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CHAPTER 1

少々手直ししました。ストーリー展開に変更はありません。

 里桜の母親という人はとても綺麗な(ひと)だったが、ひと言で言えば生活破綻者だった。

 そもそも里桜の父親が誰なのか、自分でさえもよく判らないほど男にだらしなくて、夢中になると里桜が待っていることも忘れて、ひと晩二晩帰ってこない、なんてことがしょっちゅうあった。

 幼い頃は同じアパートの人たちが見に来ては、ご飯を時々食べさせてくれたりしたけれども、そのうち里桜は、母の財布にお金がある時にタンスの引き出しにいくらかずつ貯めておくことを覚えた。小学校の高学年ともなると、母からお給料を預かっておこづかいだけ渡し、家計のやりくりは里桜がするようにした。

 しかし母はくるくる変わる恋人に貢ぐため、お給料を前借りしたり借金したりしてしまうので、いつもお金は足りなかった。

 里桜は自分の家庭が普通ではないことくらい物心つく前からわかっていたし、母が自分にほとんど関心がないという事実も知っていた。それでも里桜は母がとても好きだった。

 恋に夢中になっている時の母はすごく綺麗で、里桜の眼には狭いアパートの中に花が咲いたように見えた。結局捨てられて、泣きじゃくって里桜に縋りつく時は、まるでどしゃぶり雨が降っているように感じた。背中を撫でて慰めてあげながら里桜は、大きくなったらもっと強くなって世の中から母を守ってあげたいと、そればかり考えていた。この綺麗な(ひと)が、なんとかしていつも笑っていられるように。苛められたりしないように。

 しかし母は二年前、交通事故で恋人と一緒に他界した。相手の男は借金で首が回らず、覚悟の上の心中らしかった。里桜に残されたものはわずかな家財道具と、三百万ちょっとの高利の借金だけで、遺書すらもなかった。

 多分母のことだから、一緒に行こうと言われて喜んで従いていったのだろう。

 行き先があの世だって知っていたかどうかさえ疑わしいけれど、きっと幸せだったのだろうと里桜は思う。

 死ぬ瞬間、あの(ひと)は笑っていただろうか。笑っていたのであってほしい、どうか。里桜が大好きだったあの、天使のように綺麗な顔で。


「そろそろ着きますよ、里桜ちゃん。大丈夫?」

 渥美邑子に声をかけられて、里桜は夢から醒めた。

 東京都心から約二時間半。高級車の走行があまりに滑るようだったせいか、ゆったりと広い後部座席で里桜はぐっすり眠っていたらしい。助手席の邑子に見えないように口端のよだれをこっそり拭って、はあい、と返事をした。

 渥美邑子は三十二才。里桜のスケジュール管理のためにと、須藤コンサルティングオフィスから派遣されてきた女性弁護士だった。

 小柄だけれど知的な美人で、落ち着きのある毅然とした物腰はいかにも敏腕キャリアウーマンといった感じの大人の女性だ。世間知らずで無知な里桜に対してもばかにするような態度は一切見せず、細やかな配慮をしてくれる。

 邑子の上司である須藤廣一朗は邑子と同じ三十二才。上司ではあるが学生時代からの友人だそうだ。彼は母の寧子(やすこ)鷹森(たかのもり)家の出で、当主の顕彦とは従兄に当たっていた。むろん里桜にとっても遠縁ながら親族となる。

 今回は弁護士というより、従弟の依頼として里桜の世話係を引き受けたそうだ。だから邑子も友人の手伝いという立場で里桜の面倒を見てくれていて、今ではすっかり気さくな親戚のお姉さん、といった存在になっていた。

 ちなみに廣一朗自身は二度ほど一緒に食事をしたけれど、今までの里桜の現実にはまったく存在していなかったタイプと言っていい。

 父は衆議院議員、母は旧華族の出で大手不動産会社経営という生まれつき血筋も財産も社会的地位も揃っている極めつけの御曹司。おまけにぱっと人目を惹く美貌に、誰でも知っている一流大学出身で、卒業前に司法試験に合格したという才色兼備の人だ。

 だが須藤廣一朗という人は、その基本スペックの高さに反して、不思議と気後れを感じさせない柔らかな雰囲気を持っていた。

 今日も大阪での仕事が片づいたら高速を飛ばして鷹森(たかのもり)邸まで来てくれるという。里桜が初めて鷹森(たかのもり)邸に入る日だから、という気遣いらしい。他人に気遣いなどされたことのない里桜はいたく恐縮したけれど、すぐにむろんこれから逢う鷹森(たかのもり)邸の人々への気遣いでもあるのだと了解した。思うに―――育ちのいい人とは多方面に気遣いがさりげなくできてしまう人のことかもしれない。

 鷹森(たかのもり) 家の本邸は山あいの静かな場所にあった。

「もうこのあたりは全部、鷹森(たかのもり)の地所なの。あちらに白く尾根が見える山の向こうから、こちらの山々までみんなそうよ。もうすぐ外門が見えるはずだけど、屋敷部分の敷地だけでも二万坪以上はあるかしらね?」

「へえ‥? すごいですね。」

 よく解らないものの、普通じゃないほど広大みたいだ。

 邑子は苦笑気味に微笑して説明を続けた。

 鷹森(たかのもり) 家はもともと戦国時代にこの地方を治めていた家柄で、今お屋敷のある場所に山城(やまじろ)を築いていたそうだ。

 だが江戸時代に入って後は、小名(しようみよう)の常として領国は点々と移り変わり、明治時代に伯爵位を授かると今度は東京に居を構えて、いつしか先祖の眠る旧領地とは疎遠になっていた。

 先祖の地を再び買い戻し、西洋風の城館を建てたのは二代目伯爵、明治四十年代のことで当時は別荘として建てられた。それを本格的に手を入れて本邸としたのは、第二次世界大戦が始まる少し前だったそうだ。

 ちなみに里桜の曾々祖母が生まれ育った東京の旧鷹森(たかのもり) 邸は、空襲からはからくも残ったけれど、戦後人手に渡って現在はもう存在していないらしい。

 外門、内門とくぐって瀟洒な煉瓦造りの洋館の玄関前にたどり着き、車は停止した。

 玄関前には数人の人影が見える。屋敷の使用人だろうか。里桜は急に緊張してきた。

 車はドアを開けてもらってから降りる。両足を揃えて、軽やかに。練習したことを頭の中で反芻しながら、心臓の音が大きくなるのを感じた。

 作法の講師(せんせい)は、判らなくなったら微笑みでのりきるようアドバイスしてくれたっけ。それから慌てず、急がずゆっくりと。

 ドアが開けられた。初夏の爽やかな風がすうっと通り過ぎていった。

 里桜は深呼吸をひとつして、目を伏せたままゆったりとした動作で車を降りた。にっこりと微笑を作り、顔を上げる。

「初めまして。吉野里桜です。どうぞよろしく。」

 何度も練習した言葉を言うと、そこに並んでいた人々は一斉に頭を上げた。

 一番手前に立っていた長身の、五十がらみの男が慇懃な微笑を里桜に向けた。

「ようこそ里桜さま。心よりお待ち申し上げておりました。わたしは唐沢と申しまして、鷹森(たかのもり)家及び本邸の維持管理全般を任されております。」

 唐沢に続くように、他の面々もそれぞれ歓迎の言葉を述べる。

 里桜は思わず自分も頭を下げてしまい、会釈でよかったのだと思い出して姿勢を直した。そして唐沢の後に続いて屋敷の中に入った。

 吹き抜けの玄関ホールの向こうに、中庭へと続く明るいアトリウムが見える。左手には絨毯を敷き詰めた広い階段があった。

 まずは部屋に案内すると告げた唐沢に、邑子は手を振って自分は夕方には東京に戻らなければならないのだと答えた。

「ではお茶の支度がご用意できておりますので、サンルームテラスへどうぞ。」

 邑子はうなずくと、幾度も来たことがあるらしくさっさとアトリウムの奥へと歩き出しながら、もう携帯を取りだしている。

 ふと唐沢と目が合うと彼は柔らかに頬笑んだ。

「渥美さまはお忙しいようですね。お部屋へご案内いたしましょう。」

 里桜は何となく安心して、微笑み返した。

 案内された部屋は二階の東側の端にあった。居間と寝室の二間続きになっていて、ウォークインクロゼットとバスルーム、南向きのバルコニーも付いていた。バスルームだけでも六畳くらいの広さがあって、昨日までいたホテルのスイートよりふた回りくらい広い。

 荷物は先に運びこまれていて、クロゼットはいっぱいだった。ダブル仕様のベッドは天蓋付き、羽布団だ。まるでディズニー映画のお姫様になったみたいな気がする。

 ドアが閉まって、里桜はソファに座りこんだ。

 ゆるゆるとあたりを見回す。

 ―――今日からは、ここがあたしの家。あたしの部屋だから。

 深呼吸を一つ。少々強引に胸に言い聞かせてみる。

 それから里桜は立ち上がって、バッグからノートを取り出そうとした。

 するとノートの端にひっかかって、地味な黒縁の眼鏡が床にがしゃんと落ちた。

 慌てて拾い上げる。壊れてはいなかった。ほっとして、ちょっとの間、度の入っていない素通しのその眼鏡をじっと見つめた。

 里桜が十一才くらいだったろうか。ある日を境にして母は里桜に男の子みたいな服ばかり着させるようになった。髪も短く切って、この眼鏡をかけさせ、とってもよく似合うと里桜の大好きな花のような笑顔を向けた。

 かなり後になって、それが唯一母が里桜に対して示した親らしい気遣いだったのだと知った。何がきっかけだったかは知らないけれど、自分の客や交際相手の男の目に娘が止まらないようにと、男の子だということにしたらしい。

 母がくれたたったひとつのものだから、母の死後も里桜は眼鏡をかけ続けていた。

 現在の里桜には当然ながら不要なものだ。もう捨てたほうがいいのかもしれない、とちらりと思う。けれど里桜は結局、その眼鏡を新しい部屋の化粧台の引き出しにしまいこんだ。

 気分を切り替えてノートを広げる。この二ヶ月間、作法やマナーを学びながら自分なりに書き留めたものだ。

「えっと。午後のお茶に相応しいのは‥。」

 初夏らしいシフォンのワンピースを選んで、堅いイメージのパンプスを花柄のルームサンダルに履き替えることにする。

 TPOに合わせて身に着けるものを選ぶのも慣れていないが、選ぶほど服があるという状況もまだピンとこない。未紅じゃないけれど、この二ヶ月余りは毎日舞台のリハーサル状態で、今日からはいよいよ本舞台に上がる、といった感覚だ。

 そう言えば肝心の当主さまについて、唐沢に訊ねるのを忘れていた。

 テラスで待っているのだろうか。だとしたら、あまり待たせておくわけにはいかない。

 急いで着替えながら、里桜は鷹森(たかのもり)顕彦という人についての知識を反芻してみた。

 知らされているのは二十六才という年齢。生まれつき病身のため大学を一年で中退し、それ以来この本邸からほとんど出たことがないということ。見せてもらった写真では、ちょっと線が細いけれど美形だった。従兄の廣一朗と面差しがとてもよく似ている。

 率直な感想を言えば、家訓だか因習だか知らないがそんなものは無視してしまえば、花嫁候補なんか掃いて捨てるほど見つかるに違いない人だった。里桜の初めの想像とはだいぶ異なって、中高年でも地味めでも根暗っぽくもない。彼には選択の余地はないと山辺は言っていたけれど、それが言葉通りならお金持ちで美形に生まれたからといって幸せとは限らないことになる。

 三月の終わり頃に里桜は山辺に言われるがまま、婚姻届に署名捺印している。

 そこには既に鷹森顕彦の名は記されて、印も押されていた。

 整った綺麗な筆蹟だった。後で誰が書くか判らない婚姻届に平気で先に署名する投げ遣りさと、その丁寧な手蹟の間に浮かび上がる微少なアンバランス。それはそのまま、里桜の求められている役割を物語っているようにも思える。

 鏡を覗きこんで化粧をチェックする。服装に合わせて口紅の色も少し明るい色に変えた。やがて里桜はよし、と鏡の自分に向かって微笑んだ。

 階段を下りてサンルームテラスにたどり着くと、渥美邑子は携帯を手に窓際で誰かと熱心に話しこんでいた。

 里桜は唐沢の勧めてくれた椅子に静かに腰を下ろし、膝をきちんと揃えた。

「顕彦さまはまもなく御挨拶にこられると思います。今日は朝のうち少しご加減がよろしくありませんでしたので、つい先程までお寝みになられていたものですから。」

 軽く会釈しながらうなずく。頭の中で作法の先生の言葉が渦巻き状態だ。

 唐沢が淹れてくれた紅茶を口にし、銀のトレイから二種類のマフィンと三種のサンドウィッチを選ぶ。取り分けてもらった皿を微笑んで受け取り、糖蜜入りマフィンにさりげなくフォークを入れた。

 マフィンを口に入れた途端、里桜の脳内キャッシュから作法の先生の言葉は一掃されてしまった。一口ごとにマフィンマフィンマフィン、と埋めつくされてゆく。

 二ヶ月ホテルに缶詰になっていたとき食べていた食事も、今までの里桜の人生がひっくり返るのに十分なメニューだったけれど、このマフィンには何か違うものがある、と里桜は思う。

 何と言えばいい? 運命的な出会いのことを何て言うのだったろう、未紅が芝居の台詞で言っていた格好いい響きの言葉。確か――『邂逅』?

 里桜の恍惚とした表情に気づいた唐沢は、穏やかな顔で頬笑んだ。

 携帯を持ったままの邑子も振り向いて、やはり頬笑む。思わず里桜は赤くなったが、フォークを口に運ぶのは止められなかった。

「里桜ちゃんて‥。前から思ってたけどほんと、食べてる時幸せそうよねえ。そんなに美味しいの? そのマフィン、わたしもいただこうかな。」

 邑子は用が済んだらしく、携帯を切って里桜の隣に腰を下ろした。失笑あるいは苦笑にみえる微笑を浮かべている。いっそう頬が熱くなった。

「まあ‥。食べることが好きっていうか‥。人生の目標だったっていうか‥。」

 言い訳がましくぶつぶつ呟いて、次にラズベリージャムを焼きこんだマフィンに取りかかる。

 こちらもたまらなく美味しい。前にアフタヌーンティーの講習で食べたのより、生地が少し軽くて、そのくせきめ細かくしっとりとしている。まさしく『邂逅』。

「里桜さまに輝くようなお顔で召し上がっていただいたと、シェフの鈴木に伝えましょう。きっと喜びますよ。」

 お茶のお代わりを注ぎながら、唐沢が里桜に言った。

 ますます恐縮する。

 まあいいか、と里桜は早くも開き直った。今日からここは里桜の(うち)なのだから、多少は作法を忘れても許されるだろう。(うち)と呼ぶには―――ちょっと広すぎるけれど。

「楽しそうだね。渥美くんが笑っているなんて、珍しいなあ。」

 メイドらしい中年の女性に案内されて現れたのは、須藤廣一朗だった。

 邑子はマフィンを慌てて呑みこんで、廣一朗の方を向いた。

「所長。早かったんですね。大阪の件は片づいたんですか?」

「ああ、何とかね。今夜手打ちだってさ。鷺坂(さぎさか)に後は任せてきたよ。」

 廣一朗は里桜に会釈して対面に腰を下ろし、紅茶を断ってコーヒーを頼んだ。

 里桜も軽く会釈を返す。

「‥‥ところで顕彦は?」

 唐沢から熱いコーヒーを受け取って、廣一朗は訊ねた。

「顕彦さまは今朝からお加減がお悪くて‥。まもなくお見えになると思うのですが。」

「しょうがないな。相変わらずなんだね‥。せっかく里桜ちゃんが来てくれたのに。」

「はあ‥。」

 微かに顔を曇らせた廣一朗に、唐沢は困惑した様子で溜息をついた。

 里桜は『せっかく来た』といっても、まあこれからずっといるわけだし、顔合わせが夜になろうが明日になろうがあまり違いはないんじゃないか、などと暢気なことを考えていた。けれど唐沢の溜息を聞いて、二人の胸にあるのはそういうことではないのだと遅まきながら気づく。鷹森顕彦という人はそれほど重病なのか?

 マフィンを食べ終わって、里桜は口を拭い、ストレートの紅茶で口直しをした。

「あら。里桜ちゃん。もうごちそうさまでいいの? よかったらこちらのもどうぞ。」

 邑子がからかい顔で声をかけた。里桜は照れ笑いをして、首を振る。

 いくら何でも鷹森顕彦が姿を見せた時に頬張ってて口がきけないようではまずい。第一印象はなるべく粗相なくありたいものだ。何しろ戸籍上とはいえ、これから里桜にとっては夫になる人なのだから。あらたまってそう思うとちょっと緊張してくる。

 サンルームの硝子越しにあふれていた光が、ゆっくりと夕暮れの色に変わっていく。

 里桜の飲みかけの紅茶にも、金色の光が玉のように泡のようにきらきらと揺らめいている。紅茶の紅い色が光に透けて、血の色みたいにくっきりと際だってやけに艶めかしい。わけもなく背中がぞくり、とした。

 その時背後から声がした。

「ずいぶんお待たせしちゃったかな。いらっしゃい、廣従兄(にい)さん。渥美さんもお久しぶり。ええと‥こちらが里桜さん?」

 里桜は振り向き、反射的に立ち上がった。

 百五十七センチプラス五センチハイヒールの里桜よりも頭一つ分高いところに、写真で見たよりずっと明るい色の貌が微笑していた。

「吉野里桜です。どうぞよろしく。」

 鷹森顕彦はなぜかひどく驚いた表情を浮かべた。

「鷹森顕彦です、こちらこそ。‥‥驚いたな、まったく。」

 彼は里桜の顔をまじまじと見つめ、隣の席にそろそろと腰を下ろした。

 ピンストライプのシャツに黒いレザーのベストとパンツが細身の躰にしっくりと似合っている。レザーといってもワイルドな感じではない。イタリアの何とかいうブランド物だ。

「あの‥何か?」

 里桜は面食らって、思わず彼の顔を見返す。

 顕彦は目が離せない、といった感じでまだこちらをじっと見ていた。

「うん‥。ちょっと髪をこう、かきあげてみてくれない? 額を出す感じに。」

「こうですか?」

 訳が解らないままに前髪をオールバックに撫でつけてみた。

「そう、そう‥。唐沢、階上のホールから董子(とうこ)さまの写真、持ってきてごらん。小さいのでいいから。」

 顕彦は頬杖をついてふふっと微笑った。

「何なんです、顕彦さん? 誰かに里桜ちゃんが似てるんですか?」

 渥美邑子が好奇心たっぷりに訊ねた。

「ご先祖さまですよ、渥美さん。僕と彼女の共通の。今、唐沢が写真持ってきますから。廣従兄さん‥。知ってたのに黙ってたの? 人が悪いな。」

「いや。誰かに似てるとは思ってたけど‥。ご先祖さまとは思い至らなかったよ。だけどすごいじゃないか。苦心して見つけた彼女の顔が、鷹森(たかのもり)家の血筋を一目瞭然で表しているなんてさ‥。誰にも文句のつけようがない。」

 廣一朗の言葉に顕彦は苦笑したようだった。

 里桜は冷めた紅茶をすするふりをしながら、ひそかに顕彦の横顔をじっくりと覗き見た。そしてさっき、『明るい色の貌』と感じた理由にやっと気がついた。彼の瞳の色のせいだ。

 顕彦の瞳の色は琥珀色よりまだ薄い、金茶色とでも形容したいような不思議な色をしていた。蝋人形みたいな白い肌、真っ黒で艶やかな髪。すっきりとした鼻筋と顎のライン。歌舞伎の女形でもしたら似合いそうな日本的な美貌に、なぜか金色の瞳。切れ長の、冷ややかな醒めた瞳。何も映していない、空っぽの。

 何ということもなく、再び背筋がぞくっとする。

 戻って来た唐沢が持ってきた写真は、二尺袖の着物に袴をつけた女学生のものだった。

 修正が入ってそうなモノクロの写真の中で、無邪気な笑みを浮かべて映っている顔は、確かに最近鏡の中でよく見る里桜と非常に似ていた。入学なのか卒業なのか里桜には判らないけれど、両親と兄らしき人物が一緒に映っている。

 顕彦の簡単な説明によれば、董子さまという方は二代伯爵の長女で、先祖伝来の地を買い戻し、英国のマナーハウスをモデルにこの屋敷を建てた人だそうだ。

 里桜は皆の要望に応えて、再び髪をかきあげておでこを出した。一頻り『似てる』コールがわいて、少し嬉しくなる。この場所にいてもいい理由が増えたのはとても助かる。

 しかし横の顕彦をふと見遣ると、彼はあまり楽しげには見えなかった。あまり気に入られてないらしい。

「あら。もうこんな時間。ではわたしは帰ります。」

 渥美邑子が慌ただしく立ち上がった。

 見送って玄関までついていった里桜に、邑子は困った事があったら事務所ではなく携帯に連絡しなさい、と耳打ちした。仕事上でなく本心から心配してくれているようだった。

 ありがとうございます、と頭を下げながら里桜はちょっと胸がじんとなる。

 邑子は他にも何か言いかけたようだったが、結局やめて、にっこりと笑った。

「元気でね。お屋敷は気に入った?」

「はい。ご飯も美味しそうだし、みんな感じよくしてくれるし。」

 邑子の逡巡に気づかないふりをして、里桜は笑って見送った。


 その晩里桜は未紅にメールを出した。

 ―――未紅ちゃん。里桜です。今日お屋敷に着きました。

 あまり心配させないよう、自分は元気でご飯が美味しい、と送信する。

 未紅には親切な親戚が見つかって、借金を払ってもらうかわりにお屋敷で用をすることになった、と伝えてある。結婚するとは言っていなかった。今日まで里桜自身が半信半疑だったせいもある。

 だが夕食の前に顕彦は、使用人を呼び集めて里桜を妻だと紹介した。

 この屋敷に勤める者は全部で七人だった。全員住みこみである。

 執事の唐沢憲司は五十八才で、顕彦が子供の頃は養育係も兼ねていたという。今も病身の顕彦の看護は主に彼がしている。

 実際に三人のメイドを束ねて家事を取り仕切っているのは、澤木波江七十二才である。顕彦の祖父の代からいる人だそうだ。

 シェフの鈴木浩介と妻の陽子は四十九才。その娘明日香は二十三才。彼らは明日香が生まれる前からここに勤めていて、陽子と明日香は澤木波江の下で働いている。

 もう一人のメイド金井由美五十五才は波江の姪で、二十六年前に夫を亡くし息子を連れてこの屋敷に来た。ちょうど顕彦が生まれた頃で、人手が必要だったらしい。息子の金井佑樹三十才は鈴木の下でシェフをしている。

 使用人というより、ひと塊の家族のようなものである。

 緊張して言葉が出なくなってしまった里桜を、あの不思議な色の瞳で見透かすように顕彦は曖昧な微笑を浮かべた。壁に寄りかかって腕組みをし、彼女が一人一人と挨拶を交わすさまをじっと見ていた。そして最後に里桜、と呼び捨てで名前を呼んだ。

 今ベッドの中で思い返すとちょっと悔しい。何が悔しいのかよく判らないのが余計に悔しい。しかし里桜は無駄な感情は消すことにした。

 実際に里桜は、無知で世間知らずな小娘にすぎない。小馬鹿にされているのだとしても仕方がないし、第一そんな事には慣れ切っているはずだった。憐憫や同情には必ず背中に侮蔑が張りついているものだ。

 明日は土曜日で、夜には須藤夫妻が来る予定になっていた。

 顕彦の両親は事故で数年前に亡くなっている。父の妹である須藤寧子は唯一の近い肉親であり、親代わりなのだと夕食の席で顕彦は言っていた。

「家族内でのお披露目だと思ってくれればいい。気張ることはないよ。」

 廣一朗も同じように言った。

 しかし唐沢はそうは考えていないようだった。須藤夫人は部屋にも料理にも煩い人らしい。高級ホテル並のサービスができなければいけないみたいだった。

 里桜は自分の立場を、どちらかというと唐沢たちに近いのではないかと感じている。

 渥美邑子も里桜の微妙な立場をよく理解してくれているらしくて、あらかじめ須藤家との顔合わせの晩餐会には、訪問着を着るように助言しておいてくれた。淡い藤色の綸子地に花が咲き乱れて金銀刺繍も入った豪華なものである。

 澤木波江に相談したところ、着付けしてくれるというので、就寝前に部屋に来てもらってタンスの中身を全部見てもらった。

 波江は静かでゆったりと話す温和な老女で、須藤寧子のことを寧子お嬢様、顕彦のことを顕彦坊ちゃま、と呼ぶ。ちなみに里桜のことは奥様ではなく、名で呼んで欲しいと里桜から皆に伝えた。

「小物や半襟などはお納戸の衣装部屋にたくさんございますから、明日お合わせいたしましょう。里桜さまはきっと古風な感じがお似合いだと思いますよ。お顔が小さいので、お人形みたいに可愛らしく仕上がるでしょうね。」

「よろしくお願いしますね。」

 入浴してお姫様ベッドにもぐりこんだ時は、もう十一時になろうとしていた。思った以上に疲れていたのか、里桜はあっという間に眠りに落ちた。

 夢うつつに誰かが呼んでいる声が聞こえて、ぼんやりと返事をする。母の笑い声だったような気がした。

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