5品目
ヒロを連れてお店に戻ると、お父さんと出口先生がカウンターで何やら明るく言い争っていた。
「ははは。何度言っても無駄だ。小夜ちゃんからの膝枕は、俺が診察料として取り消したんだからな。報酬として受け取ってしまった以上、反故にはできんさ」
「これだけ頼んでるのにダメだとー! いくら世話になってるお前でも、親子の触れ合いに干渉するのは許さんぞ!」
「何を言ってやがる。年頃の娘に甘えてるダメ親父の横暴を止めただけじゃないか」
「小夜子が一緒に居てくれればいーのだ。他人からダメ親父と言われよーが、ドタコンと言われよーが。ああ〜小夜子の膝枕〜」
な、な、何を恥ずかしい事を言ってやがりますか! このダメダメ親父はっ!!
驚きと恥ずかしさから、慌てて二人を見やると、その席には日本酒の一升瓶が転がっているのが目に入る。
……お酒も含め、ダメお父さんなのは解っていたけど……その上ドタコン?
ドタコンと言ったらアレだ、父親が娘に執着して、彼氏との仲を邪魔したり、下着に至るまで毎日チェックする事を生き甲斐にしているアブナイコンプレックスを持った父親の事――全て偏見――だ。
もしそうなら……人の道を外れる前に、あたしがお父さんを矯正――武力行使含む――してやる!
「……ベタベタしてくるようだったら、絶対、引っぱたいてやるんだから」
あたしはこみ上げてきた怒りを言葉に込め、静かに言ったのだが……。
「あ、小夜子〜」
あたしが全身から出していた怒りのオーラは全く伝わらなかったらしく、破顔したお父さんが飛び掛かって来る。
あたしは脇に立ててあるモップを手に取り、冷たい視線で一瞥すると――お父さん目掛けてモップをフルスイングした。
お父さんはそのまま天井を突き破り、お空の星に――なんて都合良くはいかず、お店の隅に転がっていく。
何だかヒロが、顎が外れんばかりの表情をしていたような気がするけど、きっと気のせいだよね! うん。
ちなみに、ベランダから戻ってくる時に、ヒロって呼んでいいか聞いてみたらあっさり、
「構わん。親方や兄弟子達にもそう呼ばれていたしな」
と言ってOKしてくれた。
「小夜ちゃん。倒れていた彼はもういいのかな?」
そんな光景を目の当たりにしても、慣れている出口先生は何事も無かったように、爽やかな笑顔をあたしとヒロに向ける。
「はい。先生のお陰で何とも無いみたいです」
「……小夜子、あちらのお方は?」
「近所で開業されているお医者の先生で、うちの常連のお客様でもある出口先生。ヒロが倒れてたから、診察してもらったの」
あたしが紹介すると、ヒロは出口先生に近寄り、正座して頭を下げた。
「私は松永博巳と申します。お医者様にお世話になっていたとは、大変ご面倒をお掛け致しました。ただ、お代の方を直ぐにお支払いしたいのは山々なのですが、あいにくとこれだけの手持ちしかありません」
ヒロは腰元から布製の包……財布(?)を取り出し、歴史の教科書で見たような昔の人の絵と“五圓”と印刷された紙を差し出す。
「え?」
驚いたのか、ポカンとして動きを止める出口先生。
「足りないのは重々承知ですが……」
「な、なんで5円札を? あまり詳しく無いけど、5円札って確か、昭和初期にしか出回ってなかったような……」
ヒロが差し出した紙は5円札と言うらしい。
ヒロが言ってる事が正しければ、出口先生の言う“昭和初期に出回ってたお金”を持っていても不思議では無いけど……。でも5円。5円じゃチョコくらいしか買えない。
「あの、先生。あたしも良く解ってないんですけど、ヒロ……松永博巳さんは昭和4年のお生まれらしくて。えーと……」
「……」
あたしはしどろもどに説明をしようとするが、出口先生の顔が一気に険しくなる。
「待って。小夜ちゃんから聞いても、余計解らない」
「え、あ……ごめんなさい」
自分が理解していない状態では、人に説明なんてできない。そんな、接客の初歩的な事を忘れて、あたしは失態を犯していた。
そりゃそーだ。良く解ってない事は言葉にできないもんね。
「松永君と言ったね?」
「はい。松永です」
「初見で申し訳無いけど、君がここに来た経緯とか細かい事を教えて貰えないかな?」
「自分も状況が解っていないので、大変恐縮ですが……」
出口先生の前で正座しっぱなしのヒロに椅子を勧めると、あたしは調理場へ向かう。
出口先生は日々問診をしているプロのお医者さんだから、上手に色々な事をヒロから聞き出し、あたしでは解らない事も解かるかもしれない。なので、邪魔にしかならないあたしは自分に出来る事をするべきだ。
あたしに出来る事。それは、ヒロの食事と先生の肴を用意する事。
色々と喋っていると結構お腹減るしね。
調理場に立ったあたしは、お盆を用意してコンロに火を入れる。
ヒロにはご飯、お味噌汁、サバの塩麹焼、香物で御膳を、出口先生にはヒラマサのお造りを用意した。
――――――――――――――――――――
出来上がった御膳とお造りを両手に持ち、二人の前に置く。出口先生にはもちろん御酌付きだ。
言ってなかったけど、出口先生はすごーくお酒に強く、すぐに酔っ払ってベロンベロンになるお父さんとは真逆で、飲んでも飲んでもしっかり――たまに抱きつかれるけど――しており、二日酔いになった所も見た事が無い。
「さ、二人共食べて下さい」
「ありがとう、小夜ちゃん」
にこやかに言うあたしに、出口先生はすんなりと箸を持つのだけど……。
「用意してもらったのに悪いが、先生にも申し上げたように俺は手持ちが無い」
ヒロは手を振って拒否した。
……だけどお腹は正直者らしく、平然している顔とは逆にぐぅぅっと盛大な音を立てる。
「お代はいらないわ。それに、お腹空いてるでしょ」
「……ありがとう。…………この恩は忘れん」
箸を取り、お礼と一緒にヒロが何か言ったような気がしたけど、良く聞こえなかった。それに、直ぐにヒロはご飯を食べだしたし。
「これ、小夜子が作ったのか?」
「うん。一応、料理屋の娘だし不味くは無いはずよ。遠慮何てしないで食べてね」
「いただきます!」
ドヤ顔で言うあたしを見てお膳に顔を向けると、ヒロは手を合わせて大きな声で言った。そして真っ先にご飯から箸を付ける。
バクバクと勢い良く美味しそうに、そして嬉しそうに食べているのはあたしの自意識が過剰な所為じゃないよね?
だって、そんな風に食べてくれたら、作り手としても嬉しいし、作り甲斐があるもん。
「小夜ちゃん。ヒロ君に色々と聞いてみたよ。5円札を持っているなんて珍しいと思ってたら、何と言うかね……」
「何か解ったんですか?」
あ、出口先生まで呼び方が“ヒロ”になってる。
「うん。ヒロ君はその、どうやら本当に昭和初期の生まれらしい……。5円札はそこまで高価なものじゃ無いから、ネットとかで買ったのかとも思ったけど……他の硬貨や、昭和の戦争中にしか使われていなくて、現存しているのが希少な配給切符まで持っていたし、他にも色々と聞かせてもらったら、昭和初期を生きた人じゃ無いと説明できない事ばかり知っていたしね。それで、彼はここに来る直前に、近くで爆弾が爆発して爆風に巻き込まれたみたいだから、その衝撃でタイムスリップでもしたんじゃないかと思うんだ。まあ、これは勝手な憶測でしかないけど」
「タイムスリップとかはどうでもいいですけど……ヒロが言ってる事に嘘は無かったんですね」
「カマかけの質問とかしてみたけど、話す内容に矛盾が無かったし、実際に体験してないと説明できない内容も結構あったからね。例えば、運行しているSLに乗った時の話しとか」
確かに、あたし達の年代で動いているSLに乗った事のある人間は少ないからだろう。もちろん、見た事はあっても乗ったことの無いあたしには、先生が説明してくれた『トンネルに入る前に乗客全員で窓を閉める』という話も良く分からなかった。
……まあ、頭の悪いあたしとしては、出口先生が言ってる事を信じるしかできないんだけどね。
「でも先生。ヒロは、帰る事はできるんですか?」
あたしの発言に、先生は目を逸らし、ヒロは箸を止めて遠い目をした。
「…………多分、無理だと思う。また、同じくらいの爆風に巻き込まれれば可能性はあるけど」
「だったら、少なくとも明日まではここに居れるんですよね?」
「確証は無いけどね。それどころか、今日から住む場所を確保しないとマズいよ」
あたしの持ってた淡い期待。それがちょっとだけ現実味を帯びてくる。
というか、今のあたしは明日の予約の事に思考能力の殆どが回っており、それ以外の事がかなりおなざりになっていた。
……我ながら酷い人間だ。
「ね、ヒロは料理人なのよね?」
「ああ」
味噌汁に口を付けるヒロに、あたしは期待の籠った顔で聞く。
「率直に言わせてもらって、ヒロって……どれくらいの腕前なの?」
「兄弟子達が兵隊に取られて人手不足だったからな。“千歳”では一通りやっていた」
「ご飯食べてからで良いから、腕前を見せてもらえると嬉しい……かな」
あたしはお父さん譲りの縋るような上目遣いで、ヒロに訴えた。
「そうだ。それを聞こうと思っていたのだった。小夜子の父殿が確か、助っ人がどうのと言っていたが、何の事だったのだ?」
味噌汁を飲み終えたのか、ヒロは空になった器を置きいてあたしに顔を向ける。ちゃんと箸も揃えて箸置きに置いて手を合わせるあたり、礼儀作法がしっかりとしている事が解かる。
「今から話すのは、料理屋として凄く恥ずかしい話なんだけれど……」
と前置きをし、あたしは事の顛末を話し始めた。
「この“藤華”はお父さんとあたしだけでやってて、明日、急遽20人もの団体さんがご来店頂ける事になっているんだけど……今日、お父さんが利き腕を怪我しちゃってね。動転したお父さんが、ヒロを見て助っ人が来てくれたって言っちゃったの」
我ながら嘘では無いにせよ、大した創作話だ。それを本当に困った顔で言うあたしもあたしだけど……これでヒロに笑われでもしたら、恥以外の何者でもない。
「そう……だったのか。解った。まずは腕を見てもらうとしよう」
言うや否や、ヒロは席を立ち、調理場に入って来た。
「それで、調理道具や食材はどこに? 悪いが、自分の包丁は“千歳”に置いていたからな。今は持ってないぞ」
「あ、うん。鍋やボウル、バットの類はそれぞれコンロの上と下で、まな板はここ。包丁はあたしのこれを使ってもらって、食材は乾物がこの棚、生ものは魚がこの冷蔵庫で、肉が……」
片っ端から調理道具と食材の収納場所を説明していくあたし。
自分がされたら、こんなに覚えられないかもと思うが、ヒロは怖いくらい真剣な顔で、道具や食材を見て頷いていた。
もちろん「ボウルとは何だ?」とか、道具についてはその度に詳細を聞かれたけど。
「なるほど。道具の種類、食材の質と量、どれも相当なものだ……お医者様も仰っていたが、戦争が終わって日本はこんなに豊かになったのだな」
「昔の事は解らないけど、食材の量は確実に揃うわね」
「餓えないというのは素晴らしい事だ。それで、腕については椀刺を見てもらおうと思うのだが、どうだ?」
ヒロはちょっとだけ意味深な事を言い、挑むような職人の目をあたしに向けてきた。
椀刺――日本料理の特色が色濃く出ると言われる、お吸い物とお刺身の事だ。
確かに、短時間で腕前を披露しようと思えば、内容によっては他の料理よりも比較的短時間で出来るお吸い物と刺身は丁度いいかもしれない。
「椀刺でいいわ。道具や食材の場所、機器の使い方が解らない時は言って」
「では早速。焜炉はガスしか無いのか?」
「ええ。七輪もある事はあるけど、今は炭が無いから使えないわよ」
「解った。では、ガス焜炉の使い方を教えてもらいたい」
あたしは早速ガスコンロの前に行き、着火にライターを使うこと、レバーによるガスの開度などを説明した。実際に点火して。
説明が終わると、ヒロは昆布を取り出して出汁を取る。事前にお父さんが取った昆布出汁の事を教えておいたのだが、どうやら気に入らなかったらしい。
昆布出汁が用意できると、カワハギ、浅葱、酢橘を取り出す。
カワハギは薄造りにして半紙を被せると、酒と塩を混ぜたものを筆で薄く塗る。浅葱は2cm程の長さに切り、酢橘は小鉢に絞って果汁を取る。
次に、サバを取り出すと、薄く切って口に含んだ。味を見ているようだった。
続いてダイコン、大葉、山葵を用意すると、ダイコンは桂剥きに、大葉は塩で軽く揉んで水に通し、ダイコン9、大葉1の割合で重ねてけんを切った。
褄の用意が終わると、昆布出汁を入れた片手鍋をコンロに掛け、弱火で熱する。
待っている間にサバを平作り――魚を左から右に切り分けていく方法。一般的な刺身の切り方――に切り、お造りにして行くのだが、柔らかいサバの身を崩すどころか、まるで硬い物でも切るように角を立たせていく。
褄――ダイコンのけんと大葉――を小皿に盛り、サバの刺身を並べて行く。最後に、飾りを入れて薄切りにした大根の上へ、鮫皮のおろし器でおろしたわさびを盛って完成。
そのタイミングに合わせて丁度、昆布出汁から薄らと湯気が上がる。沸騰させずに火を止め、出汁に塩と僅かの醤油で味付けをする。
酢橘の果汁――ほんの一滴――、数本の浅葱をお椀に入れ、出汁を注ぐ。先程、薄造りにしたカワハギ2切れを浮かべて完成。
このお吸い物とお刺身があたしと、出口先生の前に並べられた。
ひとつ注意をしておくが、あたしが説明したヒロの調理法は後になって、彼から聞いたものだ。この時、ヒロは決して手元の動きを決して見せてくれず、あたしは細かい調理方法までは解らずにいたのだった。
「な、何か凄いんだけど……」
「仕込みができてないからな。あまり期待はしないで食べてみてくれ」
全く表情を変えずに、ヒロは言った。
迷った挙句、あたしはお吸い物から口にした。
優しく、でもしっかりとした旨味の出汁。舌の上でふんわりと蕩けてていくカワハギ……。後味が爽やかなのは酢橘のお陰だろうか。
続いてサバの刺身に箸を伸ばす。
うちの店に置いているサバは夏の間はゴマサバになるんだけど、見た目からしてあたしのお造りとは全然違う。
醤油を付けても、余計な醤油は鏡面の様な切り口を流れ落ち、七色の輝きを湛える切り口。口に含んだ鯖はプルンとした歯ごたえを楽しませてくれて、身はほんのりと甘い。……これは醤油の辛さが最低限しか残らないからかな。
そして、大根と大葉で作った褄。これがまた美味しい。サバなどの青魚は食べ進めるとどうしても独特の風味や脂が口の中に残ってきて後味が悪くなってくるのだが、ヒロの褄を食べると口の中をスッキリとさせてくれる。魚の身の柔らかさと対象的に大根のサクサクとした歯ごたえも心地良く、後味もさっぱりする。
ヒロが作ったお吸い物とお刺身は、あたし好みの素材の味を大事にしたものだった。ただ、あたしのお吸い物やお造りより美味しい。料理の路線が一緒なら……味の差はあたしとヒロの腕の差だ。
「美味しい……悔しいけど、あたしが作るより美味しい」
箸を置き、自覚した敗北感からか、無意識に賞賛の言葉が出る。
「腕が良かったらいいな。とは思ってたけど……まさか、これ程なんて」
勝負したつもりは無いけれど、完全に負けたという気分でヒロを見る。
何だか、先程ヒロにドヤ顔で料理を出したのが非常に恥ずかしくなってきたぞ。あたしは。
あと、ついでに言えば、ヒロの料理は良い意味で、あたしの鼻っ柱を折ってくれた。今のあたしは、負けたままでなるものか! と向上心(対抗心?)が沸々と沸いてきている。
「年下の、しかも女にも劣るともなれば、俺は飯の食い上げだ」
ヒロはあたしから目を逸らすと、顔色一つ変えずにあたしを小馬鹿にするような事を言った。
……訂正。沸いてきているのは怒りだったようだ。何でそんなに上から目線の言い方なのよ! ムカつくー!
「……その腕前、明日だけで良いから頼らせてもらないかな。ちゃんと日当も出すから」
ヒロへの一時の感情――言い返したい!――を何とか抑え、あたしはお願いの言葉を絞り出した。
「俺は構わんが……父殿を通さずに決めてしまって良いのか?」
ヒロは、お父さんが関わってない事を心配しているのか、眉根を寄せて言った。
「この件は、お父さんに決定権は無いから大丈夫」
窮地を作り出し、助っ人のアテも無いお父さんには絶対に反論なんてさせない。このチャンスを逃したら、明日は大事になってしまう! あたしはその想いだけを念頭に、ヒロへと言い切った。
ただ、あたしはヒロが言うところの年下女で、経営から縁遠そうに見えるだろうから、ちゃんと日当が出るか心配しているのかもしれないと思い、頭の中で精一杯の金額をはじき出す。
日当……うぅ。この金額で受けてくれるのか、ものすごく不安なんだけど、黙っていても仕方が無い。
「それで、日当……腕に対して安過ぎだとは思うんだけど、5千円で良いかな?」
「……」
伏せ目がちな顔で提示した金額に、ヒロは大きく目を見開いてたまま動きを止めた。