CHAPTER 2
暗い穴蔵の中にいる。
もぞもぞと蠢き、這いずり回って、必死に躰を探している。
果てしもなく永い永い時間が過ぎた。だが見つからない。
泥を集めて象るそばから、手が、指が、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
目も鼻も口もあるのかどうかすら判らないのに、涙が溢れて止まらない。茫々と流れて、ただ流れ続けて、どす黒い沼となり周りじゅうを侵していく。
裏切られた悲しみとなお募る愛しさと縋りつく絶望と。どれほど血を流しても収まらぬ、この苦しみ。
ああ、この時はいつまで続くのか―――
里桜はベッドの上でがばっと起き上がった。
窓の外はうっすらと明るくなっていた。背中に汗をびっしょりかいている。
――嫌な夢、見た。
思わず手や指をつくづくと見つめ、動かしてみた。ちゃんとついている。
しかしあの妙にリアルな感触は何だろう。体じゅうから血が流れ出してしまうような、ぞくぞくした感じ。それから―――胸が酷く痛い。切なくて悲しくて、胸が痛い。これはいったい、誰の想いなんだろう?
時計を確認した。六時十分過ぎだ。
里桜は起き出すと、シャワーを浴びて背中の嫌な汗を流した。
スウェットの上下に着替え、散歩でもしようと庭に出てみる。
朝の空気がひんやりと心地いい。東京とは気温がだいぶ違うようだ。きれいな空気を胸一杯に吸いこむと、里桜は行き当たりばったりに庭を散策し始めた。
庭園はよく手入れされていて、煉瓦の舗道や下生えなども整然としている。ただあまり人の歩いた痕跡は見えなかった。
一時間ほど歩き回った頃、四阿のある開けた場所に出た。
その一郭には薔薇ばかりが何十種類も植えられていて、今はまだちらほらとしか咲いていないが花の季節に一斉に咲いたならばさぞ豪華だろうと思われた。
薔薇園はどうやらずっと奥まで続いている。
誰の好みか知らないけれどいかにも旧華族さまの庭園という感じだ。里桜は心もち優雅な気分になって―――スウェットだけれど―――四阿のベンチに腰を下ろした。
歩き回ったせいかうっすらと汗をかいていた。朝方のとは違い、今度は爽やかな汗だ。
前髪をかきあげて、顔に風を通す。
この場所はとても気持ちがいい。不思議な感じだ。ずっと前からここにいたような、ほんわりと優しい気持ちが湧いてくる。
この気持ちは知っている―――里桜は目を閉じて思った。
そうだ、幸福そうに笑っている母を見ていた時の気持。綺麗で朗らかで愚かな女。愛しくてかけがえのない―――しかし失われた想い。
ゆっくりと目蓋を開けたその先に、朧な人影が浮かんだ。
「ママ‥‥? うっそ!」
母によく似ている。だがもっと若い。腰までの長い髪を一つに結わえ、白っぽい着物を着て、足は―――ない。というか、全体的に透けていて、膝下くらいからは霞んでしまっている。
「だ、誰? 幽霊‥‥ですか。」
正面切って聞く方もどうかしているが、もっと非常識なことにその幽霊らしきものは里桜を振り返り、明らかに驚いていた。口をぱくぱくさせ、何か答えようとしている。しかし言葉は聞こえない。
「ごめんね。あなたの声、聞こえないや。ここに長くいるの?」
幽霊は残念そうな顔をして、うなずく。
母に似ているというより、またもや鏡で見る最近の里桜に似ている。ということはご先祖さまの誰かなんだな、と妙に納得した。
怖いとは思わなかった。今朝の悪夢の方がよほど怖かった。
じっと見つめ合っていると心が通じそうな気がしてきて、何となく優しい気持ちになってきた。そして理解した。この場所に満ちている優しい空気は、彼女そのものなのだ。
里桜はにっこり笑うと、立ち上がった。
「あたしは里桜。また来るね、ご先祖さま。さようなら。」
幽霊も微かに頬笑んだような気がした。
朝食の席に顕彦はいなかった。
着替えもそこそこに遅れて食堂に入った里桜は、廣一朗が眉をひそめて唐沢と何か話し合っているのを見た。また顕彦の具合が悪いのだろうか?
里桜は会釈だけして、心持ち離れた席に座る。それでも切れ切れに押し殺した声の断片が耳に入った。
「またか。そんなの、聞いてやらなくていいよ。こんな山の中でしかも五月に、どうやって生の牡蠣が今日の今日手に入ると思ってるんだ、あの人は。」
廣一朗が声を荒げて、携帯を取り出した。
「いい、僕から言うよ。非常識なわがままは聞かなくていいから。」
どうやら顕彦に関する話ではないようだった。
電話を終えて、廣一朗は里桜を振り向き、苦笑した。そして近づいてくると里桜の隣に腰を下ろした。
「聞こえちゃったよね? うちの母なんだ。いつまでたってもこの家のお嬢様の気分が抜けなくてね。この家の主人はもう顕彦なのに‥。里桜ちゃんは振り回されないように気をつけて。嫌なときは嫌ってはっきり言わないと通じないから。」
「はあ‥。」
とりあえず笑顔でごまかし、鈴木さんの作った美味しい朝食に取りかかる。
温かいクロワッサンが絶品だった。とろけるようなオムレツもベーコンの焼き加減も、添えられたベークドトマトもホテルで食べたどの朝食より素敵だ。
廣一朗はコーヒーをすすりながら、幸せそうに頬張る里桜の顔を見て優しく頬笑んだ。
「ほんとに里桜ちゃんは可愛いな。美味しい?」
「‥‥美味しいです。すごく。」
さすがに恥ずかしくなってうつむいた里桜は、おまけに化粧も忘れていたことを思い出して耳まで赤くなった。あんなに邑子に注意されていたのに、二日めにしてもうこの体たらく。今朝の悪夢のせいだ、と心の中で言い訳した。
「僕はどうも朝は苦手でね。コーヒーだけっていうのが定番だな。一人暮らしだから余計に無精になっちゃって。」
「一人暮らしなんですか? でもお家は東京なんでしょう。なぜわざわざ?」
振り向くと、彼は頬杖をついたまま気怠そうに里桜を見返した。
「家族もいろいろなのさ。里桜ちゃんからすれば贅沢かもしれないけどね、煩くてうんざりする場合もある。」
「はあ‥。そういう事もありますよね。」
里桜はナプキンで口を拭い、両手を合わせてごちそうさま、と呟いた。
廣一朗はまだ里桜を見ている。もしかして素顔だからだろうか?
「あのう‥。ちょっと、今朝はまだお化粧していないので‥。渥美さんには言わないで下さいね、お化粧忘れて出てきたなんて。」
「そうなんだ‥? 綺麗な肌してるから気づかなかったよ。渥美くんは厳しいもんね。内緒にしておくよ。」
「どうも。」
ぺこりと頭を下げて、里桜は笑った。
あらためて見るとやっぱり廣一朗は顕彦によく似ていた。
耳から顎の線、口元などそっくりだ。顕彦の方がいくらか華奢かもしれない。
しかし彼の瞳は顕彦のような不思議な色ではなく、ごく普通に黒かった。そしてまなざしはずっと柔らかい。
「顕彦は運がいいね。里桜ちゃんみたいに素直で可愛い女の子が来てくれて。どう、ここでうまくやっていけそう?」
「どうでしょう‥? 自信は全然ないですけど。」
「気に入らない?」
「いえ‥。ていうか、あたしが気に入られてないみたいだから。」
「‥‥誰に?」
怪訝な表情で見返した廣一朗に、里桜の方が面食らった。
「もちろん、顕彦さんにですけど?」
「顕彦が? そう言ったの?」
「いえ、何も言われてませんけど‥。何となく解るんですよね。あたし、割にそういう勘はいいので。外したことないし。」
「そうかな‥‥。」
里桜は慌てて、笑って見せた。
「まあ、頑張ります。煩がられない程度にね。それじゃ、あたし、顕彦さんに会わないうちにお化粧しなきゃいけないので、失礼します。」
立ち上がりかけた里桜の手を、廣一朗が掴んだ。
「ちょっと待って。今日の午前中は予定ある? よかったら屋敷内を案内したいと思ってるんだけど。」
「廣一朗さんがわざわざ? いいんですか。忙しいんじゃ‥?」
「暇なんだ。つき合ってくれると嬉しいよ。」
彼は春の日溜まりみたいににっこりと微笑んだ。
午後四時のお茶の時間に、里桜は早々と晩餐会のための訪問着に着替えてサンルームテラスに向かった。
髪は結いあげるほど長くないので、片側に飾りをつけたワンレングス風にまとめてもらったが、波江の見立ててくれた組み合わせのおかげで艶やかで古風な感じにできあがった。
鏡の中の自分を見て、さすがの里桜もちょっと嬉しい。
廣一朗は手放しで褒めてくれた。
「綺麗だね‥! すごくよく似合ってる。」
里桜はちょっと照れて、へへ、と笑った。
「澤木さんの着付けが上手だから。うまく化けたでしょ?」
「化けたも何も、もとがいいからだよ。ねえ、顕彦?」
お茶を飲んでいた顕彦はゆっくり振り向くと、曖昧に微笑してうなずいた。
「うん。綺麗だよ、とても。」
「ほんとですか。有難うございます。お二人に褒めてもらったって、澤木さんに報告してこようっと。」
何だか気恥ずかしくなって、そそくさとその場から離れようとした里桜を、顕彦が呼びとめた。
「ちょっと待って。今のうちにこれ、渡しておきたいんだけど。」
彼が取り出したのはプラチナの結婚指輪だった。
「ああ‥。そうか、これって左手の薬指に嵌めるんでしたっけ?」
受け取って、テラスに射しこむ光に透かして見る。ちゃんと里桜の名前が入っていた。
廣一朗が顕彦に向かっておいおい、と文句をつけた。
「その渡し方はないだろう。せめて彼女の指にちゃんと嵌めてやれよ。まるで芝居の小道具でも渡すみたいじゃないか。」
顕彦はふふ、と微笑う。
「芝居の小道具はよかったな。じゃ、一幕目だ。廣従兄さんは観客。」
そう言って立ち上がると、里桜の手から指輪を受け取り、あらためて左手の薬指に嵌めてくれる。そしてその指に慣れた感じでさりげなく口づけた。
「末永くよろしく。死が二人を分かつまで、だっけ? ‥僕の指にも嵌めてくれる?」
差し出されたもう一つの指輪を、里桜はぎこちない手つきで顕彦の指に嵌めた。触れた指は驚くほど冷たかった。
彼は里桜を見てもう一度微笑を浮かべ、一幕目終了、と言った。
「二幕目は叔母さんたちが到着してから始めようか。頼むね、里桜。」
「まあ‥。何とか頑張りますけど。今夜は二幕で終了ですか?」
指輪を撫でながら里桜は答えた。
きらきらして綺麗だ。何だか凄く―――本物っぽい。
「多分ね。終幕は明日だよ。」
その返事は幾分投げ遣りに言われたように、里桜には聞こえた。
里桜が部屋を立ち去った後、廣一朗は呆れて溜息をついた。
「君はまったく‥。何を考えているのやら。彼女に意地悪して楽しいのか?」
「意地悪なんかしてないよ。彼女、面白がってると思うけどな。昨日初めて会った男にしつこく口説かれたらその方がずっと気分悪いじゃない?」
「君の言動は何て言うか‥‥傲慢そのものだよ。金で雇った女をどう扱おうと勝手、て態度がありありだ。里桜ちゃんはいい娘だよ、そんな扱いをするべきじゃない。どこが気に入らないんだ? 自分が探し出したんじゃないか。」
顕彦は俯いて、吐き捨てるような口調で呟いた。
「廣従兄さんには解らないよ。僕にとっては何もかも全部、芝居じみたことなんだ。里桜の事だけじゃなくて、僕がここでこうしてスーツなんか着こんで客を待ってるのも全部、芝居じゃなくて何なのさ? 生きるって事は僕の場合、現実逃避とイコールなわけだからね。時には憂さ晴らしくらいしたくなるよ。」
「顕彦。どうしてそんな考え方しかできないんだ、君は。」
「お説教は止めてくれないか。従兄さんとは喧嘩したくないんだ。里桜を気に入ったなら、従兄さんが好きなようにすればいい。」
「‥‥コーヒーのお代わりをもらってくる。」
廣一朗はムッとして立ち上がり、顕彦に背を向けた。腹が立ってならなくて、顔を見ていたら手を上げてしまいそうだったからだ。
だがコーヒーポットを手に戻ってくると、顕彦は頭を抱えて項垂れていた。
微かに震えている肩の辺りにびりびりした空気が漂う。
「顕彦。どうした? 気分が悪いのか。」
ポットをテーブルに置いて、背中をさすってやる。
顕彦はのろのろと顔を上げて、焦点の合わない虚ろな瞳で空中を凝視めた。
今まで呼吸が止まっていたかのように大きく息を吐いて、廣従兄さん、と微かな声で呼ぶ。まるで目の前の廣一朗が見えていないみたいだった。
―――また発作か。
廣一朗は顕彦を腕に強くかき抱いて、頬を軽く二、三度叩いた。
しばらくして彷徨っていた視線が戻って来て彼を捉えた。顕彦は泣きそうな表情を浮かべ、彼の胸にしがみついて顔を埋めた。
「よし、よし。大丈夫だから。」
髪をまさぐって抱きしめながら、耳元で囁く。
時にうんざりさせられる事もあるが、やはりこの病弱な、たった一人の従弟が―――たまらなく不憫で愛おしい。
そのまま黙って少しの間、顕彦を腕に抱きしめていた。
やがて廣一朗は顕彦の肩を軽く叩き、里桜を探してくると溜息まじりに告げた。
「‥‥うん。」
肩を竦めてゆっくりと体を離しながら、顕彦は一瞬ひどく寂しそうな貌をした。
その夜の客は須藤夫妻と廣一朗の妹の葵、それから須藤議員の秘書鷺坂佳行、鷹森家顧問弁護士山辺和宏の五人だった。
須藤寧子は華やかな美人で、廣一朗や顕彦とよく面差しが似ていた。五十二才という年齢よりも十五は若く見える。娘の葵は母や兄とはあまり似ていないが、背が高くてモデルみたいな躰つきの都会的美人だ。夫の須藤要は妻よりもかなり年上の六十八才。堂々とした体格と風貌をしている。秘書の鷺坂は三十四才で須藤代議士の甥だというから、やはり廣一朗や葵の従兄に当る。まだ独身だという話だった。
お互いの関係だけ聞けば、確かに家族内のお披露目といえるのだろう。しかし里桜の見る限り、廣一朗一人の時とは明らかに邸内の雰囲気は異なっていた。
年代物のシャンデリアに照らされた晩餐室は、まるで時代を遡ったかのように古雅な部屋だった。芝居の第二幕の舞台装置としては満点というところだろうか。
そう考えると里桜の昭和初期風に着付けた着物も、寧子や葵のカクテルドレスも、この部屋に似つかわしい舞台衣装と言える。男性たちはダークスーツに慶事用ネクタイを締めた程度だったけれど、全員がとても着慣れている感じがして、やはり里桜の目には非日常的に映った。
テーブルの真中に置かれた豪華なアレンジメントフラワーを挟んで、顕彦と里桜は対面に座った。顕彦の両側に須藤母娘、葵の横に廣一朗。里桜の両側の席には須藤代議士と鷺坂が着いた。山辺は鷺坂の隣である。
誰が決めた席順かは知らないけれど、里桜はちょっとほっとしていた。
代議士も鷺坂も世間慣れしていて、緊張気味の里桜に好意的に接してくれたからだ。里桜の育った環境については既に山辺から聞いているらしく、特に鷺坂は心が読めるのかと思うほど先回りして気を配ってくれた。さすが秘書という仕事をしているだけあるな、と里桜は感謝の他に尊敬の念すら覚えてしまう。
「‥‥ねえ、里桜さん?」
食事もあらかた済んで、デザートの時だった。
鷺坂と話をしていた里桜は急に呼ばれたように思って、顔を上げた。斜め前方から、葵の異様にきつい視線が里桜の上で停止していた。
葵はなぜかひどく怒っているみたいだった。何度も話しかけていたのだろうか?
「ごめんなさい。聞きそびれてしまいました。もう一度言ってもらえますか?」
里桜は素直に謝った。
葵はあからさまに小馬鹿にした表情で、笑い声をたてた。
「別に大したことじゃないの。ずいぶん美味しそうに食べるのねって言っただけよ。よほど貧しい食生活だったの? あなたが今までどんな生活をしてきたのかぜひ聞きたいわ。教えてくれないかしら。政治家の娘としては貧困て興味深いもの。」
気まずい空気が漂った。
里桜はさりげなく周りを見てみた。困惑している顔がほとんどだった。隣の鷺坂などは、里桜が怒るか泣くかと思ってはらはらしているみたいだ。
肝心の顕彦はと里桜が見ると、彼は頬杖をついてポーカーフェイスを決めこんでいた。
里桜は葵に笑顔を向けた。
「どんな生活かと訊かれても‥。何て言うか、うまく説明できないので。まあひどく貧乏だったのは確かです。」
「それで相手をよく知らないのにさっさと結婚を決めたの? どう、お金持ちになれて嬉しい?」
里桜は一瞬きょとんとして葵の顔を見返した。顕彦の方を見てもこの芝居の演出をしてくれる気はないらしい。アドリブで対処しろということか。やれやれ、と里桜は思った。
「お金持ちっていうか‥‥。願いが叶ったので今は幸せですよ。家ができて、ちゃんとご飯が食べられる生活が手に入ったんですから。だから顕彦さんには感謝してます。」
淡々と答え、里桜は再びにっこりと笑った。
「知らないことだらけなので、皆さんにいろいろ教えていただけると嬉しいです。あらためてよろしくお願いしますね。」
葵が口を開く前に、須藤寧子がにこやかに割って入った。
「わたしたちもこんなに可愛らしい姪ができて、嬉しいわ。ねえ、あなた?」
「ああ。ほんとに。さっきも言ってたんだが、東京に出て来る時はぜひ訪ねて下さいよ。佳行がいろいろと案内したがってたし。」
「いや、里桜さんが知らないって言うので‥。それなら機会があればって。」
鷺坂は心持ち顔を赤らめて、訂正した。
すると今まで黙っていた顕彦が、微笑を浮かべて口をはさんだ。
「それはいい。僕につき合ってここに籠もりきりじゃ可哀想だし。里桜、行きたいところがあれば皆さんにお願いしたら?」
「ええ。ご迷惑じゃないならお言葉に甘えて、そのうちに。今はまだいっぱいいっぱいで、とてもそんな余裕はなくて‥。」
里桜はすまなそうに鷺坂を見た。鷺坂はよく判る、というふうに大きくうなずいた。
今のところ第二幕は上々の仕上がりというところか。
葵は口を噤んだまま、黙々とデザートを食べている。時折ちらちらと顕彦の方へ鋭い視線を向けているところを見ると、さっきの里桜への攻撃は多分顕彦のせいに違いなかった。八つ当たりは困る、と里桜は出かかった溜息を呑みこんだ。
食事が終わって、皆が娯楽室へ移動することになった。
娯楽室は厚い絨毯が敷き詰められた小広間で、バーカウンターやビリヤード、百インチのTV、プロジェクター、オーディオセットなどが設置されている。壁一面の棚にはDVD、CD、ゲームが並んでいた。
晩餐室から娯楽室までは、中庭をぐるっと廻る回廊で繋がっている。
皆がそこへ向かって行く中で、里桜はひとり反対側の屋内にある化粧室へ立ち寄った。化粧を直すためだが、里桜にとっては幕間の休憩の意味もある。
鏡の前でお白粉をはたき、口紅を引き直す。
今日も鈴木シェフの料理はとても美味しかった。オードブルで出た山菜の和え物は何のソースなのか解らなかったけれど不思議な味だったし、鯛のポワレにステーキは言うまでもない。おかげで里桜の口紅はほとんど消えてしまった。
着物は全然着崩れしていない。練習以外では初めて着た着物だけれども、波江の着付けはホテルの先生のより楽だ。むしろ体にぴったりしたイヴニングドレスの方が、動くのによほど苦しい。ましてこんなにお腹いっぱいは食べられない。
鏡の中の自分ににこっと微笑んで、点検終わり、と呟いた。そして化粧室を出る。
回廊へと通じるドアは開いたままになっていた。通り過ぎようとして、回廊の中程に人影を見留め、慌ててドアの陰に身を潜めた。
月明かりに浮かんだ人影は顕彦と葵だ。
小声なのでよく聞き取れないが、何か言い争っているふうだった。というよりも取り合おうとしない顕彦に、葵が必死で追い縋っている、という感じだろうか。
葵の声がだんだん高くなる。
「‥‥そういう約束になってたのよ!」
「‥‥。」
顕彦の声は相変わらず低くて聞こえない。
「嘘! 知ってたくせに!」
「‥‥!」
背を向けて歩き出そうとした顕彦の腕を、葵は掴んで強引に引き戻し、いきなり彼の頸にかじりついてキスした。顕彦はされるがままになっている。
かなり長いことそのままでいたが、やがて葵はゆっくりと唇を離し、顔を近づけたまま何か言った。すると顕彦がやはり何か答えた。次の瞬間、葵は大きな音を立てて彼の頬をひっぱたいた。里桜は思わず息をのむ。
「ばか‥!」
葵は顕彦を押しのけて、回廊の先へと足早に去っていった。
顕彦は頬を押さえて葵の後ろ姿を見えなくなるまで見送っていたが、苦笑いを浮かべてこちらを向いた。里桜は慌てて化粧室の方へ戻ろうとした。だが彼はとっくに気づいていたらしく、里桜、と呼んだ。
里桜は振り向いて、近づいてくる顕彦に向かってへへっと照れ笑いをした。何とも気まずい。
顕彦の頬は赤く手の跡が残っていて、唇の端が少し切れて血が滲んでいた。とりあえずティッシュを出して唇を拭ってあげる。すると彼は初めて自分の血に気づいたらしく、指で確かめて微かに眉根を寄せた。
「とんだ茶番だね。まいっちゃうな。」
「ハンカチ、濡らしてきましょうか? 頬を冷やした方がいいんじゃない。」
「いや。‥‥君の手で冷やしてくれないか。」
「はあ? まあ‥いいですけどね。今日は二幕で終了じゃなかったんですか。今はいったい何幕目?」
里桜は手を伸ばして、顕彦の頬の赤くなっている部分に当てた。彼は里桜の手の上から自分の冷たい手を重ねて、ふふっと微笑った。
「見てたんだろう? 話し声も聞こえたかな。」
「いいえ。でもだいたい解りますよ、テレビドラマみたいだったから。典型的な痴話喧嘩でしょ? あれもお芝居のうちですか。」
「そう見えた?」
「さあ‥。経験がないので解りませんけど。あたしに気づいてたなら、そうかなって。」
里桜は心持ち冷ややかに答えた。
すると顕彦は忍び笑いをもらし、不思議な色の瞳が一瞬だけおかしそうに揺らめいた。
「だから茶番なんだよ。葵は君に気づいたから僕にキスしたんだ。下らないだろ? そもそも君が一人で化粧室なんかに行くからいけない。泣いてるかもしれないから見にいけって、須藤の叔父やら鷺坂さんやらに僕が言われる羽目になる。」
「はああ? 泣いてるって、何ででしょう?」
「さあね。君が今日、猫を被りすぎてるからじゃないの。僕の方が泣きたいよ。」
なんて自分勝手な言い分だろう、とさすがの里桜もちょっとむっとした。
「あのですね。葵さんに殴られたのはご自分の胸に覚えがあるはずでしょ? あたしのせいじゃないし‥。猫を被るだなんて、あなたの要望に応えて一所懸命お芝居してるんじゃないの。全然助けてくれないくせによく言うわ、まったく。」
顕彦はにやりと微笑って、引っこめようとした里桜の手をぎゅっと握った。
「解った。怒らないで。どうせ何もかも僕が悪いんだ。仲直りして、手をつないで娯楽室に行こうよ。予定外だけど三幕目が始まるから。」
よく解らない人だ。里桜は内心溜息をつきながら、手を引かれたまま彼の後に続いた。
顕彦の言った三幕目というのは、確かに予定外だと里桜はしみじみ思った。
彼は何を考えたのか判らないが、里桜をソファで自分の隣に座らせると、腰に手を回して抱き寄せた。おいおい、とつっこみたくなる。ちらりと様子を窺うと、珍しく優しい親密なはっきりした笑顔を里桜に向けてきた。
里桜は仕方がないので、ただ顕彦に寄り添って、あまり喋らないように気をつけた。
そのうちに里桜にもだんだん解ってきた。
要するに顕彦は里桜と事実上も結婚したと、この中の誰かに思わせたいのだ。いったい誰に? 葵にだろうか。それとも須藤夫妻になのか。山辺や鷺坂にはあんまり関係なさそうだけれど、意外と何か理由があるのかも。
恋愛経験ゼロの里桜にとっては、一番しんどいお芝居といえた。
これで案外、単なる葵への嫌がらせだとしたら馬鹿馬鹿しくて涙が出る。二人が以前関係があったことは、多分間違いないだろう。
なぜ葵と結婚しなかったのだろうか。喧嘩したから? それとも何か理由があるのか。
考え始めると言いようもなく疲れを感じた。茶番はどっちなんだろう。さっきの痴話喧嘩は現実で、里桜が今ここにいる事の方が茶番なのでは?
「里桜ちゃん。疲れたんじゃない?」
廣一朗の声が聞こえた。
そう言えば彼は家族が来てから、ぐっと口数が少なかった。
里桜が顔を上げると、廣一朗の心配げなまなざしが見えた。何となくほっとする。
「顕彦。もう休ませてあげれば? そろそろ十時になる。酔っぱらいの中に一人置いておくのは可哀想だよ。昨日からずっと緊張してただろうし。」
里桜は胸の内で、廣一朗に感謝の言葉を山盛り並べた。そして許しを請うために顕彦を見る。彼はちらりと醒めた視線を里桜に向け、不意にあからさまな微笑に変えるとそうだね、とうなずいた。
里桜はやっとお役ご免になって正直嬉しかった。
ではお先に、と会釈をして部屋を出る。途端にどっと疲労が背中じゅうから押しよせて、前方に倒れこみそうな気がした。何とか歩いて、自分の部屋にたどり着いた。
『家族』って何なのだろう? 里桜にはよく理解できない。自分が余所者なのだ、という実感だけがひしひし胸にこみあげる。
着物を丁寧に脱いで、波江が用意してくれた衣紋掛けにかけた。
とりあえず、できる限りは頑張ったからよしとしよう。胸に言い聞かせる。
化粧を落とし、シャワーを浴びて寝間着に着替えた。鏡の前で髪を梳かしていると、ドアをノックする音がした。
「はい?」
「里桜さま。起きておられますか?」
唐沢だった。湯気の立ったマシュマロ入りのココアと、焼きたてのシュークリームをのせた盆を手にしている。
「旦那さまがお届けするようにと。」
「顕彦さんが?」
「はい。随分とお疲れのご様子だから、と。里桜さまは何か召し上がればきっと、お元気になられるはずだと仰っておられました。」
唐沢はそう伝えて出ていった。
美味しそうなシュークリームを見て、里桜は一人で赤面した。
途中で放り出して逃げてきたのに。彼の方こそ体が弱いのだからいたわってあげなくてはいけなかったのに。落ち着いて考えれば彼が唯一、里桜の『家族』なのだ。
「‥美味しい。」
里桜はシュークリームを頬張りながら、深く深く反省した。