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CHAPTER 17

 顕彦はそれから約一ヶ月半余りも半分意識のない状態が続いていた。

 いきなり高熱を発し、三日ばかり譫言(うわごと)を言い続けるかと思うと、その後一週間くらいは微熱の半覚醒状態といった具合が繰り返される。食事もちゃんと摂れないので、毎日点滴を打つような有様だった。

 傍らについている唐沢にも、小四郎なのか顕彦なのかははっきりとは解らなかった。ただ日増しに顕彦の意識が多くなっているようにも思える。

 やがて熱は日を追うごとに下がり、徐々に意識の明瞭な時間も増えていった。

 初めて目の焦点がきちんと合って唐沢の名前を呼んだ時には、既に暦は九月に変わっていた。山間部にある鷹森邸では、そろそろ秋の気配が色濃くなり始めた頃だ。

「唐沢‥。里桜は‥‥どこにいるの?」

 食事の介添えをしていた唐沢に、不意に顕彦は訊ねた。

 唐沢はまじまじと顕彦を見つめ、意識がはっきりしている様子を確かめた。

「顕彦さま‥でよろしいですか?」

「ん‥。ずいぶん長いこと、夢を見ていた感じだよ。やっと躰に感覚が戻った。」

「小四郎さまは‥?」

「今は完全に眠ってる。だいぶ混じり合ってたからね、僕から抜けるのに苦労していたみたいだけど。」

「では、ご記憶はおありなのですか。」

 顕彦は苦笑した。

「ああ‥。寝こむ前までのはね。今日は何日? あれからどれくらい経ったんだろう。‥‥それよりも里桜は? ここ数日の記憶はうっすらあるけど、里桜の顔を見ていない気がするんだ。」

 食事はもういい、と手振りで伝えて、顕彦は唐沢を見上げた。

「今日は九月の三日でございます。里桜さまは‥‥。そのう‥出てゆかれました。」

「出ていった?」

「はい。呪いが解けたので、もうご自分のする事は何もないからと仰られまして。皆でできる限りお引き留めしたのですが‥。ひと月ほど前になります。」

「そうか‥。」

 顕彦は俯いて黙りこんだ。

「あの。連れ戻してこいと仰っていただければ、明日にも探しに参りますが‥。」

「いや。いいよ。必要ない。」

「‥‥ほんとうによろしいのですか?」

 顕彦は小さくうなずいて、再び躰を横たえ、背を向ける。

 唐沢は溜息をつき、食事のワゴンを片づけるために部屋を出ていった。

 横たわったままぼんやりと窓の方を向いた。薔薇はもうなかった。代わりに桔梗や小菊など秋の草花が溢れるほど飾ってある。

 ゆっくりと立ち上がってみる。

 多少ふらつきはするが、気分はそれほど悪くなかった。ここ数年感じたことのない、爽やかな感覚だ。躰がとても軽い。確かに呪いが消えたのだ、としみじみ実感する。

 歩いていって窓を開け、風を吸いこんでみた。

 清々しい初秋の香り。寝こんで夢うつつを彷徨っているうちに、短い夏は終わってしまったのか。そして里桜も出ていってしまった。

「はは‥。まったく、最低だな。」

 顕彦は自嘲気味に呟いた。

 あのお人好しの里桜にまで愛想をつかされるなんて。まあ、自業自得というものだろう。

 仕方がないさ、と胸に言い聞かせた。全く予期しなかったわけではない。彼女の気持ちは多分に、この屋敷に棲みついていたたくさんのモノに影響されたせいだったのだ。呪いが解ければ消えるかもしれないとどこかで思っていた。

 でもまさか、寝こんでいる間に出ていかれるとは。礼の言葉の一つさえ言わせてくれないつもりなのか。ずいぶんと嫌われたものだ。顕彦は自分で自分を嘲笑った。

 窓の外では夕日が鮮やかに山の端を染めている。稜線が影を帯びて夜の気配を漂わせる。境界の曖昧な光のコントラストが世界を優しく覆っていく。

 とりあえず綺麗なものを綺麗だと思えるのは健康な証拠なのだろう。物心ついて以来、ずっと想い続けていた願いが叶ったのだ。考えるべきはこれから先―――明日より遠い未来のことだ。


 顕彦の意識が戻ったとの唐沢からの連絡を、廣一朗は自宅マンションで受けた。

「目覚めた‥? それはつまり、顕彦が戻ってきたと思っていいの?」

「はい。完全に顕彦さまです。坊ちゃまご自身がはっきりとそう仰いました。」

「そうか‥。それは良かった、ひと安心だな。唐沢もご苦労だったね。有難う。」

 胸にこみ上げるものを感じて、廣一朗はほっと息をついた。

 受話器の向こうの唐沢もはい、と嬉しそうな声を出す。しかしすぐに声を低めて、付け加えた。

「それで‥廣一朗さま、例の件ですが。坊ちゃまにお話した方が良いのかどうか‥。どう思われますか?」

「うん。顕彦には僕から話すよ。来週早々にはそちらへ行くから、もう少しだけ黙っていてくれないか。」

「解りました。廣一朗さまには何かとご面倒をおかけしておりますが、どうかよろしくお願い致します。」

 唐沢の真摯な声に廣一朗は苦笑した。

「礼を言うのはこっちだよ、唐沢。顕彦を頼むね。」

 電話を切った後、廣一朗は棚からスコッチを出して、顕彦が無事戻った事に一人で乾杯した。

 鏡を見ると目は充血して、憔悴した頬に無精髭が伸びている。

 ここ数日、事務所には出勤していなかった。部屋に籠もったきりで昼夜なく、収集した資料の照合作業に追われていた。唐沢の口にした『例の件』に関してである。

 顕彦が寝こんだ当初、鷹森邸には見舞いと称してぽつぽつと親族の訪問があった。

 彼らのほとんどは、勝手に寝室を覗きこんでは顕彦が本格的に発狂したと思いこみ、ほくそ笑んで帰っていくような手合いだった。

 まあその程度なら、胸糞悪いには違いないけれども後に塩でも撒いてやればすむ話だ。ところが時に笑い事ではすまない変事が起きる場合があった。

「こんな事を廣一朗さまに申し上げるのはどうかと思うのですが‥。」

 最初に電話で連絡を受けたのは八月の盂蘭盆の頃だ。

 言いにくそうに言葉を濁した唐沢に、いいから言えと廣一朗は強く促した。

「一昨日の午後ですが‥。坊ちゃまの点滴の壜がすり替えられておりました。幸い、すぐ気づいて外しましたし、医師に来てもらいましたので大事には至りませんでしたが‥。栄養剤のはずが筋弛緩剤に変わっていました。」

 廣一朗は驚いた。

「え? そりゃ、殺人未遂じゃないか。警察には連絡したのか?」

「いいえ。とりあえず厳重に保管しております。」

 唐沢の声音から想像して、暗澹たる気分になった。

「‥‥誰がやったのか解ってるんだね?」

「心あたりがあるとしても、わたしの口からは‥申しかねます。」

 廣一朗は呻いた。

 唐沢が警察に連絡しないのは、犯人がはっきり解っているからだろう。そして彼はその人物を摘発したくないのだ。そんな人間は―――限られている。

「いいかい。見舞いは全部シャットアウトだ。警備会社に外回りの警備を強化させておいて。証拠になるものは迂闊に触らないで、保管してくれ。場合によっては刑事告訴も辞さないつもりだから。」

 唐沢は悄然とした声で、吐息をついた。

「わたしがつい、顕彦さまはもう亡くなられる心配はないと漏らしてしまったばっかりに‥。申し訳ありません。」

「唐沢が喜ぶのは当然だよ。死なないなら殺そうと考える人間がおかしいんだ、そうだろ? ‥‥大丈夫、それほど長くならないうちに決着をつけるさ。」

 唐沢を励まして、その時は電話を切った。

 だがそれからも何度か報告があった。

 農薬入りのチョコレート、毒針を仕込んだ花束。安手のミステリドラマじゃあるまいし、幼稚で馬鹿げた行為だ。でも紛れもない―――犯罪行為。

 廣一朗は親族じゅうに、顕彦は危篤状態でひと月と保たないだろうとの風聞を流した。手を出すまでもないと思わせるためだ。おかげで馬鹿げたミステリは止んだ。

 証拠は押さえてある。裏付けも取った。いつでも告発できる状況だ。

 後は顕彦に判断を委ねるしかないな、と廣一朗は思った。唐沢の知らないもう一つの件も含めて。

 スコッチをグラスの中でゆったりと転がした。ゆらゆらと揺れる琥珀色は顕彦の瞳を思わせる。

 廣一朗はふと里桜の事を想った。

 里桜はあれからあの焼け地に薔薇の苗を植え始めて、終わると後の世話を庭師に頼み、さっさと荷物を纏めたそうだった。

 せめて顕彦の熱が下がって、会話ができるようになるまではいて欲しいと唐沢が頼んだが、里桜はいつものように明るくさばさばと笑って首を振った。

「呪いが消えたんだから、あたしがここにいる理由はもうないの。最初からそういう話になってたのよ。皆さんにはお世話になりました。ここのお屋敷のことは忘れません。じゃあ、お元気で。さようなら。」

 そう言うと、結婚指輪とサイン済みの離婚届を置いて、ごく僅かな身の回りのものだけを持って笑顔で出ていったそうだ。

 出ていくまでの数日間、二度と顔を見せないと小四郎にした約束を律儀に守って、里桜は顕彦の寝室には近づこうとはしなかったらしい。彼女がどんな気持でいたのかを考えると胸が痛い。出ていくからにはよほど辛かったのだろうな、と廣一朗は思う。

 先ほどの電話では、目覚めた顕彦はまず初めに里桜はどこかと尋ねたそうだ。だが出ていったと聞かされても大して驚かなかったと言う。予期していたのかもしれない。記憶はあると言うのだから、自分が里桜にどんな仕打ちをしたか、十分に理解しているのだろう。

 里桜は未紅のところにいる。

 電話では元気な声を出して、廣一朗にごめんなさいと謝っていた。

 謝らなければいけないのはこっちの方だ、と告げると、からからと笑った。つられてつい、笑ってしまった。

 一度様子を伺いに行こうと思っているが、忙しくてなかなか行けないままでいる。

 里桜が命がけで守った生命を、万が一失わせるような羽目になっていたら、廣一朗は里桜に合わせる顔がないところだった。

 鷹森の『呪い』はまだ終わっていない。今度は自分が祓わなければならない。顕彦のためだけでなく、自分のためにも。


 九月の第三月曜の祝日。急に渥美邑子に呼び出されて、廣一朗は昼下がりの街に出かけた。

 邑子が休日に呼び出すなんて学生時代以来のことだ。最近は落ちこむことばかり続いている中で、何となく気持が弾む。街路樹が風にそよいでいる。

 見るともなく眺めて歩くうちに、知り合ったばかりの頃、酔ったはずみでキスしようとして張り倒された事をいきなり思い出した。思わず苦笑いがこぼれる。あの時は二人とも二十才だった。

 思いっきり軽蔑をこめた目つきで邑子は言った。

「何様のつもり? あなたにキスされたら誰でも喜ぶと思ってるんでしょ? 」

 そんなつもりじゃない、すごく綺麗だったから、としどろもどろな返事をしたら、邑子はますます冷ややかな顔になった。

「誠実さのかけらもない答えね。ばっかじゃないの。‥いい、そこの坊ちゃん。キス一つでもね、欲しいなら相応の努力をするべきなの。隣に座ってたくらいで簡単に手に入るなんて、金輪際思わないことね。」

 正直なところ拒絶されたのは初めてだった廣一朗は、邑子の迫力に押されて、素直にはい、と返事したのだった。周りにいた友人たちは小気味よさげに笑い転げていた。

 彼女はあの頃とまったく変わらない。誰よりも信頼できる友人だ。

 邑子が指定した場所は最近女性に人気の創作懐石料理の店で、廣一朗が名前を告げると奥の離れみたいな座敷に通された。邑子は先に来て待っていた。

「君にしては珍しい場所だよね。静かでいいけど。」

 心なしか強ばった顔の邑子に、笑みを向けて廣一朗は話しかけた。

「まあね。ここは人払いして話するのにちょうどいいの。料亭なんかと違って、スポンサーがついてる店じゃないし。」

「人払い? 人払いが必要な話なの。」

「うん。わたしは必要ないけど、廣くんには必要かもしれないから。」

「なんだ‥。仕事の話か。がっかりだな、デートの誘いだと思ったのに。」

「ふふ。変わらないわねえ、ほんと。考えてみたら長いつき合いだけど、あなたの本音って未だに掴めない。性格が合わないんだわね、きっと。‥何、飲む?」

 苦笑しながら邑子は、メニューを広げた。

「お料理はランチ懐石のコースでいいかな。結構美味しいのよ。女性向けで軽めだから、他に一品二品頼んだ方がいいわよね? こっちのメニューからお好きなものを選んで。」

 いつもと違う雰囲気に妙に不安になる。しかし廣一朗は気づかないふりをして、言われるままにメニューを選んだ。

 食事は普段通りにあたりさわりのない会話で進んだ。

 新聞を賑わす旬の時事問題に短い鋭い批評を加えたかと思うと、上映中の映画やお気に入りのアーティストの新曲については無邪気に熱く語る。彼女の話は楽しい。他人を飽きさせない、うんざりさせないバランスが絶妙だ。

 本音を言葉にしないのはお互いさまなのに。言わなくても解っていると思うのは錯覚なのか。ワイン一杯で酔うはずもないのだけれど。

「‥‥ところで。突然だけどわたし、今月一杯で辞めさせてもらうわ。これ辞表ね。」

 いきなり目の前に封筒が差し出される。指先で軽く触れながら、廣一朗は問い返した。

「理由は何? 引き抜きなの?」

「いいえ。そこに書いた事由は、一身上の都合。町弁になろうかと思ってるのよ。学生時代の初心に戻ってね、女性の権利を守るような活動をしたいなって。」

「なるほど‥って言いたいけど、それにしちゃ唐突だよね。ほんとは何?」

 上目遣いに見遣ると、邑子は冷ややかな表情で横を向いていた。

「‥‥須藤に愛想がつきたと言えば解る? 廣くんには悪いけど、わたしはもうやってられないわ。」

「例の件なら、ここ数日中に決着をつける予定なんだ。いろいろあって遅くなっちゃったけど、筋は通すつも‥‥」

 廣一朗の言葉を遮って、邑子は鋭く叫んだ。

「そんなのはどうでもいいわよ! 須藤と鷹森の間で示談でも何でもまとめりゃいいでしょ。たかだか年間数億円、どうせ鷹森家はびくともしないんだから。わたしが言うのは吉野里桜の件です。」

「里桜ちゃんの件って‥。彼女が鷹森を出ていった話?」

 邑子は呆れ返った表情で、廣一朗を振り返った。

「よく平気で言えるわね? 鷹森はいったい里桜ちゃんに何をさせたかったの? ねえ、廣くん。答えてよ。わたしは山辺事務所で確かに、吉野里桜が鷹森顕彦との婚姻届に署名したのを確認したのよ。なのになぜ、その届は出されていないの? 身寄りのない未成年の女性を結婚詐欺にかけて、何をさせたのよ? なんでわたしはそんな事の片棒を担がされたの?」

「え‥。入籍してない?」

「とぼけないでよ。わたしは頭にきて山辺に掛け合ったのよ。これは犯罪ですよって。そしたら山辺は何て言ったと思う? 吉野里桜は婚姻届の提出時期については鷹森顕彦に一任するという念書にサインしてるから詐欺じゃないんですって。では顕彦さんの指示なのねって聞いたら、肯いたわ。鷹森顕彦氏はその件に関して山辺の判断に従うという委任状を山辺に与えているの。ちゃんと実印が押されていたわよ。」

 廣一朗は目眩がしそうだった。実印? 横領の捏造書類には実印は流用されていなかった。ということは顕彦の意志なのか?

「ちょっと待ってくれ。ほんとに僕は承知してないんだ。」

 邑子は大きな吐息をついた。

「そうよね。廣くんは知らないのかもね。でもわたしはもう、須藤も鷹森もごめんだわ。里桜ちゃんのような子を平気で踏みつけにする手伝いは嫌。わたし‥‥つくづく情けなくなっちゃって。自分は何をしているのだろうって、こんな事するために弁護士になったんじゃないのにって思ったらたまらなくなったの。」

 返す言葉がなかった。

「顕彦さんは病気が完治したそうね。里桜ちゃんのおかげなんでしょう。骨髄移植でもしてもらったの? とにかく不要になったらぽいってわけね、酷い話! 顕彦さんに会ったら伝えてちょうだい。全快おめでとうございますって。それから安心してって。里桜ちゃんは鷹森を訴える気は全くないそうよ。とても幸せな二ヶ月だったから、訴えるなんてとんでもない。そう言っていたわ。」

「彼女に会ったの‥?」

 邑子の冷ややかな視線がより一層冷たくなる。

「未紅ちゃんにこっそり相談を受けたのよ。母子家庭の生活保護制度はどこに聞きにいけばいいのかって。それから健康保険のことも。‥‥吉野里桜は妊娠二ヶ月なの。」

「‥顕彦の子供か。」

「違うとでも? まさか廣くんのじゃないでしょ?」

 違う、と否定しながら、腹の底に怒りと不安が渦を巻いて沸き立ってくる。

「でも‥。僕の子供という事にしてもらった方がいいかもしれないな。山辺には言ってないんだよね?」

「何よ、それ? 里桜ちゃんを馬鹿にしてるの?」

 廣一朗は邑子の非難のまなざしを避けながら、首を振る。何でこんな事になるのだろう。

「‥‥誰にも言わないで欲しいんだけど。実はね。この夏、顕彦は何度か殺されかけたんだよ。お腹に顕彦の子供がいるとなれば、里桜の身も危ない。」

 絶句している邑子の顔をとても見られなくて、廣一朗は俯いた。

「必ず今月中には、一連の馬鹿げた事を全部終わらせるよ。顕彦のバカにも責任を取らせる。約束するよ。‥‥それから、この辞表はもらっていくね。君が愛想をつかすのはもっともだと思うから。今まで、有難う。」

 俯いたまま立ち上がった廣一朗の背中に、邑子がぽつりと呼びかけた。

「廣くん。わたしはね‥あなたが一人で闘ってるみたいに見えたから、手伝いたかったの。でも、ごめんね。もう‥‥限界みたい。わたしはわたしの場所を探すわ。」

 うん。微かに肯いたものの、笑顔は向けられなかった。

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