CHAPTER 10
果てしない冬の荒野を一人彷徨っていた。
傷つき、疲れ切って、当てもないままにただ逃げている。馬を失い、つき従っていた家来とはぐれ、弓矢もなくした。
手に提げた抜き身の刀は、父の亡骸から持って来たものだ。銘の入った家宝の刀。これだけは失くすわけにはゆかぬ。父も叔父も兄たちも死んだ今、これを守るは―――我のみ。
誰だ? この記憶は誰のものだ。ここはどこだろう。
遠く森が見える、確かどこかで見たことのある森。あの立木の陰に窪地があって、隠れ集落があるはずだ。そうだ。幼い頃、母の手に引かれて訪れた。母の手に―――母? 僕に母の記憶などない。
いったい誰の記憶なんだ。頭の中をかき回すのは止めてくれ。僕は今、どこにいる?
腕が痛い。背中が痛い。脇腹から血をこぼしすぎたようだ。目が霞んでくる。背後に馬の足音が近づいてきた。どうやらお終いか。僕の命はここまでなのか。
「お気がつかれましたか。若様。」
若様。僕の事か?
覗きこんでいるのは美しい少女だった。気がつくと寝かされている。
「起きてはなりませぬ、鷹森の若様。それは酷いお怪我をなさって‥。三日も眠っておられたのですよ。」
黒いまっすぐな髪。濃い睫に囲まれた真っ黒な瞳。紅い唇。この世のものとは思われぬほど美しい。いったい誰だろう?
少女はほほ、と微笑した。
「お忘れでございますか。若様がおいでの時は、よう遊んでいただきました。あれから十年過ぎましたけれど、わたくしはすぐ若様と判りましたものを。」
幼い少女の面影がよぎる。ああ。この女は『‥‥』だ。
知っているのに名が思い出せない。いや思い出したのだ。僕の中のこの少年はちゃんと名を呼んでいる。思い出せないのは僕だ。僕? 僕は―――誰だ。
草原に菜の花が咲き乱れている。春の盛りだ。柔らかい風が頬を撫でていく。
前を行く女を目で追いかける。時折振り返りながら、女はまるで蝶が舞うように軽やかに歩く。くるくると舞い踊るような仕草をするたびに、つややかな黒髪がはらはらと揺れる。目が離せない。狂おしいほど愛しい。捉まえて腕の中に封じこめておきたい。
名を呼ぶと、艶やかな微笑を向ける。声を立てて笑いながら、胸の中に飛びこんでくる。そのまま丈深い叢に倒れこんだ。
「‥‥生涯離さぬとお誓いくださいませ。他の女子になど心を移さぬと。」
誓う、と返事をする。
輝くような白い肌に目が眩みそうだ。柔らかな肢体にのめりこんで、溺れて、このまま死んでもいいとさえ感じる。
「わたくしも‥‥誓います。何があってもおそばを離れぬと‥。たとえ行く先が地獄であろうと‥‥お伴いたしましょう。必ず。」
かきむしりたいほど胸が苦しい。躰の奥が熱く疼く。切なくて、たまらない。こんな想いは経験したことがない。僕は―――他人を愛したことがなかった。
女はひたむきな眼をして、幾度も口づけをせがんだ。
まもなく戦が始まる。いよいよ鷹森家再興の旗揚げだ。三年待ったが、ようやく準備が整った―――そう言ったのは僕だ。僕が戦? 何の話だろう。
「戦にゆかれる時は、従いてまいります。決して誰にも、貴方さまのお命を奪わせは致しませぬ。恋しい、愛しいお方‥‥。」
そなたの術を何より頼りにしている。修羅の道も共に行こう。地獄であろうと共に。未来永劫離れはせぬ。
「‥‥さま。」
誰だ。僕は誰なんだ。知っているはずなのにどうしたら思い出せる。自分の名前、そして愛しい女の名前。
深夜になっても顕彦は目を覚まさなかった。
体温はだいぶ上昇してきたものの、以前低めだった。しかし命に別条はないと医者は保証した。心音も心拍数も正常、他にも特に危険な兆候は見られない、と。
「要するに非常に深く眠っている状態です。明日になっても目覚めないようであれば、入院して精密検査をした方がいいでしょう。」
医者が帰った後も、里桜はずっと付き添っていた。
予感はますます高まっていた。何かが動き出している。暗闇から恐怖がやってくる。
この恐怖は野依のものだ。それは解っていた。多分彼女が生前感じたもの。
あの重低音の影法師が言っていた『お方さま』がやってくるのだ。顕彦の魂を奪いに。
里桜は身震いした。
どうしたら―――どうすればいい? 守る方法はないのだろうか。
ノックの音がして、廣一朗が顔を出した。後ろに唐沢が続いている。
「里桜ちゃん。少し休憩したら? 僕が代わるよ。」
「いえ。わたしが付き添いましょう。」
里桜はベッドの横に座ったまま、首を振った。
「ううん。せめて朝になるまでは、付いていたいの。」
ふっと微笑して廣一朗は、椅子を持ってくると里桜の隣に腰掛けた。
「じゃ、僕もつき合うよ。唐沢、君は寝てくれ。朝になったら代われるように。」
「解りました。」
唐沢が答えたちょうどその時、顕彦の躰が微かに動いた。
はっとして里桜は身を乗りだし、手を握った。廣一朗と唐沢も顕彦の近くに寄って、顔を覗きこむ。
顕彦はゆっくりと目蓋を開いて、ぼんやりと里桜を見た。
「顕彦さん‥。気がついたの?」
「‥‥里桜?」
彼は虚ろな瞳で遠くを見ていた。辛うじて里桜の声は聞こえるらしい。
「ここは‥‥どこだ? 僕は‥。」
里桜は涙がこらえられなかった。ぽろぽろとこぼれ落ちていく。廣一朗や唐沢がいるのも忘れて、思わず抱きついていた。
「泣いてる‥? 誰、里桜の涙‥?」
顕彦は手を伸ばして、里桜の髪に触れた。うん、と里桜はうなずいた。
「ごめん‥。勝手に、涙が出ちゃって‥。今、拭くからね。」
後ろで鼻をすする音がした。よかった、と小さな声も。
しかしそれらとは全く異なる気配を背後に感じて、里桜は不意に竦んだ。身体が震えだして、止まらない。
さああっと暗闇が忍び寄って、部屋を埋め尽くした。
「‥‥泣き声が聞こえる。泣いてるのは‥里桜? 誰‥?」
顕彦が呟いた。
里桜は顔を上げた。
夜よりも濃い闇の中で、女が啜り泣いていた。
瑠璃色の打ち掛けを羽織った長い黒髪の女の姿が明瞭と、目の前の宙空に浮かび上がっていた。女はその美しい顔を切なげに伏せて、啜り泣きながら顕彦に訴えるような眼を向けた。
「恨めしや、我が殿‥。またもこのような下賤な女をお側に召されて‥。永い永い時を経て、やっと再び相まみえることが叶いましたものを‥。」
悲痛な声が闇に響く。
「何とも情けなきことよ‥。妾を、妾をお忘れと申されるのか。決して離さぬと仰られたお心をお忘れか? 殿‥殿、恋しいお方。」
女は両袖で顔を覆い、泣き叫んだ。そしてゆっくりと近づいてくる。
「幾度生まれ変わろうと、必ずや魂はそなたのものとお誓い下されたではありませぬか? 思い出して下されませ‥。どうか、我が殿。小四郎どの。」
顕彦は魅入られたように女を凝視していた。
虚ろな表情が、徐々に綻んで、満面の笑みに変わっていく。
「‥‥胡蝶。」
「おお‥。思い出して下されましたか。小四郎どの。」
呆然としている里桜の目の前で、顕彦は身体を起こし、女に手を差し伸べた。
「胡蝶。愛しい胡蝶‥。」
「小四郎どの‥!」
女が差し出された手に触れようとした瞬間、里桜は我に返った。
「駄目! 違う、この人は違う! 連れていかないで‥!」
大声で叫ぶと、女を思い切り突き飛ばした。
ぎゃっ、と悲鳴を上げて女は黒い影の塊に変じ、部屋の隅に飛び退いた。
「おのれぇ‥! おまえ、おまえ‥。その気は何じゃ? うう‥。なにゆえ、妾の邪魔をする?」
「この人はあなたの探してる人じゃないの。だから帰って。出てきた場所に戻って!」
里桜は影をまっすぐに見据えた。お腹の底からこみあげてくる恐怖で、体じゅうが震えていたけれど、必死に足を踏ん張った。
「出てきた場所であると? おまえに何が解る‥! 妾はこの時を待ち望んで待ち望んで、暗い冷たい場所で永く堪え忍んでまいったのじゃ。小四郎どのの魂が、この世に再び甦りしこの時代のために。」
影は再び人の形を取り始めた。
「今までの六度、いずれも完全ではなかった。七度目にして漸く、我が願いが成就する時が訪れたのじゃ。そこなる魂こそ、紛れもなく小四郎どのの、転生叶った完全なる魂。妾に約束された魂。おまえのような賤しい女の触れるべきものではない‥!」
影の中から女は吃ッと里桜を睨みつけた。里桜は目が眩みそうになる。
「違う‥。そんなの、認めない。絶対に。出ていって、去くの、さあ去きなさい‥!」
「うう‥!」
黒い女の影はぱしん、と音をたてて弾け、来た時と同様に不意にいなくなった。
気がつくと里桜は全身汗びっしょりで、息を切らしていた。
力が抜けて、へたへたと座りこむ。そっと顕彦の方を見遣ると、彼は放心状態で、手を差し伸べたままだった。
「顕彦さん‥‥。」
里桜は表情の消えた顕彦の顔を、恐る恐る覗きこんで声を掛けた。
つい先刻、彼は確かに別人だった。表情も話し方も全く違っていた。あれは小四郎なのだろうか、とすれば顕彦はどこにいったのか?
「‥‥何だ。今のは? 何だったんだ、いったい。」
廣一朗の叫び声がした。振り返ると、唐沢と廣一朗が立ちつくしたまま、影の消えたあたりを呆然と見ていた。
「坊ちゃま‥。坊ちゃまは‥!」
気を取り直した唐沢が顕彦に駈け寄る。
顕彦は瞳を見開いていたが、虚ろなままだった。
「坊ちゃま? 顕彦坊ちゃま、唐沢です、お解りですか!」
唐沢が肩を揺さぶって声を掛けたが、返事がない。やがてふっと目を閉じて、ベッドに倒れこんでしまった。
里桜は無意識のうちに叫んだ。
廣一朗が急ぎ寄り、手を取る。脈を測っているようだ。唐沢は胸に耳を当てている。
少し間があって、顕彦は大きく息を吐いた。
「‥‥大丈夫。生きてるよ。」
廣一朗かと思ったら、顕彦自身の声だった。
里桜は腰が抜けたままで、立ち上がって近寄ることもできない。ほっとして、今更ながら全身が諤々と震えてきた。
「顕彦なのか‥?」
廣一朗が静かに訊ねた。またぎくっとする。
だが顕彦は目を閉じたまま、深くうなずいた。
「まいったね‥。いったい、僕はどうなってるんだろう?」
「さあね‥。複数の人間が同じ悪夢を共有するのは可能なのかね? 素直に悪霊が出たって考えるのとどっちが荒唐無稽かな? 僕は正直、動顛してるよ。だけど‥確かに見ちゃったからな。唐沢、君もだろう?」
「はい‥。あの‥。里桜さま、大丈夫でございますか?」
唐沢の言葉で、廣一朗も里桜に視線を向けた。里桜は笑顔を繕おうとしたが、頬が引き攣っただけだった。
「ちょっと‥。腰、抜けちゃって‥。はは。」
「坊ちゃまがご無事だったのは、里桜さまのおかげです。今、お茶でもお持ちいたしましょう。」
唐沢が感謝の籠もったまなざしを里桜に向けた。
「いや、お茶よりもっと気付けになるものがいいよ。もう今日で‥‥あ、昨日だね。二十才になったんだし。唐沢、君、歩けそう? 無理しないで座れば? インターフォンで誰か呼んだらいいよ。」
廣一朗がそう言うと、顕彦がブランデーなら棚にあると呟いた。
ブランデーをすすりながら、里桜はちらっと顕彦の方を見遣った。彼の表情は静かで、何の感情も読み取れない。つまり、いつも通りということだ。
里桜は再び下を向く。膝に抱えたグラスの中の琥珀色の液体が、鈍い照明の光に透けて薄い金色に見える。ちょうど顕彦の瞳の色みたいだった。
廣一朗の質問に答える顕彦の声が聞こえてくる。
彼はここ二ヶ月の『呪い』に関する事情を説明していた。廣一朗も唐沢も信じられない様子ながらも今眼にした事もあって、複雑な表情をして聞いていた。
唐沢が溜息をつく。
「何と申してよろしいやら‥。しかしわたしにはお話下さってもよかったのではないですか、坊ちゃま。少しはお力になれる事もあったかと‥。」
「ごめん、唐沢。だけど視えないモノを説明するのは‥難しいから。それにしても今夜の女の亡霊は初めてだ。ねえ、里桜?」
顕彦が里桜に同意を求めた。里桜ははっと物思いをやめて、うん、とうなずいた。
廣一朗が里桜を振り返る。
「里桜ちゃんはどう思う‥? 彼女が『呪い』の本体かな。」
「‥‥あの人が『お方さま』だと思うけど。さっき言ってたよね、今まで六回違ってたみたいな事。六回って、『呪い』で亡くなった人の数と同じだから‥。多分。」
そして顕彦が七人目だと言っていた。今度こそ完全な―――ええと、なんて言ったか。確か、テンセイ? テンセイって何だろう? それに『約束された魂』って?
そこでまたくっきりと脳裏に浮かんできてしまう。女に手を差し伸べた時の、顕彦の表情。里桜が一度も目にしたことのない、優しい蕩けるような微笑み。
廣一朗と顕彦が話を続けている。
「七度目で完全な転生って言ってたね? てことは、顕彦は小四郎とやらの生まれ変わりってことか。自覚がありそうな雰囲気だったけど、どうなんだ?」
「不思議な感覚だった。いきなり僕の知らない記憶が湧き出てくる。さっきは里桜に止めてもらわなかったら、ほんとに危ないところだった。小四郎になりきっちゃってたからね。あのまま手を繋いでたらどうなったんだろう。そう思うと冷や汗ものだ。」
「ちょっと待てよ。小四郎だった時の意識があるんだ?」
「混在してたよ。隣から見ている感覚だ。‥‥こんな話、馬鹿げていて信じられないだろうけど。」
里桜はうなだれたまま、背中をきゅっと丸めた。
里桜のおかげで助かった、なんてもう言わないで欲しい。ひどく後ろめたい気持になる。だって里桜は単に―――嫉妬しただけなのだから。顕彦にあんな表情で見つめられている女に嫉妬して、突き飛ばした。ただそれだけのことなのだ。浅ましい自分が悲しくて、嫌な気分だ。
「今度あの亡霊が現れたら、僕は僕自身の意識が保てるかどうか解らない。全く冗談じゃないよ。『呪い』っていうのは前世の約束を守ることなのかな。なんで、彼女も人間に生まれ変わってくれないんだろうね? それなら話は簡単なのに。」
里桜の胸がまたずきんと痛くなった。
さっきの女が人間だったら。そう思うと逃げ出したくなった。自分がこんなに凶暴な面を持っているとは今夜まで知らなかった。
そろそろと立ち上がって、里桜は言った。
「あのう‥‥。ちょっとあたし、眠くなっちゃったので失礼します。今晩はもう来ないと思うし。」
「解るの? 里桜ちゃん。」
「何となくね。感じるの。二階に行くからどうぞ、お話続けてて。‥‥じゃあ、お休みなさい。」
里桜は辛うじて笑みをつくり、部屋を出た。
里桜が出た後を唐沢が心配そうに追いかけていき、顕彦は廣一朗と二人になった。
「君が倒れてからずっと、食事も摂らずに付き添ってたからね。疲れたんだろう。しかし彼女が‥‥。僕はさっきの光景がいまだに信じられないんだ。なぜ、今まで僕等には視えなかったのに彼女には視えたんだろう? 董子さまと同じ顔してるからなのかな? 彼女も生まれ変わりだろうか?」
「さあね。解らないよ。何もかも解らない事だらけなんだ。とにかく里桜といれば僕は、生き延びていられる。それだけが今は頼りだよ。」
顕彦は伸びをして、上体を起こした。
「それならどうして、あんな無神経な事を言うのかな、君は。」
ブランデーをグラスに注いで顕彦に渡し、廣一朗は皮肉な目を向けた。
「無神経って? 悪霊じゃなくて人間の女なら簡単だって言ったこと?」
顕彦はうっすらと微笑した。
「わざと言ったのか。残酷なヤツだな、相変わらず。」
「里桜があの女に共感しそうな気がしたからだよ。彼女、ほんとうにお人好しだからね。悪霊にさえ同情しかねない。僕自身が全く当てにならないんだ、後は里桜の嫉妬心だけが頼りなのさ。」
「‥‥君が倒れた時の彼女の悲鳴を聞かせてやりたかったよ。あれほど想われててよく、そんな冷めた言い方ができるな。さぞ簡単だったんだろうね? 里桜ちゃんみたいな純情な娘を誑しこむのなんて。」
「これ、ちょっときついな。」
顕彦はブランデーを少しすすって、微かに顔をしかめた。廣一朗が呆れて、肩を竦めたのを見て、言葉を継ぐ。
「初めに廣従兄さんが言った通りだったよ。里桜はいい娘だ。僕を生んだ女とは全然違う。彼女がなんで僕なんかに執着するのかは理解できないけどね。でもせいぜい利用させてもらうよ。ここまで生きる事にしがみついてきたんだ‥‥最後まで精一杯あがいてみるつもりだから。」
「里桜ちゃんの気持ちを踏みにじっても?」
「里桜は‥‥解ってるよ、全部。彼女、勘がすごくいいから。」
冷ややかな一瞥。顕彦は廣一朗の非難の視線を横顔で受け流した。
しかし彼はそれ以上里桜の話はせず、少し眠ったらどうかと勧めた。顕彦は首を振る。眠るとまた小四郎の意識が表に出てきそうで、怖かった。
顕彦の中で小四郎の意識は目覚めつつある。転生した魂という認識は全く気に入らないが、どうやら受け入れざるを得ないようだ。それほどはっきりと小四郎の意識が混じり合い始めている。
厄介なのは顕彦より小四郎の意識の方が強いという点だった。
あの亡霊。胡蝶という女だ。記憶の断片から溢れてくる胡蝶への想いは、顕彦にとってまったく経験したことのない激しい感情だった。
あれだけでも顕彦の意識は小四郎に凌駕されるのに十分だ。というより胡蝶の復活が、顕彦の中から小四郎の意識を引きずり出したと考えるべきだろう。しかしそれほど想い合っていながらなぜ、胡蝶は悪霊になったのだろう? なぜ小四郎は呪われたのか?
それから里桜の見たという夢。あれは胡蝶の想いなのか。穴蔵とはどこだ? なぜ里桜の夢に出てきたのか?
里桜と言えば彼女は不思議だ。
董子と同じ顔をして、董子の『覚書』をたまたま見つけて、七百年の間『呪い』の当人にしか視えなかったモノを共に視る里桜はいったい何者なのだろう?
しかも顕彦を一途に想っている。あれは何だろう、ほんとうに彼女自身の想いなのか? むしろ前世の―――董子の恭之への想いなのでは?
だが董子の生まれ変わりならばなぜ、胡蝶に同調した夢を見たのだろう? それに庭の幽霊の事もある。野依といったか、それも彼女にしか視えない。
何にしても里桜が顕彦の『呪い』を解く鍵であることは間違いなかった。
もっと時間が欲しい、と顕彦は切実に思った。もっと早く里桜と出会えていれば。
だがそれも『呪い』の一部なのか。董子の『覚書』がなぜか自分には見つけられなかったのと同じように、里桜が現れ、胡蝶が復活して小四郎が目覚めるというのは総て、同時に手に入る断片として運命に用意されていたものなのか。
それならば鍵は里桜の―――心だ。
もどかしさに押されるようにして顕彦はグラスを口に運んだ。ひと口めより更に苦く舌を刺激する。
「ブランデーはもっとまろやかな方が好きだな。気付けにはいいけどね。」
「この部屋にあったんだよ。君のお気に入りかと思った。」
「いや。ここは代々当主の部屋だから。飾り棚の洋酒は全部先代のコレクションなんだ。あの人の趣味は僕にはいつも理解不能だよ。」
廣一朗は微笑しただけで何も答えなかった。
「廣従兄さん。予定通り、明日帰るの。」
「‥‥今、迷ってる最中。あんなもの見ちゃったからね。里桜ちゃん一人に任せて帰るのは無責任な気がしてる。といって、僕が役に立つかどうかは疑問だけど。」
「‥‥。」
「ただ‥。さっきからずっと後悔してるよ。幻覚だと決めつけないで、もっと早く君の話を聞くべきだったってね。あんな、明瞭な亡霊が出てくる前に、何かできたかもしれないのに‥。ん、やっぱり残ろう。どうせ気になって仕事どころじゃないから。」
「従兄さん。鷹森家の事に責任を取るのは僕の務めだから。かかってるのが僕自身の命なら尚更だ。従兄さんが責任を感じる必要は全くないんだよ。‥‥実際、僕以外でも危険じゃないとは言い切れない。」
顕彦は慎重に言葉を選んで言った。しかし廣一朗は一笑に付した。
「責任とか義務とかの話じゃないさ。馬鹿らしい事を言うなよ。」
そうだろうか。顕彦は俯いて、からいブランデーを飲み干した。




