CHAPTER 11
「それじゃ、目が覚めたのね。よかった。」
朝食のテーブルで顕彦の意識が戻ったことを聞いて、未紅と邑子はほっと安心の溜息をついた。
知らせてくれた明日香はにっこりと頬笑み、会釈して他のテーブルへと移動した。ダイニングルームとサンルームテラスは朝食を摂る人でいっぱいだ。
招待客のうち半数以上は昨日のうちに帰ったけれど、なお十数人の親族が滞在していた。
不便な場所なので、元々一泊する予定だった人もいるが、好奇心から残った人もいる。このまま葬儀になるのでは、などという声も昨晩は大きく飛び交っていたくらいだ。
昨日顕彦が倒れた直後の小広間では、心配ではなく明らかな期待の声が聞こえていた。
―――元気そうなふりしてたけど、無理してたみたいだな。
―――だいぶ悪化してるんじゃないか? 正月からみると、かなり痩せたしね。
―――長く思わせぶりだったけど、これで片がつくんじゃないのかね。
―――そうねえ。あの倒れ方、普通じゃないものね。
―――さっさとして欲しいわ。あの女の子に子供でもできたらどうするのよ?
―――あの子は須藤が探してきたそうだから。話はついてるんだよ。
―――須藤は独り占めする気じゃないの?
―――この屋敷や山だけでも莫大な金額になる。何がしかは廻ってくるさ。
―――そう。何しろ、鷹森家の解体だからね。おこぼれは確実に出る‥。
聞くつもりではなく耳に入ってくる声に、未紅は頭が痛くなった。人が一人死にかけているという時に、何なんだこの人たちは、とまじまじ顔を見渡してしまう。
まして里桜のたてた悲痛な叫び声を聞いて、感じるものがないのだろうか。あの時の里桜の顔を見たら、通りすがりの赤の他人だって胸を打たれるだろうに。
未紅はあらためて廣一朗の言葉が真実だった事を思い知った。こんな連中に一円だって残すものかと顕彦が考えたとしても無理はない。でも里桜は? 顕彦に万一の事があれば、里桜はどうなるのだろう?
一流ホテルみたいな豪華な朝食をしっかりと平らげながら、今朝も未紅は里桜を心配していた。昨日のパーティが始まった時はちょっぴり羨ましく感じたくらいなのに、今は全然羨ましくない。里桜を待っている多難な先行きに溜息が出る。
「未紅ちゃん。所長は当分、顕彦さんに付き添うからってメールがあったの。だから車を呼んでもらって帰りましょう。」
向い側から邑子が話しかけてきた。
「え? 東京までタクシーで?」
「そうよ。大丈夫、会社持ちだから。リムジン手配してくれたようよ。」
「わぉ! ゴージャス、セレブになったみたい。あたし、一度乗ってみたかったんだ。」
ふふ、と邑子は微笑った。
「未紅ちゃんて、素直で明るいところが里桜ちゃんと似てるわね。」
「はは‥。里桜のは天然。あたしはちょい無理してってとこかな。‥‥あたし、里桜と友達になるまでは、根暗で理屈っぽいタイプだったんですよね。よくいるでしょ、自分では努力してるつもりで、世の中が理不尽だからとか運がないんだとか文句ばっかり言ってる女。あんな感じだったなぁ。」
「意外ねえ。全然そうは見えないけど。」
邑子はお世辞ではなく驚いた顔をした。
「うん。今の自分は結構好き。初めはね、里桜のこと可哀想な子だって思ってた。今から思うと恥ずかしくなっちゃうくらい、上から目線でね。自分も不遇だけどもっと不幸な子がいるな、なんて優越感がどっかにあったわけ。でもね、そのうちそんな気持、忘れちゃった。何て言うかなぁ‥。里桜は世間に何にも期待してないんだよね。他人からの好意は自分が対価を払った分しかもらえないもんだって思ってるから、それ以上はそもそも期待してないの。だから心から、有難うって言えるんだよね。」
未紅はふと二月の夜の屋台を思い出した。
シンデレラになりたいと言った里桜は、ほんとうにこんなお屋敷に住む王子様に恋をするつもりじゃなかっただろう。もっと掌に乗るくらいの、ささやかな夢を思い描いていたはずなのに。運命って解らないものだ。未紅はつくづくそう思う。
「里桜と知り合ってからなぜだか、今日レッスンでほんのひと言の台詞がうまくできたなあとか、そんなちっぽけな事がいちいち嬉しくなってね。で、そういう事の積み重ねがあたしにとっては明日に繋がってるんだなって、最近実感してるんだ。‥‥なんちゃって。へへ、渥美さんみたいな大人の女性に偉そうに言うことじゃないけど。」
照れ笑いをした未紅に、邑子は穏やかな視線を向けた。
「そんなことないわ。未紅ちゃんはきっと、いい女優さんになるわね。舞台がある時は声かけてね、観にいくから。」
「ありがと。今度、廣ちゃんと二人で来てね。渥美さん、廣ちゃんの彼女なんでしょ?」
「ふふ。友人よ。くされ縁ってとこかな。」
そうは見えない、と未紅はこっそり思ったが口にはしなかった。
「ところで渥美さん‥。里桜の事だけど。」
「里桜ちゃんが何か?」
「ん‥。昨日、あたし、聞くともなく親族の人たちの会話聞いちゃったんだけど。顕彦さんが死んじゃったら、里桜はどうなるのかな? 追い出されちゃうわけ?」
邑子は艶然と頬笑んだ。
「そんな事にはならないわ。鷹森家の財産は総て里桜ちゃんが相続するのよ。法律でそう決められているのだから。もしも親族が寄ってたかって里桜ちゃんから権利を剥ぎ取ろうとしたら、その時はうちの所長がきっと守るわ。」
「ほんと? 廣ちゃんだって親族の一人でしょ。須藤の家の人じゃない?」
「所長は顕彦さんの遺志を尊重すると思う。でも優しすぎるからね‥。確かに心配。」
邑子はふっと心配そうな表情になった。未紅は小声でささやく。
「でしょ? おまけに里桜がまたお人好しだからね。縁がなかったからお金のことなんてさっぱり疎いし‥。昨日の感じじゃ、里桜には味方なんかいないようだもん。シナリオができてて幕が開いてるのに、里桜だけが全然知らないで舞台に立たされてるみたい。」
「‥‥だとしたら、二本シナリオがあるのよ。」
邑子は未紅に顔を寄せて、低い声で答えた。
「二本?」
「そう。わたしが承知してるのは顕彦さんの書いた方。里桜ちゃんが顕彦さんを好きになっちゃったのが、予定外なのか予定通りなのかは解らないけど。所長はこっち側のはずよ。でも確かにもう一本ありそうな気がするし、そうなれば書いてるのは須藤夫妻だと思う。問題なのは、所長がどこまでそれを承知しているのかということね。」
「‥‥廣ちゃんはそんな腹黒い人じゃないと思う。」
未紅が呟くと、邑子は目を伏せてうなずいた。
「そうよ。所長は優しい人。優しすぎるのが弱点なの、家族には特に甘くてね。自分の問題でもないのに全部抱えこんじゃうのよ。‥‥ま、いざとなったらわたしが里桜ちゃんの権利を守ってあげる。わたしにも責任があるから。」
「渥美さんの責任って? 廣ちゃんの代わりをすること?」
「里桜ちゃんを鷹森家に連れていったのはわたしだから、里桜ちゃんに対しての責任よ。‥‥所長はね、わたしに助けを求めた事なんかないの。自分はサンタクロースみたいに誰にでも優しさを振りまく人だけど、他人には何も求めないのよ。そういう人だから、代わりをするなんてありえないわ。わたしはわたしで行動するだけ。」
素直じゃないなあ、と未紅は心の中で苦笑する。
好きならば相手の領域に土足で無理矢理入るっていうのも一つのやり方じゃないだろうか。でも邑子にはできないらしい。とっくに割り切ったようにも見えるけれど、もしかしたらずうっと待っているのかもしれない。大人は複雑だ。
そこへ里桜の声がして未紅は振り向いた。
里桜はにこにこといつもの笑みを浮かべていた。やれやれ。ここにも素直じゃない女が一人いる。未紅はやっぱり、心の中で苦笑した。
宿泊していた客は昼すぎには皆、帰っていった。
里桜が最後の客を送り出した後に屋敷内に戻ると、入れ違いに玄関に出た由美が塩を撒いていた。何をしているのか訊ねたところ、気にくわない客が帰る時に撒くものだと教えてくれた。
「厄払いです。二度と来るな、という気持をこめてね。」
確かに。顕彦が回復したと聞いて失望感を露わにするような親族など、二度と来ては欲しくない。
里桜はその足で薔薇園に向かった。野依に話を聞かなくてはと思っていたからだ。
昨晩の出来事について、里桜は里桜なりに考えてみた。
あの胡蝶という女は亡霊のようだったのに、影法師たちと同じく里桜には触れることができた。とても柔らかい、人間の躰みたいな感触。なのに里桜が触れた途端に影になってしまった。なぜ、里桜だけが突き飛ばしたりできるのだろう?
それに胡蝶は、顕彦の隣にいた里桜を見て『またも下賤な女を近づけて』と言い、啜り泣いていた。『またも』というからには以前にも小四郎は誰か別の女を近づけたのだ。それは野依のことではないだろうか? きっとそうに違いない。野依の記憶の中にいる『お館さま』、顕彦と同じ瞳を持つ人。あれが小四郎景信なのだ。
胡蝶が啜り泣いてかき口説いていた言葉を思い起こすたびに、里桜は切なくなる。
この屋敷に着いた夜、夢で見たあの想いは胡蝶のものではなかったか? 裏切られてまだ恋しくて、絶望の中でのたうち回るような想い。あの穴蔵がきっと、胡蝶が永く耐え忍んだ『暗く冷たい場所』なのだ。あんなところで七百年も、恋人が生まれ変わるのを待ち続けていたなんて。里桜は身震いする。すごく怖い。でも同時に―――切ない。
七百年前にいったい何が起きたのだろう。里桜の想像が当たっているとすれば、小四郎を愛した二人の女が共に、形は違うけれどもこの地に縛りつけられている。胡蝶の目的が転生した小四郎と想いを遂げることにあるとすれば、野依は何のためにここにいるのだろう。きっと偶然ではないはずだ。
突然、雷が鳴った。
見上げると、稲妻が空を切り裂いている。広大な屋敷森の外れ、北西の方角か。稲妻が走る真上に、もくもくと黒い雲が龍のように立ち上っている。
あの場所は昨日落雷のあった場所だ。そう思う間もなく、背筋にぞわぞわっと悪寒が走った。里桜は屋敷の方角へ踵を返し、駆け戻った。
黒雲より先に顕彦を見つけなきゃ、と必死に走る。廊下で唐沢に会った。
「唐沢さん‥。顕彦さんは? どこにいるの‥!」
「里桜さま‥。まさか、昨夜の‥。」
里桜は息を弾ませながら、うなずいた。
「‥‥来る。」
唐沢は先に立って走り出し、奥の西階段へと向かった。
「坊ちゃまは廣一朗さまと図書室においでです。」
階段を一気に駆け上がって、図書室のドアを開ける。そこには既に闇が満ちていた。
―――お方さまの敵。来た、来た‥。
―――もうすぐお方さまがおいでになる。我らは盾となるべし。
影法師たちが騒いでいる。部屋を埋め尽くすほどの影たちが、暗闇を生み出している。
里桜は目を凝らして闇に埋もれた顕彦を見つけ出し、飛びついた。もやもやと漂う影たちを振り払い、しっかりと抱きしめる。まただ。酷く冷たい。頬が、氷のようだ。
里桜の胸に怒りがこみあげてきた。
心の中の胡蝶への同情はきれいに消えて、怒りが抑えきれないほどに膨らんでいく。
―――愛しているならなぜ、こんなに苦しめるの? 信じられない‥‥認められない。絶対に認めない、あなたの想いは許せない‥!
里桜は冷たい、意識のない頬に両手を当てて、必死になって温めた。すると不思議なことに、一緒になって温めてくれる手が見えた。男の手ではない。しなやかな女の手だ。
―――董子さまだ。
なぜかすぐにそう思った。絶対に死なせたくない、そんな想いが幾重にも重なり合う。董子だけではなく、たくさんの人の想いが里桜の手に重なってくる。
気がつくと闇は消滅していた。
「里桜ちゃん‥。顕彦は?」
廣一朗の声がした。彼もわずかに息を弾ませている。
顕彦は目を閉じたままだ。少し温かみが戻ってきていて、呼吸もしている。眠っているように見えるが、小声で呼んでも目を覚まさない。
背中の悪寒はなお貼りついている。しかし近づいてくる気配はない。
まさか持っていかれてしまったのだろうか? 里桜は何度も何度も名を呼んだ。
「とにかく、寝室に運びましょう。里桜さま、ちょっとよろしいですか。」
唐沢は里桜をやんわりとどけて、顕彦を抱き上げた。そして部屋を出ていく。里桜は唇を噛みしめて後を追った。離れなければよかった。後悔が胸にしみる。
顕彦はなかなか目を覚まさなかった。
里桜の背中の悪寒も拭いきれないままだ。肩を押さえていないと震えが止まらない。
隣の廣一朗も黙りこくっていた。心持ち青ざめた顔で、何か考えこんでいる。
そうして一時間ほど経った頃、漸く顕彦は目を開けた。
「顕彦さん‥。」
「顕彦、大丈夫か。」
彼は金色の瞳を眩しそうに細め、二人を交互に見遣った。そして静かに言った。
「‥‥そなたらは何者か。我はなにゆえここにおる?」
違う。顕彦ではない。だって―――声が違う。
里桜はすうっと血が下がるのを感じて、そのまま椅子に倒れこんだ。
気がついた時は寝室の、自分のベッドで横になっていた。体を起こして隣のベッドを覗いてみる。だがそこに顕彦はいなかった。
居間の方で話し声がしている。ドアの隙間から窺い見ると、ソファで廣一朗と唐沢が顕彦に何か話をしていた。
里桜はほっとした。顕彦は無事だったのだ。さっきのはきっと―――夢だ。
だがよくよく見れば、顕彦は和服に着替えていた。表情もどことなく厳めしい雰囲気が漂って見える。声は? さっきのは顕彦の声じゃなかった。今はどうなのだろう?
「‥‥相判った。この身は我が子孫のもの。ここは我の時代より七百年以上も後の世である、と。そなたはそう申すのであるな。」
里桜は愕然とした。顕彦の声じゃない。低くて、静かで、明瞭な声。顕彦の声はもう少し柔らかくて、曖昧なのだ。こんなふうに断定的じゃない。
「信じていただけますか?」
廣一朗の声だ。
「信じるしかあるまい。我にも、もう一人の我と混じり合ったとしか思えぬ部分がある。しかも‥‥。どう見てもこの躰は我がものではない。」
溜息が聞こえる。
「今、貴方の中で顕彦の意識はどうなっているのでしょう? 解りませんか。」
「恐らく我が表に出ている間は眠っておる。夢を見るようにこの場を見ておるやもしれぬが。このまま時経れば我と少しずつ同化するであろうな。」
「同化って、それはどういう‥?」
「顕彦とやらが主であった折、我はその中に融けこんでひとつの魂として在った。主が逆転したのだ。一旦は二つに分かたれた魂であるが、再びひとつになろうと動くであろうの。理とはそうしたもの。」
里桜が息を呑むのと同時に、唐沢が声を上げた。
「そ、それでは坊ちゃまは‥。お戻りになられないと。」
「すまぬ。我とて本意ではないが、自然の理に従えばそのようになる。ただ‥。」
「ただ‥?」
「うむ。我が目覚めたことがそもそも自然に反しておる。なにゆえ斯様な仕儀に至ったのであろうか‥? その由が滅すれば主が再び反転するやもしれぬ。確とは言えぬがの‥。」
それ以上、誰も口を利く者はいなかった。誰にも考える時間が必要だった。




