40品目
できるだけ軽めの表現――相当削ってあり、逆に伝わり難いかもしれませんが――にしてありますが、本文中には残酷な描写があります。苦手な方はご注意下さいませ。
それでも気なる方は☆マークの行から次の☆マークの行までを飛ばして下さいますようお願いいたします。
「小夜子」
あたしの名前を呼ぶハッキリとした声が耳に届く。
聞き間違えようのない愛しいその声に反応し、突っ伏していた頭を上げて声の主を探す。
「今日は学校があると言っていたようだが?」
直ぐ横に居た彼はあたし以外が見たら無表情――実は気遣うように眉間に薄いシワが寄っている――な顔で言った。
「あ、うん。ちょっとウトウトしちゃってたみたい。起こしてくれてありがとう」
さっきまで何だか凄く忙しかった気がするんだけど――うん、そうだ、ヒロと仕込みしてたんだから忙しかったはずだ。なのに居眠りをしてしまうなんて。
と、即座に切り替わった思考で無理やり納得してあたしは言った。
今日は夏休みに設けられた登校日で、毎年面倒だと思いつつも行っているのだが、今日に限ってはなお面倒な気持ちが強いのだ。
それもそのはずで、3年生に進級して8月になったある日――。
親方にヒロとあたしは呼び出され、かなり真剣な顔で言われたのだ。
『小夜子とヒロの二人でお店を切り盛りしてみろ』
と。
ぶっちゃけて言ってしまえば、あたしはこれまでずっとやってきたことの延長だし、ヒロについても、一年間やってきた内容と遜色はない。なので、お店を切り盛りすること自体に問題はないのだけれど、コレには一つの意味が込められていた。
――常連さんへのお披露目。
何といいますか、先月末、つい二週間程前にあたしはヒロと付き合い出した……というか、将来を約束した……というか、婚約……えーと、その、結婚することを約束しまして、それをお披露目する意味もあって二人で切り盛りする事になったんだよね。
で、まあ、それを実行している最中なんだけど、これが思った以上に緊張と興奮の連続で、中々夜に寝付けず、睡眠不足になってたみたいなんだよね。それでウトウトするという失態を演じていたワケなのだ。
うわー、自分で言ってて恥ずかしくなってきた。
……一応補足しておくけれど、あたしが卒業するまではおあずけなので、そういう理由での睡眠不足では決してない。
「ごめんね、今日はお昼を任せちゃう事になるけど――」
「……仕事熱心も良いがな、今日は学校の事に集中するべきだと思うぞ」
言葉だけだとあたしが諌められているようだけど、彼の口元が僅かに釣り上がっていることに気付き、からかわれている事が解る。そうであればと茶化した返事をする。
「学校……休んじゃおうかな。ヒロと離れたく無いし」
じっと見つめて言ってみると、彼は目を白黒させたあと、返答に困ったとばかりに小さく咳込んだ。
ここまで狼狽えるってことは相当照れているんだということが解り、あたしの内心は嬉しさ小躍りして学校に欠席の電話を入れたくなるけれど、同時に、困らせちゃいけないという理性も働いて、無難な内容も口にする。
「冗談よ、休まないって。でも、一緒に居たいのは本当だから、学校の行事なんてさっさと終わらせて、早く帰ってくるから」
そう言って会話を終わらせ、慌ただしく登校の準備をしてあたしは最寄りのバス停からバスに乗り、一路学校へと向かった。
天気は今日も快晴。また蒸し風呂のように熱された体育館で話を聞かされると思うとウンザリする気持ちも起こるけど、今月になってから機嫌が最高に良い状態キープしているあたしが、気持ちを萎えさせる事にはならなかった。
登校してから朝礼だけを教室で行い、全校生徒が体育館へと移動させられる。毎年恒例、大昔の戦争のお話を聞かされるためだ。
去年までと唯一違う点は、実体験者お婆さんが壇上に立っている事と、写真やパネルの類が一切無い事だ。しかも、その事を説明する先生達の雰囲気もどこかしら硬い。
挙句に、事前に注意として、途中で気分が悪くなったら直ぐに挙手するか近くの先生に申し出る事が周知されていた。
この物々しく重い空気に乗せるように壇上のお婆さんが口を開き、簡単に自分の生い立ちを説明した後、経験談を語り始める。
その低い、独特の声が紡ぐ話に引き込まれていったあたしの耳からは音が消え、周りの生徒達の気配が遠ざかった。
――昭和20年8月某日
雲の多い暑い日だった。
街は朝の空襲警報で出遅れた時間を取り戻そうとするかのように、慌ただしく路面電車が走り、人々が駆けて行く。
雲の隙間から照りつける日差しは強く、天気に比例した湿気と相まって午前中だというのに立っているだけでも汗が滲んでくるような熱気を生み出していた。
そんな暑さを和らげるため、木桶と柄杓を手にした婚約者が目の前の木造家屋の玄関先で打ち水をしている。
戦争中って言うからもっとばたついているんだと思い込んでいたあたしの頭に、ふと平和という言葉が過ぎり、ついつい声をかけそびれてしまってぼーっと彼に見惚れてしまっていた。
今日は何か大切な日だった気がするのだけれど、だらしない思考能力しか残っていない頭ではそれが何だったのかは思い出せないでいるのが若干心残りではあるけれど。
ああ、でもこれだけは覚えている。
あと少しでこの戦争は終わる。その事をしっかり伝えれば、彼の憂いも無くなるだろうとあたしは踏んで、今日、ここに来たんだし。まあ、それが一番大事だから、それだけ覚えていればいっか。
深く考えず、あたしは一歩づつその歩みを彼に向けて進めていった。不意に、横から駆けてきた同い年くらいの女の子に気付き、ぶつかると身構えたのだがうまく躱してくれたのか、彼女は足を止める事無く大通りへと抜けていった。
一瞬途切れた視線を戻すと、彼の手が止まり、こちらへとその顔が向いていた。
「……」
相当驚いたんだと思う。
ただでさえ表情に乏しい彼の顔が、凍りついたように瞬きすら止めていた。
その凍った表情が解凍された瞬間、彼は手にしていた柄杓も、木桶も放り出してこちらへと駆け寄ってくるのだけど、それはこれからの事を警戒した動きだったということを後で思い知る事になる。
彼に向けて振ろうとした手を捕まれ、あたしは建物の影へと引っ張られて強く抱きしめられる。そんな、こんな所で大胆――などという甘ったるい思考が浮いた矢先の事だった。
世界が白一色に染まる――それが強烈な閃光なのだとその時のあたしは気付けなかった。
白一色に染まった世界はあたしの目が慣れるのを待たずに、急速にその色を黒へと変えていく。視界の端に映っていた電車も、慌ただしく駆けていた人々もその動きを止め、全てが黒く、黒く塗りつぶされていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
まるで全てを影だけで作ったと言わんばかりの黒い世界が目の前に広がり、あたしの体はその異様さに勝手に震え出していた。
体が震え出した後であたしはその恐ろしさを感じ、その恐怖感から逃れたいが為だけに自分を抱きしめてくれている彼を見上げる。飾り気の無い黒髪の坊主頭の下、引き締まって殆ど表情を出さないけれど優しい顔に安心をもらうためにだ。
でも、その顔がついにあたしの目に映ることはなかった。だって、文字通り目の前にいる彼も、顔は全てがのっぺりとした黒へと塗りつぶされてしまい、表情どころか個人として判断すらできなくなっていたのだから。そして、徐々に視線を移していけば、顔だけではなくあたしを包む力強い腕も、眼下に見えていた白い前掛けも、全てが真っ黒に塗りつぶされていた。まるで、浮き出た影へと変容してしまったかのように。
『お前は帰れ』
頭の中に直接響いたのではないかと思えるほど小さな、本当に小さな彼の声が影から聞こえた――気がした。
声に反応した体がビクリと震えると、腰に回されていた彼の腕の影がボロリと崩れ、そして幻のように掻き消えていった。
「ゃ――」
驚愕の出来事に悲鳴を上げようとした時、それはやってきた。
黒く染まった家屋や人々を粉砕し、あたしの悲鳴をかき消すほどの強い風――台風が比較にならない程の暴風だった。
その風は、あたしの前に残ってくれていた彼の体もあっと言う間に粉砕し、天高くへと巻き上げて奪い去っていく。
あたしは何故、そんな暴風の中自分が立っていられるのかという疑問も忘れ、巻き上げられる影の欠片達へとあらん限りの力を込めて手を伸ばした。
「ああ――うあ――」
声にならない声を上げて手を伸ばすのだが、掴もうとしても掴めず、その欠片一つさえ手に残せることなく暴風はあたしから全てを奪い去って行く。いや、あたしだけではない。全ての人から、街から、世界から、全部全部全部巻き上げ、奪い、そして何も残してやるものかとばかりに駆け抜け去って行った。
……何もできなかった。
絶望に打ちひしがられたあたしは、巻き上げられた彼を追って仰ぎ見た空が黒い雲に包み込まれていることを知った。まるで空が影達を飲み込んでしまったかのような暗黒色は恐怖しか生まず、太陽があった位置に浮かぶ黒い光体は冷たく暗い光を放っているかのようだった。
遠くで何かが崩れ落ちるような音が響き、恐る恐るそちらに視線を移せば、ポツポツと灯火のようにどす黒い火の手が上がっていた。その火はまるで地獄に並ぶ魂を現すかのように無数に現れ、徐々に大きくなっていく。
もはやあたしを見下ろすまで大きくなったその火は暗い雲に赤みと明かりを与え、何も無い街を浮かびあがらせていた。
今日が何の日だったのか。そう、この街に地獄が顕現する日だったのだ。
瓦礫、瓦礫、瓦礫……コンクリート製と思われる、辛うじて暴風に耐えた建物がバターのようにとろけ、鉄筋は鍋から垂らした飴のようにぐにゃりとひしゃげている。
人影など全く見えない街――いや、影さえも燃え尽きてしまった真の灼熱地獄が眼前にはあった。
情けない話、地獄に放り込まれたあたしは空に舞い上げられてしまったヒロの事さえ考えず、
――誰か、誰かいないの?
――怖い、早くここから逃げなきゃ。
というこの地獄から抜け出し、逃げる事だけしか頭になかった。
頭の中を支配した恐怖から逃れるべく、あたしは当てずっぽうに走り出した。大きな火柱を駆け抜け、溶けた鉄筋を飛び越え、瓦礫に埋め尽くされた道をただひたすらに。
真っ黒な人影が行く手に転がっていて、崩れて炎に包まれた瓦礫からは黒い手が伸びていた。
――視界から消してあたしは駆け抜ける。
赤黒く染まり、布のような何かに絡まれた体で水と助けを求めて彷徨っている人たちがいた。
――耳を塞いであたしは駆け抜ける。
瓦礫に挟まれたまま救いを求める声、うめき声を上げる炎に巻かれた人、ひしゃげた遺体。
――何を見ても、聞いてもあたしはもはや何も感じることなく駆け抜けた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
全ての惨状、救いを求める声を一切無視し、あたしはその地獄の出口だけを目指して走る。
本当に酷い女だと思う。それどころか、人の死や痛みに対して何も感じなくなった自分が最低の人間なんだと自己嫌悪すら覚える。でも、そんな自分に対する嫌悪感を感じれたのはこの地獄を抜け出てからだった。
どれほど走っただろうか。目の前に見慣れた風景が顔を覗かせた。
地獄から逃れたい一心だったあたしは、全くのためらいも見せずにそこに飛び込むのだけれど、その瞬間。
『それでいい。お前はここに居るべきじゃあない』
聞き間違えようのない彼の声が、今度はハッキリと頭に響き、意識が暗転した。
ふと気が付くと、見覚えのある床板が目に入った。
体操座りをしたまま俯いていたらしく、周囲には他の生徒の姿もあり、体験者のお話はまだ続いているのだけれど、今のあたしの耳にその声は届かない。
「どうして帰って来たのよ……死んじゃえば良かったのに」
自己嫌悪に苛まれたあたしは弱々しくポツリと呟くと、同時に再び意識が暗転した。
「っ! 先生、女将さんが」
悲鳴のような千秋さんの声が響き、ぼんやりした光景の中に彼女の顔が薄っすらと浮かんできた。その目尻には涙の雫が浮かんでいる。
「千秋……さん?」
自分でも驚く程弱々しい声が出た。
「小夜ちゃん、まだ起き上がったらダメ!」
はっとしてあたしは上体を起こそうと思ったんだけど、千秋さんに続いて視界に入ってきた出口先生に止められる。
「――ゃ! 先生、ヒロ、ヒロは!?」
先生にガッシリと押さえつけられながら、あたしは叫んだ。
「小夜子! 気がついたんだね、良かった、良かったよ。お父さんは心配で――」
あたしの叫び声が掻き消える程、勢い良く襖を開けてお父さんが入ってくる。その後ろに、しれっと付いてきたヒロを確認して、溜飲を下げるあたし。
良かった、本当に夢だったんだ。
「……千秋ちゃん、小夜ちゃんを押さえて!」
上半身を起こしたあたしの掛け布団が落ちないように、千秋さんが慌てて肩のあたりで押さえてくれる。真横にそむけられた出口先生の耳が赤くなっているのに気付くと同時に、今の自分が上半身の衣服をはだけていることにも気が付き、しっかりと掛け布団を抱き寄せた。
「先生、ありがとうございました」
千秋さんに寝間着一式を着せてもらったあたしは、口の中で色々とと付け足しながらお礼を口にする。
今も布団に寝たままで、あと少し点滴が終わるのを待っている状態なんだけどね。
先生は、ちょっとだけ困った顔で微笑を返しながら、これ咥えてと体温計らしき棒状の物をあたしの口に突っ込み、脈と取ると言って手首を押さえた。しばらくして、測定を終えたのであろう体温計(?)が口から抜き取られ、頭の上からホッと息を吐く音が聞こえた。
「まだ少し熱はあるみたいだけど、少しだけだし、脈や血圧も正常だから大丈夫みたいだね。でも、点滴を繋いでいるから急激に起き上がったりしちゃいけないよ」
安堵といった口調で先生はあたしの状態を口にした。
ってことは、裏を返せばゆっくりだったら起き上がっても良いってことだよね。そう解釈するが早いか、あたしは点滴のチューブを引っ掛けないようにソロリソロリと上体を起こした。
部屋にはあたしと先生以外の姿は見えず、先生は忙しそうに書類(?)に色々と書き込んだりする作業をしていた。千秋さんも寝巻きを着せてくれた後に離れたと思ったら、退室していたのね。
「あ、起きちゃったんだ。でも、点滴が終わるまでは布団から出ないでね」
顔を上げた先生が言う。
先生の表情――いつも通りの穏やかで爽やかな表情――から、質問をしても大丈夫だと察して、あたしは根本的な疑問を口にした。
「あの……あたしどうかしてたんですか?」
「覚えてないのかい? 学校から帰ってくると同時に、崩れるように倒れたそうだよ」
先生は一瞬だけ顔を曇らせたけれど、簡潔に状況を教えてくれる。その簡潔さに、一瞬、季節を夏かと勘違いしたけれど、先ほどヒロの顔も見えた事を思い出し、上げそうになった声を飲み込んだ。
「小夜ちゃん、かなり無理して頑張ってたからね、過労だよ」
飲み込んだ声の代わりに吐き出した息をため息だと勘違いされたのか、若干早口になった先生が言う。
夢の事もあるし、それだけじゃ無いような気もするけれど、あたしは先生の診断結果に乗る事にして話を続けてもらった。
「過労……ですか」
「そうだよ。僕が来た時にはかなり辛そうな表情をしていたけれど、今は大丈夫? 辛くない?」
「え、ええ、今は何ともないです」
「そっか。だからって直ぐに無理しちゃダメだからね。できれば一週間、最低でも二日は安静にすること。念の為に、明日までは消化に良いものを食べるようにしてね」
昔、風邪を引いた時と似たような事を言われ、あたしはその時と全く同じように、はいとだけ返事をする。
「……じゃあ、僕は病院に戻るね。また調子が悪くなるようだったら、直ぐに言うんだよ」
先生はまだ何か言いたそうだったけれど、口数を少なくしてしまったあたしに気を使ってか、持ってきた道具を仕舞い、帰り支度を整えた。
「あ、あの、先生……ありがとうございました」
本当の事を言えない罪悪感からか、ちょっとだけ上ずった声で、退室する先生にお礼を言う。先生は悲しげに微笑むと、またねと短く言って部屋を出て行った。
一人になると、夢で見た光景がフラッシュバックしてくる。
灼熱の炎に焼ける街には、暗い帳が降り、動かない真っ黒な人々だけが住人として在る。そんな動くモノが居ない影だけの街。一人になると、そこに迷い込んだままなのではないかという錯覚に陥り、その恐怖から自分を抱く。
……あたしは薄情だ。どうしてよ。ヒロがあんな酷い目に会ったのに、彼の事を考えずに自分の事ばかりを心配している。どうしてよ。あたしは彼の事を――そこまで考えたところで、襖が軽いノックの音を伝えてきた。
「先生?」
「いや、俺だ」
「入って」
思考を埋めていた本人の登場に驚いてしまうが、普段通りの口調を装って返答すると同時に、スッと音を立てて襖が開く。見慣れた坊主頭のヒロがお盆を持って入って来た。
「食べれそうならと思ってな。飯と汁を持ってきたのだが」
「……ごめん、まだ食欲が無いの」
今は彼の料理や気遣いの雰囲気を感じ取ってさえ、全く食欲が湧かなかった。いや、逆かもしれない。優しくされていることが解るからこそ、自責の念に駆られて胃が締め付けられる。
「そうか。無理して食べる必要は無いからゆっくり休め」
持っていたお盆を後ろに下げ、改めて向き直って彼は続けた。
「……それで、今度は何を悩んでいるんだ?」
肩がビクリと反応してしまったのを自覚したにも関わらず、あたしは否定の文言を口にした。
「そんな、悩みなんて――」
「思いつめた顔で、悩んでいないとは言わせんぞ」
妙に迫力のある空気と共に、静かに重々しく耳に届いたその声に、何となくだが――今、あたしが考えている内容をヒロも知っている。そんな考えが過り、言い逃れる事を諦めて小さく呼吸をした。
「……ねえ、あたしが妙な事を話してもちゃんと聞いてくれる?」
案の定だったのだろう。彼は小さく、でもしっかりと頷いてくれた。
「――倒れてる間にそんな夢を見たの」
夢で見た光景をかいつまんで話をしたつもりだけれど、説明になってなかったようにも感じてまた凹んでしまいそうになる。そして、あたしがヒロよりも自分の心配をしてしまったことで、自責の念にかられていた事を話そうとしたところで――。
「良かった。お前は無事に帰れたんだな」
と、言われてしまった。
「え?」
思わず疑問の声を上げたところで、気付いてしまった。彼が何を知って黙っている事に。
「ねえ、ヒロは何を知っているの? 話して、全部!」
荒くなったあたしの声に一切の反論をしなかった彼の態度で、薄々感じていた事が確信に変わる。
そして、観念したとばかりに、重い口が開かれた。
「……ああ。お前が気付いた通りだ。このまま来年の夏が来れば夢と同じようになるだろう。だが、俺はその方が良い」
「そん……な」
何であんな未来が良い何て言うのよ! という激しい言葉は口を出ることは無く、代わりに頭に浮かんだ別の言葉が口を出た。
「その方が良いって事は、何か別の未来があるのね」
今度はヒロの肩が小さく震えた。
「…………ふぅ。そうだな。やはり俺も聞いて欲しかったのかもしれない」
どこか諦めたようでいて、なお重たい声でヒロは言った。
その瞬間。
――ぐぅ。
場違いな程情けない音が小さく響いた。
うわー穴が入りたいとはこの事だよね。
食欲は相変わらず無いのだけれど、お腹の虫は正反対ということみたい。そうだよね、お昼を軽く食べてから何も食べてないし。それでも、鳴くことはないじゃないと理不尽な思いを腹の虫にぶつけつつ、あたしは恥ずかしさから俯いた。
「話の前に腹ごしらえが必要だな。大体、昼から何も食べていないのだろうから、腹の虫の一つも鳴く」
待っていろと続けた彼は、戸棚から丼を取り出して何かを入れると、お湯を注いで箸でかき混ぜた。
「はったい粉を砂糖と塩で味付けして湯で練った軽食だ。消化に良いから食べやすいと思うぞ」
そう言って出された丼には、名前の通り粉を練った練り菓子の親玉のように飾り気もなにも無い無骨な物が鎮座していた。
灰色っぽい濁った色――暗褐色――で、ふんわりと香ばしさが鼻孔をくすぐる。見た目に無頓着だけど安心させてくれる雰囲気を持ってる誰かさんみたいだと思い、ついつい上目遣いで彼を伺えば、どうした? という問だけが返ってきた。
あたしは何でもないとばかりに、受け取ったスプーンを丼へと伸ばして掬うと、ゆっくりと口へと運んだ。
ねっとりとした独特の舌触りを感じると同時に、香ばしい風味と優しい甘さが口内を満たしてくれる。
香ばしさは食欲をそそるし、甘みは空腹が満たされるのを実感できる。ほとんど噛む必要が無い事も幸いし、二口、三口とスプーンを口へ進める速度も上がっていった。
「……ごちそうさまでした」
気がつけば、先程までの食欲の無さが嘘のように、ペロリと完食した丼を前に手を合わせて言っていた。
「食べれた様だな。安心した」
ふぅ。と安堵の息――だと思う――を吐いたヒロが短く言う。でも、安心するのがこれから彼の話を聞くあたしの方になろうとは、この時には思いも寄らなかった。




