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CHAPTER 6

 黒い(もや)が湧き出てくる。冷たい汗が背中を走る。

 ほんの一瞬前までは雨の音がしていた。糸のような雨の降る、ひそやかな音が。

 まだ日暮れには遠いはずなのに、部屋の中を闇が覆い始めた。黒い影のようなモノ。闇に棲むモノたち。見る間に濃くなっていく。形になっていく。

 ざわざわ、こそこそと話し声が聞こえる。はっきりとはしていない。耳を塞いで聞かないようにしても、ざわめく音が頭のてっぺんから吸いこまれてくる。

 ―――出てくるな。まだ夜じゃない。

 叫んだはずの声は遠い。闇を切り裂く力がない。くすくすと嘲笑う声が躰をすっぽりと包む。冷たい凍るような空気が押しよせてくる。

 助けてくれ、と叫びそうになってぐっと(こら)える。弱音を吐けばコイツらの思うつぼだ。

 力が欲しい。闇を排除できる力、明るい光。どこかで、前に見たはず。

 ふらふらと立ち上がった。

 とにかく、ここから逃れなくては。確かに見たはずだ、仄かな柔らかい光。温かくて優しい―――何か。

 探しに行こう、この場所を出よう。可能であるならば。

 ドアらしきものを開け、通路をよろめきながら走る。

 階段だ。手摺にもたれて、息をつく。苦しい。呼吸ができない。纏わりつく黒い影を振り切れない。

 どこだ。この影を切り裂く力。僕を闇から連れ出してくれる光は―――階上(うえ)か?

 階段を這いずるようにして上る。咳が出た。黒い影が頸を締めつける。行かせまいとしている、ならば行く。

 階段を上りきった時、温かいものの気配を感じた。

 躰にとりつく闇の影が怯んでいる。闇が嫌がるモノ――それはきっと、探しているモノ。

 前方にうっすらと闇の切れ目が見えた。そこへ向かって歩く。一歩ごとに闇の力が弱まるのを感じる。手を伸ばす。必死に伸ばして、闇の切れ目に触れる。苦しい。頸が締めつけられる、息ができない―――


 どん、と大きな音を立てて、図書室の重い扉が開け放たれた。

 びっくりして振り返った里桜の腕の中に、顕彦が転がりこんできた。真っ青な顔で、肩で息をして、ぶるぶる震えている。

「顕彦さん‥?」

 彼は里桜の声が聞こえていないらしかった。

 里桜は思わず、ぎゅっと彼を抱きしめた。何が起きているのかは全く理解できなかった。ただ手を放したら永遠に失うような気がして、怖くてたまらなかった。

 顕彦は里桜の躰に冷たい両手で必死にしがみついてきた。里桜だと知っているわけではなさそうだったが、ひと言だけ、温かい、と呟いた。里桜は愛しさで胸が張り裂けそうになる。自分の体中の体温を全部あげてもいい。

 次第に呼吸が落ち着いてきて、躰の震えが小さくなってくる。どうやら里桜の胸に頬を当てて、心臓の鼓動をじっと聞いているみたいだった。蝋のように白い頸筋に少しだけ血の色が戻ってきている。

 里桜はそっと彼の髪を撫でた。躊躇いがちな自分の指が、緊張でじんじんと痺れてくるのが解る。胸の高鳴りが指先に移動したみたいに、熱くなっていく。何だか無性に泣きたくなってきた。

 顕彦がゆっくりと顔を上げた。

「里桜‥‥。」

 里桜は急速に自分を呼び戻した。さりげなく見えるような頬笑みを作る。

「大丈夫‥? ともかくソファで横になったら?」

 抱えるようにしてソファに腰を下ろさせた。クッションの位置を直して横になれるようにしてあげる。

「唐沢さんを呼んできますね。何か、欲しいものある?」

 顕彦は目を閉じたまま、行かないで、と呟いた。

「え?」

「僕のそばにいてくれ。独りにしないで‥頼むから。」

 そう言うと彼は里桜の手を探りあてて、指を絡めて握りしめた。

 胸がどくどくとまた怪しい音をたて始める。でも里桜は静かに指を握り返した。

「うん。解った、そばにいるから。」

 ソファの前に蹲って、彼の冷たい手を両手でそっと包みこむ。

 気がつけば顕彦はパジャマ姿で、裸足だった。髪も乱れている。いつも身だしなみの良い彼がいったいどうしたというのだろう?

 そこへ唐沢が血相を変えて走りこんできた。目前の情景に茫然と立ち竦む。

「里桜さま‥。いったい、何が?」

 里桜は首を横に振った。

「解らないの。いきなり倒れてしまって‥。お医者さまを呼んだ方がいいんじゃない?」

 すると顕彦が口を開いた。

「大丈夫。いつものだから。唐沢、ガウンと毛布を持ってきて。少しここで横になりたい。‥‥里桜、君はまだ行かないで。もう少しだけでいい。隣にいてくれ。」

「‥ほんとうに病院行かなくていいの? 」

「うん。」

 唐沢が急いで部屋を出ていく。里桜は溜息をついた。

 しばらくして毛布やら湯たんぽやらを抱えて唐沢が戻ってきた。その後ろに白湯と薬袋を載せた盆を手にした由美が続いている。

「坊ちゃま。こんなにお手が冷えて‥。」

 由美は顕彦を毛布にくるみこんで、足下に湯たんぽを差し入れた。そして毛布の上から彼の身体をさすり始めた。

 唐沢が顕彦の耳元で薬を、と囁いたが、顕彦は首を振った。唐沢の眉間の皺が深くなる。

 里桜は二人の親身な手馴れた所作につくづく疎外感を覚えた。いまだに病名さえ教えてもらえない、余所者だ。

 そっと立ち上がり、邪魔にならないよう部屋を出た。

 自分の部屋に戻り、所在なくうろうろとベッドを直してみたりカーテンを引っぱってみたりしたものの、溜息だけがこぼれ落ちる。

 空元気を何とかしぼり出し、テレビのリモコンを手に取った時、ノックの音が聞こえた。

 返事をすると、ドアごしに唐沢が顕彦が呼んでいると伝えた。

「あたしを‥?」

 ドアを開けて確認すると、はい、と唐沢はうなずいた。

「どうかお願いいたします。おそばにいてあげてくださいませんか。」

 里桜は請われるままに図書室に戻った。

 顕彦はクッションと毛布に埋もれて、よく眠っているように見えた。

 さっきまで読みかけていた本を手に取り、起こさないように静かにソファの隣にある安楽椅子に腰を下ろす。

「‥‥どうして勝手に()っちゃうんだ。」

 ぽつんと呟く声がした。

 起きていたのかと顔を上げれば、顕彦は身じろぎもせず目を閉じて横になったままだ。

「少しだけでいいって頼んだのに‥。冷たい人だな、君は。」

 ああ。いつもの顕彦だ。皮肉っぽい口調に里桜は嬉しくなった。

「だって。邪魔になるかと思ったの。あたしなりに気を遣ったんじゃない。」

「嫌なら嫌って言えば。病人なんかと一緒にいたくないって。」

 里桜はからからと笑った。

「戻ってきたでしょ? 拗ねたこと言わないの。同じ嫌味を言うなら、意地悪の方が似合ってますよ。」

 顕彦は顔をこちらに振り向けてうっすらと目蓋を開け、ほんの僅かに目元を緩ませた。

 心からほっとする。さっきは―――死んでしまうかと思った。

「あのう‥。聞いていいのか解らないけど。どこが悪いんですか? 心臓とか?」

 恐る恐る聞いてみる。顕彦はなぜか驚いたようだった。

「知らないの? ‥‥頭だよ。頭がおかしいのさ。」

「へ?」

 つい間抜けな声を出してしまった。

「だからこんな田舎に引き籠もって、家族同様の口の堅い使用人と暮らしてるんだ。君も僕がいよいよ常軌を脱したと思ったら、遠慮なくこの屋敷を出ていいからね。」

 里桜はまじまじと彼の瞳を凝視めた。次第に腹が立ってくる。

「別にあたしには教えたくないなら、そう言ってくれればもう聞きません。何もそんな馬鹿馬鹿しい嘘、つかなくてもいいじゃない。」

「嘘って‥‥嘘だと思うの?」

「だって顕彦さんは頭のおかしい人になんて全然見えないもの。」

「普段は正常だけど、時々異常になる時があるって言ったら?」

 ますます腹が立った。

「あたし、そういう病気の人に結構会ったことあるから、違うってことくらい判ります。そういう冗談て、たち悪いと思いますけど。」

「会ったことがあるって‥。なぜ?」

「子供の頃、その手の病院にママがカウンセリング受けに通ってて。待合室はほとんど患者さんだらけでしたよ。一見普通に見えますけど、話してると五分もしないうちにすぐ判るんです。住んでる世界が違ってきちゃうから。」

 もう昔のことだった。母が児童虐待の疑いで、強制的にカウンセリングを受けさせられていた時だ。里桜は二時間以上もただ待っていなければならなかった。何回続いただろう。母は結局途中で嫌になって止めてしまった。

 思い出しているうちに怒りが冷めてきて、何だか悲しくなってくる。里桜は俯いた。

「もう、いいです。誰もあたしには何も教えてくれないし。意識して隠そうとしてるみたいだし。知らなくていいって意味でしょ? だったら‥‥。」

 ぐっと唇を噛みしめた。バカみたい、愚痴なんか言って。何の権利もないのに。

「ごめんなさい。また、突っかかっちゃった。こんなに具合が悪い時なのにがみがみ言って、ほんと、ごめんなさい。」

 顕彦はなぜか里桜をじっと見ていた。揶揄するふうでもなく、非難するふうでもなくただ見ていた。

 里桜はいたたまれない気がして、立ち上がった。

「行かないで。怒らせようとしているわけじゃないんだ、僕も。」

 引き留めようと身体を起こしかけて、顕彦はよろめいた。里桜は慌てて支える。

「悪いのはあたしだから‥。あっちに行けって言われるまでいます。だからちゃんと寝ていて下さい。」

 笑みを繕って、里桜は吐息を呑みこんだ。


 何枚もある董子(とうこ)の写真は大抵、強ばった表情をしている。

 壁に掛けられた大きな一枚は特にそうだった。年齢の頃は判らないがそう若くはない。

 里桜はつくづくと、自分に似ているというその顔を眺めた。

 棚の上の写真立てに目を移す。最初に唐沢に見せてもらった家族写真だ。その中でだけは、董子は幸福そうに頬笑んでいる。

 手元にある『鷹森(たかのもり)家系譜』の明治のページを見る。

 女学生の董子と写っているのは両親と二人いる兄のうちのどちらかだった。董子の次兄恭之(みつゆき)は系譜に夭折、とあったので、初めは写真の人は長兄宗一郎かと思ったが、そうではないことがすぐに後で判った。付記された年譜で照らし合わせると、この写真の時期には宗一郎は留学のため渡英していて日本にいない。だから写真の青年は恭之だと思われるのだが、恭之の年譜はなぜか載っていなかった。

 『鷹森家系譜』はこの写真ホールの書棚で見つけた。他にもたくさん、『鷹森○○覚書』『鷹森△△遺文』『鷹森家代々抄録』だの、とご先祖さまの日誌やらメモやらがあったけれど、里桜には当然読めるものではない。その中で二冊だけ、昭和に印刷されたものがあった。それが『鷹森家系譜』と『鷹森小四郎(こしろう)景信(かげのぶ)伝――鬼神と呼ばれた知将――』である。

 前者は今里桜が手にしているもので、鎌倉時代から続く鷹森家の家系図を年代別に分けて編纂し、簡単な年譜を付記してあった。かなり古く、昭和二年刊行となっている。

 別冊綴じの追記は顕彦の祖父の代までだ。子として顕彦の父直彦(ただひこ)と寧子の名は系図に記されていたが、顕彦の母と顕彦の名は掲載されていない。

 後者の方は鷹森家始祖の伝記を英雄物語風に綴ったもので、昭和三十年代に作家に依頼して書いてもらったらしい。奥付に当時の当主、つまり顕彦の曾祖父がそう記している。里桜の曾々祖母の兄だ。

 再び写真に戻る。時代を下って昭和初期の家族写真に目を留めた。曾々祖母の菊子が振り袖姿で写っている写真があった。

 菊子はあまり里桜や里桜の母に似ていなかった。しかし遠い昔に一度だけ会った母の祖父と目元が似ていた。母の祖父、つまり里桜の曾祖父で菊子の息子だ。

 母は早くに両親を亡くし、祖父の男手で育てられたと聞いている。厳格な祖父とは全く反りが合わず、十五で家出した後二十才(はたち)で里桜を産んだ。

 里桜が曾祖父に会ったのは病院でだ。七つの里桜には朧気にしか判らなかったけれど、多分余命短いというので母は会いに行ったのだろう。それからまもなく曾祖父は亡くなった。葬儀で母は随分と泣きじゃくっていた。まさかたった十年で自分も同じ場所に行く羽目になるとは、その時は全く思っていなかったに違いない。

 人の生命は儚いものだ―――里桜はつくづくそう思う。

 あれほど陽気で明るくて人生を楽しんでいた母が、なぜかあっさりと死を選んだ。

 思うに死神に声を掛けられた瞬間、人は忘れようと務めてきた悲しみや苦しみ、辛い記憶を全部いっぺんに思い出してしまうのかもしれない。そしてそのあまりの重さに耐えかねて一瞬で潰れてしまう。

「里桜さま。こちらでしたか。旦那さまがお部屋でお呼びですって。」

 振り向くと、明日香がいた。走ってきたらしく息を切らせている。

 鷹森の屋敷は広い。普段使用しているこの洋館の他に、渡り廊下で繋がっている平屋の和風屋敷と土蔵が三棟、こじんまりした書院造りの離れがある。広さに比べて使用人の数が絶対的に少ないので、明日香や陽子はいつも掃除に走り回っているような状態だった。

「忙しいのにありがとう。すぐ行きます。」

 連れだって階下へと下りる途中で、明日香はにっこり頬笑んで里桜に左手の指輪を見せた。佑樹と正式に婚約したという。

「おめでとう! よかったねえ。じゃ、お祝いを考えなくちゃ。式はいつにするの?」 

「来年の春です。今朝二人で、旦那さまにも報告しました。」

 明日香は嬉しそうに言った。

「でも、結婚したらあたしたち、東京へ出るんです。佑ちゃんは自分のレストランやるのが夢だったから。里桜さま、遊びに来てくださいね。きっとよ。」

「うん。きっと行くね。でも淋しくなるよね。あたしもだけど、由美さんも、鈴木さんと陽子さんも。唐沢さんや波江さんだって、淋しいでしょうね。」

「ほんとに年寄りばっかり残していっちゃうことになって。里桜さまにはちょっと悪いなって思ってるんだけど。」

 はは、と顔を見合わせて笑い合う。そして階段下で別れた。

 顕彦の部屋まで行くと、唐沢がちょうど出てきたところだった。

「里桜さま。坊ちゃまは奥の寝室においでです。どうやらまた昨日のように発作が起きかけていらっしゃるようで‥。里桜さまがおいでになれば落ち着くようですので、どうかおそばにいていただけませんか。お願いいたします。」

 唐沢が顕彦を坊ちゃまと呼ぶ時は、かなり具合が悪いのだ。

 里桜は急いで部屋に入った。なんで里桜が役に立つのかは解らないけれども、役に立つというなら何でもする。

 部屋はまだ日暮れ前だというのになぜか薄暗かった。カーテンは閉まっていないのに、よほど陽当たりが悪いのか? それにしても何となく嫌な感じだ。

「顕彦さん‥? 里桜ですけど。」

 不安になって、ノックの返事を待たずに里桜は寝室のドアをそうっと開けた。

 顕彦はベッドに上半身を起こして、正面の天井近くを凝視していた。青ざめて、微かに躰が震えている。額には汗で前髪がはりついていた。

 彼の視線の先を見て、里桜は立ち竦んだ。

「なあに‥‥あれは! いったい何なの!」

 それは黒い影法師のような塊だった。大きな、ニメートルほどもある影のまわりにもう少し小さいものが二つ。あとは野球のボール大の黒いものが無数にふわふわと浮いている。

「顕彦さん‥。あれは何? どこから来たの‥‥あんな、おぞましいモノ。」

 里桜が叫ぶと、影法師たちはざわざわと蠢いた。

 ―――なんだ。あの女。お方さまの敵か。

 ―――敵だ、敵だ。

 聞こえる。あいつらの声だ。あの物の怪たちの。里桜はぞっとした。

 ―――お方さまはあの男の魂をご所望なのだ。女などどうでもよい。

 一番大きい影法師が重低音で他の影たちを叱咤した。影たちがぞわぞわと動き出す。

 あの男の魂って誰の事だろう―――まさか。里桜は顕彦を振り向いた。

 おぞましいどろどろした黒い影が、水中に流した墨みたいに顕彦に纏わりついていく。彼は手で払いのけようとしながら、咳きこんだ。

 里桜は考える間もなく、とびついた。

「駄目! 離れなさい! ここはあんたたちの()ていいところじゃない!」

 必死で黒い塊を押し戻し、顕彦に抱きついて庇った。

「影のくせに‥! 出ていきなさい、お方さまとやらのところに帰りなさい! 二度とここに来たら許さないから!」

 影法師たちは目に見えて判るほど怯んで、後じさりした。彼らが慌てふためいて混乱している声が頭の中に響く。

 もう一押しだと里桜は思った。不思議と微塵も怖さを感じなかった。

「さっさと消えなさい。全部まとめて消えるのよ! さあ、()って!」

 里桜の気迫が勝ったのか、影法師はしゅうしゅう、と音を立てて消えてしまった。部屋に明るさが戻ってくる。

 里桜はふうう、と深い吐息を吐いた。

「よかったぁ‥。いなくなったわ。」

 顕彦を掴んでいた両腕の力を抜いて、彼の方へ向き直り、顔を覗きこむ。

「大丈夫? ひどく咳きこんでいたけど‥。」

 顕彦は昨日と同じように、震えながら里桜の胸に縋りついてきた。

 呼吸が荒い。汗をびっしょりかいている。

 しかし昨日ほど冷え切ってはいなかった。里桜は安心する。

 背中に両手を添えて、そっと抱いた。

「里桜‥。君、君にも()えるのか、あれが。さっきの‥あの‥。」

 息を弾ませたまま、顕彦はか細い声で訊ねた。

「うん。視えたし、手触りもあったわ。気持ち悪い手触り。いったいあれは何なの? ‥‥生きているものじゃなかった。そう感じたの。顕彦さんを連れていこうとしてたけど、なぜなの? お方さまって誰?」

「解らない‥解らないんだ。今の今まで、あれらはみんな‥僕の頭の中から生み出されていると思っていたから‥。でも、違ったんだ。」

 顕彦は里桜の腰に回した両手に力をこめた。

「ずっと‥。僕以外には視えなかったんだ。どれほど近くにいても、僕にしか視えなかった。でも君にも視えた。僕の頭がおかしいわけじゃない。」

 では昨日の話は本気で言っていたんだ、と里桜は胸を衝かれた。どっと後悔の念がこみあげてくる。

「昨日は‥そのう、嘘ついてるなんて言って、ごめんなさい‥。あたしったら‥。いつも酷い事ばかり言っちゃって。」

 顕彦はくくく、と乾いた笑い声を立てて、ゆっくりと里桜の胸から顔を上げた。

「解ってないね。昨日君に本気で否定されて、僕は嬉しかったよ。まだ大丈夫なんだって思った。まだ、終わりには間があるって。」

「終わりって‥。」

「終わり。僕の命の、ね。」

 枕をクッション代わりに体を横たえ、(くう)を見つめた金色の瞳はいつもの醒めた色に戻っていた。

 命の終わりって、あの影法師に喰われてしまうってことだろうか。

 そんなのは嫌だ。絶対に嫌。それくらいなら里桜は何でも―――どんな事でもする。

 里桜は静かに立ち上がり、唐沢を呼んでくる、と告げた。

「早く汗を拭かないと風邪をひいちゃうでしょ。」

 顕彦の手が里桜の手を掴んだ。虚ろな瞳に不安がよぎる。

「‥‥そばにいてくれないの?」

 里桜はその手をきゅっと握り返した。

「着替えてるとこにはいられないじゃない。着替えが終わった頃にまた来ます。大丈夫。状況が少し解ったから、なるべく一緒にいるようにするから。あのおばけが来たら、また殴ってやるわ。任せて。」

 ふっと顕彦はいつものように微笑った。


 里桜は階段を駆け上がった。

 頭の中には今しがたの影法師のことばかりがぐるぐると渦を巻いていた。葵がうっかり漏らした、『呪い』とは何だろう? 『お方さま』って誰? きっと関係があるに違いない。つきとめなくては。顕彦をあんなおぞましいモノに引き渡してたまるものか。

 写真ホールの書棚を探してみても、里桜に判読できそうな文書は他にはなかった。里桜は溜息をつく。誰か、もっと頭の良い人に協力してもらわなくちゃだめなんだろうか。

 廣一朗の顔が浮かんだ。彼は顕彦を助けたいと思っているはずだ。葵は? 彼女は恋人なのだから助けたいと思うはず。

 しかし葵ははなからこんな話、信じやしないという気がした。そういう意味では廣一朗も信じてくれるかどうか疑わしかった。

 さっき顕彦が誰にも視えなかったと言っていたではないか。いつからあんなモノに襲われるようになったのか知らないけれど、最初はきっと周囲に訴えたこともあるのだろう。でも『誰にも、どんなに近くにいても視えなかった』のだ。

 ではなぜ里桜には視えるのだろう? 里桜ははたとその点に気づいた。

 ノエが視えるのも里桜だけみたいだった。顕彦にさえ、視えないようだった。なぜ? 今までの十九年と十一ヶ月、霊感が強かったなんて覚えは一切ないのに。

 不意にがたっと音がした。

 見れば書棚の一番上の棚にあった蒔絵の文箱が、開けっ放しだったガラス扉を超えて床に落ち、ふたが開いて、中身が散乱してしまった。

 片づけようと手に取ってみて、それが鍵のついた分厚い日記帳であることに気づいた。鍵も一緒に転がっている。まるで読めと言っているみたいだ、と里桜は苦笑した。そして背表紙の鷹森(たかのもり)董子(とうこ)の署名に目を留めた。

 里桜に顔がそっくりなご先祖さま。もう一人の同じ顔であるノエがいる場所に薔薇園を作った人。何の根拠もないけれど、直感的に里桜は董子が何か伝えようとしている、と強く感じる。

 鍵をさして、恐る恐るまわす。カチっと音がして、南京錠がはずれた。

 深呼吸をひとつして、丁寧にページを繰った。薄紙を何枚かめくった後に、一ページ目がやっと始まる。そこにはタイトルとしてこう書かれていた。

 ―――鷹森家の忌まわしい呪いに関する事、百年後の子孫へ遺すべき覚書。

 ペンで書かれたその文字は達筆すぎるし、漢字や仮名も旧字体が多く、文調も堅苦しくて古い。すらすらと読むのは不可能だった。高校の古文を思い出し、辞書片手に解読作業しなければとても読めそうもない。けれどやらなくては、と里桜は決心した。これは百年前の董子から自分――里桜へのメッセージだ。

 蒔絵の箱は戻して、日記だけを手に自分の部屋に行く。トートバッグを引っ張り出してきて、新しいノートや筆箱と一緒に日記をその中に入れた。以前渥美邑子に奨められて買った電子辞書を更に追加する。それから図書室に行って、ミステリ小説を数冊放りこんだ。

 里桜はバッグを抱えて階下に戻った。

 顕彦の部屋はすっきりとして明るくなった気がした。着替えを終え、里桜を振り向いた顕彦の顔色も心なしか明るく映った。

 その後、顕彦の遅い昼食につきあってコーヒーを飲み、二人で庭を散歩した。

 相変わらずはっきりしない空模様だったが、空気はそれほど湿ってはいなかった。少し蒸し暑い程度だ。

 半袖のブラウス姿の里桜に対して、顕彦は長袖のシャツにカーディガンを羽織っていた。このひと月の間だけで、多分三キロは体重が落ちているのではないかと里桜は思う。前を歩く華奢な背中が痛々しい。

「最近よく、図書室で本読んでるよね。面白いの、あった?」

「この間は『パディントン発4時50分』っていうの読みました。今は同じ作者の『予告殺人』を読みかけてるの。」

「ああ。クリスティのね。古典的なのが好みなんだな。」

 里桜は照れ笑いをする。

「違うんです。最初、パディントンて熊の話だと思って‥。ロンドンの駅名なんですね。で、中身はミステリで。でも面白かったから、同じ傾向のをちょっと読もうかなって思ってるの。」

「熊? ああ‥そういえば『くまのパディントン』ってあったね。あれは確か絵本だったと思うけど。パディントン駅で拾われたからその名前になったんじゃなかったかな。」

「‥‥よく知ってますね。あたしはプーさんと区別がつかないんですけど。」

 はは、と軽く声を立てて顕彦は笑った。

「クリスティの作品は娯楽室にDVDもあるから、今度観たらいい。原作とは違う部分もあるけど、結構面白いと思うよ。日本の作家のはあまり好きじゃない?」

「ていうか、知らないんです。今まであんまり、本読んでる時間とかなかったので。」

「ふうん。コミックやゲームもあまり知らないの?」

「流行廃りには無縁の生活でしたね。顕彦さんは? ゲームは娯楽室でたくさん見かけましたけど、コミックは少ないですよね。」

「そうだね。ほとんどは須藤の家に置いてきちゃったから。」

「ああ。学生時代はあちらにいたんですもんね。」

 他愛ない会話がやけに楽しいのは彼が微笑っているからだろうか。側にいられるだけで嬉しいなんて、ほんと、里桜は愚か者だ。ママも恋をするたびにこんな気持だったのかな、とちょっぴり切なくなる。

「疲れたんじゃない? もう帰りましょうか。」

「もう少し。薔薇園まで行って、四阿で少し休憩しようか。」

 はい。里桜はうなずく。

 あたりには他に誰もいない。半歩先を歩く顕彦は里桜の方などいちいち振り向かない。だから里桜は、自分の想いを無防備にさらしたままでいられる。

 薔薇園に足を踏み入れた時、里桜は名前を呼ばれた気がしてノエがいるあたりを見た。

 ノエははっきりしない天気にも拘わらず、姿がはっきりして見えた。里桜に向かってにこにこと頬笑みかけている。

 ―――何か伝えたいの?

 里桜は思わず立ち止まって、心の中で話しかけた。言葉が返ってきたわけではないのに、何となく彼女の気持ちが理解できるような気がしてくる。

 ノエ、いえ野依(のえ)だ。野依は村の娘でひどく貧しかった。病気の母親と二人だけの暮らし。彼女の記憶の断片が里桜の脳裏に浮かんでくる。

 いくつかの場面が横切っていくが、里桜にはよく解らなかった。ただ辛い、悲しい想いだけが伝わってくる。

 やがて一人の男の姿が浮かんだ。中年にさしかかったくらいの年齢で、陽に焼けた精悍な横顔には多くの傷痕が見える。

 野依はその男を『お館さま』と呼んだ。男は腕に赤子を抱いて、ゆっくりと振り向き、その猛々しい風貌に似合わぬ優しいまなざしをして、ひと言『野依』と名を呼んだ。野依の胸に愛しいという想いが溢れてゆく。

 里桜はそこで初めて、なぜ彼女が里桜にだけ見えるのか解ったような気がした。

 彼女が想い続けているその男の瞳は、顕彦の瞳と同じ色をしていた。明るい琥珀色で、光の加減では金色にも見える、不思議な色の瞳。

 里桜の想いと野依の想いが共鳴しているのだろうか。遠い昔の想いと生まれたてほやほやみたいな想いが。これも里桜が探している『呪い』と関係があるのか?

「どうしたの、里桜?」

 顕彦の声で、里桜は現実に立ち戻った。

 彼は四阿の手前で怪訝そうにこちらを見ていた。

「何でもないの‥。いい匂いを吸いこんでいただけ。」

 小走りに駆けよって、並んで四阿内のベンチに腰を下ろした。

「確かにこの薔薇園は気持がいいよね。空気自体が澄んでいるような‥。雰囲気が君と似てるね。」

「そう?」

 どきどきっと胸が轟いた。きっちりしまいこんだはずの想いが顔を出しそうになる。里桜は慌てて押しこんだ。

「うん。温かくて明るい、晴れの日みたいな雰囲気が漂ってるよ。君と一緒にいれば、僕は暗闇に取りこまれないでいられる。そう気づいたのは会ってから割とすぐだった。」

「そうなの?」

 里桜はびっくりした。顕彦は曖昧な表情をした。

「僕がやたら纏わりつくって思わなかった? 怒らせてばかりいたけどね。」

「はあ‥。別に。全然感じなかったけど。」

「ふふ。君らしいね。」

 苦笑気味に言って、顕彦は俯いた。そして黙りこむ。

 また気に障る言い方をしてしまったのか。里桜は内心しょんぼりしながら、野依の方へ視線を移した。

 野依はまだそこに立って、こちらを見ていた。

 しかしどことなく心配げに見える。穏やかで優しい雰囲気を失わずに、誰かを心配していた。守りたいという想いがひしひしと伝わってくる。それはそのまま里桜の顕彦への想いと重なった。

「今夜から寝室を僕の部屋に移してくれないか?」

 里桜はぼんやり振り返った。

「僕が今いる部屋はもともと両親の部屋だったから、クロゼットも化粧室も二つずつあるし。ベッドも今、もう一つ入れさせてるから。君の部屋はそのまま使ってくれてて構わないよ。どうだろう‥‥嫌かな?」

 ああ。そうか、夜の方が危ないに決まっている。守ってあげなきゃ―――里桜にしかできないことだもの。

「いいですよ。あたしでお守りがわりになるなら、ずっと側にいます。だから安心して眠ってくださいね。」

 にっこり笑って、里桜は請け合った。


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