CHAPTER 0
もし生まれ変わることができるとしたら、日に三度のご飯をちゃんと食べられる家に生まれたい。
バイト帰りに深夜の屋台で熱いラーメンをすすりながら、しみじみと里桜は思った。
考えてみたら今までの十九年と七ヶ月余り、三度ご飯を食べた日は圧倒的に少ない。お腹いっぱい食べたという経験は皆無と言える。
―――はああ。
深い溜息とともに、ラーメンの湯気に当てられて鼻水が出た。
「未紅ちゃん。ティッシュ分けてくんない?」
「里桜ったら、もう。ラーメンの中にたらすなよ。」
隣で食べていた未紅は、がさごそとポケットを探って、残り少ないポケットティッシュを掴み出すと、里桜に手渡した。
「里桜って花粉症だっけ?」
「ううん。けど寒い日に熱いもの食べると、鼻水出るじゃん。出ない?」
里桜は勢いよく鼻をかみながら、そう言って笑った。鼻の頭が真っ赤になって、眼鏡がずり落ちそうになる。その顔を見て、未紅は吹きだした。
二月の底冷えのする夜、その屋台の周りだけは空気も温かい気がした。
とりあえず日払いでもらったバイト料がお財布に入ってるだけでも、今朝よりは幸せだった。明日はまた新しいバイト先を探さなくてはならないとしても、とにかく今夜は。
「おじさん、ごちそうさま。」
最後のスープの一滴まで余さずたいらげて、里桜は立ち上がった。
「じゃあ帰るよ、里桜。タクシー乗るお金はないからね。歩くよ。」
「はあい。お伴しますぅ、未紅ちゃん。」
二人はまた笑い合い、空元気を絞り出して歩き始めた。
吉野里桜は死んだ母親が残した借金を払うため、高校を中退して既に二年、昼夜なくバイトに明け暮れていた。しかし借金はいっこうに減りもせず、とうとう先月アパートも追い出されてしまい、未紅の部屋に居候させてもらっている。いよいよ風俗嬢にでも転職するしかないかと考えてしまう今日この頃ではあるけれど、やせっぽちの貧弱な胸ではそれもどうかと思う。
長内未紅は里桜より二つ上で、小さな劇団に所属していた。
親から一応部屋代分だけは仕送りしてもらっているけれども、生活費とレッスン料を稼ぐためバイトに追われている。二人は先月バイトで知り合ったばかりだが、家賃が払えなくて部屋を追い出された里桜に同情し、掃除と洗濯をする条件で泊めてくれていた。
「ねえ、里桜。あんたさあ‥夢ってある? こうなりたいなぁ、とかあんな風に暮らしたいなとか。」
冷たい手に息を吹きかけて、里桜は隣を歩く未紅の横顔を振り返った。
「何? いきなり。」
「うん。あたしはね、いつかちゃんとしたミュージカル女優になりたくて、毎日頑張ってるのよね。高いレッスン料必死に払ってさ、ダンスのレッスンして。やめたらお終いだと思ってるから、続けなきゃって。ね?」
「うん。」
「そりゃさあ。続けりゃなれるって保証はないけども、いつかきっとって信じてるんだ。だから頑張れる。でも、里桜は?」
「あたし?」
「そう。あんたの頑張りには先がないじゃない。なんか‥見てて切ないよね。だから、借金払い終わったその先に、何か夢みたいなものはないのって聞いてるの。」
里桜はよくよく考えてみた。
「あたしは‥‥。そうねえ、ご飯がちゃんと食べれて、ずっと住んでていい家がある暮らしがしたいかな。ちゃんと根を下ろした生活がしたい。」
「わ‥。切実。それが十九の乙女の見る夢かい。」
未紅は溜息をついた。しかし里桜はまた笑った。
「夢だってば。シンデレラになりたいんだもん。王子様が現れて、それからずっと幸せに暮らしましたってやつね。多少くたびれててもしょぼくれててもいいから、誰か借金払ってくれて結婚してくれる王子様が出てこないかな。」
「それは夢っていうより幻想だね。第一、そんな化粧もしない女に王子様が現れるわけないって。玉の輿願望ならもっと磨きなさいっての。」
「あはは。化粧品に使うお金があるくらいなら、ご飯をもっと食べる。」
里桜のにまっとした顔をつくづく見て、未紅は苦笑した。
「かくして貧乏はスパイラルに入る、と。ほんと、その気持解るわ。」
ところが三月初旬のある日、吉野里桜ははからずもその晩の会話をしみじみ思い出す羽目になった。まさかの玉の輿の話が降ってわいたのである。
その夜未紅の部屋に戻ると、里桜宛に分厚い封書が届いていた。
差出人は『山辺弁護士事務所所長 山辺和宏』とある。弁護士から手紙だなんて、まさか母親の借金が他にもまだあったのだろうかとひどく不安になった。
だが書かれていた内容は突拍子もないものだった。
山辺事務所が代理人を務めている鷹森という名の旧家の依頼で、消息不明になっている血縁者を捜していたところ、現当主の曾祖父と里桜の曾々祖母が兄妹だと判明したとかいう話で、つまり里桜の亡くなった母がその当主さまとまたまた従姉弟にあたるのだそうだ。なんでも曾々祖母は戦前に駆け落ちして家を出たため今まで縁が切れていたけれど、やっと唯一の子孫である里桜を探し当てたからぜひ一度会いたい、と書かれている。
里桜にしてみれば、それだけ昔の繋がりではすでに『血縁者』の範疇には入らないのではないかと思うので、今更わざわざ会いたいと言う意図がさっぱり理解できない。
しかし更に驚くべきことに手紙には、里桜がもし当主と結婚する意思があるならば現在抱えている借金はすべて肩代わりするし、十分な支度金も用意すると続いていた。
「何これ‥? 新手の結婚詐欺?」
だが詐欺にしては話が込み入り過ぎている。
しかも同封されている戸籍謄本は本物で、確かに曾々祖母の欄に『鷹森』―――旧伯爵家だそうだ―――という名があった。
未紅に相談したいと思ったが、生憎と彼女は十日間の地方公演中だ。いつものとおり公演中には未紅の携帯は通じなくなる。
仕方なくひとりでネットカフェに立ち寄り、山辺事務所とやらを検索してみた。
山辺弁護士事務所は設立が明治時代になっているような古い事務所で、所在地は銀座だ。掲載されている所長名、住所、電話番号などは同封の名刺と一致している。
里桜はとりあえずホームページの事務所の番号に電話してみた。ほんとうに山辺和宏という人物が出した手紙なのかどうか確認するためだ。
電話口に出た人物は里桜の名を聞くと、非常に愛想良く面会の都合を聞いてきた。こちらへ出向くというのを何とか断って、里桜の方から事務所を訪ねると告げると、彼は快く承諾した。どうやらちゃんと存在している事務所らしい。
半信半疑ではあったけれど逡巡の結果、里桜は話を聞いてみることに決めた。あと一日で今のバイトが終わりで、まだ次が決まっていなかったからだ。
山辺和宏は年齢は五十才前後、派手ではないが上質なスーツをきちんと着こなした品の良い男だった。いかにも高給取り、といった感じに見える。安手のセーターとジーンズ姿の里桜は、自分がひどく場違いな気がして帰りたくなった。
山辺はにっこりと微笑んで、里桜に椅子を勧めた。
「吉野里桜さんですね。どうぞ、お座り下さい。」
「はあ‥‥。」
山辺の説明によれば、鷹森 家には旧家特有の閉鎖的な因習があり、当主の結婚相手は親族の中から選ばなければいけないという決まりなのだそうだ。ところが今のところ該当する妙齢の女性がいないので、現在の当主である鷹森顕彦の依頼で、消息不明の血縁関係を調べて相応しい女性を探していたと言う。運良く里桜が見つかってよかった、と山辺はにっこりと笑いかける。里桜が断るはずはないと言わんばかりだった。
一方で里桜の脳内には、はてなマークが大量に飛びかっている。
「でも‥いくら家の決まりでも、こんなのって無茶苦茶じゃないですか。あたしは自慢じゃないけど、逆立ちしたってそんな大層な家の人間には化けられませんよ。メイドなら頑張ればいけるかもしれないけど‥。」
「お嫌なんですか? あなたにはいい条件だと思いますが。調べた限りでは交際しているお相手はありませんよね。お好きな方でもいるのかな。」
「いませんよ、いるわけないでしょ。そうじゃなくて‥。」
山辺は再びにっこりと微笑んだ。
「承知していただければあなたの借金は清算しますし、その他に支度金として三百万ご用意してあります。まあ、当面のおこづかいといったところでしょうか。それからご心配なさらなくても、いきなり鷹森 家に行くというのではなくてですね、二ヶ月ほど準備期間を設けますから大丈夫ですよ。」
「準備期間‥‥ですか?」
「そうです。一流ホテルのスイートルームをご用意してあります。そこで礼儀作法、マナーなどの講習。それからエステ、美顔、エクササイズなど美容関連のメニュー。そういったものを受けていただく傍ら、スタイリストについて着物やドレス、アクセサリーなど鷹森家に相応しい品を一通り調えていただきます。手配やスケジューリングは専任担当者がつきますので、あなたは特に何も考えず彼女に従って下さればいい。」
「‥‥そんなハリボテの嫁でいいんですか? 当主様があたしを見てがっかりしても、責任とれないんですけど。後でかかった費用払えって言われても無理ですよ?」
山辺はいまやくすくす笑いが止まらないようだった。
「言いません。今はご理解できないかもしれませんが、顕彦氏には選択の余地はないのですよ。かなり広範囲に探したのですが、該当する女性はあなた一人しかいなかったんです。それに正直に言えば、あなたがうんと言って下さらないとわたしにも報酬が入らない。この件についてはただ働きになってしまうわけです。どうでしょうね、この際うんと言っていただけませんか?」
里桜はうんと言った。
里桜にも選択の余地はないように思えたからである。仮に瞞されているとして、何か里桜に失うものはあるだろうか? 第一たかが里桜ひとり瞞すのに、こんなに手間暇大金かける馬鹿はいない。
吉野里桜はその日から、スイートルームの住人になった。
その日の午後八時頃。須藤コンサルティングオフィスの所長室で、須藤廣一朗は山辺和宏からの電話報告を受けていた。
「じゃ、うまくいったんだね。それはよかった。」
ほっと安心したように、端正な顔を綻ばせる。
「ところでどんな子なの? 彼女のママはずいぶんと男関係が派手だったようだけど、似てるのかな?」
「正反対のタイプですよ。化粧っ気がなく痩せていて、外見は中学生の男の子みたいです。ま、顕彦氏は外見はどうでもいいと仰ってましたしね。性格は温和で素直な印象を受けました。苦労しているわりにすれたところがないと言うか‥。」
「ふうん‥。ママが反面教師だったのかな? ‥とにかく了解したよ、あとはこちらで引き受けるから。ご苦労さま。」
電話を切って、廣一朗はもう一度ふうん、とうなずいた。
「吉野里桜か‥‥。頃合いを見て、僕も彼女に会いに行くとしようか。」
独り言を呟いて、彼は苦笑とも見える微笑を浮かべた。