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私の町は一面に田んぼが広がる田舎町です。この町を出た事のない私にとって、ここが私の世界の全てであり、何にも代え難い大切な居場所でした。
私には名もありません。町の皆が私を見かけると決まって「野良ちゃん」と呼びかけ、時には余った給食のパン、わざわざ買ってきてくれたのかモンプチ缶などを食べさせてくれるのでした。私をいじめる子供はいません。時々他の連中と喧嘩をしてかき傷を作る事くらいはありましたが、この町での私の日々は本当に平和なもので、しかし平凡であっても退屈なんかしたことはありませんでした。緑の木々が私の遊び場。風が私に語りかけて毛を撫でていき、川の水に映る自分の姿を透かして魚が泳ぎまわる。町の子供たちが網を片手に魚をとろうとしています。田んぼには、時期が来れば水が引かれて稲がすくすくと伸びていきます。この前は小ぢんまりしていた稲が、いつの間にか私の背を追い抜いていく。そんなのどかな風景に、飽きることなどありません。私はこの大好きな町にいて、大好きなものに囲まれて、幸せだった。
だからこそ、私はここを出ていくのです。知っていましたか? 私たちは人間に死に様を決して見せないということを。私たちは自分の死期に敏感なのですよ。私は今宵、死ぬでしょう。
私を可愛がってくれた名も知らぬ人たちに、私は自分の死に様を見せたくはありません。ある清々しい朝、目覚めて学校へ行く途中、見知った私が道端に薄汚れた姿で横たわっていたとしたらどんな気分になるでしょう。毎日撫でていた毛並みが雨風でボロボロになっていたら、一体何を感じるでしょうか。
ならばいっそ、見慣れたこの町を抜け出して、何も知らない町と人の前でひっそりと、まるで単なる道端の小石のような風貌で私は死にたいのです。
私がいなくなって悲しむ人はいるでしょうか。でも私の死を見ずにいることで、きっと私の生存を信じ続けてくれる人たちもいるはずです。その人たちの心の中で私は、生きた存在としてずっと野原を駆け回っているのだろうと思うのです。
大好きな町。私はこの町の名前も、そしてそこに住む優しい人たちの名前も知りません。
そして私は、名もなく死んでいきます。名前などなくとも私はここに居た。悲しくないと言えば嘘になるけれど、きっと町は、この町は私の生きた形跡を所々に留めて、これからもずっとこのまま優しい空気を育んでいくはずです。それを思えば、私は怖くない。
でも、もしもう一度この世に生まれるとしたら、また名もないこの私として、ここに戻りたいと強く願うのです。
了