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CHAPTER 5

 鷹森の屋敷に着いた時は既に午後十一時になろうとしていた。

 助手席でぐっすりと眠りこんでいた里桜は、廣一朗に起こされて目を覚ました。

「里桜ちゃん。お待たせ、もう着くよ。」

 サイドミラーで寝ぼけた顔を直し、里桜は背筋をしゃんと伸ばした。そしてすぐに後ろめたい気持でいっぱいになる。

「ごめんなさい。運転してもらってるのに、あたしったらぐうぐう寝ちゃって。」

「いや。気持ちよさそうだったよ。」

 廣一朗は穏やかに微笑した。

 金曜の仕事帰りに三時間近くも運転して、疲れていないはずはないのだが、そんな様子は全く見せない。ほんとうにこの人はいつも優しいな、と里桜はつくづく感心する。

 東京の雨がこちらにも移ってきたようだった。

 見渡す限り黒々とした広大な屋敷森を闇に包んで、陰気な雨が蕭々と降っている。

 ぼうっと玄関の灯りが見えた時、里桜は何だかほっとした。家に帰ってきた実感がひしひしとこみあげる。

 出迎えの誰彼ににこにこと笑顔を向けた。なんだか嬉しくなって、子供みたいにはしゃいだ気分だ。家があって、ただいまって言える人がいるのはいいものだ。

「高速が混んでてね、思ったより遅くなっちゃったよ。顕彦は? もう寝たのかな。」

 廣一朗が唐沢に訊ねている。

「いいえ、旦那さまは娯楽室でお待ちになっております。葵お嬢さまもご一緒に。」

「葵? なんだ、あいつこっちに来てたのか。」

「ご存じでは‥? 廣一朗さまが週末いらっしゃるので、予定を合わせたと仰っておられましたが。」

「今週は寧子さんとロンドンに行ったとばかり思ってたよ。」

 廣一朗は微かに貌を顰め、それきり口を噤んでしまった。

 それでは少なくとも廣一朗は知らなかったのだと里桜はちょっと安心した。一人だけ除け者というわけではなかった。

 僻むのはよそう。今の里桜は十分幸せなのだから、自分から不幸の種を探すのは止めよう。顕彦の事だってそうだ。一緒に暮らす人を好きになれないより、好きだと感じる方がずっと幸せなのに決まっている。

 娯楽室では顕彦と葵がソファで寄り添って座って、洋画のDVDを観ていた。

「ただいま帰りました。」

 里桜は背中に向かって、にっこりと笑顔を作って挨拶した。

 顕彦が振り向く。左腕に葵を抱いたまま、肩ごしに里桜を見た。

「ああ。お帰り。廣従兄さんは?」

「廣一朗さんは先にお部屋に荷物を置きにいきました。‥‥おかげさまで楽しかったです。どうも有難う。」

 里桜はちょっと離れた椅子に腰を下ろした。唐沢が熱いココアを持ってきてくれたのを、礼を言って受け取る。

 葵が顕彦の腕の中から顔を出した。

「葵さん、こんばんは。」

 里桜はにこやかに挨拶した。葵は返事もせず、うなずいただけで顕彦の腕に戻る。

 ココアをすすりながら、里桜は切なくなった。葵がそこにいるからではない。葵といるのに虚ろな瞳をしている顕彦が、切なかった。

 廣一朗が入ってきた。彼は顕彦と葵を見て一瞬立ち竦んだが、里桜が平然としているので知らぬふりをすると決めたらしかった。

 ココアを飲み終えて、里桜は先に寝むと誰にともなく断って娯楽室を出た。

 回廊でスコッチとつまみを運んできた唐沢とすれ違った。

「里桜さま。お寝みでございますか?」

 里桜はにこっと笑った。

「うん。唐沢さんも大変ね。いつも思うけど、ちゃんと寝てるの? 体、壊さないでね。唐沢さんが倒れたら困るもの。」

「お客様がみえる事は滅多にございませんから。それより、いろいろと私どもにまで気を遣っていただいて申し訳ございません。」

「何がいいか解らなくて。結局食べるものしか思いつかなかったの。だけど‥。お土産買う相手がいるって嬉しいことだから。迷惑じゃなかったら食べて下さいね。」

 唐沢は頬笑んだ。

「正直なところ、お帰りいただいて皆ほっとしております。里桜さまがいらっしゃらないと、屋敷内がとても寂しくなりますので。」

 里桜が有難う、と返事をすると、唐沢は真剣な表情になって続けた。

「本当なのですよ。特に顕彦さまは、里桜さまがもう戻ってこられないのではないかと気にしておられましたから。一昨日などはずっとお加減が悪くて‥。一日中ベッドから離れられなかったのです。里桜さまがいらっしゃる前のように、ただ黙りこんでしまわれて。最近では里桜さまといる時、笑い声まで聞かれるようになって、わたしどももそれは喜んでいたのですけど‥。昔はやんちゃなくらいの坊ちゃまでしたからね。」

「そうなの。役に立つというなら、また頑張って意地悪されてあげなくちゃ。」

 へへ、と里桜は笑った。

「あのう‥。こんなこと、聞いていいかどうか解らないけど。顕彦さんの病気って、どこが悪いの? あと一年しか保たないって‥‥ほんとうなの?」

 唐沢は顔色を変えた。

「それはどなたから‥?」

「顕彦さんが言ったの。あの人、いつもあたしをからかってばかりいるでしょ? でも、その時は冗談には思えなかったから‥。」

「坊ちゃまが仰ったのですか‥‥。」

 唐沢は俯いて大きな溜息をついた。

「申し訳ございません。わたしの立場では坊ちゃまのご病気に関しては説明できないのです。ですが‥。そうはならないとわたしは信じております。里桜さま、どうか坊ちゃまをよろしくお願いいたします。元気づけてあげて下さいませ。」

 真剣さに押されて、里桜は自分にできることなら何でもすると約束して唐沢と別れた。


 次の日の朝、里桜は日課の散歩に出た。

 雨はかろうじて上がっている状態で、空には厚い雲が垂れこめている。里桜はノエに会いにまっすぐ薔薇園に向かった。

 ノエは姿が朧に霞んでいた。雨の日とかぐずついた天気の日にはよくあるのだが、そういう時はノエとしての意識も霞んでいるらしく、里桜が話しかけてもはっきりこちらを向くわけではない。けれど里桜はそれでも彼女の近くにいるのが好きだ。

「今日は話したいことがあったんだけど‥。やっぱり無理かな。」

 ノエはふわりと舞うように振り向いた。頬笑んでいるのかどうかすら、輪郭が曖昧でよく解らない。里桜は苦笑した。仕方ない、と諦める。

「誰と話してるの? 薔薇の花?」

 顕彦の声がした。振り向いて里桜は小走りに近づく。

「あ。おはようございます。早いんですね。昨夜、遅かったんじゃないんですか。」

「そうだったかな‥。よく解らないけどそうかもしれない。」

 俯き加減のその顔を覗きこんでじろじろ見た。無精髭がうっすら見える。

「もしかして‥‥寝てないの?」

 ふふっと彼はいつもの曖昧な微笑を浮かべた。

 里桜は呆れた。同時に悲しくなった。ほんとうに残り少ない命なのなら、もっと大事にして欲しい。こんなふうに削り取るような真似はしないで、どうか。

「寝た方がいいですよ。体に良くないです。行きましょう、きっと唐沢さん、顕彦さんのこと探してると思う。」

「眠れないんだ‥‥。僕といるのが嫌なら、君は先に行っていいよ。」

 溜息をついて、里桜は並んで歩き出した。

「‥君はもう帰ってこないかと思ってた。」

「え? なんでですか。」

「別に理由はないよ。そんな気がしただけ。」

 胸がぎゅんと締めつけられて、たまらなく痛くなった。

「あの‥あたしが迷惑なら、そのまんま、迷惑だから出ていけって言ってくれれば出ていきます。簡単でしょ? どうなんですか。」

「僕は別に。迷惑だと感じた事はないけど。」

「それならここに置いて下さい。あたし‥ここが好きだから。」

 今度は顕彦が溜息をついた。

「また怒ってるね‥。どうして怒るのかな、今朝はまだ意地悪言ってないだろう?」

「怒ってませんよ。どっちかっていうと逆で、ちょっとびくびくしてるのかも。」

 里桜は肩を竦めた。胸がまだずきずきしている。

「どうして君がびくびくするの?」

「‥‥昨夜、ただいまって帰ってこれて嬉しかったから。お帰りって言ってもらえたから。だから‥。」

 失くしたくないから。里桜はその言葉を呑みこんだ。声に出せば辛くなる。

 仕方がないのでとっておきの笑顔を向けた。作法の先生が言っていた『笑顔でごまかせ』方式だ。

 それが癇に障ったらしく、突然顕彦は激しい口調で詰った。

「時々、君がすごく妬ましくなるよ。眩しいくらい健全だよね。何かを恨んだり、憎んだりした事はないの? 手に入らないと解りきってるものを欲しくて欲しくてたまらなくなった事は? 他人を蹴落としても手に入れたいって思う事はないのか?」

 里桜は笑顔で防御した。

「そりゃありますよ。当然でしょ? むしろそんな事だらけでしたよ、ずっと。」

 一瞬怒鳴るのかと思ったが、顕彦は結局何も言わなかった。

 気まずい空気が流れる。

 雨がぽつり、ぽつりと落ちてきた。瞬く間に強い降りに変わっていく。

 声をかけようとして、前を行く背中が震えているのに気づいた。里桜は後悔した。優しくしたいのに、なぜできないのだろう。

 里桜は黙ったまま、顕彦の腕を掴んで四阿へと引き返し、ベンチに彼を座らせた。そして唐沢に迎えに来てくれるように、携帯で連絡した。


 屋敷に戻ると、どう見ても怒り心頭、といった様子の葵が待ち構えていた。

 だが顕彦はその横を素知らぬ顔で通り過ぎていく。

「ちょっと! どういうことよ、顕従兄(にい)さま。待って、説明してよ‥!」

 大きな声で呼びかけながら、後を追いかけていく。

 ―――約束したじゃない、だから従兄さまのお部屋に行ったのよ。ずっと朝まで待っていたのに。

 ―――今までどこにいたの、あの子の部屋に行ったの? あの子と一緒にいたのね? 

 ―――ひどい!

 廊下の向こうから聞こえてくる周囲をまったく憚らない声に、里桜の方が赤面した。

 要するにすっぽかされたわけね、とちょっぴり葵に同情する。けれど顕彦はずるずると約束したものの嫌になって、部屋にいられないから仕方なく一晩中どこかをうろついていたのだろうか。それはそれで可哀想な気もした。

 朝食の席に行くと、廣一朗が苦虫を噛み潰したような顔で新聞を読んでいた。

「おはようございます。昨日はどうもお世話になりました。」

「ああ‥。おはよう、里桜ちゃん。」

「廣一朗さんも早いですね。昨夜遅かったんでしょ? ゆっくりなさればいいのに。せっかくのお休みなんだし。」

 廣一朗の眉間の皺が深くなった。

「あの騒ぎで叩き起こされたんだよ。今朝早くから喚きまわって、恥ということを知らないんだから困る。‥里桜ちゃんは随分早く起きてたみたいだね。」

「雨が上がってたから、日課の散歩に行ってたんです。ほら、ここのお屋敷来てから食事が進むでしょ? 太らないように毎朝二時間くらい歩き回ってるんですよ。そうしたらさっき薔薇園でばったり顕彦さんに会って‥。」

 里桜は念のため廣一朗にまで誤解されないよう、今朝のいきさつを説明した。

「でもまた、喧嘩になっちゃって。」

「喧嘩? 顕彦と? もしかして‥。」

「しょっちゅうなんです。何でしょうね? 今まではあたしが一人でかっかきてて、顕彦さんは余裕綽々(しゃくしゃく)って感じだったんですけど。今朝は何だか怒鳴られちゃって。寝てないみたいだったから、苛々してたのかな。」

「‥それは災難だね。ある意味、葵のせいだろうな。」

「まあ、大抵あたしの言い方が悪いんです。なんかこう、突っかかった物言いしちゃうから。後で謝ってきます。」

 そこへ葵が憤然とした様子でやってきた。

 廣一朗の隣に腰を下ろし、里桜をじろりとみる。

「顕従兄(にい)さまったら、鍵をかけちゃったわ。ほんと、ひどい。廣兄さまだって昨日、聞いてたでしょ、ちゃんと約束したのに‥。」

「いい加減にしないか、葵。顕彦はおまえの話なんかひと言も聞いてなかったよ。あいつは体調が良くないんだから、放っておいてやれ。」

 廣一朗は声を低くして叱った。

「体調って、顕従兄(にい)さまは考えすぎなのよ。呪いなんて馬鹿馬鹿しい‥。」

「葵‥!」

 廣一朗は里桜をちらりと見遣って、首を振った。

 里桜は呆気に取られて葵の顔を見た。呪い? 聞き間違いだろうか?

 葵はキッとして里桜を睨み返した。

「里桜さん。言っておくけれど、顕彦従兄(にい)さまと結婚するはずだったのはわたしなのよ。子供の頃からずっとそういう約束になっていたの。なのに従兄(にい)さまったら気まぐれを起こして‥。顕従兄(にい)さまってそういう人なの、解る? ね、あなたに解るかしら? いつか顕従兄(にい)さまと結婚すると思って育ってきたのに、いきなりあなたなんかが現れて‥! わたしの気持はどうなるのよ? ひどいと思わない?」

「はあ‥。」

「葵‥。みっともないから大声を出すな。」

「何よ! お兄さまは知っててわたしに隠してたんじゃないの。お母さまが教えてくれなかったら、まだ今も知らないままだったわ。」

「おまえがそうやって騒ぐに決まってるからだよ。それに里桜ちゃんに八つ当たりするんじゃない! 約束なんてなかったよ、寧子さんが一人で勝手に言っていただけだ。」

 いきなり里桜は立ち上がった。里桜がいる限り、葵は収まらないと思ったからだ。

「廣一朗さん。あの、気にしてくれなくても大丈夫ですから。‥ちょっと遠慮させてもらいますね。」

 それだけ言うと、里桜は食堂を出て自分の部屋にまっすぐに戻った。

 ベッドにダイブして、羽根枕に顔を埋める。やはり葵と結婚するはずだったのだ。そう思うとお腹の底がずんと重い。

 なんだか自覚したら余計にしんどい感じがする。顔を見るだけでそこかしこ痛い気がするなんてこれじゃ病気だ。しかも朝食を食べそびれたのにお腹が空いている気がしない。

 里桜はベッドの上で手足をばたばたさせてみたが、そんな事で元気が出るはずもない。

 顕彦は葵が帰るまで、閉じこもっているつもりなのだろうか。

 理由があるのなら説明してあげればいいのだ。いや、もしかしたら既に説明したのかもしれなかった。葵が聞く耳を持たないのだろう。あの調子では、自分の言い分が認められるまで言い立てるタイプなのに違いない。

 結婚するって簡単な事じゃないんだ―――里桜はちょっぴり後悔する。バイト先を決めるくらいの気持でうんと言ってしまった三月の里桜は、全く軽はずみなバカ者だ。

 けれど。

 けれどそれでも約束は約束なのだから、逃げ出すわけにはいかない。

 窓の外には銀色の雨が間断なく降り続いている。

 里桜は階下の暗い部屋に閉じこもっている顕彦を想った。


 顕彦が目を覚ました時は午後三時を過ぎていた。

 きっちりと閉めたカーテンのわずかな隙間から、薄日がさしている。雨は上がったようだった。

 久しぶりによく眠ったせいか、体が心地よい気怠さに包まれている。寝返りを打って、窓辺に置かれた薔薇の花に気づいた。

 薔薇は三十本ばかりもあるだろうか。白、ピンク、クリームと色も大きさも種類もまちまちに、淡い緑色の壺に溢れていた。仄かな甘い香りが薄暗い部屋いっぱいに漂っている。

 ゆっくりと体を起こし、ベッドから下りようとしたが、目眩がしてしばらくは立ち上がれなかった。身体に力が入らない。投げ遣りな気分が全身を覆う。

 しかし顕彦は何とか立ち上がった。

 よろめきながら窓辺に行き、カーテンを開ける。

 雲間からうっすらと注ぐ鈍い西日に映えて、薔薇は輝いたように見えた。まるで生きている事実を誇示するかのように、優しく力強い光をたたえてそこに存在していた。

 ベルを鳴らしておいて、熱いシャワーを浴びた。出ると唐沢が控えていて、バスローブでくるんでくれる。既に着替えが二種類用意されていた。

「唐沢。そこの薔薇の花はどこから? 庭の薔薇なの。」

 起きるつもりでパジャマではなくシャツに手を通しながら、思いついて訊ねた。

「はい。かなり咲き揃い始めたようです。里桜さまが顕彦さまのお部屋にもと仰られたので、飾りましたが。お気に召しませんか?」

 唐沢は顕彦の脱いだものやタオルをまとめて籠に入れた。

「里桜が? ふうん。いや、気に入らないわけではないよ。‥‥シーツも取り替えておいてくれないか。だいぶ汗をかいたみたいだ。」

 はい、と唐沢は答えながらにっこりと笑った。

「今日はよくお休みでしたね。ようございました。」

「うん。そうだね。ところで葵はまだ喚いてるの? お茶が飲みたいけど、ひとりで飲んだ方が無難かな。」

「どうでしょうか? 廣一朗さまが宥めていらっしゃいましたが。今は里桜さまとお三方で娯楽室でビリヤードをなさっておられますけど、今朝よりはご機嫌がよろしいようにお見受けします。」

「そうか。じゃ、娯楽室でお茶にしてもらおうか。」

 部屋を出ようとして、顕彦はいったん立ち止まった。薔薇の花をもう一度見る。そしてふっと微笑した。


 葵の機嫌は驚くほどよかった。

 廣一朗の話では、寧子から電話が入ってから急に機嫌が直ったという。もっとも相変わらず里桜に対してはちくちく嫌味を言い続けているらしかった。

 里桜は全然気に掛けていないように見えた。いつも通り明るくにこにこと笑っていて、楽しそうに初めてのビリヤードで遊んでいた。教授役の廣一朗を見上げる顔は、信頼に溢れている。

「この場合はどのボールを狙えばいいの?」

「このオレンジを黄色へ向かって打つのが無難だね。この位置に立って、そう、よく見て。こんなふうに打つんだ。」

 廣一朗は里桜の背後に立って、キューを持つ彼女の手に自分の手を添えた。髪に頬が触れて、多分息が耳にかかっている。けれど里桜はまったく無邪気に、目を輝かせてボールを凝視していた。そしてボールを撞いた。

「ああ‥。またはずしちゃった。駄目ねえ、あたし。」

 葵が小馬鹿にしたように含み笑いをした。里桜はそっちを向いて、へへっと笑い返す。

 顕彦はお茶を飲みながら、見るともなしにそんな光景を眺めていた。

 正直なところ葵の矛先が里桜に向いていて助かった。自分に纏わりついてこなければなんでもいい、というのが本音だ。里桜は―――大丈夫だろう。タフだし、廣一朗もいるし。

「顕従兄さまもしない? 昔はよく一緒にしたじゃない。」

「遠慮するよ。」

「つまんないの。じゃあ、カードは? 従兄さま、上手だったでしょ。」

 黙って首を振る。

「もう‥!」

 葵は近づいてきて、隣に腰掛けた。飲みかけのアイスティーを取り、口にする。

 少し離れた席では廣一朗と里桜が、何の話をしているものか笑い声を立てている。葵はそちらをちらりと見て嘲笑を浮かべ、顕彦の耳に囁いた。

「廣兄さまもほんとにお人好しね。可哀想な子は放っておけない性質(たち)だから。」

 そうなのか。そうかもしれない。可哀想な子は放っておけない―――顕彦は自嘲気味に忍び笑いを漏らした。そして里桜に向かって声をかけた。

「里桜。薔薇の花を有難う。いい香りだったよ。おかげでよく眠れた。」

「あ‥。上田園芸のおじさんにいっぱい切ってもらったんです。だからお見舞いとお詫びを兼ねて、と思って。‥今朝は怒らせちゃってごめんなさい。」

 振り向いた里桜の笑顔はいつもに比べてどこかぎこちなかった。

 顕彦の背後から葵が睨んでいるせいか、それともまた怒っているのか。どちらにしても、一番のお人好しは彼女だと顕彦は思った。


 翌日、午前中のうちに廣一朗は葵を急きたてて東京へ帰っていった。

「できれば当分遠慮してほしいよ。退屈凌ぎなら他に相手がたくさんいるだろう?」

 帰宅の挨拶に抱きついてきた葵の耳元で、顕彦はぼそりと囁いた。うんざりしていた。

「そうね。顕従兄さま、ほんとに具合悪そうですものね。介護は里桜さんに譲ってあげてもいいわ。あの人もする事がなくちゃ困るでしょうから。‥‥しばらくはお母さまとカンヌに行くことになっているから、今度は夏が終わってから来るわね。」

 葵は舌をぺろりと出してくすくす笑い、車の方へ足早に去った。

 顕彦は溜息をついて、遠ざかっていく車を見送った。

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