29品目(3)
呆気にとられたあたしは思わず立ち尽くしてしまっていた。
「――子、小夜子?」
カウンター越しにヒロが声をかけてきた。
「え? あ、ゴメン。何?」
川中が座敷に戻り、お客様が辺りから消えた事を良い事に、あたしは普段使いの口調でヒロに返す。
「さっきのお客、何か問題でもあったのか?」
「ううん。ちょっと驚かされただけよ。ごめんね、心配かけて」
「何事もなければ良い」
言いながら、ヒロは川中が席に残した食器――ご丁寧に、カウンターの仕切り台の上に並べてある――を回収していた。
「すいませーん!」
今度は座敷の方から茉莉彩の元気な声が響く。
「はーい」
気を取り直し、女将モードに戻ったあたしは同じくらい元気な声を返して伝票を手に座敷へ向かった。
「来た来た。そろそろ打合せの詰めをしたいんだけど、あんたまだ上がれないの?」
座敷の上座に陣取った茉莉彩が、遠慮の欠片も無いような物言いをする。
「当店は午後11時までの営業となっておりますので、どうかご理解の程、よろしくお願い致します」
まだ隣の座敷に他のお客様も居るってのに、そんな失礼な真似ができますかっての。あたしはその怒りをスマイルに込め、わざとらしいほど丁寧に返答をする。
「えー。相変わらずカタいんだから。じゃ、注文。むかごの素揚げに、ナスの揚漬し、あと梅酒のソーダ割りね」
「……お客様、当店では未成年にアルコール飲料の提供を行っておりませんので、別のお飲物をお選びください」
「ちぇっ。じゃあ、ノンアルコール梅酒をソーダ割りで」
まったく、油断も隙もあったものじゃない。解らないように小さく溜息をついて言うあたしに、茉莉彩が素直に折れる。
「皆は? 何か頼まないの?」
続けて言った茉莉彩に、松尾と順子の神妙な視線が周りから向けられる。
そうだよね。いくら安い値段帯を多くしているとは言え、高校生に料理屋の値段は敷居が高い。
実際、茉莉彩が頼んだ料理も、オジサン臭さがある渋い選択ではあるものの、皆でつまめる上に値段で言えば下から数えた方が早いしね。
「古賀のオゴリなら頼んでやってもいいぜ〜」
いつもと変わらない、他人をナメたような口調で川中が言う。
でも、この黙ってしまった空気を打破するにはちょうど良いタイミングだった。コイツも少しは良いところがある……のかもしれない。
「あたし、鶏と豆腐の和風サラダ。これなら皆で食べれるでしょう?」
川中の意図に即して、香澄が注文をする。このサラダは良い選択だと思う。サラダ系の料理の中では高い部類だけど、量もあるし、鶏肉と豆腐が入る事で他のサラダより満足感も高いしね。
「以上でよろし――」
「ま、待って」
あたしの声を遮り、メニューを見ていた町田が声を上げた。
「この、ぎ、牛筋の煮込みを二つ、か、会計別で」
慌ててかみかみで言う町田。しかも別会計でときた。
「二つって、本当に!?」
……小声だったとは言え、ついつい地金を出してしまうあたしに、町田は『うん』と小さく首を縦に振った。
「し、失礼しました。ご注文を復唱します――」
慌てて訂正し、茉莉彩と香澄、町田に加え、滑り込んできた松尾の注文を復唱して、あたしは調理場に戻る。
しかし驚いたなー。この牛筋の煮込みは、筋を薬味と一緒にトロットロになるまで煮込み、その後、煮汁をだし汁と醤油、酒、砂糖を加えたものに替え、更にタマネギを加えて煮込むという、滅茶苦茶手間掛けて作ってるものだから、当然の様に値段が他の料理と比べても高くなるんだよね。そりゃ、二つも頼めばこの人数でもそこそこ満足感はあるだろうけど……かかる費用も相応だから流石に心配してしまった。
「お座敷1番様からご注文頂きました。むかご揚1、ナス揚漬し1、豆腐サラダ1、牛筋2、ジャガイモ天1です」
調理場に食事の注文を伝え、あたしは飲物の注文をこなす。
茉莉彩と順子のノンアル梅酒ソーダに、くるみの緑茶だ。
緑茶を手早く淹れると、さっさとノンアル梅酒をソーダで割る。グラス三つを載せたお盆を持ったところで、千秋さんが和室から出てきた。
「もう少し休んで――」
「女将さん、お飲物は私がお持ちしますから。……その、余計な事なのかもしれませんが、そろそろお友達の所にいかれた方が」
気遣ってくれてるんだろうけど、今はその気遣いも嬉しくない。だって、千秋さんの顔にはありありと“疲れた”と書いてあるのだからね。
だから、あたしは自分の疲れを押し殺し、ぐっと顔を千秋さんに寄せて小声で言った。
「本当に余計です。あたしが上がるくらいなら、千秋さんが上がって下さい。疲れたって、お顔に書いてありますよ」
「で、でも――」
「あいつらはどっちみち閉店までいるんですから、大丈夫ですよ。もし、疲れて無いって言い張る気があるのなら、洗濯物を畳んで頂けます?」
有無を言わさぬようにあたしは捲し立て、千秋さんを上がらせる。仕事と共に。
「お待たせしました、先にお飲物をお持ちしました」
座敷に上がったあたしは、三人に飲物を配って追加注文が無さそうな雰囲気を汲んで下が――ろうとして、隣の座敷からの呼び出しに向かった。
「お座敷2番様、梅茶漬3、優先です」
調理場に注文を伝えると、お盆を置いてレジへ向かう。
もう一組のお客様から頂いた注文は、シメのご飯物に加え、お会計だった。
持ってきた伝票から手早く電卓を叩き、合計金額を計算する。算出した金額を書き込んだ簡易領収書を手にして再び調理場へ。
置いてきたお盆に、ご飯、海苔、あられ、梅が盛り付けられた茶碗が3膳載っていた。
うちで言う“優先”は、他の注文より優先して用意する事を意味している。
もちろん、頼まれればホイホイと優先するワケではないけれど、今回の様に、片方のお客様が長丁場になりそうな場合は、帰ろうとしているお客様を優先しないと、ひたすら長丁場のお客様に引っ張られてしまう事になるからね。
「茶漬、できたぞ」
だし汁を茶碗に掛けた親方が、小鍋を片手に言う。
「豆腐サラダと牛筋も用意できた」
もう一つのお盆に器を三つ並べてヒロも言う。
「はい。ではお持ちします」
伝票と簡易領収書を腰に、空いた両手にお盆を一つづつ持ってあたしは座敷へと向かったのだった。