CHAPTER 3
夜の闇はまるで巨大な一枚の布のようだ。
切れ目なく総てが繋がっていて、払っても払っても躰に纏わりついてくる。どこかに果てがあるのだろうか。あるいは―――湧き出てくる源が。
暗闇は潜むモノを連れてくる。蠢き、這いずり、やがて呻き出す。
耳鳴りかと思えばどうやら闇に棲むモノたちの声のようだ。聞いてはならない、耳を貸してはならない。取りこまれてしまう前に離れなければ。
―――無駄だよ。
無駄じゃない。まだあがいてみせる。
―――無駄、無駄。ばかだねぇ。
ばかじゃない。多分。
―――もうすぐあのお方が目覚める。今度こそ。おまえは消えるんだよ。
―――そうだ、そうだ。我らの力が強まっている。あのお方の願いが成就する時は近い。
知らない。関係ない。何もかも現実じゃない。妄想だ。妄想なんだ。
鷹森邸の六月の朝はきらきらと輝いて美しい。
木漏れ日と豊かな緑のグラデーションに、梅雨の奔りの残滓が瑞々しさを添えている。
里桜はすっかり日課になった邸内の散歩を楽しんでいた。
ここに来て三週間余りが過ぎた。広大な敷地はまだ足を踏み入れていない場所の方が多い。うっかりすると途中で道がなくなってしまって、迷子になることもしょっちゅうだ。それでも至る所にたくさんの種類の花が咲いていて、飽きることがなかった。
あの薔薇園には毎日行った。
薔薇はそろそろ季節が始まったらしく、ドミノを倒すように咲き出している。一日おきに庭園の手入れをしに訪れる地元の園芸業者と顔見知りになって聞いたところによると、ここの薔薇は推定でざっと三十種類六千五百本ほどもあるという。初めに植えたのはこの屋敷を建てた鷹森董子で、当時は数種類しかなかったが、戦後になって少しずつ殖やされていったそうだ。
どうやらあの幽霊は里桜にしか見えないらしかった。それも鷹森の血縁である証明なのかと思ったが、顕彦に見えるかどうか聞いていないので何とも言えない。
幽霊はノエという名で、立っている場所の半径一メートルくらいから動けないようだった。その場所に縛りつけられている理由があるのだろうが、話せないので判らない。里桜の言うことは判るみたいなので、口の形から何とか名前だけは割り出すことができた。
ノエはすっかり庭の一部に融けこんでいて、雨の日などは霞んで姿がよく見えなかった。
だが彼女といると、とても優しい気持ちになる。薔薇の花の甘い香りに包まれて、目の前に存在している総てが愛おしい。そんな想いで胸がいっぱいになってしまう。
里桜はその想いがノエのものであることを知っていた。
顔が似ているから共鳴しているのだろうか。
ノエの様子からして、里桜がここに来る前までノエに気づいた人間は一人もいなかったようだった。気の遠くなるような永い時間を、ノエはここに在たというのに。
その朝も雨上がりの薔薇園はとても綺麗だった。
湿った朝の空気の中に、咲いたばかりの薔薇たちの香りが馥郁と立ちこめている。
なんて幸せなんだろう、と里桜は嬉しくなった。そして顕彦のことを考えた。つい溜息が出る。
晩餐会の翌日、里桜は前日の晩あんなに感激した差し入れも三幕目の一部だったことを知った。顔には出さなかったけれど、本心はとてもがっかりした。
思うに人間というのは衣食住に足ると、今度は心の飢えを自覚するものなのかもしれない。『あんたの頑張りは見てて切ない』―――未紅の言葉だ。二月のあの晩は理解できなかったが、衣食住に満ち足りた現在の里桜にはよく解る。
四阿のベンチに腰を下ろして、里桜は未紅を恋しく思った。未紅は目標に向かってきっと今日も頑張っているのだろう。思い出したら無性に会いたくなった。
里桜は携帯電話を取りだして、未紅にメールを打ち始めた。
―――未紅ちゃん。元気ですか。夏の公演スケジュールは決まりましたか。できれば観に行きたいと思ってるので知らせてね。お屋敷では親切にしてもらっていて、元気いっぱいに過ごしてます。ご飯が美味しいのでちょっと太ったみたい。ダイエットしなきゃかも。でも時々、二月に食べた神宮前の屋台のラーメンが無性に食べたくなります‥
「屋台のラーメンてそんなに美味しいの。僕も食べてみたいな。」
いきなり肩ごしに声がして、里桜はびくっとして飛びあがった。
いつ来たものか、顕彦が隣に座って里桜の携帯を覗きこんでいた。
里桜は慌てて携帯を閉じた。
「送信しなくていいの。」
「後でしますから。それよりいつ来たんです? 全然気づかなかった。」
「たった今だよ。唐沢が里桜はきっとここにいるだろうって。」
顕彦は何だか憔悴して見えた。彼がこんなに朝早く起きるのは珍しいが、今朝は気分が良くて、なんていう話ではなさそうだ。
「あたしに何か用があったんですか? なら、携帯に連絡くれればすぐ戻ったのに。」
「ああ‥。この前番号書いたメモもらったっけ。ごめん、失くした。それに別に用じゃない。僕も散歩してみようと思っただけ。唐沢が従いてくる気だったから、君を口実にして断ったんだ。」
「ああ‥。口実ね。そうですか。」
いつもながら勝手気儘な坊ちゃん気質なんだから、とちょっと腹が立つ。
こんな顔色していたら唐沢だけじゃなくて、誰でも心配するに決まってる。まるで昨夜は一睡もしていないような目をしているくせに。
「そんな事より屋台のラーメン。ねえ、美味しいの?」
里桜は赤くなった。
「顕彦さんのお口に合うようなものじゃないです。安いだけだから。ただ‥あの時は寒くてお腹がすいていたから、もの凄く美味しく感じたってこと。ラーメン食べてみたいなら、廣一朗さんに頼めば、有名なお店に連れてってくれるんじゃないですか。」
「ふうん。なるほどね。」
顕彦は薄い笑みを口もとに浮かべた。
「つまり、君はそのラーメンの味が恋しいんじゃなくて、その時の自分が恋しいんだね。ホームシックなわけだ。」
「ど、どうでもいいでしょ、そんな話。だいたい他人のメール覗くなんてマナー違反じゃないですか。」
「そう? 妻のメールならいいんじゃない。浮気の証拠を掴むためには必要‥‥」
「またそんな、馬鹿にした事ばっかり言って‥。顕彦さんって他の人にはそうでもないのに、あたしにはやけに意地悪ですよね。そんなにあたしが気にくわないんですか?」
里桜はホームシックを指摘されて動揺していた。頭に血が上ってつい喧嘩腰になる。
顕彦はくすくす可笑しそうに笑った。
「ほら、すぐ怒る。意地悪なんかしてないよ。からかってみただけ。君の方こそ、廣従兄さんや鷺坂さんには可愛娘ぶってるくせに、僕にはすぐ突っかかるじゃない。」
「そう‥‥ですか?」
そういえばそうかもしれない。里桜は反省する。
「気がつかなかったけど‥。ごめんなさい。気をつけます。」
「‥‥素直だね。つまらないなあ、からかい甲斐がないよ。」
彼はすっと立ち上がり、屋敷の方角へ歩き始めた。里桜は後に続く。振り向くとノエが見送っていた。顕彦にはどうやら彼女は見えないようだった。
最初にこの場所に来た時は散々迷っていたので一時間もかかったけれど、ちゃんとした道を通れば屋敷からは十五分程度のものだ。顕彦は歩き慣れているのか、里桜にはよく似て見える林道の中をまったく迷うことなく進む。
「‥ねえ。廣従兄さんのことだけど。好き?」
不意に立ち止まって、振り向きもせずに顕彦は訊ねた。
「え? 廣一朗さんですか。ええ、いい方ですよね。優しいし。」
「そうじゃなくて。男としてだよ。好き? 廣従兄さんは多分、君を気に入ってる。」
「‥‥何が言いたいんですか? またからかってるなら、随分悪趣味だけど。」
声がつい険しくなってしまう。
「今度はからかってるわけじゃないけど。好きじゃないならいいんだ。」
再び歩き出そうとする顕彦の袖を掴んで、里桜は待ってよ、と言った。
「あの‥! 言っておきますけど、一応あなたと結婚したんだから他の人と恋愛なんてしません。私生児だから、その辺だらしないって思うのかもしれないけど‥!」
顕彦は振り返った。冷めた瞳で里桜を見据える。
里桜は頬がかあっと熱くなり、みるみる紅潮していくのを感じて思わず下を向いた。
「あたし‥あなたにはほんとに感謝してるので、精一杯やってるつもりなんだけど‥。どこが気に入らないのかはっきり言ってもらえば、直せると思うし‥。ただ、今のところ、なぜここにいる必要があるのかさっぱり解らないっていうのもほんとで‥。」
何だか泣きそうになってきた。
「顕彦さん、ほんとうは結婚する気なんてなかったんでしょ? 見つかると思わなかったのにうっかりあたしが現れたから、困ってるんじゃない? だったら‥‥。」
投げ遣りな口調で、顕彦は里桜の言葉を遮った。
「そうじゃないよ。鷹森の当主として跡継ぎを残す義務があるからね、結婚は真面目に考えてたんだ。董子さまとそっくりな君には、ぜひ鷹森の跡取りを産んでもらいたいと思っている。ただし僕は‥僕の子を残すつもりはない。」
里桜は呆れて、まじまじと顕彦の顔を凝視した。
「冗談じゃないわよ‥! だから廣一朗さんと浮気しろって言うわけ? あたしに触るのも嫌だっていうなら、それはそれで今どきいくらでも方法があるでしょ、その、体外受精とか? あたしは‥‥結婚した相手の子供じゃなきゃ産まない。自分の子供を自分と同じには絶対したくないから。」
涙が一粒、こぼれてしまった。後ろを向いて顔を背け、慌てて拭う。悔しくて情けなくて、足が震えてくる。このまま未紅の部屋へ帰りたいと思った。
背中で大きな溜息が聞こえた。
唇が震えて、口がきけそうもない。苛々しているなら、さっさと里桜を置いて屋敷に戻ればいいのに。もう話す事なんて―――何もない。
しかし思いがけないことに、顕彦は里桜を背中から抱きしめた。
「すまない。僕はいつも、言葉が足りないね。君を触るのも嫌だなんてことはない。君のことも嫌いじゃない。僕が嫌いなのは僕自身で‥‥僕の遺伝子を遺したくないんだ。」
里桜は腕の中で顔を上げた。肩越しに振り返ると、金色の瞳はひどく疲れた色を浮かべていた。
「少し‥待ってくれればいいだけだから。僕の命は保ってあと一年らしい。そうしたら君にこの屋敷も財産も全部入るから、誰でも好きな男と結婚して跡を嗣いでくれ。鷹森の顔を持っている君なら、当主として誰も文句はつけられないだろう。」
「一年って‥そんな、どうして‥‥。誰が言ったの、間違いじゃないの?」
びっくりしすぎて、里桜はおろおろと言った。
「生まれた時から決まってたんだよ。そうだね、子供の頃は間違いだと思おうとしてたけど‥。今のところはずっと予定通りにきてる。考え始めると結構きついものがあるから、なるべく考えたくないんだけどね。」
顕彦は里桜の体を放した。
「ごめんなさい。あたし知らなくて‥。言いたい放題言ってほんとにごめんなさい。」
里桜はしょんぼりとうなだれた。
知らないからと言って、傷つけたことの言い訳になるはずもなかった。
「いや。僕の方こそ謝らなくちゃね。てっきり山辺が伝えてあると思っていたから。君が何も知らないとは気づかなかった。‥‥行こうよ。朝食がブランチになっちゃう。」
里桜はうなずくのが精一杯だった。
顕彦は朝食を少しだけ摂ると、自分の部屋にさっさと引き揚げてしまった。
彼の言葉が気になって、里桜の食欲も今ひとつ進まない。誰かに詳しく聞きたいけれど、誰に聞いたらいいものか解らなかった。だって誰も今まで教えてくれなかったのだ。山辺はもちろん、廣一朗でさえも。唐沢に聞いたところで、いったいどこまで話してくれるものか。里桜は多分信用されていない―――余所者だから。
『遺伝子を遺したくない』ということは遺伝子系の病気なのだろうか。だから葵と結婚しなかったのかも。もしかしてほんとうは好きなのに諦めたとか? そうだとすれば、悲しい話だ。里桜はなんだかいたたまれなくなった。
顕彦にはなるべく優しくしてあげよう。そう心に決めた。突っかかったり皮肉を言うのはやめて、愛想良く、笑顔を心がけて。他に特にできる事はないのだから。
ところがたったそれだけがなかなか難しいという現実を、里桜は早速翌日思い知った。
気の滅入るようなじめじめした雨が、朝から間断なく降り続けていた。
里桜は一人きりの昼食をとった後、図書室で本を読んでいた。
図書室は二階の西側にあって、例の写真ホールに隣接した場所にある。とても広くて、明治時代のものからごく最近の、顕彦のものらしい本まで整然と並んでいた。
もともと読書は嫌いじゃなかったけれど、里桜の以前の生活では経済的にも時間的にもとてもそんな贅沢は許されなかった。だから里桜はこの部屋に来ると何となくわくわくする。年代物のソファやテーブルも、外国映画に出てくる書斎っぽくてすごく素敵だった。
顕彦が入ってきたのは、三時を少しまわった頃だ。
里桜は向かい側に腰を下ろした彼を見て驚いた。ひどく気分が悪そうで、青ざめてみえたからだ。
「寝ていなくて大丈夫? 顔色が悪いけど。」
「邪魔? 追い払いたいの?」
じろりと睨まれて、肩を竦めた。心配してるんじゃないの、と心の中で呟く。
ノックの音がして、唐沢が顔を出した。どうやら顕彦がどこに行ったかと探していたようで、明らかにほっとした顔をした。
「お茶の支度ができましたが、こちらへお持ちいたしますか?」
「うん。」
顕彦は顔も上げずに短く答えた。悪いのは機嫌なのか気分なのか。しかし里桜は昨日の決心を思い出して、なるべく明るい態度を心がけることにした。
お茶が運ばれてきて、ミルクがたっぷり入った紅茶とバナナブレッド、焼きたてのスコーンを取り分けてもらった。顕彦はストレートの紅茶を砂糖も入れずに飲んでいる。
よく見るとこの一週間ほどで、彼はまた少し痩せたようにも見える。
紅茶は甘くした方が気分にも機嫌にもいいと思うけれど。そんな事を考えつつ、バナナブレッドを口に運ぶ。途端に幸せになった。雨の日にはバナナブレッドが最高に合う。
「美味しいの? 食べてる時の君って、一番美人にみえるよね。」
頬張っているのですぐに返事ができない。だから笑顔を返した。
顕彦は嘲笑に近い微笑を浮かべた。
「子供みたいだね、君は。」
「まだ未成年ですもん。顕彦さんも召し上がりませんか? 美味しいですよ。」
やっと口が利けるようになって、里桜は言い返した。まったく憎まれ口が得意な人だ。せっかくの決心がどこかに消えてしまいそうになる。
「それ食べたら、ゲームしないか? 君のできるものでいいから。」
「ゲームですか? あたし、トランプくらいしかしたことないんですけど。」
「いいよ。ポーカーできる? もしかしてババ抜きしか知らないとか?」
里桜は苦笑した。
だがその後のポーカーは、里桜にとって煙に巻かれた感じのまま進行した。
何度やっても勝てない。どんなにツキがなくても十回に一回くらいは勝ってもいいはずなのに。里桜の表情が険しくなっていくのと比例して、顕彦の機嫌はどんどん良くなっていく。終いに里桜は頭にきた。
「絶対、おかしいから。何かしてるでしょ、顕彦さん。」
「何かって?」
くすくす笑いながら顕彦は答えた。
「何かって‥。何か、よ。あのね、年下の初心者騙して楽しい?」
「騙してないよ。だから楽しい。」
里桜は憤然として立ち上がった。
「あったまきちゃう‥! もうやらない!」
「里桜が下手なんだよ。なのにズルしたみたいに言われるのは心外だな。」
里桜が放り出したカードを集めて片づけながら、顕彦はまだ微笑っている。里桜は振り向いてまくしたてた。
「あたしはね。滅多に他人に怒ったりしない方なの。でもあなたは別、ほんとに意地悪なんだから! 性格悪いってよく言われたでしょ?」
「そんな事ない。むしろ大人しいいい子だって言われてたよ。唐沢や寧子叔母に聞けば判るさ。意地悪だなんて言うのは君だけだ。」
「廣一朗さんに訊くわ。きっと知ってるはずだもの。」
顕彦は上目遣いに里桜を見て、悪戯っぽくにやっとした。
顔色はだいぶよくなったようだ、と安心したら余計に悔しさがこみあげてくる。今日のところはとにかく―――絶対に優しくなんてできない。里桜はしみじみ思った。