CHAPTER 7
それから半月ほどの間、影法師は現れなかった。
その間に暦は七月に入り、蒸し暑い日が続いている。
屋敷のそこらじゅうに生花を絶やさないようにしたのが、多少効いているのかもしれなかった。顕彦と話し合って、あの影法師は生きているモノが苦手なのではないかと考えたからだ。里桜は彼を安心させたいばかりに、大丈夫、と笑いとばしていたが、実はもの凄く不安だった。
お祓いしてもらうのがいいかも、と言ったら顕彦は首を振った。
「三人くらい来てもらったよ。バカみたいな格好させられて、儀式みたいのもしたっけ。心霊療法とか催眠療法も試したし。病院で被害妄想とか他にもいろいろな病名がついて、薬漬けにもなってみた。どれも全然効かなかったよ。効いたのは君だけだ。」
仕方ないので、暇をみては董子の覚書を解読することに務めた。
しかし顕彦に内緒でしているため、なかなか進まない。今日もこうして午睡を口実に二階の自室に籠もり、続きに取りかかっている。
なぜ内緒にしているのかは自分でもよく解らなかった。
顕彦ならさほど苦労せずに読めるのではないかとも思う。けれど彼が里桜に完全に心を開いてくれない以上、この覚書だけが唯一の情報源といえる。渡してしまうことは躊躇われた。それに―――まあいい。
やっと三ページほど読み進めたところでは、『呪い』の説明はなかったが、どうやら董子の次兄の恭之は『呪い』のせいで精神に異常をきたし、拳銃自殺したらしいという事だけ解った。
そんな怖ろしい結末は要らないのだ。里桜が知りたいのは『呪い』から逃れる方法だ。そのためにはどういう『呪い』なのか知る必要がある。しかし鷹森家の一族内では周知の言い伝えらしく、董子もあらためて記すつもりはないようだった。
傍らに置いた『鷹森小四郎景信伝――鬼神と呼ばれた知将――』をぱらぱらとめくってみる。この本も何度も読んでみたが、小四郎景信という人がいかに人間離れした凄い人だったか、ばかりが滔々と述べられているだけだった。まあ、家史を依頼された雇われライターが『呪い』などというマイナス面に言及するわけないのは当然だろう。
ただ気になったのは小四郎景信の瞳の色が時折金色に光って見えた、という記述があったことだ。
この人は母親が異人部落と呼ばれた村の出身だったそうで、その村の人々は皆、髪も目も薄い色をしていたそうである。
身分の低い女から生まれた四男だった彼は、本来鷹森の名を嗣ぐ身ではなかった。しかし彼が十八才の時に、小豪族だった鷹森家は戦に敗れて一族郎党の大半が戦死し、残ったのは彼と数人の家来のみという状況に立たされてしまった。
いったんは母の部落に逃れ、三年後鷹森家再興を目指して旗揚げした。そこからは全戦全勝まさしく鬼神のごとき活躍を見せ、わずか十五年で元の領地だけでなく九つの領地を併合し、一国まるまるの平定を成し遂げた。
伝説によると人外の者の血を引いていてニメートル余りの上背があり、人並み外れた身の軽さと反射神経、両刃の大刀を難なく振るう膂力を持ち合わせていたという。戦場では強力な妖術を用い、敵対する者を一瞬で塵のごとく消滅させた。鬼神の名の所以である。
『妖怪が跳梁跋扈する中世ならではの伝説』とライターは注釈し、『善悪併せ呑んだ最強の武将として偶像崇拝的な後世の創作』と締めくくっている。ただ渡来人の血を引いている点は裏付けがあり、色素の薄い瞳の色や日本人離れした体型が事実として鬼神伝説の下地になったことは間違いない、とも述べていた。
この本が書かれた当時、顕彦はまだ生まれていない。ライターがまだ生きているならば、顕彦の瞳を見てどんな感慨を抱くだろう。小四郎景信の瞳が金色に輝くという言い伝えはまさしく真実だと実感するだろうか。
『呪い』はこの瞳の色と関係があるのかもしれない。戦国時代だから仕方がないとはいえ、小四郎景信は多くの人間を殺めている。確かに『呪い』を受けそうではある。
そこまで反芻してみて、野依に訊いたらどうだろうか、と思いついた。
野依の記憶にある『お館さま』は小四郎景信ではないのだろうか。野依の顔が里桜と似ているという事は彼女は小四郎の妻で、記憶の中の赤子が跡取りだった可能性はある。『呪い』を受けたのが小四郎であったなら、野依が知っていてもおかしくはない。
里桜は庭へ飛び出した。
七月の雨は躰にべたべたと纏わりついてくる。山あいのこの辺りでも気温はだいぶ高い。そろそろ梅雨明けの頃だ。天気予報でも来週あたりと言っていた。
薔薇は今が盛りと言わんばかりに、そこらじゅうに咲き匂っていた。静かに降る雨がその芳香をより濃密にしている。
しかし野依の姿は今にも雨に溶けてしまいそうに見えた。
―――大丈夫?
心の中で話しかけたが、野依は里桜を振り向かなかった。立ったまま眠っているようにも見えるし、消えかけているようにも見える。ひどく頼りない姿だった。
里桜は溜息をつく。しばらくの間話しかけたり、傘を差し掛けたりしてみたけれど、無駄だった。仕方なく、出直すことにしてとぼとぼと屋敷に戻った。
やはり廣一朗に相談しようか。鷹森家の『家族』の中で、真面目に里桜の話を聞いてくれそうな人は他にはいない。だいたい里桜は考えるということが苦手なのだから、一人で突きとめようなんて初めからムリだったのかも。
二階の部屋に戻って、廣一朗にメールを入れよう。そう決めて、里桜は階段を急ぎ足で上った。決めてしまったら何だか少し身が軽く感じる。勢いよくドアを開けた。
するとソファに顕彦が座っていた。
「お帰り。」
彼の手には董子の覚書があった。里桜はばつが悪くて、赤面した。
「顕彦さん‥。あのう、どうしてここに。」
「君を探しに来ただけ。そうしたら君はいなくて、代わりにこれがあった。どこで見つけたの?」
顕彦は冷ややかな口調で言った。里桜はますます赤くなる。
「写真ホールの書棚で‥。あのう、持ち出しちゃいけなかったの?」
「‥‥僕はこんなものがあるなんて知らなかった。この家にあるものはすべて知っているつもりだったけど。」
「知らなかった‥? でも。蒔絵の文箱に入っていたのよ。間違って落としちゃって‥。それで偶然見つけたの。あたしに似てる人の日記だったから、ちょっと興味があって。それで‥。」
「それで、中を読んでみたんだね? でもそこに一緒に開いてあった君のノートには、『呪い』のことばかり書いてあったよ。君は鷹森家に伝わる『呪い』について調べていたんじゃないの?」
里桜は俯いて唇を噛んだ。
顕彦はなぜか怒っているようだった。なぜ怒るのだろう。それほど里桜には知らせたくない話なのか?
「‥‥いけないの? 誰も教えてくれないんだもの。でも、あたし、知りたかったの。またあの黒いモノが襲ってくる前に、あれが何なのか知りたかったの。だから調べてたのよ。この覚書をあなたが知らないとは思わなかった。とっくに読んだと思ってた。そうでなければあなたに渡してたわ。」
顕彦は凍りつきそうなほど冷たい微笑を浮かべた。里桜はかあっとなって、叫んだ。
「解ったから、持っていって。もう勝手なことはしないから。これからは何でもあなたの許可をもらうようにする。それでいいでしょ?」
沈黙が流れた。
怒りを含んだ沈黙。雨の音が混じり出す。少しずつ悲しみを帯びてくる。
先に堪えられなくなったのは里桜の方だった。
「ごめんなさい。何だか解らないけど、あたし、すごく怒らせるような事をしちゃったんですよね? 謝るから‥許してもらえませんか。」
顕彦は黙ったままだった。
「あのう‥。」
「もういい。君は僕を信用していないんだね。別に何も隠してるわけじゃない、ただ自分から言ってまわる気になれないだけだ。いくらでも気がすむまで調べればいい。」
突き放すように言うと、彼は立ち上がった。
「待って‥! お願い、怒らないで‥。」
里桜はおろおろして、彼の腕を掴み、引き留めた。
「手を放してくれないか。哀れがってもらわなくてもいい。同情や憐憫にはうんざりしているんだ。」
「そんなんじゃない‥‥」
「僕には何もできないと思ってるくせに。こっそり調べてその後は? 誰かと相談するのか、僕をどう処置するかって? 」
廣一朗に相談しようとしていた気持を見透かされて、里桜は怯んだ。金色の瞳は怒りで揺らめいて、まっすぐ里桜を見据えた。
「誰も彼も、腫れ物に触るみたいに遠巻きにして僕を見る。君も同じだよ。見物人ならそれらしくすれば? 僕が死ねば君は自由になれるんだ、放っとけばいいのさ。財産もこの家も黙ってたって君のものなんだから。何もしないでただ待っていればいいんだ。」
「そんなこと、できないよ‥‥!」
振り払われた手で、もう一度袖を掴んだ。涙がぽろぽろ零れてきた。
「死んじゃ嫌だから‥‥何とかしたくて‥。あたしはあたしなりに‥。」
「言ってるだろう。これは僕の問題なんだ。哀れみは要らない。」
吐き出すように呟いた横顔は、酷く傷ついて見えた。
胸が張り裂けそうに痛い。空いている手で涙を拭って、彼の袖を握ったままの手にぎゅっと力を籠めた。
「哀れみなんかじゃない。あたしは‥‥顕彦さんにずっと、生きててほしいだけ。他には何も要らないの。考えなしだったって反省してるから、お願い、怒らないで。」
拒絶しないで。遠ざけないで。そばにいてほしいともう一度言って。祈るように里桜は思った。
「‥‥なぜ? そうまでしてくれる義理なんかないのに。」
「なぜって‥。」
「僕といれば君だって危ないかもしれない。そうは思ったことない?」
今まで見た事がない真剣なまなざしが、里桜に注がれていた。
「そんなの、関係ないじゃない。あたしだけ逃れたって何も解決しないでしょ?」
「だから、なぜ?」
そんな強い視線で見つめないでほしい。里桜は顔を背けた。胸の動悸が激しくなる。
「死んじゃ嫌だからって言ったじゃないの‥。」
「うん、聞いた。僕に生きててほしいとも他には何も要らないとも、君は言ってくれたね。それが本心だとすれば、なぜなんだ。ねえ、里桜。答えて。僕は君に縋りついていいの? 同情じゃないなら何?」
腕を引き寄せて、顕彦は里桜を強引に振り向かせた。
ぐんと顔が近づいて、里桜の心臓は破裂しそうなくらい派手な音を立てている。結局、抵抗するのは諦めた。
「‥‥好きだから。」
顕彦は口元に微かな笑みを浮かべた。
「知ってたくせに‥。意地悪なんだから‥。」
「言ってくれなきゃ解らないよ。でも嬉しい。僕には里桜が必要なんだ。」
ぎゅっと抱きしめられて、体中の血が逆流したみたいな感じがした。里桜は心の中でなぜだか母を呼んだ。
鷹森董子の覚書に記されていたのは、あの黒い影法師のことと思われる物の怪の存在についてだった。
契機は董子が恭之の死後に『走り書き』を見つけたことだ。
彼はある時点から自分の幻覚と向き合おうと考えて、発症するたびにメモを遺していた。董子はそのメモを『走り書き』と呼んでいる。
兄を偲んで『走り書き』を何度も読み返しているうちに、やがて董子は一つの疑問を抱くようになった。兄は実際にこの黒い影どもに襲われていたのではないのか?
幻覚症状が現れ始めた頃、父の伯爵は当時高僧や霊能者として名高かった人々を片端から廻っては相談している。秘密にするべき『呪い』を外部に漏らすなどと、と一族内では非難する声が多かったそうだが、伯爵は歯牙にもかけなかったという。だがその甲斐もなく、お祓いも祈祷も高い御札も効き目はなかった。『呪い』の根源を突きとめる事さえもできなかったらしい。顕彦の時と同じだ。
彼らの看板に虚偽があったのかもしれないし、鷹森家の『呪い』がそれほど強力なのかもしれない。しかし二十世紀初頭の常識は、『呪い』というより何代かに一人精神異常者が生まれる血統なのだと断定した。まして当主は必ず親族と婚姻するなんて因習のある旧家では必然的に起こりうる、と。
しかし、と董子は思った。
彼女は実際に慈善事業の名目で精神病院の見学に行き、ますます疑いを深めていく。記憶にある兄の言動には、他人には視えないモノを視て影響を受けるという以外、まったく異常な様子はなかった。とすれば―――物の怪が実在するのだ。
董子は兄の遺した『走り書き』を一つ一つ検証し始めた。
たとえば恭之が自殺する三日前、階段の踊り場でいきなり窓硝子が粉々に割れるという現象が起きている。その時は春の嵐のせいだろうと簡単に片づけられてしまった。だが恭之のメモには、真っ黒い巨大な影が窓硝子を壊して脅したと記してある。
董子はその日時の気象状況を調べて、伝手を頼りに大学の専門家を訪ねた。そして気象データを提示して、強風の発生及び強風が並んだ五枚の窓のうち二枚だけを粉々にする可能性について話を聞いている。結果として可能性はゼロではないがかなり低い、という証言を得た。
このように董子は一つずつ検証して、兄が『走り書き』に遺した黒い影のような物の怪は実際に存在したとの、彼女なりの結論を出した。
やがて董子は影法師たちは死霊なのではないかと推測するようになる。どこかに『呪い』の本体があって、それが死霊たちを操っているのだとも。そして恭之のメモにあった『贖罪』の言葉から、本体は先祖の地にあると考えた董子は、父の伯爵を説得して現在の鷹森本邸のある一帯を購入し、屋敷を建てた。
しかし彼女の一生を懸けた探索も空しく、とうとう『呪い』の本体らしきモノは見つからなかった。
『覚書』はその無念さと再び子孫を襲うであろう不幸へのせめてもの助言で締めくくられている。
―――曰く、決して自暴自棄になる事なく、物の怪を寄せない工夫を怠らざるべし。
―――甚だ不確実なれども、若しや過去の例より永く物の怪を退ける事可わば『呪い』 より解放される日もあらんとや思ふ。
そして寄せない工夫として、生き物の放つ気が死霊除けになると記していた。
董子の『覚書』を、顕彦は里桜の予想以上にすらすらと読みこなした。
まるで古文の授業みたいに里桜に文章を解説しながら、肝心な箇所の要点だけノートに書き抜いていく。おかげで日が暮れる頃には、あらかた知りたい部分は読み終えていた。もともとそれほどページ数の多い冊子ではない。
「今日はここまでにしようか。」
言われるままにうなずいて、里桜は片づけ始める。蒔絵の文箱に戻していると、顕彦は箱をじっと見つめて問いかけた。
「これ‥。その文箱に入っていたの?」
「そう。写真ホールの書棚の一番上にあったみたい。いきなり落ちてきたんです。」
こんなふうに、と里桜が再現してみせると、顕彦は怪訝な表情で呟いた。
「書棚の奥ね‥。どうして僕には見つけられなかったのかな。先祖が残した文書は全部目を通すつもりであさったはずなのに。」
「え? あそこにある古文書みたいなの、全部読んだんですか?」
里桜はびっくりした。道理で読み慣れているはずだ。
「写真ホールや図書室だけじゃない、蔵にもまだたくさんあるよ。他にする事もなかったからね。少しでも手がかりがあればと思って‥。この『覚書』がもっと早く手に入っていれば‥いろいろと違ったのに。」
幻覚じゃなくて物の怪だと解っていれば、確かに違っていただろう。どこから来るのか突きとめる時間ももっとあったはずだった。
「今頃、『呪い』なんて関係なくなっていたかもしれないですもんね。そしたら‥。」
その先は言えなかった。里桜は顕彦と出会わなかったかもしれない、なんて。
だが顕彦は夕闇に包まれた廊下へと出ていきながら、里桜の方を振り返り、手を差し伸べた。
「君が鷹森董子に生き写しだという事が関係しているのかもしれないね。‥‥行こうよ。また夜になる。」
その手を里桜はしっかり握った。
小学生の時にお化けが出ると噂されていた場所が通学路にあって、怖くてその前を通れなかったことがある。
泣きべそをかいて立ち竦んでいると、ちょうど通りがかった近所の老人が頭を撫でてくれて、里桜に言いきかせた。
「お化けは所詮、弱いものなんだよ。生きている人間に敵うものはないんだ。おまえなんかいないモノだ、消えてしまえって強く念じていれば、大丈夫。」
それは世の中に怖いものだらけだった幼い里桜には、とても心強く響いたのだった。
入浴をすませてパジャマに着替え、ベッドに入った里桜は、影法師が死霊だという覚書の指摘にとっくに忘れていたそんな記憶を思い出していた。
鷹森董子と里桜は、顔は似ているかもしれないけれど頭の方はかなり違うようだった。覚書の内容を見る限り、董子は冷静でもの凄く頭の良い人だ。そんな人が失敗したというのに、はたして里桜は顕彦を守りきれるのか?
それにしても彼女の執念はどこからいったい来るのだろう。肝心の兄は亡くなってしまったというのに。よほど悔しかったのかもしれない。
ふと名を呼ばれて振り返る。
隣のベッドで顕彦が起き上がってこちらを見ていた。
里桜はすぐに体を起こし、辺りを見回した。この部屋に何かいる気配は感じない。
「どうかしたの? 何かいる?」
天井灯の鈍い灯りが壁に、起き上がった里桜の大きな影を映す。思わずそちらを見た。違う。普通の影だ。
「ううん。そうじゃなくて。覚書のことを考えてたんだ。」
顕彦は枕元のスタンドのスイッチを入れ、サイドテーブルの引き出しから古ぼけた帳面を取り出した。
「実はね、彼女が遺した文書はあれだけじゃないんだ。董子の日記だよ。‥こっちに来てごらん。」
里桜は自分のベッドから抜け出して、顕彦の隣に腰掛けて帳面を受け取った。
「ああ‥。これ、一ページ読むのに一時間以上かかっちゃう。」
里桜の嘆息に顕彦はくすくす笑った。
「読み慣れてしまえば、文章がちょっと古風なだけなんだけどね。内容は‥そうだな、思春期の女の子の日記だよ。特に初めの方はね。無邪気なものだ。中学生の女の子が日記に書くのは普通、何だと思う?」
「‥‥好きな男の子のこととか?」
「そう。でも彼女の場合、想いを寄せた相手が血の繋がった実の兄だったんだよ。」
「わ‥。ヘビーな展開。禁断の何とか小説みたい‥。」
里桜はびっくりした。隣ではまた笑っている。
「だから必死で隠してるんだよ。いじらしいくらいにね。でも恭之が発病した頃から深刻になる。女学校を途中で辞めて、ずっと看病に付き添うんだ。死の直前までね。」
「告白したの?」
「うん。彼が死ぬ一年くらい前に。恭之の走り書きを見ると、とっくに気づいていたらしいけど。拳銃自殺したのは、妹の想いをこれ以上拒み切れそうもなかったからだ。」
「‥‥悲しい話。」
「董子は彼の死後、ずっと自分を責め続けてるんだ。何とかして救うつもりが、逆に命を縮めさせてしまった、とね。」
里桜はふう、と息をついた。
董子が一生懸けて『呪い』を突きとめようとした理由は後悔からきていたらしい。それとも償い―――あるいは供養?
手にした帳面を丁重にテーブルに戻す。とても無造作になんか扱えなかった。
不意に腰を掴まれてぐいと引き寄せられ、里桜はベッドの上に押し倒された。
「ちょっと‥。何?」
顕彦は答えず、里桜の肩をかき抱いて唇を重ねてきた。
全身がぞくぞくっとした。初めてのキス。心臓が破裂しそうなほど痛くなる。
「すごくどきどきしてるね。胸が痛い?」
また意地悪な事を言っている。からかって面白がっている。なのに声がちゃんと出なくて言い返せない。
慣れた手つきで彼は、里桜のパジャマを剥いでいく。里桜は何とか言葉を絞り出した。
「待ってよ‥。あたしとは‥‥しないって‥。こういう事は、その‥。」
身をよじってみたけれど、逆にゆで卵の殻を剥くみたいに脱げてしまった。
「そう、言ったじゃない。‥言ったでしょ‥。」
「気が変わった。」
再び口を塞がれた。今度はもっと深くて熱いキス。思わず目を閉じた。
なんて自分勝手な人だろう。そう思いつつも里桜は本気で抗うなんてできない。体の真ん中が疼いて、身の置きどころがない。
「里桜。もっと、力抜いて。」
恥ずかしくて死んじゃいそう。そう言いたいのに言葉にならない。吐息みたいな上ずった声しか出ない。涙が滲んでくる。子供みたいに泣きたくなる。
里桜の情けない顔にやっと気づいた顕彦は、宥めるような視線を向けた。
「初めてなのか。頼むから泣かないで。大丈夫、優しくするよ。」
「‥もう、駄目。泣きたい。」
「そんなに嫌?」
里桜の零れかけた涙をぺろりと舌で掬いとって、彼は訊ねた。
心臓がまたばくん、とはねる。
「だって‥。ヘンな感じ‥あたし、バカになっちゃいそう‥。」
「それでいいんだ。感じるままに、楽にして。」
頭の中が、顕彦でいっぱいになっていく。体中に淫らな声が溢れかえって、息をつく度に漏れ出てしまう。切なくて切なくて、思わず目の前の体にしがみつく。
ゆっくりと熱い何かが入ってきた。体が裂けてしまいそうになる。
痛くて痛くて、身動きもできないくらいなのに、少しずつ深く入ってくる。無意識に締めつけるたびに、まるで自分の一部になっていくように感じる。
「‥‥痛い? 我慢できる?」
「うん‥‥。痛いけど‥このままで、いい。」
「じゃ、いくよ。僕はもう、限界だから。」
急に波が押しよせてきた。体の中心の一点に感覚が全部集まったようになって、里桜は喘いだ。一体化していくこの感じ。すごく幸せなのに、泣きたくて泣きたくてたまらない。もうどうなってもいい、ただこのままずっといたい。
時間がどれほど経ったのだろう。それともほんの短い間なのか。
ともかくも何も解らないうちに、里桜の中で何かが弾けて、張りつめた糸が一気に緩んだ。
大きく息をつく。腰が抜けたようになって、横たわったまま動けなかった。
顕彦は傍らに寄り添う形で、里桜を両腕で抱えこんだ。
素肌が触れあう感覚が妙に優しかった。里桜の微かに震える上気した頬を胸の中に掻いこんで、額に目蓋に髪にと彼は幾度もキスを繰り返す。
「辛かった?」
「解んない‥。突然すぎて‥頭が真っ白って感じ。」
「僕を好きだって言ったくせに。」
「言ったけど、でも‥。こんな事するとは思わなかった。」
たまりかねたように彼は吹きだした。
「ほんとに君は子供みたいだ。僕はもう、随分前から我慢してたのに。毎晩同じ部屋で寝ていて、何も感じないの?」
里桜はなぜか赤くなった。顔が火照っていくのが解る。仕方がないので彼の胸に伏せて隠した。
「勝手な事ばっかり。あたしになんか興味ないと思ってたんだから、感じるわけないじゃない。葵さんにまた叩かれても知らないから。」
「葵? なんで葵が出てくるの。」
「本当なら葵さんと結婚するはずだったんでしょ? そう聞いたもの。子供の頃からずっと、好きだったって。‥‥恋人だったんじゃないの?」
「そんな戯言を君に言ったの? たちが悪いね。恋人じゃないし、約束もしてない。第一、葵は自分以外の誰かを好きになった事なんかないと思うよ。僕は全然関係ない。」
冷ややかな嘲笑を含んだ声。頸筋がぞくっとする。
頬に感じる体温にしがみついて、里桜はたまらず呟いた。
「全然関係ないなんて感じには、見えなかったけど。」
苦笑いを浮かべて顕彦は里桜の顔をぐいと上向かせ、もう一度キスした。
「‥厳しいな。何年も前の話だよ。誘われたから軽い気分でつき合ったけど、それだけ。もしかして、今までの女性関係を全部告白しなきゃ駄目?」
「要らない。聞きたくない。」
里桜は再び顔を伏せる。耳元で顕彦はくすくす笑う。
「良かった。ほんとは覚えていないんだ。本気になった事がないから。」
「ああ‥そう。」
覚えていないくらいたくさんいて、全部遊び? それとも成りゆき任せ? 全く笑えない気分だ。彼の腕からすり抜けようと里桜は体を起こした。
「まだ逃げないで。」
再び腕の中に引き戻されて、今度は背中から強く抱きしめられた。
「里桜。『呪い』の事だけど。」
胸がずきん、とした。
耳元で聞こえる声は無機質で、今まで里桜をからかっていた音とは違っていた。
「君がノートに書いていたように、僕のこの瞳の色。この瞳が『呪い』なんだ。」
綺麗な色なのに。とても綺麗で―――時に切ない。
「およそ百年に一度、鷹森の当主家にこの瞳を持った男子が生まれる。生まれた時は普通の色なのに十一、二才の頃から少しずつ退色していって、数えで十八になると判で押したように訳の解らない事を言い出し始めるんだ。そして長くても十年くらいの内に完全に発狂して死ぬ。これが鷹森家に伝わる『呪い』だよ。」
顕彦は息を継いだ。
「分家にはなぜか生まれないんだ。それから、今までは嫡子にも出なかった。次男とか三男とか、それ以降に出る。江戸時代には目の退色が始まるとすぐ、座敷牢に入れられたみたいだけど、凶暴になって刀を振り回した例もあったそうだから仕方ないんだろうね。記録に残っている限りでは僕の前までに六人いた。六人はそれぞれ死に方も死んだ年齢もまちまちだけど、一番長く生きた例は享保八年、西暦千八百二十三年に亡くなった新之助という人だ。数えで二十八、満で言えば二十七だった。」
半年経てば顕彦もその年齢だ。彼のあと一年と言った言葉が、急に胸に重くのしかかってくる。
「新之助は当時の当主の末弟で、よく自分を抑えてた。ほとんど正常に見えたそうだ。なのにある朝眠るように死んでいた‥‥死因は窒息死。前日まで普段と変わった様子はなく、首に扼殺の痕が残っていたので、初めは謀殺の疑いが持たれた。だが調査した結果、彼が入っていた座敷牢にはその晩、人間は誰も入れるはずがなかったと記録に残っている。」
思わず息を呑む。あの黒い影。顕彦の頸に纏わりついて、嫌らしく蠢いていた。もしかしてあの影どもの仕業だろうか。だとすればものすごく―――あぶないところだった。背中がぞくぞくする。
「新之助の次が董子の兄、恭之だ。彼は自分がおかしくなるたびにその状況をメモに取って遺している。その一部がさっき君に見せた董子の日記に挟まっていた、覚書にも出てくる『走り書き』だ。僕は恭之のメモのおかげで、自分の進行状況を確認できたんだ。自分を保つのにすごく助けになったよ。彼は二十五才で亡くなった。最後の頃は昼か夜かも解らなくなって、董子の声だけが現実に立ち戻る手段になっていた。ちょうど僕が君といれば安心できるみたいにね。」
里桜を抱いている腕に少しだけ力が籠もる。
「そのまま董子に頼っていたら、一線を踏み越えてしまうと彼は考えた。だから自殺した。『妹を堕落させたくない』って言葉がメモに何回も出てきた。恭之という人はとても強い人だと思うよ。僕にはできない‥時代の違いかもしれないけど。」
できなくていい。そんな種類の強さは要らない。潔さよりモラルより、一日でも長く生きてほしかった。里桜は同じ顔をした約百年前の彼女の声が聞こえたように感じた。
顕彦は他人事みたいに淡々とそして僕だけど、と続けた。
「僕だけは例外なんだ。長男だし、何より生まれた瞬間からこの瞳を持っていた。両親はひどく嘆いて、どちらのせいなのかと口論が絶えなかったそうだ。」
里桜は驚いて、思わず声を上げた。
「どちらのせいって‥? 誰のせいでもないでしょう?」
「さあ。あの人たちと会った記憶は数えるほどしかないからね。何を考えてたのかなんてさっぱり解らないよ。」
答えた顕彦の声音には、苦笑すら混じっていなかった。
「里桜、当主が親戚か縁戚のうちから妻を迎えるっていうのはね、この忌まわしい『呪い』の話が外部に漏れないようにするためなのさ。僕を生んだ女は昔の家来筋の出で、やっぱり跡取りを生むために迎えられたんだ。」
あたしと同じだ、と里桜は思ったけれど、口には出さなかった。
「いったいどうして、こんな『呪い』があるのかしら。それは伝わっていないの? あ。訊いちゃいけないのかな?」
「伝わっていないんだ。」
そう答えて顕彦はくすくす笑いながら、里桜の頸筋にキスを落とした。
「ここまで話してるのに、なぜまだ訊いてはいけない事があると思うの? 」
「だって、『呪い』の話は一族内の秘密事なんでしょ? あたしは‥。」
余所者だから、と言いかけて、里桜は気づいた。
こんな関係になったのだからもう余所者のお飾りじゃないと考えてもいいのだろうか。先刻からの話は妻として認められた証拠なのか? でも。もしかしたら―――逆なのかも。
「もしかして‥‥。だから抱いたの?」
顔は見えないけれど、顕彦が一瞬躊躇したように思えた。
やはりそういう事なのか。里桜はしゅんとした。
「‥‥つくづく自分勝手な男だと思うだろうね。」
はああ、と深い溜息が出た。
「ほんとに‥。あたしったら、なんて酷い人を好きになっちゃったんだろう!」
里桜、と耳元で囁く声が聞こえる。
また胸の奥がきゅっと疼く。それでもこんなに好きなのだから仕方がない。
「君が必要なんだ。影が見えるのは君だけだから。」
「そう言ってくれるだけでいいのに‥。あたしの気持を掌の上で転がして、楽しい?」
「正直なところ、ちょっと楽しい。」
「もう! あなたって人は‥!」
抗議しようと里桜は上体を起こして振り向いた。なのにまた簡単に下に組み敷かれてしまった。今度は身動きが取れない。
顕彦は里桜を見下ろして、心から楽しげな貌をした。
「里桜。もう一度、僕を好きだと言って。」
耳にキスしながら囁く。
里桜は愚者だから抗えない。目を伏せて喘ぐように言った。
「‥‥好き。大好き。」
途端に恥ずかしくて、きゅっと身を竦める。息が止まりそうなほどのキス。ご褒美だろうか―――まるでペットみたいだ。なのに嬉しい。
抱きしめられて、もう何もかもがどうでもよくなった。
ただずっとこうしていたい。血の通った、温かい躰の触れあう優しい感触。気が遠くなるほど幸せな感覚。
静かな夜更けに密やかな雨の音が響く。
里桜はふと、雷の音を聞いたような気がした。