んだ。
仕方なく腰を上げる。
犬じゃないんだから、と腹立たしくなるが結局はそばに行くのだ。バカにつける薬はないとはよく言ったものだ。我ながらつくづく情けなくなる。
彼はそんな里桜の胸中などまったく斟酌する様子もなく、隣に立った里桜に言った。
「ねえ。君の誕生日。天気予報は晴れだから、ここでガーデンパーティにしよう。」
「ここって、薔薇園で?」
「いい考えだと思わないか?」
「薔薇は今が盛りですもんね。とってもいい香りがしてるし。」
里桜はそっぽを向いたまま適当にうなずく。
呆れ顔で顕彦は振り返った。
「なんだ。まだ怒ってるの?」
「怒ってません。」
「ふうん‥。」
いきなり頬を指でつんつんとつつかれた。
「痛っ‥ちょっと!」
「ふくれてるくせに。風船みたい。」
「ふ、風船て‥!」
ふふ、と顕彦は笑う。
「そうか。もうすぐ昼になるから、お腹が減ったんだよね? 君って空腹だと不機嫌になるじゃない?」
「‥‥っ!」
里桜は真っ赤になった。
いったいいつ、空腹だからって不機嫌な顔をしたというのだろう? 自分はいつだって不機嫌そうなくせに。
言い返そうと顔を上げて、まっすぐに見つめてくる視線とぶつかった。
目が合ったとたん、顕彦は吹きだし、可笑しそうに声を立てて笑い出した。里桜に向けられた金色の瞳は、夏の木漏れ日を映してきらきらと光って見えた。
彼の笑った顔はとっても―――綺麗だ。
里桜はほのかにそう思い、ついつられて微笑み返した。