CHAPTER 15
ああ痛い。眼が灼けついてひりひりする。
あの小娘―――!
まさか、結界を抜けて来ようとは。解らぬ、なにゆえあのような小娘に我らの結界を無効にする力があるのだ?
我らの術は鷹森の血を練りこんだもの。霊力があるからとて破る事はおろか、視る事すら適うまい。あの女が鷹森の血をひく巫女ならば視る事は可能でも、その血が呪術に反応して共に取りこまれるはず。我らには贄が一人増えるだけ、そのはずであるのに。
なにゆえ? しかもあの女はどうやら巫女ですらない。霊力があるとも作法を理解しておるようにも見えぬ。なのに我らに対し、破邪の気を持つ。ただの塩にすぎぬもので我の眼を灼いた。何者なのか?
蛇は腹の中で眠っている胡蝶の気を探った。
胡蝶は怒っている。もう少しで『誓い』が完成したものを邪魔された、と憤っている。そうだ、もう少しであの魂が手に入ったものを。さすれば我は復活し、力を取り戻す。
老化した蛇躰を捨て、胡蝶と同化して既に七百年。血泥と土塊より再生し、百年に一度ずつ脱皮を繰り返してやっとここまで来た。
なんと長かったことだろう。今度こそ、代替の魂ではなく真実の約束の魂を手に入れる。そしてこの仮の躰を捨てて、新たな躰を我がものとした時、妖力は総て戻るのだ。
胡蝶は望み通り、我の中で無間の刹那を漂えばよい。
胡蝶の言う『誓い』―――それは通常『呪詛』と呼ばれている。人間とは浅はかなものだ、好んで己を縛りたがる。誓い、約束、祈り。耳障りの良い言葉に置き換えても、所詮総て『呪』であるのに。
青い蛇はにんまりと嗤った。
名を捨て、躰を捨て、滅びゆく運命に抗うた甲斐があったというもの。百年に一度の贄と引き換えに育てた鷹森の家はまもなく我のものになろう。生命を吸い取り七つめの玉を手に入れたならば、空いた躰を貰い受けよう。その時こそ我は新たな名を持つ。永遠の命と共に。
「その大蛇は真朱という。古えには神であった。沼の畔には立派な宮があり、里人たちに大切に祀られていたと聞く。」
廣一朗の話を黙って聞いていた小四郎は、最後まで聞き終えると静かに語り始めた。
「一度だけ見えた事があるが、小山ほどの大きさで白い鱗を持ち、眼が紅い。真朱の名は眼の色より由来する。我の時代にはとうに宮は失せ、妖しに成り下がっておった。胡蝶は術を遣いすぎて身体を壊し、真朱の妖力を欲したのだ。真朱は引き換えに胡蝶の子の魂を望んだ。それゆえ胡蝶は子を産めぬ身体となった。我を守るため、民や家来を守るため。決して私欲ではなかった。誰より慈悲深い女子であった。」
金色の瞳は窓の向こうのどこか遠くを見ていた。
「瑠璃色の蛇と申したな。さすれば胡蝶は真朱に取りこまれたのか‥。あるいは己を贄として術を施したか‥。」
再び小四郎は沈黙した。下を向いて何かを考えこんでいるようだった。
心の葛藤と闘っているのだろうか。今は待つしかない。廣一朗はじっと見守った。
しかしつくづくと不思議な気分になる。目の前の男は確かに見慣れた従弟の姿をしているのに、相対している印象ははっきりと別人だ。顕彦には病院を変える度に異なる病名がついたものだが、今の様子を医者に診せたら間違いなく二重人格と診断されるに違いない。
この状態が一生続くとすれば、例え『呪い』は解けても顕彦は―――死んだのと同じだ。里桜の顔を思い浮かべて、廣一朗はひっそりと溜息をついた。
不意に小四郎が顔を上げた。
「一つ訊ねたい。この屋敷は我のいた城館の場所とほぼ同じであったな。」
「そうです。」
「だがおよそ百年前までは、鷹森の者はこの場所にいなかった。なのに百年ごとに呪われて死ぬ者が出た。相違ないか?」
「はい。六人の犠牲者はそれぞれ異なる地で生まれて死にました。一人もこの地に足を踏み入れた人はいません。」
「しかも鷹森の直系のみに現れる。ならば‥‥術は鷹森の血を使って施されたはず。」
「血、ですか?」
見返した顔は暗く、苦悩に満ちていた。
「うむ‥。我が母の集落にのみ伝わる秘術に、一族の末永い存続を願って次の長となる者の血を用いて行う祭祀がある。血族の者が絶えぬように祈るのだが‥。その術を逆手に取ったように思われる。さすれば斯様な術を遣える者は‥胡蝶しかおらぬ。」
「あの儀式の意味がお解りなのですね‥?」
「確とは解らぬ。恐らく手鏡が胡蝶の依代であるとしたそなたの推測は正しい。なれど、贄となった者が総て、この躰の主同様に我の転生だというのは腑に落ちぬ。およそ百年に一度という定まった時の隔てを鑑みれば、真朱の餌であろうと思う。」
「蛇のエサ‥? じゃあ、珊瑚の玉は? 数が合ってるんですよ?」
「玉に封じるは胡蝶の業。玉は魂に繋がり、贄として捧げられ、真朱の力により鷹森家は安寧を保つ。蛇を守り神につければ権力を得るというが、蛇もまた家の続く限り力を保つのだ。」
「『呪い』は結果として鷹森の繁栄のための生け贄を生み出してきたというのですか? そんな‥! 『呪い』の犠牲者が嫡子じゃないのもそういう理由?」
「いや‥。それは恐らく我が末子であったためであろう。胡蝶をして贄を玉に封じさせしむためには、我の転生であると欺かねばならぬゆえ。贄と定めた者に瞳の退色が現れるのも同じ理由であろうな。」
「‥‥酷い。」
「そなたの申す通り、胡蝶は我が魂の一部と共に眠るつもりなのであろうが‥。真朱の狙いは恐らくこの躰。我は知らぬが、この時代の鷹森はかなりの権力者と言えるのであろうか?」
「今は‥金が総ての時代ですから。鷹森家は日本でも五指に入る資産家です。権力が欲しいと思えばいくらでも。蛇の狙いは、鷹森家の当主ですか‥。」
「鷹森の懐剣に封じられるは胡蝶の望む我が魂であろうの。七つめの玉に封じられておるのは顕彦とやらに違いない。」
「封じられているって‥? もう、遅いってことですか。」
「少しずつ封じられていくのだ。完全に封じこめられた時、命を落とす。今までもそうであったとそなたが申したのではないか。」
怪訝な表情で小四郎は振り返った。
『呪い』の発動した時から少しずつ封じられていくのか、と遅まきながら気づく。
「じゃあ‥。時間がない。どうしたらいいんです? 蛇を倒さなきゃ。」
「‥‥その方法が思いつかぬ。鷹森の血を引く者が下手に近づけば、取りこまれるは必至。血を遣った呪術は血族では破れぬ。なれど、本体の周りに結界が張ってあるとすれば、血族以外では触れることも適わぬであろう。」
「そんなばかな‥! 里桜は取りこまれずに逃げ帰ってきましたよ。あの子は鷹森の血筋です。直系ではありませんが。」
「‥‥解らぬ。胡蝶の術は無欠に見ゆるが‥。どこぞに綻びがあったか‥。」
小四郎は再び沈黙した。
昨夜からろくに眠っていないらしく、眼が充血している。無理もない、と廣一朗は小さな溜息をついた。
いきなり現代に目覚めて慣れる暇もなく、次から次へと苦痛でしかない事実を突きつけられている。普通ならパニックになるところだろう。だが彼は冷静に対処しようとしていた。その強靱な精神力にはただ感心するしかない。
ちょうど唐沢が食事を運んできたのを機に、廣一朗は小四郎に声を掛けた。
「昼食ができたそうです。少し休憩してください。」
目と目が合って頬笑みかけると、小四郎は表情を和らげ、微かに微笑った。
「そなたを見ていると与次郎兄上を思い出す。常に穏やかで温かい方であった。」
「似ていますか?」
「うむ。まなざしが似ておる。‥もしや我のこの躰の主は、そなたにとっては弟に等しき者であったろうか?」
「まあ‥そうです。ほとんど一緒に育ったので。」
「そうか‥。すまぬ。あの女子の言うごとく、我らはこの時代に在るべきではない。そなたにも、唐沢とやらにも世話を掛けておる。」
「あなたのせいではありませんよ。それより‥僕の話を怒りもせず聞いて下さって、感謝しています。信じていただけなくても無理はないと考えていましたから。」
心からの感謝をこめて、再び微笑みかけた。
つと、小四郎の箸を持つ手が止まり、廣一朗の顔をつくづくと見返した。
「‥‥兄上に似ている。前にも誰かの事をそう思うた‥。」
「‥‥?」
小四郎は箸を置き、しばらくの間目を閉じていた。
やがて目を開けると、見守る廣一朗の方へ悲痛な顔を向けた。
「兄上に似ていたは我が子三郎であった。切れ切れではあるが‥憶えがある。さすれば我が胡蝶を裏切り、狂わせたのは紛れもない事であろうの。」
「それは‥。」
「中食の後、野依とやらのところへ同道してもらえぬか。確かめたき事があるゆえ。」
「解りました。」
廣一朗は何とか微笑を返し、食事を続けた。
惨い仕打ちをしているとは重々承知なのだが、状況はかなり絶望的で小四郎に一縷の望みを託すしかなかった。
しかしもしも為す術なく、顕彦の躰に蛇が入るような事態になったら。その時は顕彦の躰も殺さねばならないだろう。そんな事がはたして自分にできるのか? 苛立たしい気分にさせられる事が多いが、それでも顕彦は誰よりも可愛い―――従弟だ。この世で唯一愛おしい存在。そうだ、自分自身よりも。
廣一朗は里桜の気持が手に取るようによく解る。他人に期待しすぎた事はない、という点で里桜と廣一朗はよく似ている。幼い頃から家族の愛情に恵まれなかった点も。母親を愛する事で自分を肯定した里桜と同様に、廣一朗も多分、顕彦を可愛がる事で自分を愛したかったのかもしれない。
しかし今はそんな幼稚な感傷に浸っている場合ではない。万が一の時は顕彦の躰をこの手で消してしまわねばならない。
運命はどう回避しようとあがいても、そこへ辿りつこうとしているのだろうか。
廣一朗の手で顕彦を二度―――いや三度目の死に追いやる。それこそまさしく『呪い』だ。だがおぞましい蛇の力を遣って、歴史の轍を潜り抜けてきたのが鷹森家の本質なのであれば―――滅びは必定なのか?
薔薇園の四阿で里桜は考えこんでいた。
どうしたら囚われている魂たちを傷つけずに、瑠璃色の蛇をやっつけられるだろう。うかうか近づけば即、自分の身が危ない。素手であんな蛇をやっつけられるわけはないし、ゲームみたいに不思議な力を持つ勇者の剣もない。猟銃ならば屋敷内で見かけたけれど、もちろん里桜には撃てっこない。第一蛇の躰のどこに皆が囚われているのか解らないのに、傷つけて大丈夫なのかという大問題がある。
血の色みたいな赤い七つの玉。それから手鏡と懐剣。蛇だけやっつけてそれらは傷つけないものが何かないだろうか。
思わず溜息をついた時、後ろから話しかけられた。
「若奥さま。うかない顔だね。旦那さまのお具合がまた良くないって? ここんとこお元気そうだったのにねえ。ご心配なことだ。」
「ああ、上田園芸のおじさん。ん‥。ちょっとね。」
振り向いた里桜の返事に、老庭師は人の良さそうな顔を曇らせた。
「昔は元気すぎて困るほどの坊ちゃまだったが‥。早く良くなるといいがねえ。」
「ありがとね、おじさん。」
ふと見ると薔薇の花がたくさん籠に盛られている。今日の剪定分らしい。
里桜は蛇の鱗に薔薇で傷をつけたことを思い出した。
「ねえ、おじさん。今日の分はこれでお終い?」
「薔薇かね? あっちにあと二籠あるけど。いつも通りテラスへ運んどきますよ。」
「今日はあたしに全部くれないかな。ちょっと考えがあって。いつもと違う飾り方しようと思ってるの。」
「そりゃもちろん、かまわんですが。どこに置いときますかね?」
「カートに載せてここに置いといて。ね、お願い。」
両手を合わせて頼むと、庭師はにこにこと笑ってうなずいた。
里桜はそしていったん屋敷に戻り、服を動きやすいものに着替えた。少し暑いがハイネックの長袖Tシャツと足首までのスパッツ、運動靴。それからキッチンへ寄って粗塩を袋でもらってきた。戦闘準備はこんなものか? 再度考えてみて、化粧ポーチから鏡のついた口紅入れを取り出してポケットに収めた。
一人では行くなと言われたけれど。
後ろめたさを振り払って、里桜はこっそりと薔薇園に向かう。野依ににっこり笑いかけて、行ってくるね、と呟くと、カートを押して歩き始めた。
目指すのは北西の森、あの悲しい暗い場所。
小四郎と廣一朗が薔薇園にやって来た時、野依は何だかそわそわしていた。廣一朗が話しかけてもぼんやりとしていて、昨日のように応えてはくれない。
一方、小四郎には野依の姿はまったく視えないようだった。
「里桜がいないと駄目なのかな。ここにいるんですけど、全然視えませんか?」
「姿は判らぬ。されど気は感じる。温かい、日溜まりのような気が在る。」
「困ったな。彼女、昨日ほどはっきりしてないし‥。」
小四郎はゆっくりと野依に近づくと、声を掛けた。
「野依とやら。我は鷹森小四郎景信である。我を憶えておるか?」
野依は小四郎を振り向くと、慌てて平伏した。少し輪郭がくっきりしてくる。
「我にはそなたの姿を視る事が可わぬ。それもそなたにかけられた術の一部であろう。だが我は皆を真朱の呪いより救いたい。この者たちもそなたも‥‥可うならば胡蝶も。どうか我に、そなたの知る事実を伝えてくれぬか。」
野依は微かに『お館さま』と口を動かした。
おずおずと顔を上げて、金色の瞳を食い入るように見つめている。言葉にはならない野依の想いがあたりを満たして、ひと塊の空気みたいに包みこんできた。
彼女はそっと手を差し出した。
廣一朗は小四郎の手を取って、その手と繋いだ。ふんわりと羽のような感触が再び甦る。
野依が今度見せてくれた記憶は、董子の記憶だった。
少しずつできあがってくる薔薇園の様子や、董子が散歩しながら独り言を呟く様子。
―――恭之兄さまはこの地のどこかにいる。まだ囚われていらっしゃる‥。
やがて董子は年を重ね、人としての生を終えた後、この薔薇園にやってきた。
百年後に再び死霊が現れた時に子孫の守りとなるべく、薔薇たちに自分の魂をちりばめて育てる決意をしたらしい。恭之の近くにいたかったのもあるのだろう。
時は過ぎて、ひっそりした館に賑やかな声が駆けめぐるようになる。董子の甥である四代伯爵の一家、その子供たちの代が過ぎて、直彦と寧子の兄妹の幼少時が浮かぶ。
廣一朗は胸が騒いだ。伯父と母はなんと仲の良い兄妹であったことか。
やがて無邪気な子供たちの姿は、幼い顕彦に変わる。
顕彦の記憶になると野依の感情は強くなった。
少年から青年に成長して戻ってきた顕彦に対しては、温かく見守る他に、不安と守りたいという感情が上乗せされる。更に薔薇園の薔薇たちの感情が増幅して加わった。
「そうか‥。この屋敷に戻ってきてから顕彦の症状の進行が遅くなったのは、こうして屋敷全体で守っていたからなのか。」
廣一朗が呟く。
それでも次第に影は増えていく。庭に立ちつくす野依の視点から見ると、屋内に死霊どもが現れる時、屋敷は真っ黒な影に包みこまれている。初めは顕彦の部屋あたりだけだったのに、時が進むにつれて屋敷全体を覆うほどになる。
そんなある日、野依の前に里桜が現れた。
姿を見留めて驚く里桜と話しかけられてやはり驚く野依。そしてぼんやりとした日溜まりのような存在だった野依が、毎日里桜に話しかけられているうちにだんだんと人格を取り戻していく様子。
―――ねえ、野依さん。野依さんてあたしのママに似てるね。綺麗な女だったんだよ。そう、そんなふうに笑う顔がとても似てる。あたし、ママの笑った顔が大好きだった。でもね。ママ、もう死んじゃっていないの‥。
そう言った里桜の顔には微笑みが浮かんでいたが、廣一朗には泣いているように見えた。
里桜が訪れると、薔薇園には光が満ちた。その光が里桜の躰に少しずつ移って、そのたびに血管が透き通って赤い血がどくどくと波打つように見えた。
「これはいったい‥?」
「うむ。同じ血が流れているから‥。」
小四郎はそれだけ言って黙った。
野依の記憶は顕彦と里桜が歩いている場面に移っていた。
言い争って、里桜が泣きそうな顔をしている。雨が降りしきる中、顕彦の背中をじっと見つめている里桜の表情が痛々しくて、廣一朗は他人の秘密を覗いた後ろめたさと相まって罪悪感が募った。
「もうよい。確かめたき事は相判った。」
小四郎の声とともに映像は消えた。
野依の引っこめようとした手を小四郎は両手で握って、彼女のいるはずの場所へ優しいまなざしを向けた。
「そなたには辛い運命を負わせてしもうた。胡蝶の憎しみは我と我が子にあるとばかり思うて、そなたの身が危ないとは気づかなんだ。総て我の不明ゆえ。赦せよ。」
「小四郎さん‥! 思い出したのですか?」
小四郎は野依の手を握ったまま、廣一朗を肩越しに振り返った。
「朧ではあるが、思い出した。胡蝶の術が綻びかけておる証であろう。」
そして再び野依を向く。
「野依。辛い記憶であろうが、胡蝶がそなたを殺めた折の事を我に見せてはくれぬか。呪術がどのようであったか、確と知りたい。」
野依はうなずいた。再びあの残酷な場面の映像が脳裏に浮かんでくる。
小四郎は目を閉じ、静かな表情をしていた。感情を抑えて集中しているのだろう。
やがて胡蝶が息絶えた場面で映像は途切れた。
小四郎が伏せた顔を上げた時、その金色の瞳には涙が滲んでいた。
野依は傷ましそうな表情で小四郎を見ている。そこには嫉妬も怒りもなかった。ただひたすら慕わしいという気持だけだ。
「野依。そなたの心が鷹森を救うてくれたのだ。そなたの子を想う心と‥‥鷹森に流れるそなたの血が。我はこれより胡蝶の術を破るゆえ、そなたもやっと成仏できよう。どうか静かに休んでくれ。」
―――お館さま。
微かな声がしたような気がした。小四郎は見えない野依の躰を静かに抱き寄せた。嬉しさに満ちあふれた空気があたり一面に広がる。
「さらば。」
小四郎は野依の手を離すと、廣一朗を振り向いた。
「屋敷へ戻る。鷹森の銘の入った刀はこの時代に残っておるであろうか?」
足早に歩く小四郎に従いながら、廣一朗は眉根を寄せて考えこんだ。
「離れの座敷に飾ってあるのが家宝の刀剣だと聞きましたけど。多分刃の手入れはされていないと思いますよ。」
「鞘があればよい。いずれにせよ通常の刃で真朱は切れぬ。それから‥里桜という女子は我に力を貸してくれるだろうか? 今朝は理不尽な仕打ちをしたゆえ、赦せと申すも詮なき事だが。」
「大丈夫ですよ。あの子は‥顕彦の事なら何でも許しちゃうんです。きっと野依さんの血がいちばん濃いんでしょう。」
里桜を叩いたのは多分―――顕彦の部分だ。冷静で自分を律することのできる小四郎がしたとは思えない。
「それより、術を破る方法が解ったんですか?」
長い通廊を離れの方へと向かう途中で、廣一朗は訊ねた。
小四郎はうなずく。
「あの呪術は鷹森の血にかけられたもの。恐らく遣われたは我が子太郎丸の血であろう。胡蝶は術を施す中で、腹立ちの余り野依に野依の血を遣うて別の呪いをかけた。ところが野依が太郎丸の母親であったがために二つの術が絡まり合うたのだ。」
「二つの呪いが一つになったという事ですか?」
「些か異なる。野依への呪いは、恐怖により哀れな霊を従わせる術の一つに過ぎない。本来は他の術に影響を及ぼすなどありえぬ。なれど太郎丸が野依の腹を痛めた子であったがゆえに、鷹森に流れる野依の血が太郎丸の血を遣うた一族への呪術へ影響を及ぼした。‥野依が胡蝶の挑戦に負け、我への恨みで怨霊となっておればむしろ術は強化されたであろう。ところが野依は恨むどころか、鷹森一族をなお慈母の心で見守うておる。野依にかけた胡蝶の呪いは破られたのだ。」
「‥‥。」
「呪いは破られると術者に返る。胡蝶も真朱も未だ気づいてはおるまいが、鷹森家に流れる野依の血は術者を倒す唯一の武器となった。」
「つまり‥。里桜が影たちをはね返せたのは、彼女が野依さんに非常に近い存在だからということですか?」
「鷹森の血脈の中で、なにゆえあの女子のみに力が顕現し得るかは正直、解らぬ。そなたの申す通り、心根が近いのであろうの。ゆえに野依と心を通わせておるうちに、野依の呪い返しの力を身に纏うたのであろう。」
あの薔薇園での、脈打つ赤い血の映像。里桜の体には、董子の想いのこもった薔薇の光も注がれていた。遙かな時を超えて、想いが念いをはね返す力を得たのか。
「で、里桜ちゃんにどんな協力を仰ぐのです?」
「我が傍らを離れず居てもらえればと思うておる。さすれば我にも真朱が視えよう。埒が明かぬとあれば、是非もないが‥。」
「まさか‥彼女の血を採るんじゃ?」
「左様な仕儀には致したくないと思うておる。」
座敷に足を踏み入れた小四郎は、床の間に飾られた刀を見つけ、微かに眉をしかめた。横顔には強い決意が漲る。
その時は自分がフォローしなければ、と廣一朗も覚悟を決めた。
「‥僕は何をすればいいですか?」
「そなたはあまり近づいてはならぬ。鷹森の血が濃い者は真朱の餌となろう。」
「でもそれで言えば、いちばん危ないのは小四郎さんでしょう。躰は顕彦なんだし。」
小四郎は刀を手に取って、廣一朗を振り返った。
「掛かっておるは我が魂であり、この時代の我の命である。それゆえ我が為さねばならぬのだ。運命とは自らで切り開くもの、我が父はそう我に説いた。我の、この躰は未だ生きる事を諦めてはおらぬ。あの女子の申す通りであった。」
金色の瞳は力強く輝いていた。
―――従兄さん。鷹森家のことに責任を取るのは僕の務めだから。掛かってるのが僕自身の命なら尚更だ。
廣一朗は顕彦の言葉を思い出して、つくづくと顔を凝視めた。顕彦が混じっているのだろうか。同化しつつあるのか、もう元には戻らないのか。
いや。玉に封じられて顕彦の部分が少なくなっているだけだ。玉を解放する事ができれば、戻ってくるに違いない。呪いさえ解ければきっと。
「‥‥なるべく離れているようにします。でも僕は見届けるつもりですから。」
小四郎はうなずいた。
そこへ陽子が慌ただしく入ってきた。
「旦那さま、廣一朗さま。里桜さまをご覧になりませんでしたか? 昼食のお時間をだいぶ過ぎましたのに、珍しくお姿が見えないのです。」
「里桜が? 二階の部屋にいないの?」
「はい。お昼前までは、薔薇園にいらしたようなのにいらっしゃらないのです。何でも旦那さまのために、薔薇で大がかりな飾り物を作ると張り切っていらしたとか。上田さんが頼まれて用意したという薔薇も見当たらないので、お庭を探したのですが‥。山の方までいらしたのでしょうか?」
「‥‥薔薇って、まさか‥!」
廣一朗が叫ぶより早く、小四郎が刀を提げたまま走り出した。
「あ‥。旦那さま‥お身体は?」
びっくりしている陽子を何とかごまかして、廣一朗は後を追った。
北西の森だ。一人で行くなとあれほど言ったのに。
だが何となくこうなるような予感がしていた。里桜は多分、小四郎に―――顕彦に胡蝶を殺させたくないのだ。
馬鹿がつくほど人がいい里桜。屋敷内に満ちあふれている、生者も死者も関係ないみんなじゅうの悲しみを全部一人で背負うつもりなのか。それで里桜はどうなる? 自分のためには泣く事もちゃんとできないくせに。どうか、頼むから―――無事でいて。
廣一朗は急ぎ走っていく小四郎の背中を必死で追いかけた。そしてつい、思う。彼があれほど慌てているのは、いったい誰を心配しているからなのだろう。胡蝶か、それとも―――里桜なのか?




