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CHAPTER 9

 暗い、冷たい穴蔵の中で泥が固まり始めている。

 よく見ると、泥の塊は黒々とした血の沼にずっぷりと浸かっている。悲鳴の聞こえそうなたっぷりの血を練りこんで、形を成そうとしている。

 中心で紅い目が二つ、おどろおどろしく光った。

 手が足が髪が。形を成してくる。

 貌が明瞭となり、頬を歪ませて嗤う。口をゆったりと開く。恐怖が口を利く。

 ―――捧げられた幾多の命を(にえ)としこの身に纏い、ようやく時が来た。

 ―――約束の魂を我がものとすべきその時。満願成就の時が。

 ―――愛しい、恋しいお方。幾度生まれ変わろうと必ず我がものに。

 ―――数百年の時を超えて、甦るべし。我が命、汝が(こころ)

 誓いの果たされる時が、来た。


 七月十四日の土曜日は、梅雨明けの快晴だった。気温がぐんぐん上がっていく。幸い山中のせいか、日陰は涼しかった。

 里桜は淡いブルーのドレスに白い紗のショールを纏って、ドレスとお揃いの華奢なミュールを履いた。胸元には二連の真珠、イヤリングも真珠だ。

 ドレスは背中が大きく開いて体にぴったりしたデザインなので、もの凄く恥ずかしい。ジャケットを上に羽織ろうとしたら、鷹森邸の女性全員に止められた。

「とてもおきれいですよ、里桜さま。もっと自信を持って。」

 波江がにっこりと頬笑んで、衣装部屋から送り出してくれた。里桜はバレエエクササイズのレッスンを思い出して、背中をきゅっと伸ばす。

 玄関ホール近くの小広間が、来客の控え室になっていた。既に数人が来ている。

 いったい何人呼んだの、と里桜が昨日訊ねたら、顕彦はほんの三十人程度だと答えた。

「三十人って、誰が来るの。ほんとは何をするつもり?」

「だから里桜のバースディ・パーティだよ。ついでに親戚連中へのお披露目をする。君の友人の未紅ちゃんだっけ。彼女も廣従兄さんが連れてくる予定だから。」

 未紅が来るのは嬉しかった。呼んでもいいかどうか聞きたかったけれど、大がかりになりそうだったので遠慮したのだ。里桜は何度も顕彦に礼を言った。

 控え室を避けて、まずは顕彦がいるはずの寝室に向かった。きれいだと言われたから、初めに彼に見せたかった。

 顕彦は窓辺に立って空を見上げていた。

 白い麻のスーツに淡いグレーの細縞のシャツ、濃い暗紅色の細いドレスタイ。華奢な頸筋に縞がよく似合う。

 彼は里桜に気づいて振り向いた。

「ちょうどよかった。始まる前に渡そうと思っていたんだ。こっちへおいで。」

 手招きされて近寄ると、ポケットから彼が取り出したのは指輪だった。大きい真紅なルビーの指輪。七月の誕生石だ。

「これを、あたしに‥?」

「気に入らない?」

 嵌めてくれながら、また意地悪な質問をする。里桜は素直に首を振った。差し出した手が少し震えてしまう。

「すごく素敵。綺麗ねえ‥。あたし、ルビーって初めて見た。どうも有難う、大切にするね。」

「里桜は何でも初めてだね。プレゼントのしがいがあるよ。‥‥口紅、持ってる?」

「ん? バッグの中に持ってるけど。何?」

「それならいい。」

 そう言うと顕彦は、里桜を抱き寄せてキスした。彼の前髪が頬に触れて、里桜の胸は爆発しそうになる。こんなに幸せでいいのだろうか。何て言うか―――今すぐ死んでも安らかに成仏できそう。

 口紅を直している里桜をじっと見つめて、顕彦は言った。

「僕からなるべく離れないで。まだ死ぬには間があるって、あの連中に見せてやりたいんだ。昨日まで自信があったんだけど‥。今日になったら解らなくなった。訳もないのに、やけに不安なんだ。」

 里桜は明け方に見た怖い夢を思い出した。無性に嫌な予感がする。しかし顕彦には笑って見せた。

「うん。誰にも渡さないって感じでいい? 嫉妬深い新妻の役ね。」

 ティッシュでそっと、彼の唇についた口紅を拭う。

「そんな調子。いつかの芝居の続きだ。できればこれで、最終幕になればいいけどね。じゃ、行こうか。やきもちやきの奥さん。」

 差し出された腕に両腕を絡めて、部屋を出た。こんなお芝居ならいくらでも続いてほしい。里桜は心からそう思った。


「顕彦の調子はどう? ガーデンパーティなんて大丈夫なのか。」

 ダイニングルームでコーヒーを受け取って、廣一朗は唐沢に訊ねた。

 親族のいる控え室を避けて、着替えをしている邑子と未紅を待っているところだ。

 唐沢はにっこりと頬笑んで、大きくうなずいた。

「顕彦さまはこのところ、調子がとてもよろしいのです。先日廣一朗さまがお帰りになった後、ひどい発作を二日続きで起こされたのですが、その後は一度もありません。里桜さまとご一緒だとどうやら発作が起きないようで、一日中おそばからお離しにならないのですよ。‥‥最近は夜もよくお寝みになられるので、お顔の色もだいぶよくなられました。このまま快方に向かわれるのではないか、とわたしどもは期待しているのです。」

 廣一朗は驚いた。

「へえ‥。それじゃ、里桜ちゃんと仲良くしているんだね?」

「ええ。それはもう、仲睦まじいご様子で。たびたび、笑い声も聞かれます。何年ぶりのことでしょうか。」

 唐沢はとても嬉しそうな顔をしていた。

「二人に会うのが楽しみだな。なるほどね、だからあの連中を呼んだのか。彼女がいれば怖くないって見せつけてやるつもりなんだね?」

「さあ‥。どうでしょうか? ご親戚の方々には初めから、里桜さまが二十才になられたらご紹介するおつもりでおられたようですから。今日になさったのは、誕生日を祝ってもらったことがないと里桜さまが仰ったためではないかと。」

「まさか。あの顕彦が? ますます会うのが楽しみだな。」

 思わず吹きだした。

 あの傲慢で自分中心な従弟が、本気で恋をしたとは信じられなかった。廣一朗は誰よりもよく顕彦を知っている。

 しかし里桜の天真爛漫さが顕彦を救っているのかもしれなかった。どんな理由であろうと里桜を喜ばせるために行動するというのは―――悪くはない。

「廣一朗さま。顕彦さまはほんとうはお優しい方なのですよ。」

「ごめん。そうだね。僕も嬉しいよ。」

 唐沢の非難めいた視線に、手を振ってとりなしているところへ、着替えの済んだ邑子と未紅が連れ立って現れた。

 邑子はラベンダー色のパンツスーツをすっきり着こなして、胸にカトレアを飾っている。普段と違って華やかな色の口紅が、印象をがらりと変えてセクシーな感じだ。

 未紅は白いチャイナドレス風の長いジャケットの下に、胸の大きく開いた白のビスチュエとショートパンツ。伸びやかな美脚を惜しげもなくさらしている。

「目の滋養だね。まさしく両手に花だ。どう、唐沢。僕のお嬢さんたちは。」

「お二方とも、たいへん素晴らしいと存じます。廣一朗さま、お気をつけないと、あっという間に他の方々に掠われてしまいますよ。」

「それはあんまりだな。二時間半も運転して、連れてきたのは僕なのに。」

 ゆっくりと立ち上がりながら、笑っている二人の美女に腕を差し出した。

「最初だけでも両手に花でいさせてほしいな。いいよね? ‥‥唐沢の話だと、顕彦と里桜ちゃんは熱愛中らしい。僕も負けていられないからね。」

「ほんと?」

「まあ‥。」

 未紅と邑子は顔を見合わせた。

「ほんとかどうか、会いに行こう。楽しみじゃない?」


 午後一時に始まったパーティは賑やかに進行した。

 真っ青な空の下で、盛りの薔薇たちが庭を埋め尽くさんばかりに咲き誇っている。甘やかな香りが涼風にのって、そこらじゅうに立ちこめていた。

 里桜の演技はとても『嫉妬深い新妻』とはいえなかった。せいぜい『初々しい新妻』のイメージで、顕彦の手を離さないようにするのがやっとだった。せっかく来てくれた未紅と話す暇もろくろく取れない。

「未紅ちゃん、ごめん。あたし今、仕事中で‥。終わったらゆっくり話そうね。」

 通りすがりに小声で囁くと、未紅はにやにや微笑った。

「あたしも結構楽しんでるから、気にしないで。楽しい仕事でよかったじゃん、頑張れ。ほら、背中伸ばして。早く行かないと、旦那取られちゃうよ。」

 振り向くと、もう顕彦の周りには数人の女性がいた。親族で、二十代前半ばかり。

 ―――山辺さんの嘘つき。候補者はたくさんいたんじゃない。

 里桜は溜息をつく。

 見たところどの人も里桜より育ちが良さそうだし、垢抜けていて美人揃いだ。しかも驚いた事に全員が一度は顕彦とつき合った事がありそうな気配だった。いったい里桜は何番目の候補者だったのだろう。皮肉な事に親のないのが決め手だったのか。

 里桜を見る彼女たちの視線には明らかな敵意と侮蔑、それに嫉妬が籠もっていた。葵と同じだ。葵と言えば彼女と寧子は南仏へバカンスに出かけていて、出席していなかった。代議士と鷺坂も地方講演だとかで来ていない。

 葵が里桜の立場ならきっと、頭をそびやかして誰の事でも蹴散らかしてしまえるのだろうけれど、生憎と里桜にはそんな技術も余裕もない。

「顕彦さん。お薬の時間ですって。皆さん、ちょっと失礼します。」

 かき分けて彼の手を取る。そして引っぱり出した。ちょっぴり、ほんとうに『嫉妬深い新妻』になりかけている。

 屋敷の入口まで一気に来ると、そこで立ち止まり、里桜は息をついた。

 顕彦は呆れ果てた、といわんばかりの表情で呟く。

「今日の君は演技零点。どうしたの?」

「だって。想定外の事ばかりなんだもの。予備知識が不足なのよ、あたしのせいじゃないと思うけど。」

 俯いて、ぶつぶつと里桜は愚痴った。

「関係ないよ。誰も彼もカボチャだと思えばいいんだ。真面目に相手にしすぎるから、台詞が増える。」

 ふん、と心の中で毒づいた。いったい、誰のせいだと? その傲慢な態度で複数の女性とつき合ったりするから、揉め事が起きているのに。だいたい妻のバースディ・パーティに過去の女を、それも複数。呼ばないだろう、普通は。

 里桜は深々と深呼吸した。

「解りました。なるべく喋らないようにする。ただ笑ってればいいのよ。」

「それも要らないけどね。君は気づいてる? 品定めされてるのを。」

「ああ‥。さっきの女の人たち?」

「そっちは片づいた話。これから先の話だよ。気づかなかったならいいけど。」

「‥?」

 ゆっくりと庭園へ向かって歩き出す。横顔を盗み見ると、金色の瞳はまた虚ろな色を醸し出していた。

 不意に顕彦は立ち止まった。空を見上げている。

「どうしたの? 何か、視える?」

 いや、と答えて心配する里桜を振り向き、彼は微笑した。やけによそよそしい微笑だった。胸騒ぎがする。

「雲行きが怪しくなってきたから、夕立が来そうだと思ってね。心配しなくてもいいよ、里桜。それだけだから。」

 里桜は無性に不安でたまらなくなった。無意識に体が動いて、顕彦の胸に抱きついていた。

「どうした?」

「‥‥今、何だか違う人みたいに見えた。」

「え?」

 ―――行かないで。ここにいて、あたしのそばに。

 なぜかそんな想いがふつふつと湧いてくる。馬鹿げた考えだ。口に出してはいけない。でも不安が打ち消せない。

 里桜はぴょん、と跳びずさって離れ、無理に笑顔を拵えた。

「ごめん‥。あたし、ほんとに嫉妬(やきもち) やいてるみたい。バカだよね、バカだから‥。」

 どんどん空が薄暗くなっていく。たった今まで、快晴だったのに。

 もう少しだから。そう顕彦は呟いて、背を向けてすたすたと歩き出した。


 薔薇園のいつもの場所で、野依が空を見上げていた。

 ちょうど通りがかった里桜を見つけ、何か言いたそうに口を動かした。大勢の人がいるせいか、いつもほど以心伝心という訳にはいかなかったけれど、そのただならない恐怖と不安だけはひしひしと伝わってくる。

 立ち止まり、同じように空を見上げてみた。

 真っ黒な雨雲がもくもくと湧いてきている。遠い雷鳴が聞こえる。不協和音。不穏な空気。野依の記憶から恐怖が里桜に伝染してきた。

「顕彦さん。お天気が変。お部屋に移動していただいた方がいいんじゃない。」

 顕彦はぼんやりと立っていた。まるですぐ隣の里桜の声が聞こえていないみたいだ。里桜は彼の腕を強く引いて、もう一度名を呼んだ。

 彼ははっとした表情で振り向いた。

「どうしたの? 何か視えるの。」

「いや、そうじゃない。ただ‥‥。誰か、呼んでる‥。僕じゃない僕を。」

 里桜は自分の全身から血がすうっと引いていくのを感じた。脚が震えてくる。

「駄目っ、応えないで。そんなの無視して、あたしを見て。」

 手をきつく握りしめ、屋敷へと戻る方向へ強引に引っ張っていく。

「里桜‥。」

「戻りましょう、ここにいたら駄目。凄く嫌な感じがする。」

 うん、とうなずきながらもどこか放心状態に見える。

 途中で会った佑樹に、お開きにするよう唐沢への伝言を頼んで、里桜はまっすぐに屋敷に向かった。しかしどこへ連れていけば安全なのか、解らない。薔薇園は今まで、屋敷内で一番安全な場所だったのに。どうしたらいい?

 突然雷が轟いた。

「近くに落ちたようだ。」

「あっちよ。稲光が見えたわ。」

 ざわざわと人々が騒いでいる。皆、屋内へと移動し始めていた。出入り口になっているテラスを避けて、人のいない玄関へと回る。

 不意に顕彦が立ち止まった。手がひどく冷たい。

「里桜‥。どこにいる? ここはどこ‥‥。」

 微かに呟いて、彼は崩れ落ちるように倒れた。

 里桜は急いで屈みこみ、彼の頭を抱え上げて膝に抱いた。

「あ、顕彦さん‥‥? どうしたの、ねえ、どう‥‥」

 完全に意識を失っている。真っ白な頬がとても冷たい。躰じゅうがやけに冷たい。まるで―――死人のように。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ―――里桜はすさまじい悲鳴を上げて、彼の躰を抱きしめた。

 大粒の雨がざああっと降ってきた。

 何人かの足音が激しい雨音に混じる。話し声も。

 泣き喚いている里桜を誰かが引き離そうとした。里桜は離されまいと抵抗する。耳元で声がした。

「落ち着け、里桜ちゃん。大丈夫、気を失ってるだけだ。息をしてるよ。」

 廣一朗だった。里桜は抵抗を止めて、廣一朗の方を見た。

「ほんとう? でも、すごく冷たくて‥。」

「うん。大丈夫。今、医者を呼んだから。濡れないうちに君も中に入ろう。」

 気がつくと未紅と邑子が心配そうに見ていた。里桜はごくんと唾を呑みこんで、気を落ち着かせる。そしてへへっと笑ってみせた。

「あたしってば。取り乱しちゃって‥。ごめんなさい、驚かせて。」

 未紅が駆け寄ってきて、頭からぎゅっと里桜を抱いた。

「ばか‥! 笑わなくていいよ、こんな時に。」

「未紅ちゃん‥。」

 土砂降りの雨が、辺り一面をどす黒い灰色に塗り替えていく。

 里桜はひっそり涙を拭った。

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