31品目(2)
絶対に無くさないようにと思い、首から下げて胸の中へ入れていた学校の出店計画証明書を引っ張り出して、伊嶋さんへと提示――何だか、ヒロが複雑な視線を向けてた気もするけど、そんな事に構ってなんかいられない――した。
これは、事前に計画書を学校へ申請して交付された証明書なんだけど、何を証明するのかといえば、提出して学校に承認された計画書に記載されている金額を学校が担保する旨の説明が書かれてあり、いざという時の連絡先として、担当教諭の名前なども書かれている非常にありがたい、かつ、危険な代物だ。もちろん、担当生徒の名前も記載されていて、当該生徒以外は無効の説明も書かれているけれど。
「ああ、あの学校の生徒なのかね。珍しい方法で文化祭をすると言って、数年前にテレビで見たなぁ」
老眼鏡を取り出して、証明書に目を通した伊嶋さんが言う。
良かった、学校の存在を知られててと、あたしは胸を撫で下ろした。
「資金に問題無い事は解った……獲れた魚は、青葉の学校まで運ぶという事で間違い無いかな」
「ええ、そこまでして頂け――」
「お爺さん、申し訳ないのですが、刺身用に型の良いのが獲れたときは〆《しめ》てもらえないでしょうか」
承諾しかけたあたしの言葉を遮り、ヒロが初めて口を開いた。
「船の上じゃからな、最悪、首を割く事になるが、良いのかね?」
「構いません」
刺身用――特に姿造り用になるかもしれない魚ならではの問いに、即答するヒロ。恐らく、輸送時間を配慮しての事なんだろうと予想したあたしは、二人のやり取りを黙って聞いていた。
「ふむ。注文内容は解ったが、こちらからも注文を付けさせてもらおう」
「何でしょうか」
「大した事じゃあないんだが――お前さん達に、店で出すような昼食を作ってもらいたいんじゃ」
僅かの間を置いて吐き出された希望に、あたしは戦慄を覚えた。
伊嶋さんが希望した“店で出すような昼食”は、パッと言われて出せるものではないのだ。
『お店だったらパッと出てくるじゃん』という意見もあるだろうが、それは事前に仕込みから何からやっている訳であって、注文があって一から全てを作っている訳では当然無い。
「もちろん、道具や材料はうちにあるものを好きに使ってくれて構わない」
と、申し出て貰っても、慣れてない調理場に道具、調味料では全く意味が無いんだよね。
だから、あたしの返事は決まっている。そう、答えは“できません”だ。
「ここが自分の店であれば簡単な事ですが……理由をお聞きしても?」
答えを伝えるべく、身を乗り出して口を開こうとしたあたしを制し、ヒロが先に問う。
理由も何も、ただ単に、折角だからプロの味を味わいたいってことじゃないのかな? そう思ったあたしを見事に伊嶋さんは裏切ってくれた。
「そうさなぁ………………」
ゆっくりと湯呑を傾け、伊嶋さんは窓から見える海へと視線を投げてからポツポツと理由(?)を話し出した。
「わしら男衆は付き合いで呑みに行ったりすることもあるが、かみさんは中々に外食する機会が無かったからな。折角の機会だから、我儘で通るのであればと思うてなぁ」
最後の方は世代特有の恥ずかしさもあったのかもしれない。完全に顔まで外を向いていた気がする。
「解りました。会席までは無理ですが、御膳であれば用意しましょう」
さらりと言われた“できます”との回答。
あたしが無理だと思う事でも、彼は可能だと言う――いや、可能にできる知識と技術を持っているのだ。嬉しい反面、女としてちょっと凹んでもしまう。でもまあ、頼りになるというか何というか……うん、何か恥ずかしいから止めよう、こんなこと考えるの。
――――――――――――――――――――
「お昼の時間まであと一時間半しか無いのに、どうするつもり?」
文言は責めてるようだけど、全く角を立てないように柔らかく、伊嶋家のキッチンで冷蔵庫などから食材の確認を行っているヒロへあたしは問う。
「時間も食材も限られているからな、基本的な一汁三菜の膳立てにするつもりだ。その、今回は俺の指示に従ってもらいたいのだが良いか?」
「解った。じゃあ、何からしようか?」
尻切れトンボの様に語尾が少し弱きだった気がしたけど、あたしだけだと絶対に不可能なんだし、彼に勉強させてもらうつもりと腹を括って即刻頷き、進んで指示を乞う。
「まずは、米の準備に掛かろう」
「はい」
すでにジャケットを脱いでネクタイを外し、シャツも腕まくりをしているヒロに、あたしもカーディガンを脱いでブラウスの袖を捲り上げ、気持ち良く返事をした。
米磨ぎ――今のところ、これはあたしがヒロに勝ってると言える数少ない技能だ。もっとも、今回の様に、炊飯器を使わずに炊こうとすると、炊く技能であっさり負けてしまうのだけどね。
あたしがお米を磨いでいる間に、ヒロはお吸物の準備を進める。
拭いた昆布を鍋に入れて水を張り、シイタケを大きく斜めに切り、三つ葉の軸を包丁の背で軽く叩いて結んだ。
そこであたしとバトンタッチ。
あたしが出汁を取る間に、ヒロは鍋へお米を入れて炊飯の準備をする。
よくもまあ、計量カップも使わずに水の分量が解るもんだと感心してしまうよ。おっとっと、よそ見をしている内に出汁が取れたので、臭みが出る前に昆布を引き上げる。
「昆布は取って置いてくれ」
「はい」
菜箸で昆布をつまんだ所で横から指示が飛んでくる。出がらしを何に使うんだろうと疑問が浮かぶけれど、それを黙殺してあたしは皿に昆布を取り置きした。
湯気を上げる出汁に続いて鰹節――家庭用に削ってあるやつ――を入れ、これまた生臭さが出る前に濾し取る。出来た合せ出汁の一部は別の小鍋に取っておく。
鍋には続いてシイタケを投入し、暫く火を通すのだけど、その間をただ待っているような事は無く、ヒロから次の指示が飛ぶ。
「この豆腐の水切りと、ナスを乱切りに頼む。二つとも揚げ出しにする」
「はい」
短くハッキリと返事するあたしに、ヒロが視線を切って口角を微妙な角度に下げる。
あれ? 何か恥ずかしがってるような……。そんな彼の仕草が可愛く思えて、あたしは最後までこの返事で通そうとこっそり決意した。
シイタケに火が通る頃合いを見計らって一旦火から下ろす。二口しか無い家庭用のガスコンロの性というのもあるけれど、シイタケに味を染み込ませる意味もある。
「次は小松菜を茹でてくれ」
こくりと頷いて両手鍋に薄く水を張り、火にかける。湯が沸くまでの間を利用して小松菜を洗い、ゴマを擦っておく。
豆腐とナスはどうしたかって? 豆腐はキッチンペーパーで巻いて水切りをしているし、ナスは乱切りにして塩水に漬けてある。
お湯が沸いたら洗った小松菜をサッと茹で、ザルに上げて布巾にとり軽く絞って水気を切ると、ちゃっちゃとざく切りにして、ヒロが作っておいてくれた胡麻醤油と和える。味が馴染めば小松菜の胡麻和えの完成だ。
胡麻和えの入ったボウルを脇へ置き、あたしはナスをザルに打上げて水を切り、次の指示を受けようとヒロの方へ顔を向けたのだが……指示を出すどころか、彼は昆布の佃煮を火に掛けた横で、鉄(?)製の鍋を前にして難しい顔のまま固まっていた。
今まで、調理中に手を止めた事など無かっただけに、あたしは何事かと声をかける。
「どうしたの?」
「……蒸し器も蒸籠も無いのだ」
彼が最後の一品として用意しようとした料理“エビのしんじょの茶巾蒸し”は、その名の通り蒸し上げて完成となるのだけれど、伊嶋家のキッチンには言われた通り、蒸し器も蒸籠も無かった。それでも代用にと戸棚から引っ張り出した大鍋も、長らく使われていないのか底が茶色に錆びている。
「蒸し器の代替にはなると思って引っ張り出したのだが、底に穴まで開いた錆鍋だったとはな」
「うわ、凄い錆。長い間使われてなかったのね」
覗き込んだ鍋底は、外見以上に酷く錆びてボロボロで、これでは鍋底にザルを敷いて蒸し器の代用にする方法も使えない。
でもこの鍋は多分、両親に子供も同居という大家族時代のもので、その食事を用意する為の大鍋だったんだろうけど、両親が亡くなり、子供が巣立ち、夫婦二人だけになって数十年……。そんな長い間、使われる事もなく徐々に朽ちていったんだろうな〜。何かしんみりしちゃう。
それも束の間、あたしは大鍋が入っていたであろう棚の中に、比較的新しいプラスチックの容器を見つけていた。
「蒸し器、あるじゃない」
元に戻そうと大鍋の取っ手を持ったヒロがそのまま止まり、
「ん?」
と短い声を上げた。
先に大鍋を戻してもらうようにお願いし、あたしは改めて棚にあったプラスチックの容器――電子レンジにかければ蒸し器替わりになるもの――を手に取る。
「これよ、これ。これに野菜とか茶碗蒸しとか入れて電子レンジに掛けたら蒸せるのよ」
「また、訳の解らん道具か」
苦虫を噛み潰したような顔でヒロが言う。
「そう言わないの、これはこれで便利なんだから。取りあえず、これがあれば蒸すこともできるから心配しないで」
「小夜子が言うのであれば、そうだな、このまま進めさせてもらおう」
「うん。任せといて!」
つい、元気よく返事してしまったあたしを見て、ヒロはその方が小夜子らしいとぼそりと言い、まな板に置いていたむき海老を細かく叩きだした。
あたしは一瞬、あう、となったものの、手にしたプラスチックの蒸し器の蓋に書いてある説明書きを熟読し、製品名をスマホに打ち込んで調理例――知りたいのは料理例の蒸時間――を検索したのだった。
うう~。⇐鼻水を我慢してる唸り声。
恒例の言い訳をば。今年の風邪はタチが悪いです。罹患して半月してもまだ完治してない。皆さまもお気をつけ下さい。