とある聖夜から始まる
「リア充なんて爆発すればいいのに」
外に広がる暗闇で、 廊下に並ぶ窓には明るい室内がまるで鏡のように映っていた。
横目でそれを眺めていると並んで歩く一組の男女の姿が次々に窓を移動して、 その姿だけを切り取ればきっとリア充にも見えるのかもしれないけれど、 医療スクラブを着ている時点できっと色々と何かが違うのだ。 それに二人が浮かべている疲れ切った表情も。
私が呟いた言葉は既に午後7時を回って人気も少なくなった辺りにしん、 と落ちて、 隣でファイルを抱えていた男がはは、 と軽く苦笑して言った。
「まさかクリスマスまで病院実習やるなんてね。 しかもこんな時間まで」
「今日は平日。 クリスマスなんてリア充専門の行事は関係ありません」
「っていう強がり、 今日これで何度目?」
そう言って顔を覗き込んでくる男――宮村に私はふん、 と顔を背けた。
別に良いのだ。 クリスマスなんて。
過ごす恋人も一緒にいないし、 友人だって実習を終えていそいそとデートに向かってしまったし。
帰ってご飯を食べて寝る――そんな日常と変わらないのならば、 其処に特別を冠する必要はない。
それにしてもせめてもの慰めのつもりなのだろうか。 無駄にイルミネーションされている大学構内の色艶やかさが若干辛い。 どうせそこまでやるなら、 創設者の銅像にサンタクロースの格好でもさせやがれ。
「クリスマスって本当はイエス・キリストの誕生日じゃないんだよ」
此方側の景色を抜けて光るイルミネーションに足を止めながらおもむろに私が言うと、 宮村も同じように足を止めて私の横に並んだ。
「なんかそれ聞いたことあるなぁ。 元々は冬至祭か何かなんだって話」
「まあきっと誰も気にしていないんだろうけど」
私はそう言って肩をすくめる。
クリスマスの起源なんて、 きっと街中に溢れかえっている人間にとっては無意味に違いない。
ただきっと世間が特別だと思う一日があって、 その一日を誰か大切な人と過ごしているという事実が結局のところ大事なのだ。
ジングルベルやきよしこの夜が流れまくって、 光を綺麗に装った街並みを並んで歩いて、 ささやかなプレゼント交換をしたり、 お洒落なディナーを食べたり――そんな "特別" な日。
そういう風に思っている人間にとっては、 何時もと変わらない冷たい外気も格段に甘く柔らかく絡み付いて感じるのだろうか。
私はそう思いながら、 何が楽しいのか口元を緩めて外を眺めている宮村を見やる。
「あんたそう言えば、 彼女いたでしょ」
昔そんな話を聞いた覚えがある。 それならば彼もまた私とは違って、 今日という一日に "特別" を見出しているはずなのに。
私に付き合ってか一向に帰路を急ぐ様子を見せない宮村に私は逃亡のチャンスを差し上げることにした。
「……真木って、 俺にあんまり興味ないよな」
そういう彼の表情は心底呆れているようで、 それでいて何処か寂しげだったので私はすっかり慌ててしまった。
どうやら失言だったらしいというのはその表情だけで十分伺い知れた。
「あ、 ごめん。 いや別にそういうわけじゃ、」
「別れたの半年以上前なんだけど」
――どうやらではなく確実に失言だったらしい。
じと目で此方を見てくる宮村から顔を背けて、 あちゃーと紙の山に額を埋める。
知らなかったとはいえ古傷をえぐるような真似をしたこと申し訳ない。
全身で謝罪の意を示している私の後ろで、 宮村がふっと笑った。
「嘘だよ」
「え、 別れたのが?」
「そっちじゃなくて。 別に怒ってないよってこと」
「ああ」
それなら良かった、 と安堵を漏らした私に宮村がまた笑った。
再び歩き出した私達の間で、 会話が途切れる。
時折すれ違う同じような境遇の人間達と憐憫にも似た視線を互いに交わしながら、 合い言葉のように「リア充爆発しろ」などと言い合っていると、 始終黙り通していた宮村が不意に言った。
「真木はリア充にはならないの?」
「宮村は私に喧嘩を売りたいの?」
今度は私が怒っていい番だろう。
"ならない" のと "なれない" のはたった一文字違いなのに、 其処にはマリアナ海溝よりも余程深い隔たりがあるわけで。
キッと半ば八つ当たり気味に宮村を睨み付けると、 彼は不思議と楽しそうに笑った。
「真木はリア充にはなりたいの?」
「宮村は言葉遊びがブームなの?」
先程とたった一文字違いの台詞を繰り返した宮村に私が言うと、 「楽しいでしょ?」 と何がとは明言しないまま首を傾げる。
私はそれには答えずに、 少しだけ考える素振りを見せた。
――もしリア充になったとして、 それで日常とさして変わりないはずの世界はずっと輝いて見えるのだろうか。
目が痛いだけだと思っていたイルミネーションをロマンティックに感じたり、 流れるBGMに思わず鼻歌で合わせてしまったり、 そんな風に心が躍るのだろうか。
この20数年間何回かは確かあったはずだった "特別" を思い返そうとして――それを阻まれた。
「……何してくれちゃってるんでしょうか」
「なんか俺の気に入らない展開になりそうだったから強制終了?」
器用に片手でファイルを抱えて、 自由になった宮村の右手は何故か私の頬を鷲掴んでいた。
朝に整えただけの化粧を直す気力もつもりもなかったせいで、 すっかり落ちかけているファンデーションが崩れるなどと今更言うつもりはないのだが。
それにしたって仮にも乙女――いや、 妙齢の女性を無造作で掴むその手つきは如何なものか。
私は彼のように器用ではなくて、 抱えているプリントに両手をふさがれたまま、 唯一自由になった足でげしげしと彼の脛辺りを蹴った。
「それで、 どうなの?」
「どうなのって――このままの状態で会話を続けようとする宮村はどうなのよ」
決して強い力ではないが、 両頬を抑え付ける宮村の手に喋る度に私の息が掛かる。
何故当の本人はそれを涼しげに受け流して、 私の方が若干気まずい思いをしなければいけないのだろうか。
けれど宮村は私の抗議を右から左に聞き流して、 にこりと笑った。
「例えば真木を好きだって男が現れて、 そうしたら真木は残り少ないクリスマスをその男と過ごす?」
「は? いやまあ……」
それは、 どうだろうか。
其処まで切羽詰まっている思いは正直ない。
リア充になれるなら相手が誰でも良いというわけではなく、 多分どうでもいい相手とならば世界はちっとも輝いて見えないに違いない。
それならば、 一人気楽にテレビでも見ていたほうが余程充実していると思う辺りがリア充から遠ざかる由縁なのかも知れない――と、 今更ながらに気がついた。
「知らない男と数時間でも一緒に過ごすって凄く苦痛」
「じゃあ知っている男。 例えば同学年とか」
「んーどうだろう、 少しでも良いなって思っている相手なら一緒に過ごすかも知れないけど。 それ以外は多分断るよ」
そこまで言って、 なんだか随分と上から目線になってしまったなと思った。
まあしかし、 例え話の中なのだから許容範囲だろう。
相変わらず頬に感じる彼のざらついた手の感触にも慣れ始めて、 斜め上にある彼の双眸を私は真っ直ぐ見つめた。
宮村の瞳孔が僅かに開く。
交感神経の作用だろうか。 彼の瞳孔散大筋は正常に機能しているようだなんて暢気に考えている私の頬から彼の手が離れて、 ようやっと解放されたと思ったら、 今度は親指で唇を撫でられた。
「――じゃあ俺がそう言ったらどうする?」
始終人の良さそうな笑みばかりを浮かべている草食系の癖に、 こういうときだけ何故彼は肉食獣のように笑うのだろう。
ぞくりと背中に走ったのは戦慄か、 或いは別の何かか。
人通りがほとんど無いとはいえ此処が廊下だということも忘れて、 まるで世界に二人だけしかいないかのようにあらゆる音が遠ざかって、 彼の声だけが鼓膜を伝って耳小骨で増幅され、 リンパ液を揺らしながら電気信号と成り変わって脳内に響く。
「真木は断らないでくれる? 今日という残り数時間を俺と過ごしても良いかなって思う?」
催眠術師の声というのはきっとこんな風に聞こえるのだろう。
疑問系の癖に断定的な響きを滲ませて、 否の答えを最初から奪っているように。
唇に当てられっぱなしの親指がもう一度、 私の乾いた唇を撫でた。
「――頷いたら、 どうするの」
唇にあたる他人の温度がこそばゆい。
出来る限り口を動かさないようにして紡いだ言葉は、 弱々しく震えているようにも聞こえた。
まるで私とは対極にある、 か弱い女の子のようだ。
そう冷静に思いながら、 一方でドキドキと五月蠅く鳴り響く胸が息苦しさを助長する。
きっと顔は真っ赤なんだろうな。
鏡を見なくても分かる。 顔の毛細血管が開いて身体中の血液が其処に集まっているかのような感覚に足下が揺らぐ。
宮村が心底楽しそうに笑った。
「そうしたら二人してリア充だ」
「――ということは二人して爆発することになるのかな」
「それは困るなぁ」