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CHAPTER 16

 里桜が北西の森、真朱(まそほ)の沼に着いた時、ちょうど太陽は真上にあった。気温はかなり高くなっているのに、焼け地の周りだけは大気もひんやりとしている。結界は破れたままで、真っ黒な穴がぱっくり口を開けていた。

「ちょっと‥! 蛇! 話があるから、出てきなさい‥!」

 近づきすぎないように用心しながら、里桜は叫んだ。

 紅いモノがぎらりと光ったと思うまもなく、するするっと瑠璃色の蛇は躰をくねらせて現れた。

 ―――ふん。おまえの方から来るとはちょうど良い。喰ろうてやるゆえ、首を差し出せ。

 頭の中に不気味な声が、大音量でガンガン響く。里桜は足が震えそうになったがぐっとこらえた。こんなのはただの脅しだ。

 見上げると紅い眼の周りがただれている。今朝投げつけた塩のせいか、と気づく。

 里桜はお腹に力を入れて、勇気を奮い起こした。

「話があるって言ってるでしょ? あんたがお腹の中に隠してるものについて、訊きたいのよ。」

 ―――我は何も隠してなどおらぬぞ。

「ふふん、だ。とぼけたって駄目。あんたが胡蝶さんを誑かしたんでしょ? 他人(ひと)の悲しみに付けこんで、まったく最低なヤツね。何が狙いなの? いったい何が欲しかったの? 意地悪がしたかっただけとか言うんじゃないでしょうね?」

 蛇はせせら嗤った。

 ―――我が胡蝶に取りこまれたのだ。躰も名も失い、妖力のみの存在に成り果てて我は胡蝶の中で時を待った。人間の方が遙かに浅ましく、貪欲で愚かな存在(モノ)なのだぞ。我はただ在り続けることを望んだのみ。おまえはそれを否定するのか?

「話をすりかえるつもり? ほんとうに存在するだけで満足できるなら、とっくにその辺の木や花になっててもいいじゃないの。」

 ―――我は胡蝶の術に縛られておるのだ。あくまでも術の中でしか動けぬ。我が仕組んだ術であれば、とうに我らは復活しておる。胡蝶があの男の魂に拘るゆえ、斯様に永い永い時を掛けねばならなんだ。

 里桜はふうん、と考えこんだ。

 つまり蛇は胡蝶に負けたのか。妖術に関しては胡蝶の方が優れていたということだ。

 野依の記憶の中で小野荘助は『お方さまが狂乱すれば国が滅びる』と言っていた。でも胡蝶は狂ってしまっても国を滅ぼそうとはしなかった。彼女が欲しかったのは小四郎の愛情だけだったからだ。

 里桜は溜息をつく。それなら最初から最後まで胡蝶の手の中にあったのに。なぜこんな事になってしまったのだろう?

 はっと気づいた時は遅かった。蛇の牙が里桜の頭を噛み砕こうと迫っていた。身をよじって遁れたものの、左の肩に激痛が走る。

 里桜は籠に手を突っ込み、薔薇を投げつけた。

 ―――ちっ。もう少しだったのに。

「あ‥あんたの目的って何? 解放されること? 違うでしょ、そんな謙虚な感じじゃないもんね。」

 蛇は口元から里桜の血を垂らしながら、紅い眼をぎらぎらさせて嗤った。

 ―――胡蝶には恋しい男の魂をやる。我はその躰と名を貰い受ける。初めからそう約定しておる。おまえも我に従うならば、生かしてやっても良いのだが?

「はああ‥? なんですって‥!」

 里桜の驚愕した顔が面白かったらしく、蛇は蛇のくせに哄笑した。

 ―――鷹森家に権力をもたらしてきたのは誰あろう、我なのだぞ。百年に一度の贄だけで、ここまで守ってやったのだ。おまえも鷹森一族であれば守り神である我を崇めるがよい。

「神‥! 寝ぼけてんじゃないの、あんた。」

 ―――何とでも言え。神が降りてきて、人として一族を率いてやろうというのだ。感謝すべきであるものを。浅はかな小娘だ。鷹森はなおいっそう、栄えるであろう。

「人間よりずっと貪欲じゃないの。嘘つき‥! 結局あんたは胡蝶さんの気持を利用して、小四郎さんを乗っ取ろうとしてたのね?」

 ―――あの男。胡蝶の死後我が社を焼き、沼を埋めおった。うすうす何かに気づいていたのかもしれぬ。魂になって後も永く転生を拒み続けておったが‥。無駄な事よ。いずれにせよ、胡蝶との誓いに縛られて、七つめの玉に引き寄せられる定めであったのだ。

「ふん、そんなに偉そうに言うなら、なんで七百年もかかったのよ? ほんとはギリギリなんでしょ。余裕なんかないくせに。」

 ―――おまえ。やはり生かしてはおけぬの。勘が良すぎる。その通り、我は未だ胡蝶の術の中にあるのだ。おまえを殺せば胡蝶は喜んで、一層我の力となるであろう。

 蛇は再び躰をしならせ、里桜に襲いかかった。

「きゃっ。」

 里桜は薔薇を投げつけたが、蛇が躱したので薔薇は沼に落ちていった。

 左の腕を庇いながら、里桜は走って薔薇の花を次々と投げつけていく。薄ら笑いを浮かべる蛇の周りに薔薇はどんどん落ちていった。

 ―――どうした? 花はもうないぞ。おまえも血を零しすぎているようだな。人間の躰ではそろそろ立ってもいられまい。

 はあはあ、と息は上がっている。肩はずきずきして痛い。薔薇の花はもう尽きた。

 里桜は蛇のいる沼を縋るように凝視めた。お願い、考えた通りならば。

 ―――最後に言い残す事はないか? おまえの恋しい男に伝えてやるぞ。

「お生憎さま。あたしは‥‥言いたい事は‥自分で言うわ‥。そこから出て来られないくせに‥!」

 蛇は勝ち誇ったように嗤った。

 まるで人間みたいな表情だ、と里桜は思う。

 ―――出られぬと思うているのか? 愚かな事よ‥!

 青い縄がのたうつように蛇は躰を翻し、勢いよく黒い穴から飛び出してきた。

 里桜は頭を抱えて蹲り、蛇の襲撃を再び左腕で受けた。血が迸り、蛇の顔にかかる。痛みをこらえ、ポケットから取り出した塩を右手に握って、ぱっくり開いた蛇の口の中にぎゅうっと押しこんだ。

 ―――ぎゃああああ‥!

 蛇が叫んで飛び退いた。口の中から青い液体を吐き散らして苦しんでいる。顔の、里桜の血がかかった部分は赤くただれて、膿み崩れていく。

 蛇は慌てて穴に戻ろうとしたが、尾の部分から躰が乾燥し始め、思うように動けない。

「戻れないわよ‥‥。あんたの沼を見てごらん‥。」

 沼は黒い薔薇で埋まっていた。血も泥も総て薔薇が吸いこんでしまったかのように、ただの穴に変わってしまっている。

 ―――その花は何だ‥? おまえの力は、いったい‥。

「この薔薇はね‥誰かを大切に想う心が育てた花。結局は‥命があるモノが強いのよ‥。あんたは生き物じゃないから‥弱いの。永い間、ずうっと儚い夢を見てただけなんだよ‥。なんで解らないんだろ?」

 蛇の躰は尾から乾燥し始め、ひび割れて、ぼろぼろの土塊に戻っていく。

 ―――おのれぇ‥‥。

「夢で見たの‥その躰はあの沼に浸ってないと保たないんでしょ? 泣いてたよね‥だからほんとうの躰が欲しかったんだね? 今、解放してあげるから‥。今度は綺麗なものに生まれ変わっておいで。」

 ―――ああ‥。

 最後に吐息を残して、蛇の気配はすうっと消えていった。

 ふらつきながら里桜は、土塊に戻った蛇の躰に近づく。そして手で土をかき分け始めた。

「あったぁ‥!」

 探しものはすぐに見つかった。

 赤い七つの玉、懐剣と手鏡。どれもたった今買ってきたばかりみたいに、うっすらと光沢を帯びて輝いている。とても七百年前のものとは思えない。

 里桜はあたりを見回して、薔薇の入っていた籠に目を留めた。傷つけないように屋敷に持ち帰って、それから―――どうする? 小四郎に渡せば何とかしてくれるだろう。

 籠に玉を一つ一つ、落とさないように入れていく。左手が使えないので、落としそうで怖い。ゆっくり、ゆっくり。大切に。この中にご先祖さまの魂が入っているのかもしれないのだから。

 作業に集中するあまり、里桜は頭上の黒雲がまだ残っている事に気づかなかった。

 黒雲は渦を巻き、次第に空を覆ってあたりは真っ暗になった。里桜が顔を上げた時、稲妻が轟いて、胡蝶の手鏡を真二つに割った。

 思わず尻餅をついてひっくり返った。手にした七つめの玉は懐に抱えこんで何とか死守する。割れた鏡が血の色に煌めいて、里桜は眩しさに目を覆った。

 おずおずと顔を上げると、目の前に怒りに震えた胡蝶が立ちつくしていた。

「あ‥。」

「おまえ‥。どこまでも妾の邪魔を‥! もう少しであったのに‥。殿を我が手に取り戻せたものを。」

 胡蝶の瞳は蛇と同じ紅い色に変わっていた。よく見ると手の先、着物の裾が、石膏みたいに固くひび割れ始めている。

 慌てて手鏡を目で探すと、割れた手鏡は一瞬のうちに時を経て、ぼろぼろに腐食して崩れてしまっていた。

 それほど同化してしまっていたのか。里桜は暗澹(あんたん)たる想いに胸を塞がれた。

 蛇のやけに人間じみた思考、表情。胡蝶はほんとうは誰よりも慈悲深い人だった。なのに野依を切り刻んだ。そんな事柄が里桜の頭の中でパズルのピースみたいに転がり続ける。

 たまらずに叫んだ。

「ばか! 蛇なんかに頼って‥! あなたは初めから何も失ってなんかなかったのよ! 今だって何も、取り戻す必要なんてないんだから‥。」

「妾に意見するつもりか‥。永い時を超えたというに、なにゆえ、おまえは未だ妾の前に立ち塞がるのだ? それほど殿との絆が深いと申すのか‥‥。」

「そんなんじゃないよ‥。あたしは‥。」

 里桜は立ち上がって、そっと七つめの玉を籠に収めた。そして胡蝶に向き直る。

 胡蝶ははらはらと涙を落とし、憎しみに満ちた視線を乱れた黒髪の下から里桜に振り向けた。そろそろと屈みこみ、懐剣を手に拾い上げる。

「魂を贄に捧げてまで願をかけたというに‥。永い、永い時を耐えて‥耐え忍んで‥。今少しで成就するはずであったのに‥‥。」

 鷹森の紋の入った懐剣を両手で抱き、泣きながら悲しげに頬ずりを繰り返す。稲妻が黒々とした空を切り裂いて光る。

「何があろうとおまえだけは許さぬ‥! 命を以て(あがな)うて貰うゆえ、覚悟するがよい!」

 胡蝶は鞘を抜き払って、足下に放り投げた。

 逃げなくちゃ、と思っているのに里桜は足が動かなかった。

 頭の中に胡蝶の悲憤と憎悪が流れこんでくる。絶望が漆黒の闇のように胸を満たしていく。目眩がして、立っていられない。身体の震えが止まらない。

 蹲って眼を瞑った里桜の上で、胡蝶が剣を振りかざした。

「憎いおまえを、楽に死なせてやると思うのか?」

 胡蝶は真朱(まそほ)がつけた傷を手で押し広げるようにして里桜の肩を掴んだ。止まりかけていた血が、再びだらだらと流れ出す。

 里桜は痛みに耐えかねて悲鳴をあげ、鮮血が胡蝶の指を染めた。

「ほほ‥。なんと小気味良い声じゃ。次はどこがよい? その白い頸かえ、腹がよいか。乳を切り刻もうかえ?」

 狂気を纏った凄艶な微笑が、冷たい刃の光と共に里桜に迫ってきた。

 悲しい、苦しい、恋しい―――身悶えするような叫びが胸を衝く。

 胡蝶の想いになぜ共鳴してしまうのだろう。愛された事がないから? ほんとうは自分を愛して欲しいと思っているから?

 そうじゃない。何か違う気がする。

 奥歯をぐっと噛みしめて、里桜は胡蝶に飛びつき、懐剣を握った手を掴んだ。

「あたしの‥躰をあげる。早く、あなた、崩れかけてる‥。ほら‥気がつかないの?」

「何を‥言っておる?」

 胡蝶の紅い瞳が不安げに揺らめいた。

「あたしじゃ、だめなんだよ‥。あなたじゃなきゃ‥。あたしの躰をあげるから‥ね、お願い、人の心を思い出してよ。優しい人だったって聞いたよ。七百年経っても‥生まれ変わって別人になっても‥あの人はあなたが好きなんだから‥。蛇のお腹の中なんかじゃなくて、これから先の時間で幸せにしてあげて‥。」

「‥‥妾にこれ以上近づくな‥! 触れるな、触れてはならぬ‥ああっ‥。」

 里桜の血に染まった胡蝶の手指がほろほろと崩れ始める。

 胡蝶は里桜の手を剣で振り払い、突き飛ばした。里桜の腕がまた切り裂かれて、血飛沫を胡蝶の全身に点々と飛ばす。白い顔に動揺が走る。

「胡蝶‥‥!」

「里桜‥‥!」

 小四郎が―――顕彦が走ってくるのが見えた。後ろから廣一朗が続いている。

「小四郎どの‥我が殿‥。」

 啜り泣くような声で呟いて、胡蝶は懐剣を放り投げ、身を翻して駈け寄っていく。

 ―――駄目‥。そんなに走っちゃ‥躰が崩れちゃうよ‥。ああ、ああ‥。

 里桜の叫びは声になったのかどうか解らなかった。

 里桜の目の前で、小四郎の目の前で、胡蝶の土塊の躰は足下からぼろぼろと崩れていって、最後に残った胸から上の部分だけが辛うじて小四郎に―――顕彦に辿りついた。

「胡蝶‥。」

 との、と唇が動いて、一瞬の後に胡蝶はひと塊の白い土になってしまった。

 頬笑んでいただろうか。せめて最後は笑っていてくれたら。里桜は切実に願った。

 腕の中に土塊を抱えて、小四郎は―――顕彦はさめざめと泣いていた。すまぬ、と声がしたような気がした。

 ああ。まただ。また、泣いている。七百年前と同じだ。

「ご‥ごめんなさい‥。助けようとしたの、ほんとうなの‥。あたし‥。」

 小四郎は―――顕彦は顔を伏せたまま、里桜の方を向かなかった。

 走り寄ってきた廣一朗は里桜の傍で片膝をつくと、助け起こして、血だらけの袖を引きちぎった。

「大丈夫。小四郎さんは解ってる‥。仕方ないんだ、どうしようもなかったんだよ。」

 自分のシャツを脱いで裂き、包帯代わりに血の流れている肩と腕にきつく巻きつける。

「何より‥里桜が無事で良かった。」

「だけど‥だけど、廣一朗さん。あたし、ほんとに‥。」

 優しい言葉にこらえきれず、涙を溢れさせた里桜を、廣一朗はふうわりと胸に抱き寄せて髪を撫でた。

「誰も彼もみんなじゅうを助けようとしたんだろ? もういいんだよ、君はよくやったんだ。鷹森の呪いは解けたんだ‥君が解いたんだよ。顕彦は死なないし、野依さんも成仏できる。珊瑚の玉に囚われていた魂もやっと解放されたんだ。」

 うっうっ、と洩れてしまう嗚咽が止められなかった。

 でも顕彦の顔で小四郎は泣いている。悲痛な表情で、静かに泣いている。代わりにあたしが消えればよかったのに。

 里桜のポケットから鏡付きの口紅入れが落ちた。鏡が粉々に割れていた。

 拾って掌に載せ、じっと見つめる。稲妻に目が眩んだあの時だ。里桜の身代わりになってくれたのだと今更ながら思う。

 立ち上がろうとしたが、なかなか立てなかった。立ち眩みがして、躰がふらつく。

「たくさん血が出たからだよ。ここらへんの血の痕は、全部君の血だろう?」

 腕を取って支えてくれながら、廣一朗はぐるっとあたりを見回した。

「この黒い薔薇は‥何?」

 里桜はここに来てからの事をかいつまんで説明した。

 胡蝶に躰を提供しようとした(くだり)に至ると、廣一朗は見た事がないほど険しい眼を向け、里桜を叱った。

「何て馬鹿な事を‥!」

「でもね‥。蛇の中にいたから残酷になっちゃったのなら、人間の躰に入れば元の優しい人に戻れるんじゃないかと思って‥。あんな美人の躰じゃないけど、でも‥。」

 里桜はちらりと泣いている小四郎を見遣った。胸がじんじんと痛い。

「誰も‥な、泣かないですむかもしれないって‥‥」

 廣一朗は里桜の言葉を遮った。

「僕が泣くよ。未紅ちゃんも、渥美くんも。唐沢だって、君を娘のように思ってるんだからきっと泣くよ。小四郎さんにしても喜ぶはずなんかないんだ。‥‥顕彦も。」

 きつく叱られて、里桜は彼を情けない表情で見上げた。

 彼の瞳は野依と話していた時に一瞬だけ見せたような、暗い寂しげな色を浮かべていた。

「いいか、里桜は里桜なんだ。誰も誰かに取って代わる事なんかできないんだよ。」

「うん‥。」

 うなだれた里桜の頭を、廣一朗はもう一度撫でた。

 見上げると黒雲は跡形もなく消えて、夏の明るい青空が輝いていた。

 焼け地は日射しに曝されて、禍々しさも失せ、ただの乾いた荒れ地に見える。死霊の影たちも術が解けて解放されたのだろうか。なんて寂しい、空虚な場所。

 ここにもたくさんの薔薇を植えてあげよう、と里桜は切なく思った。

 行き場のない霊が残っていたら生まれ変われるように。結局のところ、それくらいしかできる事なんてないのだから。里桜は強く心に決めた。


 幸い、出血の割に里桜の怪我はそれほど深くはなかった。

 鷹森邸の皆には、崖から落ちて怪我をしたと説明した。

 手当をしてくれた唐沢にはもちろん、事実を説明したが、おかげで里桜は再びこっぴどくお説教をくらう羽目になってしまった。

「唐沢。それくらいにしてやってよ。結局、里桜じゃなきゃ、呪いは解けなかったんだからさ。一人で行ったのは無謀だけどね。」

「確かに、里桜さまにはどれほど感謝してもしたりないくらいですが‥。無事だったのはただ運が良かっただけなのですよ。わたしは‥。」

 唐沢は言葉を詰まらせて、里桜の手をぎゅっと握った。

 ごめんなさい、と小声で謝り、里桜は俯いた。張りつめていた気持がぷつんと切れてしまったようで、元気が出なかった。

 屋敷へ戻ってくる途中で小四郎は、里桜を一度だけ振り向き、雑作をかけた、とぽつんと呟いた。金色の瞳は怒ってはいなかったけれど、暗く沈んでいた。

 思い出すたびに、里桜の胸の奥がしくしくと疼く。

 廣一朗の話では、小四郎は自らの手で呪いを解く決意を固めたそうだった。

 では余計な事をしたのだろうか、と言う里桜の問いに、廣一朗は首を振った。夢で董子が告げた通り、里桜だけに破呪の力が備わっていたのだそうだ。里桜に流れる野依の血が、唯一の武器だったという。真朱も胡蝶も、里桜の血を浴びて滅びたのは言ってみれば自業自得というものだと彼は答えた。

 その晩、里桜は野依の夢を見た。

 野依は幸せそうに頬笑んだまま、日溜まりの中へゆっくりと透けていく。言葉は聞こえなかったが、里桜に向けたまなざしには感謝がこもっていた。

 ―――こちらこそ。長い間、ほんとに有難う。また、生まれ変わって会えたらいいね。

 野依は微かにうなずいたように見えた。

 夢の中なのに里桜は泣いた。

 思わず、ママ、と口にしていた。母をもう一度失ったような気がして空っぽの胸が苦しい。考えてみればずうっと空っぽだったのに、目を背けていただけだったのだ。

 胸の中の空虚な感覚は、翌朝目が覚めても消えなかった。

 ずるずると重たい躰をひきずってテラスに出てみると、赤い七つの玉が皆朽ち果てていた。ぼうっと鈍い光のようなモノが滲みだしている。解放されたのだろうか。それならばいいのだけれど。

 薔薇園に行くと、野依の気配は消えていた。やはり昨夜の夢はお別れの挨拶だったらしい。四阿のベンチに腰を下ろして、ぼんやりと涼風を待つ。

 すると横に誰かが立った。着物姿の董子だった。

 ―――有難う。わたくしもこれでようやく逝く事ができます。

 ―――董子さま‥。お兄さんは取り戻せたの?

 ―――囚われていた魂は皆、ゆくべきところへ参りました。多少、歪められてしまいましたが、時が経てば健やかな魂に戻るでしょう。

 里桜は良かった、と呟いた。

 董子は初めて頬を緩め、里桜の髪を撫でた。手の温もりがはっきりと伝わってくる。そして不意に消えた。

 里桜は一人で残されていた。薔薇園にはもう、董子の想いは感じられなかった。ただ甘い香りだけが漂っている。

 ―――もう、あたしの役目は終わったんだ。

 つくづくとそう感じていた。

 翌日、廣一朗は電話で呼ばれて、慌ただしく東京へ帰っていった。

 午後になって小四郎は急に眠ってしまい、なかなか目を覚まさなかった。

 唐沢の話では、うつらうつらしながら、時には顕彦に戻ったような言動をすると言う。

「坊ちゃまが戻られるのかもしれません。半分眠った状態で、夢の中においでのような感じですけれども。」

 里桜はこっそりと顕彦の寝室を訪ねてみた。

 すうすうと子供のような寝息をたてて眠っている貌は、信じられないほど無防備であどけない。里桜は安心し、それと同時に呪いが解けた事を実感した。

 そっと手を探って指を絡めてみた。温かかった。

胸にどっと愛しさがこみあげてくる。

「大好き‥。元気でいてね。」

 指にキスして、静かに離した。そして部屋を出た。

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