30品目(2)
「…………」
心臓が破裂するかと思えるほど跳ね上がった。落ち着け、あたし!
あたしは手にしたグラスを務めて落ち着いて置き、冷静を装ってヒロへと向いた。
目に入ってくるのはお酒で上気したのか、ほんのり赤いしかめ顔。いつもの――ううん、あれは緊張している顔だった。
その緊張しているさまが妙な安心感を与えるのか、お酒によるうっとりとした気分がそうさせるのか、あたしは無言のままこくりと頷いた。
ヒロはゆっくりと――そう見えただけかもしれないけど――あたしの肩に手を伸ばしてきていた。
彼の手が触れた瞬間――覚悟していたピリピリとするほどの感触は無く、代わりに、温かい手の温度と微かな震えを感じた。
前と違って、強制的に思考をそっち方面へされる事が無かったからか、頭の片隅で茉莉彩に感謝し直しているあたしの分身がいたりもしたけれど。
……もちろん、思考の中の分身にはさっさと退場してもらい、改めてあたしがヒロの目を覗き込むのと、彼に身体を引き寄せられたのがほぼ同時だった。
「やはり、まだ怖いか」
若干、呂律の怪しい口調で問うてくる。
意外とヒロも緊張してる? ハジメテじゃ無いのは前に聞いていたけれど、あたしを相手に緊張してくれるのはちょっと嬉しいかも。
そう思うと、元々気持ちが大きくなっていたあたしは、彼が可愛く思えてくるのだから、何とも現金なものだよね。これで思った通りに返答までできれば文句ないんだけど、自分の口は何ともたどたどしく言葉を紡いだ。
「ヒロだから……だい、じょぶ」
口から出せた言葉を反芻するような間があったけど、あたしの言葉をしっかりと確認したのか、血管が浮き出た雄々しい手が寝間着にかけられた。
するりと胸の上まで捲られる寝間着。そして散々悩まされた例の露出度高めのブラが彼の眼前に晒される。
うん。滅茶苦茶恥ずかしい。
けど、そんな恥ずかしさに悶えさせてもらう時間は与えられなかった。
胸に視線を張り付けたまま、ごくりと、生唾を飲んだ音が聞こえそうなほどに喉を上下させたヒロの手が胸に伸び――。
「ま、待って、最初は……そ、そう、き、キスから」
届く直前で待ったをかけて希望を口にする。多分、お酒が入ってなければ恥ずかしくて言えないことなんだろうけど、たどたどしくても、羞恥心に沈められる事無く何とか言えた。
言った先から、奪われる唇。
荒々しく重なったそれと、力強く腰に回された腕に、あたしは前回までとは全く違う、身体が溶けているんじゃないかと思えるような濃厚な感触を味わう。きっとこれが幸福と呼ばれるものなのかな。
あたしはその幸福な感触をもっと味わいたいという貪欲な思考に突き動かされ、恐る恐るではあったけれど両の腕を彼の首に回した。
――――――――――――――――――――
(あ痛た……)
煌々と蛍光灯が灯す中、あたしは背中とお尻に痺れるような痛みを感じながら目を覚ます。
首の下に回された何かが枕になって軽減してくれているとは言え、畳の上に直に寝てしまってたみたいで、痛いところは痛い。
乙女らしからぬ大きな伸びをし、強張った節々をほぐすと、自分がブラ丸出しなのに気が付き、慌てて捲られた寝間着を下ろす。そうして隣を見れば、無防備に寝こけているヒロの顔が目に入った。
う、嘘、今の伸び無し! 見なかった事にして! と言いそうになって、彼が眠っている事に気付いた。
そう、昨夜キスをせがんでそれで……。
うわーうわー。何か、思い出しただけで赤面、いや、お湯が沸かせそうなほど熱くなってしまう。
この沸騰しそうな脳みその所為か、スズメの鳴き声を聞けてしまいそうなんだけど。
恥ずかしさに熱くなった顔を振り冷まし、すぐ横で幸せをもたらした存在へ改めて目を向ける。彼は掛布すら纏わず、寝間着姿で寝こけていた。
……寝顔が可愛いな〜。
いや、そうじゃなくて。
こほん。
えーと……。
うふふっ。あはは。
あーいかん、彼の顔なんて見てしまうと、何か考えようとしただけでだらしない笑みが浮かんできてしまうじゃなーい!
おっと、このままだと起きたあたしはともかく、ヒロが風邪を引いちゃうかもしれない。などと考え、夏以降しまいっぱなしにしていた、掛け布団を引っ張り出して掛けておく。
しかし、いかんですよ。あたしを丸裸の女にしてくれた男を見る度に緩む頬に、いつまでも顔を見ていたいと思ってしまう軟体思考……これじゃあ朝食の用意すらできない。
でも、目の前の可愛くて頼りになって男らしくて――中略――気遣いまでしてくれるような彼が目の前にいるんだから、無理もないのかな〜。
……おっと、それはともかく、朝食の用意用意。
気合を入れるべく、両頬をぴしゃりと叩き、気持ちを切り替える。
美味しい朝食を作って、ヒロには是非ともあたしをここまで骨抜きにしたセキニン、取ってもらわなくっちゃ。
勝手な事を考えるあたしは、再びだらしなく緩んだ頬のまま台所へ向かい、かなり早い朝餉の用意へと取りかかった。
今日はシイタケとニンジンと油揚げの味噌汁、アジの一夜干し――自家製――を用意するつもりで具材をきざみ、魚焼きグリルを予熱する。
煮干しで取った出汁に具材を投入した所で、掛け布団を除ける布の擦れる音を立ててヒロが起き上がった。
「あ、おはよ。もう起きたの?」
音に振り向き、お玉を片手にしたままのあたしを見たヒロは、一瞬、顔を強張らせたものの、僅かな時間でいつもの顔に戻って「ああ」とだけ返事をした。
さっき、顔が強張ったのは、もしかしてお腹が空いたのかなと勝手に解釈し、あたしはバツ悪く現状を伝える。
「ごめんね。朝ご飯、もう少しかかるんだ〜」
「そ、そうか、ならば手伝うぞ。何をすれば良い?」
逆に気を遣わせてしまったのか、寝間着のままのヒロが台所に入ってこようとする。
「大丈夫よ。もう少しで出来るから、座ってゆっくりしててよ」
予め沸かして置いたお湯をポットから急須に注ぎ、湯呑と一緒にお盆に乗せると、ヒロを回れ右させて卓袱台へと戻して座らせ、前に湯呑を置く。その際に「おい待て」とか言われたけど、構ってられない。
だって、男前で頼りになって優しくて――後略。そんなヒロに朝食まで作らせてしまったら、あたしの女がすたるってものよ。
「はい、お茶。あと新聞とか読む?」
「あ、ああ」
お茶を注いだ湯呑を前にしたヒロの条件反射のような返事を、あたしは肯定と捉え、玄関の郵便受けから急いで新聞を引き抜いてくる。
包装のビニール袋を取り払ってヒロに差し出した。
「それじゃあ、お味噌汁を仕上げて直ぐにご飯にするから、もう少しだけ待っててね」
ニヤケそうになる顔を微笑みで誤魔化して、あたしは台所へ戻る。
グリルにアジを二匹放り込むと、鍋の具材に火が通っているか確認し、火を止めて味噌を溶き入れる。
タイミング良く、炊飯器が炊き上がりを知らせる甲高い電子音を立てた。
味噌汁を汁椀に注ぎ分けて刻んだ小ネギを散し、小ネギに熱が通るまでの時間で茶碗にご飯をよそってお盆に並べて行く。もちろん、ヒロとあたしの分だ。
香の物まで用意したところで、油の弾ける音と共に魚の焼ける香りが鼻孔をくすぐる。
焼き魚用の角皿を用意し、アジの身の中心へギリギリ火が通る頃合いを見計らって火を止める。
皿に焼けたアジと大根おろし――事前に擦っておいたもの――を盛り付け、これもお盆に並べる。
あたし流の朝食、完成だ。あとは、ヒロに美味しいって言って貰えれば完璧なんだけどな。
そんな遠慮のない期待に胸を膨らませ、あたしは普段より一時間程早く、朝食の乗ったお盆を持って卓袱台へと歩を進めたのだった。




