42品目――出来立ての美味さ――
……ああ、行ってしまった。本当はヒロの話を聞いた後で甘えたかったのに。
安心半分、ヒロの反対による悲しさ半分のあたしの頭が思った事だった。
でも、ヒロの話を聞きながらいくつか引っかかる点があったんだよね。まずあたしが倒れた原因、あれは何となく察しがつく。聞いたことだけはある病状だし。あと、ヒロが生き残る条件……きっとあれだ、うん、あれしか無いと思う。
自分の頭の中だけを回転させつつ思考を巡らせるのだが、全てにおいて情報が穴抜けになっている事に気付き、あたしは思考を中断する。
(今日は一人で寝るしかないけど、回復したらもっと勉強もしないとな……)
横になったまま、今度は明日からの事を考える。
第一にヒロの事。もっと色々な話を聞かせてもらって彼の事を知るべきだ。それには二人っきりで話を聞いてみる必要がある。
第二にヒロがいた時代の事。これはヒロに聞くだけじゃなく、もっと勉強した方が良い。手始めに学校の図書室で歴史辞典でも探してみよう。
第三にあたしが倒れる原因。出口先生に聞くのが一番手っ取り早いけど、これも下調べはするべきだ。
あと、向こうに行って役に立つものを持って行けないかな?
思い付いた事を、スマートフォンのメモ帳に片っ端から書き込んでは保存する。そんな作業をこなしていると、本調子ではない身体が重くなり、遂には瞼も重力へと引っ張られだした。
――あたしはヒロと一緒に居るんだ。
そんな決意と共に深い眠りの海へとあたしの意識は沈んで行った。
丸一日眠り続け、翌々日に目を覚ましたあたしは、冴えた頭を良い事に早速行動を開始する。
学校の休み時間は図書室の物色に費やし、僅かでも時間が空けば借りた書物を読み漁り、お店の仕事をこなしつつ、出口先生や古田先生から情報を引き出す日々。もちろん、どんなに忙しくても、寝る前のヒロとの会話は忘れない。
そのお喋りの中で、どちらの未来を選ぶかの応酬を繰り広げてしまい、千秋さんに心配をかけた事もあったけれど、彼は頑固でも柔軟性がないわけではない事が解ったのは、私にとってちょっとした光明だった。
そんなこんなで文化祭が終わって学校行事は一段落しているにも関わらず、あたしはお店の運営に加えてお勉強まで始めたものだから、相変わらずのバタバタとした日々を過ごす事になっていた。
バタバタとした日々はあっという間に時間を進め、冬休みに入った頃。
無事にクリスマス商戦(?)を乗り切ったあたしは、いや、あたし達は家から電車とバスを乗り継いで二時間程の所にある温泉街へと来ていた。
何を隠そう、今日は従業員――親方は店長なので除外――で慰労のために温泉旅行に来たのだ。
……が、何故か先ほど降りたバス停から目的地の温泉に向かって歩いているのはあたしとヒロの二人きり。
てか、何で? バス停へ降りるとそこにはもはや見慣れてしまった山内さんのスポーツカーが止まっており、千秋さんは『女将さん、頑張って下さいね』と意味深な言葉を残し、車の主の手を取って行ってしまったのだ。後に残ったのは派手な装いに負けない爆音とすっかり無言になったあたし達、二人だけ。
「……いや、あの二人がそんな仲になってるなんて、ビックリだよね」
ついつい無言の空気に耐えられなくなって口に出してしまう。
って、そういう時くらいあんたが先に口を開いてよと思ってしまうんだけど、あたしが赤面して黙ってしまったら多分、うん、確実に無言の時間が続く。
「行っちゃったのはしょうがないから、温泉に入って美味しいもの食べて、パーッと日々の疲れを癒やしましょーよ」
バスの硬いシートで強張っていたこともあって、身体を大きく伸ばしながら、あたしはヒロに言う。
「……特に小夜子、お前がな」
やっといつもの淡々とした声が返ってきた。
重い荷物のほとんどを引き受けているにも関わらず、何事も無いかのように飄々と歩くヒロの手があたしの頭に乗せられた。
あれ? 思ったほど意識してないみたい。
だったらいっかと楽観視したあたしは、
「ヒロこそでしょ」
と、軽く拗ねたように言い、置かれた働き者の手を握り、それとなく手を繋いで歩くように仕向けた。
周りに誰も知った人間が居ないからこそできるちょっとだけ恥ずかしい事なんだけど、それを嬉しさと心地良さが上回る。
余計な事考えず、次は腕でも組んでみようかな。
そう思ってしまうくらい、手を繋いで歩くのが心地よかった。
二人でほとんど並んで歩いているようなものだけど、目的地を知っているあたしがヒロをやや引っ張る感じにはなっており、結局、目的の温泉宿――年季の入った建物だけど、入浴後に休憩と宿泊もできる。決してラブホではない――へ先にチェックインしようとすると、まだ部屋の用意ができていないと言われてしまったので、大きな荷物だけを預けてから付近の観光に出かけたけれど。
ただ、あたしにもここら辺りの土地勘があるわけではないので、源泉を覗いてみたり、温泉卵や饅頭を売っている商店街を冷やかしたり、北風が吹く海岸を歩いてみたりと、一通りガイドブックに載っていた観光スポットを回るだけになったけどね。
「そろそろ宿へ戻らんと、風邪を引くぞ」
最後の観光スポットである防波堤から海に沈む夕日を眺めていると、柔らかいジャンバーが掛けられた。
「え? あ、ヒロの方が風邪引いちゃうよ」
ほんのりと感じる彼の体温で温まったジャンバーの温もりを感じつつ、あたしは言った。
「そうなる前に湯に浸かるとしよう。今日はゆっくりさせてくれるのだろう?」
そういえばそうだった。うっかりと忘れていた当初の目的を伝えられ、あたしはそうねと言って頷いた。
「少しだけ買い物をして戻ろっか」
再び手を繋ぎ、心持ち体を寄せて歩き出す。何のかんのと言っても彼の手は冬の潮風に負けないくらい暖かかった。
温泉宿に戻る途中、最初に目を付けておいたスーパーに寄り、お茶やジュース――一本だけ大人用の米汁が入ってるけど……気付かなかった事にしてるから良いのだ――やオヤツをカゴに入れて、レジへと思ったところで、従業員用の扉が開いて大型のシルバートレイを手に持ったお爺さんな店員が出てきた。
「只今、焼鳥、焼きたてです」
あまり大きくはないけれど、ゆっくりとした聞きやすい声で周知する。
確かに、手にしているトレイには結構な量のとり串が入っていた。
「焼きたてか。折角だ、一揃いもらおう」
ボソリと隣から声が聞こえ、ヒロはおじさん店員の後を付いていった。
そんな、スーパーの焼鳥なんて、ブロイラーの冷凍鶏肉――酷い所は輸入物――を甘すぎるタレでごまかしてるだけなのに。
あたしの心配など露知らず、彼は焼鳥を各種――といっても三種類しかないけれど――を二本づつパックに入れていた。
「さっさと買って、とっとと食おう」
焼鳥の湯気で薄く曇ったパックを買い物カゴの反対の手にした彼は、それだけ言うと言葉通りにさっさとレジへと向かう。
「あ、もう、待ってよ」
彼に聞こえるくらいの声を口に出して、大股であたしは駆け寄った。
慌ただしくレジでの支払いを終え、大急ぎで袋詰めをしてあたし達は早足でスーパーを出る。田舎特有の人通りの少ない道を歩きながら、ヒロは早速とばかりに焼鳥の串を器用に二本取り出し、その内の一本を差し出してきた。
「もう、解ってると思うけどその焼鳥は――」
「焼物は焼きたてが一番なんだ。さっさと食うべし」
有無を言わさないとばかりに、言い返された。
うう。折角の旅行なのに、どこででも食べれる物を買わなくてもと思うんだけど。
そう思っていたあたしの考えは、嫌々運んだ一口目で打ち砕かれた。
何の変哲も無い、鶏のモモ肉を甘辛い醤油ダレで付け焼きにした焼鳥なのに。
「え? 普通に食べれる」
「そうだろう、そうだろう」
「って、何で?」
ニヤニヤしている彼に、お肉が口に残ったままにも関わらずあたしは聞いた。
「単純な話だ。腹も減っていて寒くなったからな。焼きたての焼鳥ならば少なくとも美味しいと思える味になる」
「って事は、冷めたらあの美味しくない焼鳥と同じってこと? うわ、そう思うと、何かムカつくー」
そこまで言って、二本目に齧りつくと、ヒロは声を殺して笑っていた。
「だってね。焼きたてでも冷めてしまっても同じ値段なのに、こんなに味が違うなんて」
「おいおい、お前がそれを言うのか。すうぱあまあけっととかいう店は出来たてを出せないから安い値段で、味付けも濃い味にしているのだろう? 絶対に出来たてを出す料理屋とは違うのではないのか」
そりゃあ、あんたの言うことは的を得ているかもしれないけれど、うう〜。何か今までが損していたみたいで微妙なイライラ感があるんだよね。とは言葉に出さずにあたしは内心思い――そしてハッとした。
そう、一番美味しいと感じるタイミングを図ったのはヒロだ。
空腹具合、身体が温かいものを欲する寒さ具合、そして焼きたての熱い焼鳥では鶏肉に絡んだタレの味も変わるという食味の具合……全てが丁度良くなるタイミングを勘案したのだから。
本来、そういった事は給仕をするあたしが真っ先に気付いてなきゃいけないこと。だけど、あたしより先に料理人であるヒロがそれに気付いていた。自分の未熟を嘆くのは簡単だけど、ある意味これも勉強だ。日常に散らばる知識や工夫を駆使して、ここまで味が変わるということを自分が噛み締めた鶏肉に教えられつつ、ぼんやりとこの人にはまだまだ学ばせてもらうところが多いなと考えていた。
「やれやれ。折角楽しい買い食いだというのに、不機嫌になったり考え込んだりするやつがあるか」
うわ、不機嫌だと言われるくらい酷い顔してたんだろうな〜。
我に返ったあたしは努めて眉尻を下げ、
「うう〜。反論出来ずに三本目を食べてる自分が情けない」
と、降参とばかりに軽く冗談のような口調で言った。
「買い食い程度で考え過ぎてくれるな」
できるだけ軽く言ったつもりだったけれど、妙に心配した顔をされてしまった。そんなに心配しないでよと言おうとしたところで、あたし達は目的地である宿の前に戻ってきていた。
「お夕食は六時から九時の間で食堂にて賜りますので、ご都合の良い時間にお越し下さい。ごゆっくり〜」
受付のお姉さん――お母さんより少し若いくらいだと思うけど、お姉さんだ。反論しちゃいけない――から部屋の鍵をそれぞれ受取り、あたしとヒロは並んで部屋に向かう。そして、隣とはいえ別々の部屋に入った。
そう、元々が男部屋と女部屋――千秋さんがいる予定だったので。千秋さんの分の宿泊や食事は見事にキャンセルされていたけれど――で二室予約していたのだ。
部屋に入る前に、ヒロは、
「夕飯まで時間があるからな、俺はひとっ風呂浴びてくる」
とだけ言ってきたので、
「あたしもそうする」
と返事をしておいた。
あたしの部屋である和室に上がると、元々二人で寝るのを前提にした広さがある部屋の隅に泊まり用荷物を入れたスポーツバッグをぽんと――いやポツンと置き、中から入浴セットと着替えを取り出して、押入れに置いてあった浴衣を手にして、大浴場へと向かう。
夕食が食べれるようになるまで三十分くらい。わずかな時間だけど、海風で冷えた身体を温めたいのと、今のうちにできるだけ身体を綺麗にしておきたいという思いが、足を早めた。
折角の大浴場と露天風呂を備えた温泉なんだけど、今のあたしはそれをのんびりと楽しむ余裕もなく、念入りに体を磨き、髪や肌の手入れをしっかりとすることに結構な時間――あたしにしては。茉莉彩は三倍、くるみでも五割増しの時間らしいけれど――を費やし、湯船で体を解してから上がったんだけど、それだけでも一時間近くかかってしまった。
脱衣所に設置されている時計に急かされるかのように、急いで下着と薄手のキャミソール――襦袢も持ってきているけど、思ったより宿舎内が温かいのでこっちにした――を着て、浴衣を羽織る。
どんなに急いでいても、鏡で顔と全身像をチェックして、心の中で『頑張れ、あたし!』と自分を叱咤した。
大浴場から部屋に戻る道すがら、心音が大きくなるのが解る。ヤバイ、本当にドキドキしてきた。
部屋に辿り着き、着替えた衣類をスポーツバッグに入れた時だった。トントンと控えめのノックが響く。
は〜い。と間延びした声を出しつつ、急ぎ足でドアを開けるとヒロが立っていた。
「そろそろ夕食を取りに行かないか」
「あ、うん。待たせてごめん」
何でだろう。彼からいつもと違う雰囲気を感じたからなのか、あたしはよそよそしく、簡潔に返した。
部屋に鍵をかけ、連れ立って食堂までの道を歩くのだけど、横にいるヒロからはボディソープの良い香りがほんのりと漂い、鼓動が益々強くなってしまったのは内緒だ。うん、気付かれてないはず。
食堂で受付をして、決められた席に案内されると、回りにそこそこの食事客が居るにも関わらず、間を置かずに料理が運ばれてくる。
結論から言うと、料理の質自体は大したことなかった。中の中。料金通りの味と出来栄えといったところだろうか。各料理に一箸づつ付けた時点でその事が解ってからは、お互いに苦笑を浮かべてそそくさと箸を進めるだけだった。
他の食事客の声が多かった事もあって、あたし達は大した話もせずに手早く食事を終え、広い女部屋へと足を向ける。
帰り道にヒロが、
「流石に足りないな」
と言うので、
「だから買い出ししたでしょう」
と返して、二人して苦笑したのが、部屋を出てから戻るまでの一番大きなやりとりだったかもしれない。
「さ〜て、お待ちかねの食後のオヤツと一服の時間ってわけね」
二人であたしの部屋に入るなり、ヒロに座椅子を勧めて言う。
スーパーの大袋からお菓子やおつまみを広げ、備え付けのコップにジュースを注いでヒロに渡す。
「お疲れ」
それだけ言って自分が持ったコップをヒロのコップにカツンと当てて口へと運んだ。
「ああ。小夜子の方こそだ」
短く言って、彼もコップに口を付けた。
暫くは千秋さんの話や、お父さんを置いて来た事をネタに喋っっていたけれど、不意に会話が止まる。
お互い、何となく察しているのだから、どちらが切り出すかを伺う嫌な時間の到来だ。
「やはり、問題を先送りにしたままではゆっくりできないものだな」
スーパーの大袋に手を伸ばし、お米のジュース瓶を引っ張り出したヒロが言う。そして、お盆の上に伏せられた湯呑みになみなみと注ぐと、ぐっと一気に呑み干した。
「ちょっと、一気呑みなんて――」
「酔いたくもなる」
慌てて叱責を口にし、併せて伸ばしたあたしの手は短い反論と共に強く握られていた。
「何故、そのままにしてはくれないのか」
怒っているのか、悲しんでいるのか解らないくらい静かで感情の薄い、それでいてしっかりとした声が言う。それと同時に彼は、空いた手で湯呑みの半分ほどまでゆっくり注いでいた。
「……ねえ、それあたしにもちょうだい」
頷いた彼は無言で空いている湯呑みを取ろうと手を伸ばし、同時に視線がそちらへ移る。そのスキに、あたしは今しがた半分ほど埋められた方の湯呑みに手を伸ばした。
流石に一気にとはいかないけれど、自分の喉に冷たくそれでいて熱い液体が流れ込んでくる。
お腹が熱くなると同時に、妙に気分が高揚してしまい、もはや定形ともなった文句を一気に口から吐き出した。
「そのままにする? 何言ってるのよ、そんなの見捨てるの間違いでしょ。あたしに、あんたを見捨てろって言うの?」
いつもの通りならここまでなんだけど、今日はなぜだか言いたくても言えていなかったその先が続けて口から出てきた。
「そんなことするくらいなら、いっそ通りの前の海に飛び込んでるわ。あたしが死んだ後で、過去に帰るなり死んでしまうなり好きにしたらいいのよってね」
言い切って、湯呑みに残った液体を煽る。
……一口目より熱いと思った。
「お前に死なれたら元の木阿弥だ。生きていてもらわねば困る。大体にして、俺がどれほど……いや、何でもない」
最後は濁されてはぐらかされたけれど、言いたいだろう内容をあたしは知っている。
「……知ってるわよ」
空になった湯呑みを両手で包んだまま、あたしはポツリと言った。
そう、彼が決して言わなくなってしまった一言。その言葉――気持ちをあたしは知っていて、何故口に出さないかも解っている。
「あたしだって、あんな思いをするのは夢の中だけにしてほしいって思っているんだから」
「俺とて同じだ」
今までと同じ平行線のやりとりが続く。あたしはヒロに生き残ってもらいたいし、ヒロはあたしが死なないようにと考えている。
「でも、あたしがこのまま残っても、生きていける保証はないわよ」
「だが、夢で見せられた未来――いや、過去か。それよりは可能性が高い」
「……逆に、その夢で見た状況を覆せれば生き延びれる気もするのよね。不思議と」
何を言っていると言いたげな顔のヒロに、調べ終わるまではと思って黙っていたけれど、色々と調べて解ってきたこともあるから聞いて欲しいと告げ、あたしは未来――でいいよね――の自分に起こる事の原因を説明した。
「なん……だと。あの新型爆弾は爆風以外、救助に行った者までも殺すことができるというのか!」
「ええ。それが解るのは戦争が終わってからの事だけど」
今にも、握られた湯呑みがつぶれそうな程の力がヒロの手に込められているが、あたしは構わずに続けた。
「だから、逃げた後しばらくの間は爆心地――爆弾が落ちた付近に近づかないことや、その付近で採れた物を食べたり飲んだりしないようにすること、そして黒い雨に当たらないようにすればきっと生き残れる」
我ながら酷い事を言っていると思う。
この知識を元にすれば沢山の人を救えるのかもしれないけれど、あたしはヒロと自分が生き残る為だけにそれを使おうと考えてる。
まるで、苦しむ人々の声に耳を押さえて走り抜け、自分だけが助かった夢、さながらに。
「自分達の避難を優先し、他の者の救助を諦めれば。ということか」
「こんな事いう女……嫌いになった?」
「いや、そこまで言わせた自分に腹が立っているだけだ。お前は悪くない」
思い切り眉根を寄せ、不機嫌な顔のまま湯呑み――今度はなみなみと入っていた――を煽るヒロ。
「……もしもの時は、お前だけを避難させておくのも手――いや、何でもない」
空になった湯呑みを手にして言われかけた言葉を、あたしは視線だけで飲み込ませた。この期に及んでまだそんな事を言うなんてね。
でも、何を言われようともあたしは自分の意志を曲げる気は無い。特に今回は絶対に曲げない。そんな覚悟を心に置いてあたしは、黙ったまま彼の目を見つめていた。
暫くの間、先に口を開いた方が負けと言わんばかりの無言の時間が続いたけれど、ついにヒロの方から口を開いた。
「覚悟も腹の据わりも俺より上……か」
もう一杯だけ空にした湯呑みを机に置き、ヒロはあたしの正面にあろうことか正座して向き直った。
あたしを見据えるその瞳には、決意が込められた光が宿っていた。
「小夜子、俺には学もなければ仕事もまだまだ半人前で、ただ料理が好きなだけの男だ。お前が付いてきてくれても苦労をさせてしまうだろう」
「ちょ、何を――」
「だがな、俺はお前とずっと一緒にいたいのだ。まだ先の話にはなるだろうが、俺と一緒になって店をやってもらいたい。この通りだ」
言い終わると同時に飾り気も何もない坊主頭が下げられる。
あまりにも突然過ぎる流れの変化と、ストレートな物言いに思考が一瞬停止したけれど、パニックになったはずの頭は、自分でさえ聞いた事が無いほど女の子らしい声を口から漏れさせた。
「嬉しい」
声が自分の耳に入ると同時に頬へ温かいものを感じた。
「な、泣くやつがある、か」
力強い腕が逞しい胸板へとあたしを引き寄せ、そして優しく抱きしめられた。
「お前は俺のために無い時間を割いて調べてくれたのだな。今度は俺も一緒に調べる。そして、何をしてもお前に、小夜子に生き残ってもらう」
背中に回された腕に力が込められる。
「あたしも、ヒロには生きていて欲しい。だから、そのためになら――」
――例え鬼になってでも。その言葉は言わせて貰えず、あたしの口は塞がれてしまった。
彼の胸に当てた手からは大きな鼓動が、触れ合っている唇からは荒い呼吸が伝えられる。
それは短い時間だったのかもしれない。だけど、あたしにはとても長く感じた。
蕩けそうになる頭の片隅で、自分が過去へと向かうための最後の鍵をあたしは手繰り寄せる。
ヒロが一人で帰る場合と、あたしも一緒に帰る場合の違い。
そう、彼とあたしが身も心も通じ合っているのかどうか。……もっと言えば“よろしくやっている”か否かだ。
多分、夢の違いに彼も気付いていたのだろう、文化祭辺りから一切チャンスを伺う感じが無くなっていたしね。
だからこそ、今日のあたしは念入りに“準備”したわけで、後はそれを行動に移すだけなんだよね。
座ったまま抱き合っているあたし達だけど、次の段階に進むためにもあたしは上手にバランスを崩したように見せかけ、敷いてある布団へと倒れ込む。
「いいのだな?」
至近距離で短く問われる声に、コクリと頷きで返し、
「や、優しくしてね」
か細い声が言った。
――――――――――――――――――――
『やあ、初めまして』
ヒロと始めてキスをした時と同じ、夢だと自覚できる何も無い空間であたしは男か女かも解らない中性的なシルエットと声の持ち主と相対していた。
『君の恋人には酷く嫌われてしまったようだから、これからの大切な事を代わりに聞いておいてくれないかな』
「こ、こいびとっ!?」
全く慣れない表現に、まるで鯉のように口をパクパクさせてしまったけれど、当の人影は自己紹介も無くあたしの挙動にも関心を示さずに一方的に話を進めていく。
『既に解っているようだけど、来年の夏に君たちは時を超える。それ自体は身一つあれば良いけれど、身体だけ行ってもスーパーハードモードか、無理ゲーって感じの厳しさだよね。そこで――』
人影からは一方的な情報開示があり、質問を挟もうとしても一切取り合ってくれなかった。これは多分、前にヒロが言い合っていた存在だ。何か話を聞いてるだけで腹が立ってくるんだから間違い無い。確実に。
『まあ、必要な物は最低限だけど持っていけるし、近代史なんかを真面目に勉強してればほら、バラ色の人生が待ってるようなもんだしさー、ま、安心して行くと良いよ。おっと時間だ、じゃあね』
とにかく、ひたすらに我慢我慢と念じながら彼(彼女?)の説明を聞き続けたんだけど、一方的に言いたい事だけを横道にそれながら言われ、聞き辛かったと思ったのはここだけの話だ。
「取り敢えず、持っていける物の話は半分くらいでいいから、時代背景とかをもっと教えてって感じで疲れたわ」
ゲンナリとした口調で独白するのだが、当然のように誰も聞いていなかった。
――――――――――――――――――――
ふと、くすぐったいような視線を感じてあたしは薄目を開ける。
「ん……ふぇ?」
横向きに寝ていたあたしの眼前には男の人の逞しい胸板があった。
「起こしてしまったか」
驚いて変な声が出そうになったところで、ヒロの声が降り注いだ。
「う、うん」
「まだ、大分早い時間なのだが、つい毎日の癖でな」
寝起きとは思えないどころか、いつにも増して口数が多い。って、あたしは彼の胸に手を当ててるし、彼の手はあたしの腰に回されていた。
「その、宿を出るまでにはまだ相当に時間があるのでな、なんだ、お前が許してくれるのであればだな……」
酷く歯切れの悪い言い方だけど、あたしは彼が何を求めているのか、言っている途中で気付いてしまった。視線もそうだけど、あたしに触れるヒロが当人の口よりも饒舌に意見主張をしていたからだ。
「また、優しくしてくれる?」
まだ薄暗い部屋だけど、あたしは耳と頬が熱く、そして朱くなるのを自覚した。
こうして、この甘い甘い旅から約八ヶ月の後、ヒロとあたしは時間を超える旅へと出立した。
前回、半年も待たせて申し訳ないと言ったハズでしたが、今度はその半年を超過して七ヶ月……では次は八ヶ月後か!? などと言う事はありません。次話もほぼ執筆を終わりましたので、週末までには投稿させて頂ければと思っております。
次回で最終回、エピローグのお届けとなります。